第2話

文字数 11,934文字

 自治会の議論の結果、議員と代表者の2名が麓の街に向かうと決まった。
 二人は指定した日に麓の駅に到着し、列車から降りた。ホームから駅の通路を歩き、自動改札機の前に来た。
 議員は簡単に切符を入れてゲートを通過した。
 代表は切符を入れる場所が分からず、窓口にいる駅員を呼びつけて方法を聞き出した。切符を自動改札機に通す。ゲートが開いた。議員と合流して駅前に出た。周囲を見回した。
 ビルが家の隙間に建っていた。古い建物が並んでいる箇所は幕を張り、解体や改築をしている。バスが駅前のバスターミナルに止まっていた。
 議員は景色が村と違うのに驚いていた。
 代表は駅の周辺を見回し、観光案内所を見つけた。「案内所だ、目撃者を教えてくれるかも知れんぞ」
 議員は代表が指差す先を見た。観光案内所がある。
 二人は観光案内所に向かい、ドアを開けた。ドアに付いている鈴が乾いた音を立て、冷えた空気が体に当たる。
「目撃者はいるか」代表は大声で村人に声をかける感覚で訴えた。
 係員は何事かと、代表と議員の方を向いた。
 議員は内部を見回した。
 内部は木造を模した造りで、パンフレットや時刻表がスタンドに刺さっている。カウンターには地図が載っていて、観光地や飲食店の案内が書き込んである。
「何の目撃者ですか」
「事件に決まっとる」議員は係員の話に割って入った。
「事件なら警察に」
「警察は信用できん」議員は警察に行くのを嫌がった。事情から掘り下げてしつこく捜査を受ける。不正が分かれば村議会の存続に関わる。「ある出来事を調べていてな、向き合う奴がいなくて困っとる。誰かいないか」
 係員は議員の話に眉をひそめた。漠然とした条件で人を紹介しろとは無理に近い。
「すみませんが、相談なら市役所か警察に」
「公共の場所ではなくて、民間のだ」議員は頭の中から浮かんだ言葉を即座に発した。
 係員は困惑した表情をした。「椅子に腰掛けてお待ち下さい」奥のドアを開け、控え室に入った。民間で相談出来る場所が分からないので、知っている人から聞き出す。
 議員と代表は椅子に腰掛けた。エアコンの冷たい風が暑さに染まった体を冷やしていく。
「何故、警察を拒否する」代表は議員に尋ねた。
「会議の時に散々電話をかけて迷惑をかけた。行っても気まずい」
 代表は黙った。議員の言葉の通りだ。
 係員が控室から出てきた。カウンターに来て、棚に置いてある地図帳を広げた。「詳しい人によると、大通りから外れた住宅街にに興信所があるとの話です」
「興信所か」議員はうなった。興信所なら事情を問わず調査をする。
 係員は大通りから外れた地区のページを出し、指さした。
 二人は地図を見た。係員は入り組んだ場所の一区画を示している。「コピーは取れんか」
「地図なら、住所を入れればスマホで探せます」
 代表は眉をひそめた。「何でもスマホ、スマホか。若いもんは皆、他人も自分と同じく出来ると認識しておる」
 係員は代表の叱責に表情一つ変えなかった。理不尽に怒鳴り散らす客の応対には慣れている。
「コピーは取れんか」議員は係員に尋ねた。
 係員は頭を下げた。「すみませんが、著作権の関係でコピーは出来ないんです」
「仕方ない、住所と簡単な地図のメモをくれ」代表は係員に要求した。地番なら電柱に書いてある。大まかな地図を元に住所を探せばいい。
「はい」係員はカウンターの下にある棚からメモ帳を取り出し、ペンを手に取り住所と簡易な地図を書き出した。
 議員は代表より先に住所を受け取った。「お前では危ない」、席を立ちドアを明けて出ていった。
 代表は席を立った。「世話になった」頭を軽く下げて出ていった。
 ドアが閉まった。
 係員はあきれた。迷惑な客だ。



