4  乾杯

文字数 3,375文字

「サユリ、いつも可奈を誘ってくれてありがとう。」
「ううん、私も楽しいのよ。姪っ子って可愛いね。いくつになっても。、、、。お姉ちゃんはどう?」
「んんん、まあ何とかやってる。でも、時々辛くなるね。」
「そうだよね。」
「マイがいなくなっちゃって、今でも信じられない。でも悲しがっているわけにはいかないからね、可奈のことを思うと。」
「お姉ちゃんも辛いね。、、、。うちのケーキ食べに来ない? この間、可奈がハルアキさんの新作が美味しいって言ってくれて、ハルアキさんも大喜びだったわよ。」
「そうか。たまには行かせてもらおうかな。」
 
 サユリさんの姉は次の日にやって来た。店のドアを開けて笑顔で入って来た姉の顔を見て、サユリさんは急に皺が深くなってしまったなと、少し不安な気持ちに襲われてしまった。そんなことを察知されないように、サユリさんも笑顔で姉にテーブルにつくように勧めた。
「ソラちゃん、姉が来たから私もあちらのテーブルに行くから。」
「はい。」
 サユリさんは姉に食べてもらいたい井上さんの新作ケーキを皿に乗せ、コーヒーを淹れてテーブルに持って行った。
「これよ。」
「わあ、いちごがきれい。」
「ミルフィーユをアレンジしたんですって。」
 サユリさんの姉はいただきますと言って、フォークをケーキに刺し、口の中へ入れた。
「サクサクしていて美味しい。」
 サユリさんの姉は本当に心から、口の中から美味しいと感じていた。甘い柔らかいクリームはいちごが入っていてちょっと酸っぱい。甘いクリームだけでとろけたいところを、酸味がそうはさせないぞと現実から離れないように留めてくれているようだ。サクサクしたパイも夢の世界に行かないように、私だってここにいるのよと優しく口の中で主張する。ハルアキさんはケーキを作るのが本当に上手だ。優しいハルアキさんの愛情を感じるようなケーキだ。
「ハルアキさんの人柄が滲み出ているようなケーキね。」
「ええっ、それは本人が聞いたら喜ぶわ!」
 その時、ドアが開いて若い女性がひとり入って来た。サユリさんは立ち上がり「いらっしゃいませ」と上品に声をかけた。その女性は軽くサユリさんに会釈して、ケースの向こう側にいるソラちゃんに田島くんがいるか聞いた。ソラちゃんは厨房の入り口に立って、「田島くん、この間連れて来た彼女」と言ったのがサユリさんにもその女性にも聞こえた。サユリさんはすぐにソラちゃんのところへ行って、「声が大きいわ」と注意した。ソラちゃんが謝っているところへ、田島くんが大きな声で「彼女じゃないってば」と言いながらフロントへ出て来た。サユリさんは田島くんの顔をギロっと睨んだ。田島くんもサユリさんに謝り、ちょっと顔を紅くしている葵に「いらっしゃいませ」とお辞儀し、小さめの声で、
「ケーキ食べに来てくれたの?」
と聞いた。
「うん。それと、田島くんにこの間のお礼をしたいなって思って、、、。」
「お礼って何? お礼されるようなことしてないよ。でもさあ、今、俺上がるところだから、一緒に食べようか? チーフが食べてみてって言ってるケーキがあるんだよ。」
 サユリさんは田島くんたちの会話を聞いて、葵を笑顔で姉の席の隣に座るように勧めた。
「私の姉なの。」
「初めまして。長谷川明恵と申します。」
 こんな年上の人から丁寧に挨拶されて、葵は戸惑ってしまった。
「初めまして。谷村葵です。ここで働いている田島くんと同じ大学で、私はもう卒業して就職してるんですけれど、その頃からの友人なんです。あっ、本当にただの友人でして、、、。」
 なんて子供っぽい言い方をしてしまったのだろうと思い、顔がまた熱ってきてしまった。
「さあさあ、お座りになって。今、田島くんがケーキを持って来てくれますから。姉はもう試食しているの。ぜひ召し上がって。チーフもあなたのご意見を聞きたいと思うわ。」
 コックコートを脱いだ田島くんがいちごの乗ったパイ生地のケーキをふた皿持ってやって来た。その後からソラちゃんがコーヒーをふたつ運んできた。
「ありがとう、ソラちゃん。ソラちゃんも後で食べてみて。」
「私は昨日、もう試食させてもらいました、うふふ。」
