第2話

文字数 4,864文字

規則性への固執性や執着心は、観察者として感じる受け止める。息を吐いて吸う。大地の鼓動を風の中で感じると言った感受性の強さを表すものです。
夜9時に寝なければいけない。これは社会的に言われている規則。自衛隊の訓練だと23時まで起きていいことになる。朝起きて日の光を浴びる。これは脳の健康にいい。9時に寝ることがいいとしたら、それは医療の世界で追い求める健康人生。人は毎日色々なことを考えて生きている。生活の中にある歪みについて考えたり、それを修正しようと目論んだり、そう言ったあれこれが出来るのは日中外に出ている時間より、家にいる時間夜遅くが好ましい。
兄弟で枕投げをやると、夜9時になる。母親がやめろと怒り、泣き始める。父親が母親の背中をさすって、笑う。兄弟で枕投げをして楽しんでいたその時間に罪を感じず納得出来ない私は、夜小便を布団にかけて、それを寝小便だとごまかし、怒られる。立小便だとさらに怒られると思ったので、計算して、寝小便を選ぶ。つまらないことに腹を立て、そこにおかしいと共感を求めた時に、お前が大人じゃないと素直に従う兄弟二人に納得がいかない。親は子供の言うことを聞くものだというが、おかしいと思えばおかしいと態度で表す。そこに納得する内容を示さずにただ従わせる。それに屈服してしまうことが情けない。その上で、社会的に良くないとされる盗みや暴力いじめなどは、罪の意識に不足している。それが良くないということに他人への思いやりや想像力が試される。枕投げをして楽しく遊んでいる二人の笑顔。それがいい。ただ一人で発狂してはしゃいでいるわけではない。その無邪気の中に愛を感じたから、可愛がりをされたのは理解出来るが、暴力行為には納得がいかぬ。長期にわたって続くと後遺症が残る。不満に対し訴えを起こす。それは大分後のことだ。
小学五年生まで私は真面目な生き方をする子供だった。悪いことは悪い。いけないことはいけない。
しかし、五年生に入ると、そこに淫らが入る。それを良しとし、無防備かつ素直に受け入れるのが、悪ガキ。この連中が私に悪戯をしてきた。さぞや楽しかったのだろう。雪玉に石を入れて投げつけられたこともある。今は懐かしい思い出である。いい思い出か悪い思い出か? 瞬間の世界を生きていると、それはされたら嫌だと感情が優先する。しかし、思い出になって振り返る。彼の暴力衝動や暴力行為。それは猿やチンパンジーの中にある野生味を人間が見せている点において、感動的ではある。しかし、同胞への危害行為は良くない。彼は何故そんなことをやったか? それは彼が正義感に突き動かされていたからだ。社会的に良くない不健全なもの。ありとあらゆる想像力を私が胸に抱いていた。それが彼や彼らを取り巻く人々に気に入らなかった。
彼らは己の中にある欲を爆発させるのに、理性というものが邪魔なの。窓ガラスを割る。妊娠中の教師の腹を蹴る。それは理性ある人間、他人への愛思いやり労りを持つ人間のやることではない。未熟児の発狂。それが鳴り止まないのが、小学校。今は大学まで続いている。教師の話を聞かない。何故聞かない? それは女にモテたいから。私は彼らの不潔や不健全性と距離をとりながら、中に入る。それは、健全や健康を選ぶ人々の中に正義を見つけられなかったから。よく出来る人間、確かに器用ではある。それが女性にモテる。しかし、面白味が無い。風が吹いている時にただそれが気持ちいい心地いいというその無利益無報酬の中に価値を見出す人間からすれば、彼らが利益主義の世界で良い成績を出すロボット人間の源泉であることが理解出来る。
なんかおかしい。その点で悪ガキは疑ってはいないが、反抗はする。疑わずに従う人間とどちらがいいか?
