第3話

文字数 9,262文字

「住んでいる場所は」加納は小代里に尋ねた。
「近くの村です」小代里は加納の質問に答えた。
 加納は腕時計を見て時刻を確認した。4時半を示している。村と言えば最寄り駅の終点だ。家路は夜になる。子供を連れ回す訳にいかない。「今日は無理か」
「何が無理なんですか」
「事件について話を聞きたかったんだが、時間がない」
「大丈夫です、すぐ済みます」
「すぐに済むとは」加納は眉をひそめた。
「覚えていないんです」
 加納は小代里の言葉に渋い表情をした。「覚えていないって、唐突に言うか」
「分かっているんですけど、誰も信用しないんです。学校から帰って、バス停で降りてから沢に行って、遊び終わって帰って」小代里は首を傾げた。「沢に行く前に神社にお参りに行ったかも知れません。でも拝殿に行った覚えがないんです」
「記憶が曖昧か」
「警察も同じ感想を言ってました」
「同じか」加納はうなった。情報はあてにならないが他にない。改めて聞くのが最善だ。手帳を胸ポケットから取り出し、スケジュールの項目を開いた。「今度の日曜、現場に行く。神社のバスターミナルで午後1時に待ち合わせてくれるか」
「日曜の午後1時ですか」小代里は、加納へおうむ返しに尋ねた。
 加納はうなづいた。「用事があるなら来なくていい」
「用事ですか。特にないので、大丈夫です」小代里は簡単に返した。休みと言っても友人はなく、娯楽もない。
 加納は手帳に挟まっているペンを取って書き込んだ。「ありがとう。何かあったら名刺の番号に連絡してくれ」通りを去って行った。
 小代里は空を見た。日の色が黄色から赤に変わり始めていた。名刺をカバンに入れ、通りから駅に向かって駆けた。
 駅前には、都会に向かう集団がいた。村に向かう側の人は数える程しかいない。
 小代里は駅舎に入り、自動改札機を通り駅のホームに出た。
 駅のホームは老人が数名待機している。
 小代里は空いている座席に座り、列車を待った。
「約束なんかしていいの」声が隣から聞こえた。
 小代里は隣を向いた。少女が座っている。
「現場に行っても何もないわよ。だって分からないんでしょ」少女は席を立ち、小代里の前に来た。「行きたくないなら行かないって、何で素直に言わないの。自分で判断しないで他人の頼みにはいはい言っちゃってるの、頭おかしいわ」
 小代里は少女の叱責に何も返さなかった。事故現場を通ると頭の血が回る感覚がする。行きたくないのは確かだが、行かないと駄目な気がする。
「精神科の人も言ってたでしょ、何もしなくても消えるんだから、避けていればいいの」
 小代里は少女の言葉に苛立ち、勢いよく立ち上がった。「私だって好き好んでボロボロになってるんじゃないわよ。いちいち突っかからないでよ」大声を上げた。
 人々は一斉に小代里の方を向いた。小代里は興奮で周りが見えていない。
「貴方、私のストーカーでもしてるの」小代里は少女に食って掛かる。周りの人々は、小代里が興奮して独り言を言っていると認識している。
 少女はあきれた表情をした。「周りを見なさい」
 小代里は周囲を見た。人々が異様な目線で自分を見ている。
「公の場所で大声上げて、何が楽しいのかしら」
 小代里は少女の腕に手を伸ばした。少女の腕は透き通り、伸ばした手を貫通した。恐怖を覚えた。少女は自分にしか見えない架空の存在だと気付いた。体が震え、冷や汗が額から流れた。
 少女は小代里の表情を見て、引き下がった。「何があっても知らないから」駅舎に向かって歩いて行った。
 小代里は少女を追跡しなかった。心と体に疲れが噴き出していた。
 アナウンスが響いた。
 小代里は我に返り、周囲を見回した。人々は小代里の行動を異常とみなし、無視を決め込んでいた。少女の姿はない。