 二人は律義に横断歩道の中央を進んだ。
 大通りを曲がった先は、車一台分が通る程度の幅の道が基準になっていた。一軒家や古いアパートが工場や倉庫の隙間に建っている。送電線がクモの巣の如く、家と電信柱に張り巡っていた。
 二人は経験のない場所に戸惑いを覚えた。ジャングルに飛び込んだ気分だ。
 議員は電信柱に目をやった。診療所の広告が巻き付き、広告の下に住所が書き込んである。地図を見て、電信の柱住所と見比べた。番地は異なるが大字と丁目は同じだ。意を決して地図の通りに進んでいく。代表も後に続いた。
 地図に示した場所に着いた。
 ベージュに染まったアパートが建っていて、前の駐車場は所々に野草が生えている。
「あってるんか」代表は議員に尋ねた。
「間違ってたら戻ればええ」議員は電信柱に巻き付いている番地に目をやり、地図を開いて番号を確認した。番号が一致している。アパートに向かい、入口の脇にある金属のポストを見て居住者のラベルを調べた。加納探偵事務所の名前を見つけた。「あったぞ」
 代表もラベルを見て確認した。「行くのか」
「無論だ」議員は階段を昇った。代表は後に続いた。2階のドアの前に来た。探偵事務所のラベルが金属製のドアに貼り付けてある。インターホンを押した。
 ドアが開き、女性が出てきた。「すみません、加納探偵事務所ですが御用は」
「村で起きた事件の調査を頼みに、観光案内所から紹介を受けた」代表は要件を簡潔に話した。
「事件の、調査ですか」女性はたどたどしく尋ねた。
 議員は財布を取り出し、名刺を取り出した。「村議会議員をしておる者だ。繰り返して申し訳ないが、事件の調査を依頼しに来た。話だけでも聞いてくれれば良い」
 女性は名刺を受け取り、内容を見た。村議会議員の肩書が書いてある。議員と代表の姿を見た。乱暴をする不届き者には見えない。「応接室でお待ち下さい」部屋に入った。
 二人は女性の案内で部屋に入った。
 部屋はホコリ臭く、薄暗い。
 女性は突き当りのドアに向かった。
 二人は靴を脱ぎ、女性に続いた。
「主人を呼んできます。部屋でお待ち下さい」女性は引き返した。二人は奥の部屋に入った。
 奥の部屋は所狭しと棚が置いてあり、難解な表題の本が詰まっている。応接用の椅子と机が中央に、作業用のデスクが窓側に置いてある。
 議員と代表は空いている席に座った。机には何も置いていない。
 代表はタバコを取り出し、火をつけて吸った。紫煙の香りと味が口内に広がる。「酷い場所だ、客に飲み物と灰皿を置いとくのが当然なのに何も用意せんとは、接客がなっとらん」
「飲み物一つもおかんとはな。最近の若いもんは見た目だけで礼儀が出来とらん。出てきたら文句の一つでもつけてやらんといかんな」
 代表は笑った。「珍しく気が合うな、若い奴は堕落して年寄りをいたわらん」
 タバコが燃え続け、灰が3分の1を占めてきた。
 代表は携帯灰皿をスーツの胸ポケットから取り出し、吸い殻を入れた。
 ドアが開く音がした。「うちは禁煙ですがね、議員さん」
 二人は声がした方を見た。探偵の加納と女性が立っている。女性は飲み物が乗った盆を持っている。
 加納はドアを閉め、二人と対面する位置に座った。
 女性は飲み物をテーブルに置いた。タバコの匂いでむせた。
 議員は女性をにらんだ。「若いのは貧弱で困りますな」
「お年を召している人は屈強でタバコの煙に耐える程です。でなければ若くして亡くなっています」
 女性は頭を下げ、ドアを開けて出ていった。ドアが閉まった。
 代表の表情が強張った。「文句でも言いたげだな」
「事務所内は禁煙です。理由は書類が多いので引火しやすいのが一つです。もう一つは古いアパートですから火の回りも早く、見ての通り避難も難しい。規則があるには理由があります」
