優しいね。 

文字数 2,590文字

 
「大丈夫? この紙をお店の人に見せればいいからね。お釣り受け取るの忘れないでね」
 玄関でしゃがんだお母さんが、男の子と目の高さを合わせながら優しく言い聞かせる。

「うん、だいじょぶ」
 小さなお財布とメモの入った布製の小袋を手首からぶら下げて、彼は力強くうなずいた。
 アパートの階段を下り始める前に一度振り返ってモミジのような手を振る。お母さんは笑顔でそれに返した。

 いつもはお母さんにくっついて歩く道。
 今日は一人でてくてくと歩いていく。
 アパートの前の道をちょっと左に進んで、一度だけまた左に曲がればあとはずーっと一直線。
 男の子は左手を見上げて、一歩ごとに後ろへ流れていく我が家を眺める。あの四階の中にお母さんがいるんだ。
 すると建物の右端に突き出ているベランダにお母さんが現れて、こっちに大きく手を振った。
 お洗濯日和の太陽の下でその遠い笑顔もとても明るく見える。彼もめいっぱい大きく振り返した。

 ぽかぽかとあったかい。
 右側をどこまでもついてくるガードレールがまぶしく白んでいる。
 その向こうを車がシャーっと音を立てながら通り過ぎていく。後ろから前へ、前から後ろへ。
 いろんな形。
 いろんな色。
 小さいのも、平べったいのも、荷台のついたトラックも、四角いバスも。
 銀色や、白や、赤や、黒や。
 いまは光が点いていないけれど、ライトがまるで目のように見える車もある。いろんな顔があるから見ていて面白い。
 ちりんちりん、と綺麗な音が聴こえて振り向くと、男の人の漕ぐ自転車が追い越そうとしていた。大きく避けると「ありがとう」って言ってくれた。とっさに返す言葉が出てこなかったけれど、男の子はその背中を見送りながら少し温かい気持ちを増やした。

 床屋さんを過ぎて、バス停も過ぎて、ようやくいつものスーパーが見えた。
 開けっ放しの自動ドアを、急に閉ったりしないかドキドキしながら素早く通り抜けて、男の子は少しだけ涼しい店内に到着する。
「あら、いらっしゃい。お遣いね?」
 顔を憶えてくれたおばちゃんが人懐こい笑顔でカウンターから出てくる。男の子もおばちゃんの顔は憶え済み。
 彼女はお母さんみたいに目の前にしゃがむと、「今日はなに買うん?」と訊ねてくれる。
 彼は手首から袋を外して不器用に口を開くと、中から一枚の紙切れを取りだして思いっきり差し出した。
「えーと……食パンと卵とハムとマーガリンね。ちょっと待ってなね」
 おばちゃんが集めてくれているあいだ、男の子はお菓子と玩具の棚を見ていた。
「はい、お待たせ。お菓子は書いてないから今日は我慢だね」
 ()(ざと)く笑いながらおばちゃんはレジを打っていく。126円と、210円と…少し歌うような丁寧な声。
 会計を言われて袋ごと渡す。
 大きな両手のひらに乗せたお釣りをしっかり見せてから、おばちゃんは袋に入れた。
 それからちょっと待ってと言ってカウンターを回ってくると、
「お利口さんだからおご褒美あげる」
 と言って親指くらいのチョコレートをふたつ、小さいビニールに包んで買い物袋に入れてくれた。
「ご褒美くれたってちゃんとお母さんに言うんよ?」
 ぽんぽん、と優しく頭を叩かれて、男の子は元気に「ありがと!」と答えた。

 帰り道は同じ道。
 でも見える景色は逆向き。あったかい陽ざしも今度は右側から、建物が途切れるたびに包んでくれる。
 左手に布の小袋。
 右手に買い物袋。
 卵とマーガリンでちょっと重いそれを小さな手でしっかりと握りしめて、てくてくてくてく歩いていく。
 サンダルがコンクリートを叩いてペッタペッタと喋っている。ちゃんとお遣いが出来たから嬉しくて足取りも軽い。
 犬の散歩をしている女の人とすれ違うとき、何も食べられないように道のいっぱいまで避けた。
 少し手のひらが痛くなってきた頃、右側のちょっと離れたところに建つアパートが見えてきた。
 またお母さんが手を振っている姿を想像しながら見上げると、四階のベランダには手の代わりに洗濯物が揺れていた。彼の水色のTシャツも逆さまにぶらさがっていた。

 道の角が来て、向こうへの横断歩道は渡らずに右へ曲がる。
 ゆるい下り坂になっているその路を二、三十メートル歩くと、ようやく我が家のアパートに到着。
 一階は小さい駐車場。いまは車はほとんどない。
 男の子は銀色の郵便受けの前を通り過ぎて、人が二人くらいしか並べない狭い階段を昇り始めた。
 大人にとっては普通でも男の子の脚の長さだと一段一段が高い。たんったんっとサンダルに掛け声をあげさせながら一生懸命昇っていく。
 二階に着くと廊下を通ってぐるっと逆まで回り、また階段を昇る。
 三階の廊下を回るときはいつも家族ぐるみで仲の良い家の表札を見上げる。なんて書いてあるのかは読めないけれど知っている。
 四階へ昇っていく。あとちょっと。もうすぐお母さんに褒めてもらえる。
 もう三段でゴールというところで、足の上げ方が足りなくてサンダルのつま先が段差につっかえた。
「あっ」
 前につんのめって階段に手をついた。買い物袋も角にぶつかって、そしたら変な音がした。
 男の子は手と膝の痛みよりもその音の方が気になって、どきどきしながら袋の中を覗いてみる。


 ドアを引っ張る音が聞こえてお母さんは急いで玄関へ迎えに行った。
「おかえ…… どうしたの!?」
 自分の顔を見た途端に男の子が泣きだしたので、お母さんはびっくりして駆け寄った。
「なになに? どうしたの、ママに教えて?」
「かいだんでころんじゃった……」
 お母さんは彼の小さく擦りむけた手と膝に気づく。
「あらあら…… 痛いの痛いの飛んでけー」
 苦笑いを浮かべると、手で優しく撫でながらおまじないを唱えてあげた。
 すると男の子は強く首を振った。
「たまご…… たまごわっちゃった……」
 そしてまるで自分が大怪我をしたかのようにわんわんと泣きだした。「たまごわっちゃった」と何度もか細い声で言いながら。
 お母さんはそんな彼を見て思わずじわっと目を潤ませると、両手でぎゅっと抱きしめてあげた。
「大丈夫よ。いいのよ、大丈夫だから。ユウちゃんは優しいね」
 男の子は玄関先で、お母さんの柔らかい胸と温かい腕に包まれた。
 いっぱい涙を零して。
 いっぱい「ゴメンネ」を繰り返して。
 大丈夫だよって、ずっと髪をなでる手の優しさに、全部あずけながら。
 
 
 
 
 
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