勘でいうが、悪ガキは疑っているし、それにうまく迎合する優等生を利用している。それを正直に表す人間を馬鹿と見下す。しかし、大人物になると凄いと認めるようになる。それは彼らが社会的に成功している人間に価値を見つける。社会の扉を開けるものが女性であるならば、社会的な成功者を賛美するのは極自然。彼らは女性であり友達であり、人と人との繋がりの中でしか物事を評価出来ない。とても弱い生き物。風が吹いた時に心地いい。雨が降った時に、落ち込む。体やハートで自然に感じる、無許可無申請で通る思考能力における実践行為としての正直を嫌う。アカデミックな世界で評価されるものを賛美する。どちらが正直さを嫌っているか? 優等生と、野蛮人間。本当はどちらも嫌ってはいない。それが許されない。その苛立ちがどこかにある。それを無武備に表す人間を見つけると、我儘だと感じ、苛つく。人間が空気を吸い、吐くだけの行為を偉そうだと思ってしまう人間を作り上げてしまったこの国の教育を私はとても残念に感じる。

外を出歩く時にマスクをして出歩く。これは空気という無料ほど高いものへのありがたみに、金感情で生きている人間のプライドが、傷つくのだろうっか? 特大のミサイルや催涙弾が飛んでいるなら、ともかく見えないウイルスである。ウイルスの大きさは、0.1μ。通常店で売っているマスクの網目の大きさは、1μ。100倍穴の大きさに違いがある。その情報はそれなりに普及していたと思うが、塞がれていた面もある。窮屈な国だ。狭い価値観の中で皆共同体を演じている。多様な価値観を装いながら、息をただ吸い、吐くだけの行為に、ウイルスとの戦争がこびりつくと、一歩も動けなくなる。
息を吸うことにプレミアがついたり、マスクをすることに価値が生まれたり、その安さ軽さを私はとても残念に思う。それは人間の知性というものが、1+1は2であるという合理的な計算や金勘定を無防備に受け入れた結果、非合理の中にある深みを嫌うようになった。それはヒューマニズムとは言えない。人間への愛があるならば、非合理こそが人間だということがわかるはずだ。
猿は合理的なことをすることがほとんどだ。他の動物も多く。人間は非合理の塊。おかしなこと不健全なこと不衛生なこと、動物的にただ生きて死ぬだけというその価値観に照らし合わせれば、それもどこかで納得がいく。種の存続。自分が死ねば、子供が生きる。その子供が自分でなんとかすればいい。孫世代のことまで親が考える必要はない。親に納得しなければ、子供が親と闘い、孫を守ればいい。第三世代のことまで考える必要は本当はない。息子が親に納得しないなら、親に反抗して、自分で息子を守る。それでいい。どこが納得出来ないかはっきり主張し、言われないと、困る。それを主張した人間を、親が叩くなら、表現の場までそれを持っていく。そうしないと埒があかない場合がある。それがロックだったり、米国的なやり方で、表されることもある。そのメッセージを自分なりに表現しようとした。

父親はそれを納得しなかった。
私は幼少期から言葉や概念的な物事をどう考え、どう捉えるべきか他人に尋ねる癖がある。両親は、それに笑って答える。兄弟は、自分で調べることもあるが、基本的に規則は規則。それで納得する。何故その規則が出来ているのか? その規則の中に欠如しているもの。歪みはないか? そこまでは思い至らない。多くはだ。すべてにおいてではない。なにも疑問がない、不満がない。程度の差はあれど、どこかで彼らにもそれがあったことを認める必要がある。それが認めづらくなったのは、彼らが歳をとり、頑なになってしまったことがある。おかしいと思っていた。本当は気づいていた。それを表に表すことは年を経て大人になればなるほど、難しい。