「まあ、そうだったの。で、どうだった?」
「いちごが入っていて春らしいなと思いました。」
「そう。そうよね、いちごを見ると、もうすぐ春が来るなあって思うわよね。ありがとう。チーフにそう伝えた?」
「はい。」
 春かあ。社会人になってもうすぐ1年経つんだ。ケンジのことでくよくよしていてもしょうがないな、と心の奥で感じた。そしてフォークをパイ生地に刺し、ちょっと切れにくかったけれど、クリームをつけて、いちごも小さく切って一緒に口の中へ入れた。サクサクしたパイを頬張りながら、滑らかなクリームがカサカサしたパイを包み、いちごが舌に触ると酸っぱく感じ、甘すぎず、酸っぱすぎず、今の私の気持ちと重なると思った。コーヒーをひと口飲み、また同じようにケーキを口に入れると、甘く苦いコーヒーの味とブレンドし、ああ大人になった気分、もう子供じゃない。
「葵さん、いかが?」
「はあ、私、ケーキをこんなに丁寧に味を楽しんだことないんじゃないかって、今思っているところです。甘いクリームとサクサクしたパイ生地といちごの酸っぱさが、本当に調和がとれてるんだなって感心しているところです。」
「それは良かったわ。」
「本当にそうね。ゆっくり味わうと楽しいわね。」
 隣に座っているサユリさんの姉がナプキンで口を拭きながら言った。田島くんも食べながら、本当にそうだなと感じていた。何気ない、ミルフィーユをアレンジしたケーキのようだが、チーフは上手にバランス良くクリームとパイ生地といちごを使っている。しかもこのいちごは高級な三嶋屋のではなくいつものところから調達しているものだ。チーフはやっぱりプロで、この店を構えているパティシエなんだな。自分はまだまだ下の下だと実感してしまう。みんなでひと通り味わったところで、葵が今日の本題に入った。
「ねえ、田島くん、今夜何もなかったら、焼き鳥屋へ行かない? 今度は私がご馳走したいんだ。あっ、すみません。こんな素敵なお店で美味しいケーキをいただいたところなのに、焼き鳥の話なんかして。」
 また顔が熱りそうだ。
「いいのよ。私も焼き鳥大好きよ。今夜はうちも焼き鳥にしようかしら。ねえ、お姉ちゃん、うちで一緒に夕食食べない? 可奈も来れないかしら? サトルさんも仕事の後うちへ来ればいいわよ。」
「どうしようかしら。」
「たまにはみんなで一緒に焼き鳥食べましょうよ。チーフが終わるまでに私たちで好きな焼き鳥買って来ようよ。田島くんも葵さんと一緒に食べに行ってらっしゃいよ、せっかくお友達がそう誘ってくれているのだから。」
 ケーキの後、焼き鳥の話で盛り上がってしまった。田島くんは皿を片付け、コートを着て、葵と店を出た。歩きながら、葵が薦める焼き鳥屋へ向かう途中、田島くんは少し前に仕事の後ラーメン屋に寄って出会った出来事を話した。
「へえ、ラーメン屋のおじさんの優しさに感激したわけか。」
「うん。ケーキを食べると人は幸せを感じるなんて言ったけれど、人を幸せにするのはケーキだけじゃないなって、感じて。チーフにも簡単に弁護士の道を諦めるなよって言われて、なんて言うのかな、目が覚めたような? ケーキ作りも好きなんだけれど、しっかり司法試験の準備も本腰入れようって思い始めて、、、。」
「そうか。私も田島くんに司法試験頑張ってもらいたい。でもね、あの日、偶然田島くんに会って、ケーキをご馳走してもらって、ケーキの力なんていう話を聞いて、本当に私、救われたんだよ。大袈裟じゃなくて。ケーキの力を信じたの。あの日、田島くんに会わなかったら、今死んでたとは言わないけれど、まだグズグズ泣いていたかもしれない。今日のケーキも美味しかったし、ああ、私はしっかり人生を歩んでいるんだなって、本当にそれくらい、ケーキの力ってあるんだなって思う。」
「なるほどね。やっぱりケーキの力ってあるか。」
「でも、だからって、弁護士の道をやめろとは言ってないからね。」
「それは、わかってるよ。」
 ふたりは葵の言う焼き鳥屋でビールを頼み、先ずはケーキの力に乾杯し、田島くんの司法試験合格を願って乾杯した。

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