第1話

文字数 4,311文字




物事を順序立てて考えると言うことには、どこかに嘘臭さがあるものです。
林檎の後にゴリラを連想する。それがしりとりの順序。しかし、普段生きていて、林檎の後に、ゴリラは来るでしょうか? 朝起きて家族のために林檎を剥いている。その後に急に、ゴリラがトントンとドアを叩き始める。
「あっ、ゴリラだ。どうしよう」
その後『ラッパ』の音が聞こえてきます。
順序への疑問が、最初からしりとりの話題になると不自然に感じる人もいるかも知れません。
順序といえば、最初になんの話から始めるのが、通常か? 
箸を揃えた後に、いただきます。その後食べてからごちそうさま。これが、食べる前からごちそうさまと言われたら、これはデタラメでございます。おやすみの時に、おはようと言われたら変ですよね? 日常動作においては、順番通りにやっていくことが常識、ドアを開けたら、靴を脱ぐ。ドアを開けたら、靴のままあがる。これは米国式、ドアを開けて、いきなり冷蔵庫のドアを開ける。ドアを開けて、いきなり抱きつく。これもアメリカ人。
頭の中で順序立てると言うのは教育から生まれるものなのでしょうか?
ハイハイと床を這う。這った後母親のおっぱい。生活の動作様式から、言葉の順序。
ご飯を食べる時に、おまんま。その後発展していくと、おまんまから抱っこ。その後お風呂に入る時に、シャワーだの、日常的な、用具。ブーブ。電車のおもちゃ。親兄弟とのおしゃべり。
「あのね、きょうね、おはながきれいだったんだよ」
「へー、お花が綺麗だったんだねえ」
おしまい。
会話の起承転結が、日常の親への報告。
「綺麗だったんだよ、お花が」
「おはなが、あのね、キレイだったんだよ。きょうね」
ここで、尻が後に着く。順序とか、どう伝えるのが順番が先か段々覚えてくる。
すると
「きょう、おはな、きれいだった」
スマートになっていく。
「どこの?」
足す言葉が増えていく。削った後増やし、増やし後また削る。こうやって言葉はスマートになった後、エンプティつまり膨らみ、伸縮運動を繰り返す。それが言葉の成長思考力の発達。すると、鉛筆の後筆箱を連想すると言う分かりやすいものから、海を見て時計を連想する。冷蔵庫を見て、市役所を連想するなど、連想や順序立てがどんどん複雑で高度になっていきます。
すると、順序を立ててものを考えることが段々おかしくなり始める。するとデタラメや駄洒落など、高度な言葉遊びの世界が花開く。固定してしまうと、楽ではある。つまらない。つまらないけど、楽だ。それを優先していくと、ものを考える力は衰退していきます。文化と言うのは、言葉を文にして言語化すると書く。
「あ」
と言ったら
「あ」
と書く。
「私はこう言うものです」
と言ったら
「私はこう言うものです」
と書く。または
「私はこう言うものですと言った」
と書くかも知れない。或いは
「私はこう言うものです(と彼は言った)」
こうかも知れない。人が発した言葉を文字化する。すると、内省が心に生まれる。反省と反駁が内側に生まれる。これが文化の起源でございます。
「あ」
と言いっぱなし。
「食った」
と言いっぱなし。言葉を散らかし放題散らかして、内省をしない。つまり後始末をしないとどうなるか?
その言葉を発することによる呼びかけコミュニケーションというものが生まれる。そうでないと理解不能の原語になります。一人語りになってしまう。言葉を発した以上、伝えた人がいる。伝えるために発したのかも知れない。すると伝えた相手が動く。なにかしらのリアクションをする。怒るようなことを言われたら、殴られかねない。他人が内省の鏡になる。文化と言うのは常に他人ありき。文字がなくても、他人がいれば内省の鏡がいる点において、文化と言えば文化。言葉を観念的にまとめると、高度で複雑なものになるけれど、鳥は囀ることによって、他の鳥に呼びかけをしている。その影響力の余波に関しては、鳥は複雑で高度なことは考えない。鋭い一瞬の何千年ものの刀のような切れ味で、無駄がなく削ぎ落とされている。
人間の言葉の鈍さとろさ。ここに文化の脆さがある。
「こう言ったらこうとられる。こう発したらこう人は動く」
何千年もの蓄積がある。人が発した言葉が文字になり残ってゆく。その蓄積と残骸が、今日のありとあらゆるところに現れております。集団の輪ができて、歴史的な積み重ねが人々の認識に根付くと、法律が生まれてそこに責任まで生まれる。
「俺がどう発しようが俺の自由だ」
そうは、うかうか言ってられなくなる。窮屈な世の中になると誰もなにも言えなくなる。心配性が積もり積もると、もの言えない時代がきて、誰もなにも言えなくなる。不満が溜まると、一人で頭の中で他人の応対を意識して話し始める人が出てくる。落語もそうです。たった一人。誰も応対しない。すると狂気が生まれ、落語が生まれる。その世界で生き続けると、人はその人を狂人と言い始める。仕事や職業になっているならばいい。ここで、落語は仕事であり、職業かという問題提起ですが、幼い子供が短い話を小咄のように自己完結させる。技巧の程度はあれ、それが落語の始まりです。おままごとや一人遊び、応対するものがいない。友達がいない。不満を解消してくれる相手がいない。そこで初めて落語が生まれるのです。