 列車がホームに入り、止まった。
 小代里は列車の中に入り、空いている席に座った。
 列車のアナウンスが響く。暫くしてドアが閉まり、村に向かって動き出した。
 駅を降り、バスに乗って神社のバスターミナルで降りた。
 日が暮れていた。
 小代里はカバンからペンライトを取り出し、街灯の光と勘を頼りに道を歩いた。
 不気味なカラスの鳴き声が響き、あすなろの枝は風に揺れて亡霊を作る。車も歩行者もない。
 小代里は暗闇に染まる道を歩き続けた。ペンライトで示した先に村人が同じ方向に歩いている。早足で近づいた。「すみません」
 村人は歩行速度を下げず、小代里をにらみつけた。「うるせえ奴だな、てめえは何者だ」小代里に顔を近づけた。シワだらけの顔が目の前に来る。村人は新居者だと認識した。今の時間で村に向かう子供は新居者しかいない。顔が強張った。「見かけねえ奴だな、お前新参者か。文句でもあんのか、去れ」
 小代里は村人に恐怖を覚え、逃げた。暫くしてのしかかる疲労に屈し、立ち止まった。後ろを見てペンライトで照らす。村人の姿はない。安心すると同時に、事故について村人から聞くのは無理だと判断した。早足で村に向かった。途中で現場を通り過ぎた。暗闇を進んでいたので気付かなかった。
 40分後、家がある集落に着いた。
 星は月と共に宝石の輝きを放っている。街灯の光が道路を照らしていた。家の窓から光が漏れ、電柱につり下がっている電撃殺虫器は弾ける音を放っていた。
 小代里は真新しい家のドアを開けた。エアコンの冷たい空気が染み出す。リビングに来た。
 テレビは司会者が放言している映像を流している。母親がキッチンで料理の片付けをしていた。
「おかえり、今日は遅かったわね」母親は小代里に話しかけた。
「色々あったから」小代里は適当に返した。鳥を保護して持ち帰った場合、母親は何と反応するかと頭に浮かんだ。汗とエアコンの空気が混じって体が冷え、震えた。
 母親は小代里の調子を見て心配した。「大丈夫」母親は小代里に尋ねた。
「大丈夫だよ、お母さん」小代里はテレビに目をやった。映像が切り替わり、レポーターがマイクを持って心霊スポットの前で解説している。「幽霊って、いるのかな」
「いないわよ。墓場が近くにあるけど、見たって話聞かないわ」
 小代里はうなづいた。テレビのレポーターの話が字幕に映っている。突然、司会者の姿をしたパネルが現れる。レポーターは白々しく驚き、生霊について話をしだした。小代里は、生きていても幽霊になって出てくるのかと疑念を抱いた。自分の元に現れたのは、真紀の亡霊ではなく、生霊なのか。「お風呂に入る、着替えとってくる」
「出たらすぐ食べるの」
「食べる」小代里は階段を登り、自分の部屋に向かった。チェストから着替えを取り、脱衣所で服を脱いで浴室に入った。体を洗い湯船に浸かり、天井を見上げた。
 天井の換気扇が湯気を吸い取り、外へ吐き出していた。
 小代里は頭の中で議論を始めた。少女が真紀だったとして、何を理由に自分に突っかかってくるのか。恨みがあって責め続けるなら、自分が嫌う現場へと追い込んでいく。実際には自分と異なる意見を出し、警告する言動をしていた。事故と現場に食いついているのは確かで、心の隅で意識し続ける限り何度でも現れ自分を責め立てて来る。安心を得るには現場に向かって真実を得て言い返し、帰ってもらう以外に手段はない。結論に達し、湯船から上がった。



 加納は探偵事務所の机の上で資料を整理していた。
 机の上は書類が散らばっている。書類は警察からの報告書が重なり、隅には百科事典が開いた状態で置いてある。
 加納はディスプレイに映るメーラーを操作し、メールに添付してあるデータを開いた。交通状況と台帳のデータが展開する。マウスを使いスクロールしていく。当時の交通状況と道路の接続から交通量を推測する。道路は行き先と元の場所をつないでいる。両端がなければ交通はない。
