第3章 予言者としてではなく

文字数 2,614文字

3 予言者としてではなく
 社会が危機的状況に直面すると、国内外を問わず思想家は予言者や長老のように振る舞いたがる。コロナ禍においても同様だ。エマニュエル・トッドやマルクス・ガブリエル、ユヴァル・ノア・ハラリなどが代表である。その論の構成には共通点がある。従来からの自分の関心に基づいて禍を歴史的に位置付け、生じる諸問題に言及、これを機に、それを踏まえた新たな世界や社会、国家の在り方を提言する。彼らは今日と言うより、「ポストコロナ」や「アフターコロナ」といった具合に明日の展望に重心を置いている。しかし、それは今回の禍でなくともいえることだ。

 今回のパンデミックが目をつぶってきた既成の諸問題を増幅して顕在化したことは確かである。自然災害や経済的ショック同様、貧富の格差や差別、雇用形態など既存の諸問題を増幅した被害をもたらす。新自由主義が浸透した政府や企業の姿勢は、新興感染症の流行の際、感染を防止するどころか、促進しかねないことを示している。政府は無駄の削減と称して医療資源を縮小、製薬会社も利益の少ないワクチンの開発から手を引いている。感染爆発が起こると、自身の無関心や無責任、無能をごまかすために、政府は情報操作、企業も隠蔽工作に熱心に取り組む有り様である。悪いのは他国や国際機関、市民、運だというわけだ。そのため、パンデミックをきっかけに新たに信頼と協力が形成されるとは限らず、むしろ、政府を始め諸勢力が自己正当化の口実に利用する。

 思想家はそこからパンデミックを過去の災禍のメタファーやアナロジーで語ろうとする。災禍によって社会が変わるという願望は従来の社会に対する苛立ちやルサンチマンから発せられている。しかし、それは五輪や万博などイベントを起爆剤にして日本が変わるという発想とさほど違いはない。思想家は批判してきたグローバル化や資本主義、国民国家、戦後体制など自らの関心と結びつけ、それを片づけ、自身の夢を実現したいという誘惑にかられている。リーマン・ショックや3・11の時に示されたように、あたかも禍待望論と見えるものさえある。そうした楽観論は、新秩序が到来するどころか、旧秩序の急速な巻き返しに遭って、裏切られるものだ。フクシマを経験しながら、日本政府は脱原発に慎重な政策を取り、その復興にかこつけて東京五輪の誘致を後押ししたほどだ。

 目指すべき将来社会のキーワードが「持続可能性」であることは、地球温暖化をめぐってコンセンサスが国際的に形成されているように、はっきりしている。産業化・グローバル化は移動の歴史の圧縮であるから、新興感染症が従来に増して出現しやすい。数が多ければ、それはパンデミック化しやすい。新興感染症は絶えず生まれている。それがいつパンデミックにつながるかはリスクではなく、不確実性に属する。SARSや鳥インフルエンザ、新型インフル、MERSなど21世紀に入ってから数年に一度の割合で流行が起きている。ただ、すでに述べた通り、産業化・グローバル化が公衆衛生や医療における進化をもたらしている。それは今回の対策にもそうして発展したリソースが活用されている。環境問題だけでなく、新興感染症対策も前提にして持続可能な開発に取り組む必要がある。

 持続可能な開発は将来世代の消費水準を現在とほぼ一定に維持することである。それには従来民間・社会資本に限定されてきた資本概念を自然・人的・社会関係資本などに拡張し、その投資を促進する必要がある。ただ、感染症問題は地球温暖化と違い、慢性と言うより、急性の事態をもたらす。医療を始め制度資本もそれに加えることが求められる。それはかつて鵜沢博文が提唱した「社会共通資本」と総称でき、その投資が持続可能な開発につながる。社会厚生関数を新自由主義の稼得能力依存型からジョン・ロールズ型にすることが持続可能な開発であり、それに基づく社会は災禍に全般的に強い。

 必要なことは、禍の経験の共有に立脚し、そこから学んだことに取り組み、何を変え、何を変えないかの社会的コンセンサスの形成だ。予言や教えではない。そもそもジョージ・フロイド事件をきっかけに感染爆発下の全米に抗議デモが広がると予想できた思想家はいなかっただろう。

 リスクの程度の差こそあれ、世界中の人々にコロナに感染する可能性がある。誰もが感染のリスクにさらされ、その経験を共有している。そのために世界は動きをできる限り止めなければならなくなり、人々は耐久生活を強いられる。これは21世紀において初めての経験である。共有した経験をどのように利活用していくかが重要だ。願望に囚われて、十分に向き合わなかったために、諸課題が解決されず温存されてしまったことを思い出すべきだ。

 それまで西洋文学は過去を創作・鑑賞の共通基盤としてきたが、1348年のペスト禍の経験の共有から同時代を扱った『デカメロン』の文体が生まれている。「誰も彼も、毎日、今日は死ぬかと待っているかの如く、家畜や土地の未来の成果や自分たちの過去の勤労の成果を考えたりしないで、ただ現在、蓄積してあるものを消費することにありったけの智慧を絞って遺憾なからんとするのみでありました(『デカメロン』)。誰も彼も不安や我慢を強いられている。28番目の感染症の禍の経験の共有がこれからの世界や社会の基盤となる。
〈了〉
参照文献
石弘之、『感染症の世界史』、角川ソフィア文庫)、2018年
加藤茂孝、『人類と感染症の歴史』、丸善出版社、2013年
アルベール・カミュ、『ペスト』、宮崎嶺雄訳、新潮文庫、1969年
ジャレド・ダイアモンド、『銃・病原菌・鉄』上下、倉骨彰訳、集英社文庫、2012年
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2018年
マイク・デイヴィス、『感染爆発』、柴田裕之他訳、紀伊国屋書店、2006年
メアリー・ドブソン、『Disease 人類を襲った30の病魔』、小林力訳、医学書院、2010年
ジョヴァンニ・ ボッカッチョ、『デカメロン』1、野上素一訳、岩波文庫、2002年
ウィリアム・H・マクニール、『疫病と世界史』上下、佐々木昭訳、中公文庫、2007年
山本太郎、『感染症と文明――共生への道』、岩波新書、2011年
安田佳代、『国際政治のなかの国際保健事業: 国際連盟保健機関から世界保健機関、ユニセフへ』、ミネルヴァ書房、2014年
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