漫才は掛け合いですから仲良しがいる。他人に依存している。だから少し言葉の強度が落ちる。誰もいない世界で一人見えない人を頭に描きながら、発する。それはファンタジーかも知れない。人間の頭が空を飛ぶ。監獄の檻から、講師の外の人々に向かって呼びかける。ここにファンタジーがある。そのファンタジーの力が共感を呼ぶ。人間はなにかしら人に伝えて理解されない事物がある。心の内がある。
「私がこう言ったら人はこう思う。こう取る。そうとられたら困る」
しかし、それをうまく伝えたなら? そこで技巧が必要になる。表現力を磨く。すると、伝え方さえマナーを守って守れば、相手はいつか分かってくれる。言葉は完璧ではない。すれ違いはあって当然。人の心は一律ではない。貴方と私は違う。貴方と同じ場所位置に私はいない。一人としているものはいない。私は一人、貴方も一人。同じ言葉を同じ場所で発していない。その後もその前もすることもしたことも違う。全部違って当たり前。それのなにが悪い? なにも悪くない。本当は。
人を殺した人がいる。人を騙した人もいる。人に優しくした人、善行をした人それぞれいる。身分立場上限関係それぞれ違う。私は貴方にはなれない。しかし、人を殺すことは人である以上、私にも出来る。人を騙したり、嘘をつくことも、出来る。しかし、やらない。それだけのこと。全部自分感情で生きている。時に法律に訴えることもある。貴方だって、私を訴えることもあるでしょう。命令することもある。命令して、命令されて嫌だったと思われたり、言われることもある。
物語には主張が無いといけないだろうか? そうだろうか? 決してそうは思わない。物事をありのままに俯瞰鳥瞰して描く。するとそれが一つの巻物のような物語になる。こうじゃ無いといけない、こうに決まってる、あればあるほど、物語はどんどんか細くなる、弱くなる。
ナルシストはいい。人は皆自分が大好きです。だから自分を一所懸命守る。そうやって守っている自分が嫌いだから、ナルシストになれる人が羨ましい。しかし、守られてないからナルシストになるのかも知れない。一人語りの世界にいると、自分の書いたものや、自分で発した言葉に次第にうなづきが増え、自家中毒を起こし始める。外の世界の刺激を求めるようになる。蓄積が溜まっていると、急に言葉が消えることはない。仕事でお金が貰えるので無ければ、書き続けていると生活が出来ない。お金と食べるものがなくなっていく。生活保護制度があると、お金を貰いながら一人書き続けることが出来る。人と会わずにご飯と、パソコン。生き物である以上、毎日は動き続ける。物事をありのまま書くと言うことは、願望を抜いて書くと言うことだから、とても難しい。人には願望がある。こう受け取って欲しい。そのためにこう書く。こう発する。そこで初めて個人になる。個性が問われる。オリジナリティが問われる。
普段生きていて、それほどオリジナリティが必要だとは思わない。制服を着て学校へ行く。学生服は、学生時代だけ切れる特権だ。ファッションで学生服を着る人もいる。そこでオリジナリティを出す意味は分からない。子供から大人まで、そこまでオリジナリティを必要とすることはあまりないと思う。人間誰しも欲があり、願望がある。欲があるから、個性が出る。欲を優先して目立とうなどと普段あまりしない方がいい。私は子供時代あまり個性を求めない子供だった。目立つのが嫌で引っ込み思案だった。個性を出さざるを得なくなったのは、不登校を選んだ時だ。当時同級生も、学校も個性重視だった。私は真面目に人の話を聞く子供で、目立つのが恥ずかしかった。それは逆に言えば個性だった。裏目に出たと言えば裏目に出た。それは損得勘定を優先すれば、裏目に出たと言うことだ。
不登校のなにが悪い? 学校に馴染めない。他を探せばいい。見つからないから福祉の世界に来た。
家庭の事情は外で漏らすものじゃない。しかし、表現の自由があるから、外に助けを求めた。毎日家庭内でおかしなことばかり言われる。
「おかしいと思わないかい? やーい」
そんな感じ。
本当に虐待を受けている場合、傷だらけ血まみれあることもある。
積もり積もったストレス発散のために、外へ発したと言うなら問題がある。
そこにこだわりと固執性が見える。それをやめた方が良い。
親はどう考えたか?
朝起きない次兄を言葉で詰る。それに腹を立てて蹴りを入れた息子の弟に恐怖を感じ、腹に蹴りを数回入れる。小学五年生の時。私が怒ったのは、マナーがおかしい。詰る方や言葉の汚さ。品がない。汚い。生理的に気持ちが悪い。歪んでいる。その視点が親にない。何故なのか? 直ぐには分からなかった。
ある種の欲張りや意地汚さ、人間の品性の無さ、下品。それが嫌だった。
次兄と私は当時仲良し。次兄は自分が言われても、不平を漏らさない。それが分からない。息子が親に反抗してはいけないから、教育したと言えなくもない。その場合、息子が、大人や親に対して不当なことをやった場合、不都合なことやマナー違反をした場合。当時私はお行儀の良い子供だった。挨拶は学校の誰よりも懸命にやった。それが嫌がられたくらいだ。責任感も強く、至って真面目。父親が私にぶつけた怒りとは一体なんだったのか?
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