 机の上に置いてある固定電話の電話が鳴った。
 加納は電話機のディスプレイを見た。ペットショップの番号だ。受話器を取り、耳にあてた。「もしもし」
『お前が出たか。外にいるからでないと予想してたんだがな』
「要件は」
『保護した鳥の一件だ』
「無事に渡したか」
 うなり声が聞こえた。『翼だけではなく本体も傷ついていてな、かみ傷から菌が入って駄目になりやすいんだ。仮に回復しても飛べないままなら体の維持が出来ない』
「回りくどいな。助からなかったと言え」
『動物病院へ渡す時には弱っていた。助かる見込みもなかったんでうちで処分した。死体には猫が引っかいた跡だけではない、珍しくカラスが乗った形跡がある』
「カラスが生きてる鳥を襲うのか」
『都会にはタカやワシは住んでないんでな、カラス以外にいない』
 加納は話を聞く為に書類から事故現場の状況を取り出した。事故現場の写真が載っている。写真にはバイクが転倒したと推測出来る場所に羽が落ちている。羽の周辺はわずかに肉片が散らばっていた。事故後の報告では大怪我はないと書いてある。人間の肉片ではない。鳥を巻き込んだと見ていいが、警戒心が強い生き物だ。人間よりも先に危険を察知して飛び立つ。反応が鈍かったか、何者かが固定していたかだ。
『話聞いてるか』店員の声が受話器から聞こえた。
「すまない、仕事に集中していた。一つ聞くが、山に警戒心の薄い鳥は住んでいるか」
『いるにはいるが、人間が餌付けしてるのがほとんどだな。野生の奴は聞いた試しがない』
 加納は顔をしかめた。野鳥が事故にあうまでじっとしていた可能性は薄い。「頼みがある。データをメールに添付して渡すから、近辺に鳥を襲う動物がいるか調べてくれ。きちんとソース元も出してだ」
 受話器から笑い声が聞こえた。『突然だな、金くれるならやるよ』
「急ぎだから見積もりは出さない。報酬と前金をいつもの口座に振り込んでやる」
『分かったよ。鳥の話、お嬢ちゃんにちゃんと伝えておけよ』電話が切れた。
 加納の顔が強張った。原因の見当はついた。事故の原因が分かれば、当事者と依頼者の双方が納得する理由が出来る。



 日曜日はさわやかな晴れだった。
 加納は妻と共に自家用車に乗り、集落に向かう道路を走っていた。
 備え付けのカーナビゲーションには神社までの案内が映り、スピーカーからDJが神妙な口調でニュースを語っている。妻を連れてきたのは小代里が少女なので、警戒を解くには妻を連れた方がいいと判断した。
 妻は外の景色を見ている。緑に染まった山が、あすなろの木々の隙間から見える。加納に目をやった。カーナビゲーションに目をくれず、前を見て運転している。フロントガラスには伸びた木々の枝が道路にまで伸びているのが見える。「見なくても分かるの」加納に尋ねた。
「以前と変わってないし、一本道だ。迷わない」
「神社で待つって、遠いじゃない。他に場所はなかったの」
「他に待ち合わせ場所がないんだ、仕方ない」
 妻はウィンドウの開閉ボタンを押した。助手席の窓が開き、風を切る音と共に多重に響く鳥の鳴き声が車の中に入ってきた。
「鳥が多いわね」
「繁殖地だ。でもバードウォッチングには誰も来ない」
「何で」
「一帯が繁殖地で、鳥の警戒心が強すぎて観察出来ない。来る奴は調査員だけだ」
 妻は加納の言葉に眉をひそめた。人は見所がない場所に来ない。過疎になっていく一端を理解した。
 車は奥へと進み、神社の前に入った。境内は駐車場兼バスターミナルになっている。車やバスは1台もない。バス乗り場に近い場所に停まった。
 妻は車の窓からバス停を見た。誰もいない。余りの不気味さに恐怖を覚える。
