1  ケーキの力

文字数 3,423文字

 もう死んでもいい。この先どう生きたって、どう生きていくのか、先が暗くて見えない。死んでもいいような気がする。何もする気が起こらない。ただ、あいつの言葉だけが頭の中でリピートしている。あいつから言われる前にもうわかっていたのだ。見たんだもの。でも一生懸命否定していた私。怒る気持ちよりも、崖っぷちから蹴られて、ひとりだけ谷間に落とされたような気持ち。落ちている間にいろんな岩に当たって、体のあちこちを怪我したようだ。血が流れているようだ。この深い谷間から這い上がる? 這い上がったところで何がある? 這い上がる力なんて湧き上がってこない。このまま死んでしまった方が楽なような気がしてしまう。でも、死ぬ前に遺言のつもりで花梨に電話しよう。花梨の声が聞きたい。葵は花梨に電話した。
「葵? 何?」
「、、、。」
「葵でしょ?」
 何も知らない、この世で明るく生きている花梨の声は遠くの存在に聞こえた。花梨と自分の間には地球と月以上の距離があるように感じた。火星以上かもしれない。土星以上かもしれない。花梨は電話の向こうから啜り泣く声をかすかに聞いた。
「葵? どうかした?」
「あいつに裏切られた。」
 やっとの思いでこれだけ言えた。怒る気持ちはまだしっかり腹にあることを葵は悟った。まだ生きていくのかもしれない。
「ケンジに?」
 腹にあった怒る気持ちが泣き声として体から出始めた。
「葵、家にいるの? 今から行くから、そこにいて。」
 花梨は遠い土星から1時間かけて、葵のアパートまで来てくれた。

「何も大学生と付き合わなくたって。ケンジってまだ子供なんじゃない? そんなやつと付き合ったってろくなことないよ。別れるいいチャンス! 葵にはもっとまともな男が待ってるって。」
「3年も付き合ってるんだよ。大学時代から。」
 なんてことだ。現在形を使ってしまった。
「社会人になっても大学生と付き合うなんて、中身が子供なんだよ。」
 花梨は持って来たコンビニの袋からお弁当を出した。
「買って来たから食べよう。しかもデザートもだよ!」
 持つべきものは彼氏なんかではなく、真の友人だ、と葵は花梨の優しさに感動した。その晩はずっと花梨は葵の話を聞いてくれた。時に大泣きし、花梨の言葉に耳を傾けてその通りだと思いながらも、ケンジと過ごした大学時代を思い出してまた泣いた。翌朝は、葵の目は腫れていたが、それでも律儀に出勤し、花梨も葵の家から出勤して行った。心優しい花梨は今晩も泊まろうかと電話で言ってきたが、もう大丈夫だと言って花梨に礼を言い、その日はひとりで静かに家に帰った。ひっそりとしたアパートの中は、ケンジと別れてから変わってしまったような気がする。大学時代から住んでる同じ部屋なのに、どうして違ったような気がするのか。やっぱり何もする気が起こらない。テレビをつけると懐かしいレトロな昭和のヒット曲と銘打って古い映像が流れていた。古めかしい、葵にはピンとこない古い映像。誰が懐かしいと感じるんだか。髪の長い汚らしい男がギターを弾きながらマイクを前に歌っていた。次に出てきたのは加藤和彦と北山修の「あの素晴しい愛をもう一度」だった。ああ、この歌なら知ってる。聞いたことがある。何となく耳をすましてしまう。

