3 セレブな気分

文字数 4,579文字

セラビのオーナー兼チーフパティシエの井上さんは、あるインベスターから2件目の店を出さないかと相談されている。つまり、オーナーシップを手放し、もっと手広くビジネスを広げないかという話である。ビジネスをプロに任せれば、収入は増えるかもしれない。作業する仕事は減り、ある意味楽になるかもしれない。しかし想いを込めたケーキ作りがどう変わっていくか、それは何とも言えない。「井上さんのケーキのファンはたくさんいます。そのまま作っていってくれればいいんです」と言われたって、どうなるかわからない。じゃあ、このまま頑固親父のようにケーキを地道に作っていけばいいのか。井上さん夫婦には子供がいない。ふたりで気楽に生活していけばいいと考えつつも、「成功」という言葉が煌びやかに光りながら頭の中に浮かび上がる。井上さんが正式なオーナーであるが、実際に店を切り盛りしているのは奥さんのサユリさんである。経理、店のデザイン、雇用など細々なことは全部奥さんに任せてある。つまり、この話はしっかりサユリさんの耳にも伝わっている。サユリさんは、井上さんがパリまで行って修行して、日本に帰り自分の店を開いた時に知り合った。夢を持っている井上さんが気に入って、結婚して、ここまで助けながらついて来ている。サユリさんにとってもセラビは自分の店である。しかし、井上さんが作るケーキのお陰で構えていられる店だからと、必ず井上さんに一歩譲っている。サユリさんは、井上さんが本当のところ今どうしたく思っているのだろうと考える。伝統的なケーキを作るのは得意だし、そのまま作っていきたいと思っているだろう。そして、井上さんは基本のケーキをケースに並べながら、自分の新作も出している。新しい自分で考えだした、または基本をアレンジした作品を楽しそうに作り出している。試作するたびに、他のパティシエやフロントの子たちに食べてもらい意見を聞いている。これがもしできなくなったら、井上さんはつまらなく思い始めるのではないかと、サユリさんは想像する。また一方では、だんだん歳を取ってきていて、店を閉じる頃厨房で疲れた顔をしている時もあり、楽にさせてあげたいという気持ちがサユリさんにはある。本人は一体どう思っているんだろう。悩んでいるのかもしれない。そんな風に考えているサユリさんの頭の別のところで、ある想いが風船のように膨らみ始めていた。
 セラビは以前からテレビで紹介されたり、雑誌などの取材を受けたり、インスタグラムやフェイスブックでお客さんから「美味しいケーキ屋」と投稿されている。投稿された写真は、「念願のこのケーキを食べます!」とか、「やっとゲットしたセラビのケーキ」などと書かれ、みんなの憧れのケーキのように祭り上げられている。紹介されるたびに、近所の人や、常連のお客さん、大学時代の友人などから言葉をもらう。例えば、「観たわよ、テレビで紹介されたの!」「いつもの笑顔で、奥さんは素敵だったわよ!」「ケーキ屋の奥さんとは思えない、いつもスレンダーですごいなサユリは!」「サユリさんはお子さんいないから、いつまでも若くいらして、テレビで素敵だったわよ!」などと言われる。こんな風に毎度、多数の人から言われてしまうと、ちょっとしたセレブ気分になってしまう。これで2件目も出て、あわよくばデパートにさえ出店し、セラビが大きく展開すれば、本当のセレブになってしまうかもしれない。長い休みをとってヨーロッパ旅行なんかにも行けたりして、家も改築できるかも。何なら新しい家を買っていいところに引っ越したりして。そんな夢が膨らみ始め、心は軽く踊るようだ。
 2週間前にテレビでまた紹介され、それ以来お客が増えている。ケーキを買って帰る人、ここでコーヒーと一緒に食べていく人がいつもより多く、フロントはソラちゃんともうひとりの女の子だけでは手が足りない時がある。裏でアルバイトしている田島くんも時々フロントに来てもらわないといけない。もちろん店の花形サユリさんもフロントにいる。
「いつもありがとうございます。」
 サユリさんは顔馴染みのお客さんにそう言って、丁寧にケーキの箱を手渡した。
「ついこの間、テレビでセラビのケーキ見たら、もう食べたくなっちゃって、うふふ。美味しいんですもの、本当にここのケーキは。」
「ありがとうございます。」
 サユリさんは箱を手渡した後も、こう言われて深々と頭を下げた。
「あなた、とってもきれいに映っていてよ。女優さんみたいだったわよ。」
「とんでもない!」
と 本当に恥ずかしく思ったのだが、言われていい気分である。女優? それは言い過ぎでしょ。でもまんざら悪くない方かもしれない、私は。セレブの気分だ。
  次の店の定休日、サユリさんは姪っ子の長谷川可奈とランチに出かけた。長谷川可奈はサユリさんの少し歳の離れた姉の子である。姉にはふたり娘がいたが、可奈の妹は事故死していた。可奈が妹を乗せて運転中にトラックが助手席側にぶつかってきて、助手席にいた妹はほぼ即死の状態だった。その妹は初めての子を妊娠していた。この事故で可奈は大分落ち込んでしまっていた。責任はトラックの運転手ということになっているが、実際ハンドルを握っていたのは可奈である。自分がどうにかしていれば妹の命は助かっていたのでは、とか、独身の自分が死んだ方が良かったなどと自分を責める気持ちで固まっていた。周りから暖かいサポートをもらい、少しづつ立ち上がり始めていた。事故前からも時々姪っ子姉妹を連れ出して買い物に行ったり、レストランに連れて行ったり、自宅に泊めたりしていたが、事故以来もっと頻繁にサユリさんは可奈を連れ出すようになっていた。もちろん可奈がその気になった時だけだったが。子供のいないサユリさんにとって姪っ子は特別な存在に感じていた。可奈の力になってやりたいと叔母として強く思っていた。