 加納はダッシュボードにある時計に目をやった。12時50分を示している。小代里が来ないのを確認した。小代里個人の連絡先を知らないので、待つしかない。苛立ちが徐々に募る。かき消す為、ラジオの音声に耳を傾けた。DJがスピーカーから軽妙なトークを発している。
「来てないの」妻は加納に尋ねた。
「約束の時間まで10分程余裕がある」苛立ちが頂点に達した。「暇だ、外に出る」
 妻は加納の言葉にうなづいた。
 加納はエンジンを止め、車を降りた。妻も続いて降りた。
 外は伸びる木の枝が光を遮り、水が流れる音が遠くから聞こえている。
 加納は沢の音がする方を向いた。小代里が神社の近くの沢で遊んでいたと言っていた。沢があるのは確かだ。ウソはついていない。バス停に向かい、腕時計を見た。長針が12を示すまで5分ある。鳥居に向かった。コンクリート製で、凹凸のある表面をしている。足元はコケで黒くなっている。
「誰もいないの」妻は加納に尋ねた。
「冠婚葬祭で重要な場所だったが、機能が近場の集会所や葬儀場に移ったから不要になったんだ。宮司も麓から派遣で来る程度だ」加納は鳥居から先を見た。拝殿への参道は草むらとなり、獣道をも覆っている。
 妻はバスターミナルの入り口を見た。人がいるのを見かけ、加納の袖を引っ張った。「来たわ」
 加納は妻が見ている方を向いた。小代里が入って来た。
 小代里は加納に気づき、駆けつけた。「すみません、遅くなりました」
 加納は小代里の姿に驚いた。「十分だ。大丈夫か」
「普段通っている道ですから、大丈夫です」
 妻は小代里の言葉に笑みを浮かべた。「初めまして」
 小代里は妻を見て眉をひそめた。「すみません、加納さんの助手の人ですか」
「助手といえば助手かもね」
「妻だ。一緒に現場の調査をする」妻は頭を下げた。「同行出来るか」
 小代里はうなづいた。
 エンジン音が遠くから近づいてきた。
 バスがバスターミナルに入ってくる。バス停に停まり、村人達が降りてきた。皆老人だ。村人達は神社に行かず、道路に向かっていた。
 加納は不思議がり、村人達に近づいた。「すみません、探偵ですが行き先を教えてくれますか」
 村人達は加納をひと目見た。嫌な顔をして去って行った。
 加納は無愛想な村人達に渋い表情をした。村の人間はよそ者を警戒している。
 妻は加納に近づいた。「また聞き込みしているの、悪いクセね」
 加納は妻の方を向いた。「すまない、現場に行く」
 妻は小代里に目をやった。小代里は何かあるのかと首を傾げた。「現場までの距離は」
「警察が公表した報告書に書いてある。現場はバスターミナルから村に向かって2キロ程の距離だ。大まかな場所で止めてから歩きで行く」
「違法駐車ですか」小代里は加納に尋ねた。
「許可は取っている」
 加納は小代里の方を向いた。「君は、一緒に乗るかい」小代里に尋ねた。子供に同意を求めないと犯罪になる。
「大丈夫です」小代里はうなづいた。
「分かった」加納は車のドアを開けた。「後部座席に乗ってくれ。助手席は妻が乗る」
「はい」小代里は後部座席に乗った。妻は助手席に乗り、加納は運転席に乗った。
 加納はドアを閉め、キーを回してエンジンをかけた。気難しいトークがスピーカーから車内に響く。加納は小代里にとってうるさいノイズにしか聞こえないと判断し、オーディオを切った。ギアを入れてアクセルを踏み、車を動かした。
 車はバスターミナルを出た。エンジン音と空調の音だけが車内に響く。
 小代里は震えを覚えた。木陰が光を遮り、風は土が水を蓄えているおかげで涼しい。冷房の効いた車内は更に寒さを覚えるが、文句は車に載せてもらっている立場なので言えない。
 暫く経過した。延々と続く道の一区画に車を止めた。
