2 ドラマの主人公

文字数 3,981文字

 田島くんは大学院での授業を受けた後、アルバイト先のケーキ屋へ向かっていた。コートのポケットに手を入れながら歩き周りにいる人の顔を見ると、みんな真面目な顔つきで、つまらなそうな、感情のないような顔をして歩いていると感じた。人はケーキがいる。毎日食べるものじゃないけれど、時々は祝うようにして心に栄養を与えないと、なんて考えていた。
「おはようございます。」
 店のキッチンに入り、コートとセーターを脱いで自分のコックコートを着た。
「田島、ちょうどいいところに来た。ペアが足りないんだよ。三嶋屋へ行っていいの買ってきてよ、お前、フルーツの良し悪し見分けるの上手だから。」
 コックコートは脱がず、その上からコートを羽織りすぐに店を出た。行き交う人はやはりつまらなそうな顔をしている。学生や子供は友達とおしゃべりしながら笑っているが、ひとりで歩いている大人はみんなむっつりしている。
「こんにちは。ペアありますか?」
「はい。」
 三嶋屋の主人は田島くんがコートの下に白いコックコートを着ているのに気がついた。
「セラビの人だったよね。」
「そうです。」
「ペアねえ、いいのあるよ。ラ・フランスのいいのがあるよ。」
「あそこの高いケーキ屋さん?」
 店で買い物をしていた年配の女性が話しかけてきた。
「ちょっと高めですかね」
とその場を繕うように田島くんは答えた。
「安いケーキを食べるより、高くてもしっかり作ってあるケーキをたまに、特別と思って食べるのがいいのよ。私、セラビのケーキ好きよ。」
「ありがとうございます。本当におっしゃる通りです。毎日買ってくれなんて言いませんよ。でもたまに特別の時に食べてもらいたいです。」
「ケーキをおにぎりみたいに、コンビニで買う人が多くいるけれど、それはダメよ。ケーキは上等の材料で作ってないと。」
「宮本さんは高級志向なんだよ。果物はうちでしか買わないものね。ハハハ。高級なペアもありますよ。」
 三嶋屋の主人がペアを袋に入れて持って来た。田島くんはひと通り厳しい目でペアをそれぞれ確認し、領収書をもらって店に戻った。チーフパティシエの井上さんが持って帰ってきたペアを眺め、領収書を見て、「わっ、高え」と驚いた。
「来週はいつものところでもう少し多めに注文しておこう。」
 いつもの業者のはそこそこの品だけれど、たまに傷んだものもある。三嶋屋は割高かもしれないが置いてあるものの品質は確実にいい。
「三嶋屋のは高いかもしれませんけれど、モノはいいですよね」
と 生意気なことをチーフに言ってみた。
「物は良いけれど、やっぱりビジネスだからね。値と物のバランスをうまくとらなきゃね。見栄えのいい物は飾りに使って、ちょっと古くなったのとか傷物とかはジャムにしたりしてフィリングに使えばいいだろ。そういう技を持ってないとな。そこがプロの腕の見せどころよ。」
 チーフの言葉は田島くんの体を震わせた。まだまだ自分は未熟だと思い知らされたようだ。話しながらチーフの手は、機械のように正確に綺麗にクリームをケーキの上に絞り出している。これがプロの腕前なんだろう。しかし、その作業をチーフは止めた。
「なあ、田島、弁護士の道、簡単に捨てるなよ。誰でも弁護士を目指せるわけじゃないだろう。ここまで来れたのも、ある意味選ばれた人間だみたいに思ったほうがいいぞ。なあ、トシ。お前、弁護士になれるか?」
「いやあ、俺はケーキ職人かラーメン職人ぐらいでしょうね。」
 チーフとトシは大笑いした。田島くんもふたりにつられて笑ってしまった。チーフは笑いながら手を動かし始めた。
「前にさあ、フロントでアルバイトしてた子なんだけれど、、、。」
 チーフはまた手を止めた。
「プロのバレエダンサーって子がいて、トシ、覚えてる?」
「覚えてますよ。マユちゃんでしょ?」
「そう、マユちゃん。バレエ団の下っ端だったらしくって、早く上に上りたがっていて、プリマとは言わなかったけれど、まあ、色々ランクがあるのかな。自分は生徒と変わらない下っ端だって言ってたな。で、うちでアルバイトを始めて。たまにさあ、売れ残りをフロントの子たちにあげたりするじゃん、マユちゃんだけは絶対持って帰ったり食べたりしないんだよ。」
「あっ、でも俺、マユちゃんがやけ食いしてるのみたことありますよ。いいの、そんな食べてって聞いたら、ダメってひとこと言って、すぐ食べるのやめたんですよね。」
「へえ、まあ、ストレス抱えているように見えたよな。でさあ、やっと何とかっていう肩書がもらえたの。で、練習も増えるからってここを辞めることになって、お祝いにカロリー控えめのケーキを特別作ってなあ、祝ったんだよ、みんなで、なあ、トシ。」
「俺、あの時、なんか感激しちゃって涙出てきちゃいましたよ。」
「ああ、なんか感激したよな。頑張ってたもんな、あの子。」