 待ち合わせの場所にはもう可奈は来ていた。爽やかな笑顔で叔母に手を振っている。可奈は礼儀正しいしっかりした女性なのだ。
「ごめん、ごめん。待たせた?」
「ううん。私も今来たところ。」
 ふたりは今度ランチしようねと約束したレストランへ向かった。
「叔母さん、テレビ見たよ。なんか、おばさん、取材慣れしてきたんじゃない? すごく堂々としてたよ。セラビの女将さんって感じだった。」
「ええ、女将さん⁈ 取材される度にドキドキだよ。」
「そうは見えなかった。うちのお母さんもそう言ってたよ。」
「でもさあ、この間、テレビ見たっていうお店のお客さんから、女優さんみたいだったわよって言われちゃった。」
「女優さん⁈ そう見えなくもなかったよ。」
 ふたりでケラケラ笑いながら歩きレストランに辿り着いた。セレブの気分が膨らんでいる。レストランのドアを開け、予約した者だと告げて名前を伝えた。「井上様でございますね。どうぞこちらへ」と案内されテーブルに向くまで、サユリさんは女優さんのように歩いていた。他のテーブルについている客が通り過ぎるサユリさん達をチラリと見ている、この人誰だったっけ、有名人じゃなかったかしらという眼差しで見られているような気がする。後ろからついてくる可奈は少し恐縮そうに歩いていた。
「さあ、何にしようかしら。」
メニューを見ながらサユリさんが言った。痩せ型の可奈は事故のショック以来さらに痩せてしまい、サユリさんは何か栄養のあるものを食べさせたいと考えていた。
「ここのビーフシチューは美味しいのよ。それにする? 赤ワインも頼もうか?」
「ワインはいいや。でもビーフシチューは美味しそう。」
「今日うちに泊まる? うちでワイン飲む?」
「ええっ、泊まる用意してないもん。」
「コンビニで買えばいいじゃない。下着とか歯ブラシとか。明日仕事?」
「午後からだけれど、、、。」
「おじさんも会いたいって思ってるよ。また新作作ってるから、可奈が食べてあげて意見を言ってあげたら喜ぶよ。」
「じゃあ、そうしようかな。」
 可奈は照れくさそうに笑っていた。こう笑うと、もう20代後半なのに子供の頃と同じ顔になって可愛い。ワインはサユリさんだけ頼み、ふたりはビーフシチューを頼んだ。
「教会へ行ってるんだって?」
「うん。」
 サユリさんは姉と電話で話した時にそう聞いていた。「別に新興宗教ではないみたいだから、まあ、可奈のいいようにと思って、好きなようにさせてる」と姉は言っていた。
「聖書のこととか全然知らないし、よくわからないんだけれど、もう少し勉強してみたいなと思ってるの。」
「ふうん。」
「うちのお母さんぐらいの歳の人が会報作りでパソコンが苦手って言うんで、そのお手伝いしてあげたりしてるんだ。」
「へえ、いろんな人が来てるの?」
「年齢層はまちまち。お年寄りもいれば、子供もいるし。」
 しばらく可奈は黙って皿を見ながらビーフシチューをゆっくり食べていた。可奈はまた自分の世界に入ってしまったのだろうとサユリさんはワインを飲みながら考えていた。そして、可奈は目は皿の上のまま、こう話し始めた。
「一緒に、その会報を書いている人がね、自分たちの命は自分だけのものじゃないって言って、自分の知らない自分が他の人の中にもいるんじゃないかって。私たちの人生はタペストリーの糸のようなものなんじゃないかって。1本の糸はいろんな糸と織り合わさってひとつの絵ができていて、1本なくても絵自体は変わらないようでも、やっぱり大事な糸だろうって。」
 サユリさんにはよく意味がわからなかった。でも折角可奈が思い切って話し始めているのだろうと、できるだけ理解するように耳を傾けていた。
「つまり、多分、私が経験した妹の死は、他の人、例えばその会報を書いている人の中で私とは違う経験の形があって、おばさんが私のことを思ってくれる優しさは、私の中でおばさんが想像しているのとは違う形の優しさで、、、。よくわからないけれど、、、。その人と話していて、私の人生ってちゃんと存在しているのかな、みたいに感じられて、、、救われた感じ。」
 サユリさんはやっぱり可奈の話がよくわからなかった。でも、深く何かを考えているのだなとは感じた。タペストリーの糸。私もその1本の糸ってことか。
「じゃあ、私もタペストリーの糸で、可奈とこうしてご飯食べて、おじさんと一緒にケーキ屋やって、そこにソラちゃんとかいて、お店のお客さんがいて、可奈のお母さんがいて、って感じなの?」
「んんん、そうなのかな。」
「じゃあ、やっぱり、可奈ちゃんは今日うちで泊まって、おじさんの新作ケーキを食べてあげてってことかな?」
「そういうことなのかな? なら、泊まる。」
 話はよくわからなかったが、可奈を今夜連れて帰れて良かったように感じた。早速姉に電話でそのことを伝えて承諾を得た。

 後日、井上さんはインベスターからの依頼を断った。「もう少し、ふたりでこのまま頑張ってみない? いい従業員もいるしさあ」と井上さんはサユリさんに言ってきた。井上さんがそうしたいならそれがいいとサユリさんは心から思ったが、別のところで膨らみ始めていた風船が急に萎んでいくのを感じた時、胸が痛かった。いいんだこれで。ちょっといい夢を見ていただけ。サユリさんはそう考えるように努めた。
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