 加納はカーナビゲーションに映る座標に目をやった。記憶にたたきこんだ数値に近い。窓から見える景色を見た。現場写真の場所と似ている。「降りるぞ」運転席の脇に置いてあるカバンを手に取り、車の外に出た。妻と小代里も車から降りた。
 鳥の鳴き声が響き渡っていた。
 加納は車の鍵をかけ、村側に向かって歩き出した。
 妻は道路を見て渋い表情をした。「車で行けば楽なのに」
「歩行者の目線で行かないと、事故が発生した過程が見えにくくなる」
 妻は小代里の方を向いた。「歩いて来たんでしょ、同じ道を戻るってきつくない」
「大丈夫です、慣れてますから」小代里は加納の後をついていった。
「今の子供ってタフね」妻は二人の後を追った。
 三人は事故現場まで緩やかな坂を登る。
 妻は歩き慣れていないので息が上がり、疲れを覚えた。
 加納は先に坂を登り終え、周囲を見回した。特別な道ではない。車はなく人はいない。スピードの出しすぎで歩行者に突っ込んだと見ていい。
 小代里は事故現場に近づくに連れ、徐々に息苦しさを覚えた。
「もう疲れたの」後ろから少女の声がした。
 小代里は後ろを向かずに歩く。少女が実在しないのは分かっている。隣にいる妻に目をやった。息が切れた状態で坂を登っている。少女の姿も声も認識していない。
「知らない人について行っちゃ、駄目だって聞いてなかった」
 小代里は無視を決め込んだ。
「今からでもいいから逃げちゃえば」少女は小代里の隣に来て、小代里の肩をたたいた。
 小代里は少女が指差す方を向いた。ガードレールの切れ目から獣道がある。村人が山菜採りに使う道だ。入ってしまえば地元の人間でない限り追跡出来ない。
「行けば」少女は笑みを浮かべた。
 小代里は獣道から目をそらした。逃げる気はない。かえって面倒を起こすだけだ。
「関わらない方がいいよ」
 少女は小代里に話しかけるも、小代里は一切耳にしない。次第に飽きてきたのか、ガードレールに座って小代里を見た。真面目に事故現場に向かっているのを見て、不快な表情をした。
 加納は複数のカラスの鳴き声を聞いた。カラスは成熟するとペアを組み群れなくなる。群れをなすのは若鳥だけだ。
 三人は坂を登りきり、事故現場に到着した。
 ガードレールは1箇所だけ新しくなっていた。
 加納は後ろを向いた。小代里と妻がついてきた。妻は息が上がっている。
「最初から車で来れば楽なのに」妻は加納にぼやいた。
「坂一つで息が上がると予測出来なかった。小学生でも問題なかったんだ、普段から体を鍛えないとな」
 小代里は加納の言葉に苛立った。「私は中学生です」
 加納は苦笑いをし、ガードレールに近づいた。一部が新しくなっている。警察の報告書では真紀は意識不明と書いてある。体の一部が欠損したとの記述はないので、体全体がぶつかったと見ていい。
 小代里は道路の中央を見た。アスファルトで覆った道路は整備していない。意識が揺らぐ感覚がし、立ちくらみを覚えた。意識が鮮明になり、前を向いた。カラスの鳴き声が多重に響く。ほこらで見た光景が広がっていた。前に鳥を保護した時の光景だ。
「何やってるの、助けないの」少女の声が響く。
 小代里は声がした方を見た。草むらの中で少女が下を指差している。何があるのかは知っている。無視してもいいがためらいがある。意を決して少女の元へ歩いていく。草むらは足元に触れた途端に消えていった。少女の元に来た。直後に肩に重い何かが乗っかった感覚がし、振り返った。妻が立っていた。
「危ないわよ」妻は小代里に声をかけた。
 小代里は我に返って周辺を見回した。道路の中央だ。見ていた光景は幻だと気付いた。白昼夢でも見ていたのか。徐々に血の気が引いていく。