 アルバイトに来る子達は、若くてそれぞれにドラマを抱えている子達なのかもしれない。今いるソラちゃんも何かの成り行きでここでアルバイトしているのかもしれない。田島くんだけがドラマの主人公ではない。田島くんは大事なペアを集中して切りながら、でも頭のどこかで考えてしまっていた。作業しながら、店の中をチラリと見ると、ソラちゃんが笑顔で言われたケーキを箱の中に大事に入れている。レジを打って箱を渡すと、客は嬉しそうな顔をして店を出て行った。ケーキは人の心を喜ばせる。オレは何をしたいんだ。よくわからなくなってしまった。時間が来て、コックコートを脱ぎ、来た時に着ていたセーターを被り、コートを羽織って挨拶をして店を出た。外は薄暗くなっていて、帰宅する人、これから人と会って飲んだり食べたりするんだろうと思わせる人々と行き交った。電車の中で携帯を見ながらクスッと笑った中年の女性がいた。すぐに返信を送っているようだった。笑顔で打っている。学校帰りらしい高校生の男子が座って船を漕ぐように寝こけていた。電車が駅に停まってもまだ寝ていたが。その駅で乗ってきた老人が彼の前に立つと、ぐっすり寝ていたのにその子はすくっと立ち上がって、その老人に席を譲った。老人はそんなつもりではなかったのだろう、とても恐縮そうに頭を下げてその席に座った。田島くんはいつもの駅で降り、そのまま帰ろうか、買い物して帰ろうか、それとも簡単にラーメンでも食べて帰ろうか考えた。冷蔵庫には大した食材はなかったはずだ。ラーメンでも食べて帰った方が手っ取り早くていい。明日は授業は午後からで、セラビへ朝から出勤しないといけない。さっと食べて帰ろう。時々行く駅のそばのラーメン屋へ入り、カウンター席に座り、チャーシュー麺を頼んだ。店の中は田島くんのようにひとりで来ている若い男性が多かった。カウンター席は後3席ほどしか空いていない。テレビに映っている野球を見ている男、スマホを片手にラーメンを啜っている男、スポーツ新聞を読んでいるちょっと年配の男、そんな男性客の中おしゃべりをしながらラーメンを食べているテーブル席の女性ふたりもいた。目の前の厨房では湯気がモクモクと上り、次々と麺が茹で上がっていく。手拭いを頭に巻いた男3人が汗だくでラーメンを仕上げている。よくあるラーメン屋の風景の中、ひとりの若い男性が店に入って来て田島くんの隣の席に座った。何とは無しにその人を見ると、頭から血を垂らしていた。
「お客さん、どうしたの? 大丈夫?」
「さっき、そこで襲われて、、、。突然、絡んできて、蹴られて、頭を何かで殴られたような気がするんだけれど、あっという間の出来事って感じで。警察呼ぼうかと思ったけれど、まずはラーメン食べて落ち着こうと思って、、、。」
「最近、同じような事件があるんだよ、この辺。警察に連絡した方がいいよ」
と 店主は言いながらきれいなタオルを青年に渡した。
「すいません、お借りします。今、かけてみようかな。」
 青年はポケットから携帯を取り出した。
「畜生、スクリーンが壊れてる。」
「はい、チャーシュー麺。」
 田島くんのチャーシュー麺が出来上がった。ラーメンを大事に受け取ってから、自分の携帯を取り出して隣の青年に貸した。すみませんとひとこと言って、その青年は警察に電話した。電話でさっき店主に話したのとあまり変わらない内容を話し、頭を下げて携帯を田島くんに返した。
「はい、チャーシュー麺と餃子。食べてって。」
「えっ、オレまだ注文してないですけど、、、。」
「いいよ。うちの自慢のラーメンだから食べてって。餃子もうまいよ。」
「ええ、すみません。いいんですか?」
「気にしないで。」
 青年は申し訳なさそうにラーメンと餃子を自分の前に持って行った。6個入っている餃子の皿を見ながら、青年は田島くんに半分食べないかと言ってきた。
「いやあ、僕はいいですよ。せっかくもらったんだから、食べて元気出してください。おじさん、じゃあ、僕も餃子1皿ください。僕のはちゃんと勘定に入れてね。」
「へい。」
 その後はふたりはただ黙々とラーメンと餃子を食べた。田島くんが3つ目の餃子を箸で掴んだ時、隣の青年はもうラーメンも餃子も平らげていた。そして立ち上がり、
「ごちそうさまでした。本当に勘定はいいんですか?」
と 聞いた。
「いいよ。タオルも持って行きな。気をつけてな。」
「ありがとうございました。今から交番へ行ってきます。」
 青年は丁寧に頭を下げて、思わず後ろを振り向いて青年を見ていた田島くんにも頭を下げて、店を出て行った。田島くんもラーメンと餃子を平らげ、少し食べ過ぎたなとお腹を摩りながら、勘定を払い、店を出た。店主と他の店の者が大きな声で「ありがとうございました」と言って送ってくれた。外はもう暗い。すれ違う人の顔はよくわからない。今意識がいくのは口の中にあるラーメンと餃子の味だ。


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