  あの時、同じ花を見て
  美しいと言ったふたりの
  心と心が今はもう通わない*

 胸にどきんと来た。胸を刺されたような思いだ。さらに歌は続き、またサビのところで同じ歌詞が出る。そして次には、

  あの時風が流れても
  変わらないと言ったふたりの
  心と心は今はもう通わない
  あの素晴しい愛をもう一度
  あの素晴しい愛をもう一度**

と聞こえる。まさに私たちのことだ、私とケンジのことだ、と何度も胸を突かれたような思いで今夜も大泣きしてしまった。

 どんな気持ちでいようと、時間は冷たく過ぎていく。葵はしっかり息をしている。胸はまだ痛いが、何とか生きていて生活は乱していない。日曜日、ひとりでアパートにいると息が詰まりそうで、街中を歩いて今をカムフラージュしようと出て行った。そして、大学時代の友人とばったり出会った。ケンジと仲のいい、今となると古い友人に感じる人物。
「葵?」
「田島くん。」
「元気?」
と田島くんが言って顔をしかめた。葵はすぐに返事ができなかった。自分は元気なんだろうか。
「ケンジのこと聞いてるよ。」
「、、、。」
 何も言えない。目頭が熱くなる。それを田島くんはすぐに悟った。
「今時間ある? ちょっと付き合ってよ」
と言って、葵の手を掴みどこかへと向かった。葵はされるがままについて歩いた。たどり着いたのは近くのケーキ屋だった。田島くんは何も言わずに、ドアを開け葵を中に入れた。
「何だ、田島、戻ってきたの? あっ、彼女?」
「いや、大学時代の友達。今ばったり会ったんで食べてもらおうと思って。」
 白いコックコートを着たケーキ職人風の男性が田島くんと気軽な口調で話す。田島くんはここで働いているのだろうか。葵がどうしたらいいか戸惑っていると、田島くんはケーキ屋の中のテーブルの席を勧め、葵はまた言われるままに座った。田島くんはケースの向こう側にいる女の子にサンマルクとペアのタルトとコーヒーふたつ持ってきてくれと頼んだ。女の子は「はい」と丁寧に返事して、ケースから言われたケーキを皿に移し始めた。
「田島くん、ここで働いてるの?」
「うん。」
「大学院は行ってるの? 弁護士を目指してたじゃん。」
「一応行ってるよ。」
「一応?」
 女の子がケーキとコーヒーを持ってきた。
「ありがとう、ソラちゃん。」
 綺麗な三重のムースケーキと綺麗に切り込みのあるペアが入ったタルトが皿に乗っている。コーヒーは湯気を立てながらいい香りを放っている。葵は急にお腹が空いてきたような気がした。
「これ、僕が少し手伝わせてもらったケーキなんだ。ムース作りとか、ペアを切ったり、まだ助手だけれどね。」
「へえ。そう言えばたまにケーキ作ってくれたよね。」
「昔からケーキ作るの好きでね。6年生ぐらいからかな。うちのお母さんの誕生日にケーキ焼いたら、お母さんだけじゃなくてお姉ちゃんまで喜んでくれて、美味しいって言ってくれて、そしたらまた言われたくって作って、ハマっちゃったんだよ。ばあちゃんに作ったらもう感激されちゃって。ハハハ。」
「へえ、で、今ここでアルバイトしてるわけ?」
「本気で働いちゃうかも。」
「院は?」
 葵はサンマルクをフォークで切って口に入れた。美味しい。柔らかくて、クリーミーで、心が温かくなるようだ。
「美味しい。これ、サンマルクっていうの? まろやかな味で美味しい。贅沢なケーキって感じ。」
「美味しいでしょ⁉︎ そっちのタルトも美味しいよ。アーモンドクリームを入れて焼いてるんだよ。ただのカスタードとはちょっと違って、ペアとも相性がいいんだよね。」
 どれどれとタルトを少し頬張ってみると、上等のクッキーのようなクラストと中の焼いたクリームがリッチで美味しい。中に入っているペアはちょっと酸味を感じ味を引き締める。
「これも美味しい。」
 そして、コーヒーをここで少し啜ると、ああ、なんて幸せと感じてしまう。
「弁護士になって人を助けたいなんて思ってたけど、まあ諦めてはいないんだけれど、それよりも、ケーキを作ってあげた方が、人は一瞬でも喜んで楽しそうで幸せそうで、いい顔してくれるんだよねって思うんだよ。怒っていても、悲しんでいても、ケーキって心を癒す力があるって言うの、そんな気がして。ケーキ職人になった方がいいかな、なんて考え始めちゃって。」
「ええっ、すごい方向転換。」
「んん、まあね。親にちょっとほのめかしたら、えらい剣幕だったよ。」
「だろうね。」

ふたつのケーキを葵がひとりで全部食べてしまった。本当に美味しかった。お腹が喜んでいる。心がふんわりしている。30分ほど店にいて、その後ふたりで出た。しばらく歩きながら取り止めのない会話をした。田島くんと会話をしながらも体のどこかで「あの素晴しい愛をもう一度」の歌詞が響いていたが、どこか遠くで聞こえているようだ。
「田島くん、ごちそうさま。本当にありがとう。ばったり会えて本当に良かった。ちょっと心が軽くなったような気がしてきたよ。」
「ケーキの力。」
「ケーキの力か。」
 今日は久しぶりにいい日だった。

*、** 「あの素晴しい愛をもう一度」北山修作詞、加藤和彦作曲。



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