 加納はアスファルトを観察した。わずかにゴムをこすった形跡がある。中央から前にはない。形跡をたどると縁石の前で消えている。神社に向かう途中、中央でスリップしたと捉えていい。スリップした痕跡はバイクから見て右側に外れている。歩行者は右側通行だ。対面方向に歩行者がいる場合、バイクから見て左になる。歩行者が法に準拠して歩道を歩いていたと仮定すれば、バイクはまず巻き込まない。何かしらの問題が歩行者側にあったのは確かだ。
「何か分かった」妻は加納に尋ねた。
「事故が起きた直接の要因はな。理由も見当は付いているが確証がない」
 小代里は道路の中央を見つめていた。幻影の物体と空き地で見た物体が重なった。正体が鮮明になる。怪我をした鳥だ。事故直前も、空き地でも同じ行動をしている。「まさか、怪我をした鳥ですか」
 加納は小代里の言葉に眉をひそめた。現場で鳥がいたと分かっているのは調査した人間しか分からない。記憶が戻ったのだ。「知っているのか」
 小代里の体が震えた。道路の先に傷ついている鳥が脳裏のフィルタを介して映っている。「私は近づいただけ。近づいただけで」目が潤んできた。少女が小代里の前に現れた。
「何も知らないまま、ウソをついていれば楽だったのに」少女は小代里に笑みを浮かべた。
「ウソじゃない」小代里は少女に恐怖を覚え、へたり込んだ。「私は分からなかった。何でだって、何でだってぐちゃぐちゃになってただけ」
 妻は小代里が不安定になっているのに気づいた。小代里の動揺を抑える為、優しく抱きしめた。少女の姿は消えた。
 小代里はうつむいた。「鳥がいた。私は鳥を、何で分かったの。何で鳥が」うわ言をつぶやいた。
 加納は小代里の反応を見て、ウソをついていないと分かった。ばらけていた記憶の歯車がかみ合い、自分の行いがフラッシュバックしているのだ。小代里に近づいた。小代里は女性から離れた。
「カラスだよ」加納はカバンから紙を取り出し、小代里に差し出した。「一帯でカラスの調査をしていた学者に問い合わせた。一帯は道路が走っているので警戒心の強いタカは寄ってこない。カラスが食物連鎖の最上位にいるんだ。カラスは狩りに向かない体つきなので確実に仕留めるのは難しい。鳥に不器用に乗っかった段階で抵抗を受けて離れ、鳥は乗っかった時に翼にダメージを受け道路に落ちた。止めを刺さず放置したのは、歩いてきた君を警戒して離れたからだ。君は傷ついた動物を見逃さない。出会った時に鳥を助けていたからね。鳥に集中する余り、バイクが近づいているのに気づかず事故が起きたんだ」
 小代里は紙に書いてある内容を読んだ。カラスの分布図と習性について細かく書いてある。
「仮定にしか過ぎなかったが、君の言葉で真実だと分かった」
 小代里は力なく息を吐いた。自分の優しさが他人を破滅にまで追い込んだ。他人を追い込む位なら、何もしない方がいい。「私が鳥を助けたから、真紀さんは」
「適切だと判断して行動した結果、最悪の状況になるのは多々ある。誰もが先を予想出来ないからな。辛い経験は初めてか」
 小代里は加納の方を向いた。「探偵さんは、あるんですか」加納に尋ねた。
「生きていれば、何度でもある。振り返る気も失せる程にね」
 小代里は地面を見つめた。ロゼットの草が茶色の地面から生えている。「自分が原因だって気づいた時、何をすればいいの」加納に尋ねた。
「向き合う。逃げる。忘れる。自殺する。言い聞かせる。手段は無限にあるが、ゴールは一緒だ。自分で埋め合わせるしかない」
 小代里は事故が起きた道路の中央を見つめた。少女の姿も鳥の姿もない。見慣れたアスファルトがある。少女は自分の心から現れ、自己嫌悪に陥らない為に守っていた。
 水気のある風が吹いた。風は小代里の青ざめて体温の落ちた体に当たった。涼しさを通り越して冷たかった。
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