何故知りたいかでなく、知る必要があるからどこかで知ろうとするその視点がないと、なんでも知ればいいことになってしまう。流行りのガールグループ。それを知ってもいいけれど、知らなければいけないということでもない。ありとあらゆることを目で追い、知り続けることは出来ない。悟り続け理解し続けることは出来る。知ることは追うことであり、知性的な獣の世界で生きるということだ。美しくない、理性ある人間としてどこかで見ることをやめ、考える必要がある。私は多くを知らなかった。今も全く知らないと言っていい。知れば知るほどわからなくなるのが世の中。自分がなにをやりたいか? そのためになにを知る必要があるか? その基準がないと、情報を漁り続けることになる。ゴミ箱の中に知性はない。知性を漁ることは貧乏臭い。知性を漁ってはいけない。知性は魚であろうか? ならばそれを捕まえ捕獲するべきであろうか? 知性は漂っている。生き物であると考えれば、考え続けることが、本当の知性だ。
休むことを勧められるのは、それが有用でないと考えるからで、社会的に認められれば、やり続けることを勧めるようになる。私は別に女が必要だとは決して思わない。社会的に認められることが、必要なのだ。そのために女が必要。順番が人と逆。女を知る必要があると言われれば、私は女を知ろうとする。知りたい、そして報告する。ニュースペーパーのやり方で、リサーチ力が鋭い。レストランにも積極的に食べにいく。つつけるものはつつき、その反応を見る。無視された。これは無視されるべき事柄なのだ。無視されると面白い。なにか反応出来ないものを感じたのだ。無視した相手はそこまで相手を見ているか? そこまで言及することは、自分でもきつい。他人の反応は面白い。それは私も人と一緒だ。嫌がらせをしているように見えるかも知れない。現実問題、嫌なことをしてくるのは、どっちなのか? 納得出来ない理由で棍棒を振るうのは誰か?
小学一年生の時、大太りの子供がいて、その子が隣の席で私に干渉してくるので私は苛立ちをぶつけ、鉛筆で歯を思い切りついたら、泣いて先生に訴えられた。母親が怒ると、父親が後ろで笑う。父は私が外で言うことを聞かないことを、むしろ男らしいと思ったようだ。
しかし、いじめられて迎合し、文句が言えずに泣いて帰る。それを情けないと感じたのだろう。ヘラヘラ笑うのもおかしい。ごもっとも。父は私が個人で闘えても集団と闘うことが苦手だということへの理解がない。集団と上手く手を取る。それが協調性。集団が悪を働くと、敵が見えなくなる。父は昔薮から棒に、片っ端から集団いじめから一人一人ぶん殴っていったというが、本当だろうか? それでは守るべき人間が自分だけになってしまう。大義とか正義が、自分が弱者だから自分のために闘うという感覚がなかなか掴めない。公や他人のために、闘う。それが僕にとっての戦争だった。自分一人が弱者で万の敵と闘う。どうやって? それが分からない。とりあえず今書き表す。それとて受け取ってくれる人が見つからなければ仕方がない。長兄も、校内で大勢の敵を相手に闘ったというが、大勢が敵である場合、自分だけのための闘いになってしまう。それが私には理解出来ない。もし私が誰にも望まれず、たった一人で反抗し続ける状況に追い込まれた時、私の頭の中には、未来の子供達のことが脳裏にある。子供だけではない。報われない弱者や目に見えない不満を抱えるその他大勢。その時に私が取るべき行動が、潔く闘って死ぬ。どこに正義を見つけるか? それを見つけることがまだ出来ない。長兄は放火事件を起こした。それに共感を寄せた人もいたかも知れない。誰も喜ばない反抗。このテキストは本当に誰も喜ばないだろうか? 未来読み起こした時、価値が生まれ得ないだろうか? 私はそうしたくない。人を喜ばせたい、感心させたい感動させたい。それが伝えたくて生きてきた。感動のさせ方も安っぽい偽善ではプライドが傷つく。時に露悪趣味の仮面を被ってでも徹底的に反抗する。私はそれなりに闘っている。それを認めてくれても本当はいい。
しかし、その闘う相手が実の父だとしたら、とても残念だ。習近平であるとか、権力者と表現を通してたたかい、勝利したならば、感動的だが、実体は違う。
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