 代表は加納の口調に苛立ってきた。相手の意見を理屈と奇弁で封じる。最も相手にしたくない人間だ。「客に何ももてなしがないとは余りに失礼ではないか」
 加納は頭を下げた。「すみません。仕事柄疑い深く、客を装って暴漢が入ってくるケースがあるんです。下手に物を置いておけば武器として使いかねません」
 議員はうなづいた。危険に身を置く人間として、あらゆる事態を想定している。「分かった。理由があるなら良い。本題に入るが構わんか」
「ええ」加納はうなづいた。
「私が議員なのは名刺を配ったから分かる。自治会が関わっとると分かるのは何故だ」
「議員と一緒に行動するなら秘書か血縁関係者か、近い人間しかいません。金のない村議会や議員に秘書を雇う金はない。血縁関係者となれば麓の街まで来るのにスケジュールをあわせにくい。となれば下部組織の自治会以外にないと踏みました」加納は推理を話した。実際には別の理由があるが、話す気はない。
「はあ」議員は曖昧に返事をした。推理は理解出来ないが、自治会員が連れなのは正解だ。
 加納は名刺を差し出した。「話を本題に移します。私は加納義弘と言いまして、大手の興信所の下請けをしている貧乏探偵です。先程お茶出しをしたのは妻です。事件の調査依頼をと聞いています。事件とは何用ですか」テーブルに乗っている飲み物に口を付けた。客より先に口を付けないと、他人が安心して飲まない。
 議員は飲み物に口をつけた。口内に残る紫煙の味が、飲み物の味で喉へ流れた。
 代表は名刺を受け取った。「村で起きた事故だ」カバンから書類を取り出して机に置いた。真紀の実家に届いた、事故の報告書だ。
 加納は書類を受け取り、一通り読んだ。事故の状況が詳細に書いてある。「警察の調査に不満があると」
「察しがいいな。我々が調査を求める理由も分かるか」
「分かったとしても、話す気はないです。仕事に関係ないですからね」加納は渋い表情をした。動機は推測出来ている。被害者に非があるのを突き止め、要求を通す為の証拠を求める。事故調査の依頼によくある話だ。
「事件の加害者は岩田真紀さんで、被害者は村上小代里さんと分かりました。二人のご関係は」
「加害者ではない」代表は声を荒げた。
 加納は頭を下げた。「警察の調査結果で表記している関係です。他意はないのですが、不快ならば撤回します」
「いや構わん」議員は軽く首を振った。「岩田さんの娘は元々住んでいる村人で最も若い。事故の結果は意識不明、かたや回復し退院したと聞いとる。最初から軽症で済む策を練っていたのではないかとな」
 加納は議員の話に相づちを打った。「了承しました。身辺調査と事故の調査ですね」席を立ち、デスクに置いてある書類を手に取り二人に差し出した。「料金は以下の通りです」
 二人は書類を受け取ってみた。料金の見積もりが書いてある。値段の高さに驚いた。
「やめますか」加納は二人に尋ねた。
 議員は首を振った。「手段は他にない」
「分かりました」加納は棚に向かい、分厚い書類を取り出してデスクに置いた。「依頼内容の詳細を書いて下さい。精査した後、受けるか否かのご連絡をします。次に来た時に契約書と請求書を出しますので、指定した振込先に前金を振込んで下さい。確認が出来次第、調査をします」
 代表は書類を手元に寄せ、眺めた。「すぐやるのと違うんか」
「仕事柄、慎重だと言いました。貴方達が違法行為を理由に依頼するなら、私とて処罰を受けます。依頼者を含め、関係者の身上を調べおくのは常識です」
 議員は加納の言葉にうなった。
 代表は納得出来ない表情をした。信用するか迷っている。
「連絡先は名刺に書いてある電話番号で構いませんか」
 代表はペンを取った。「会議で来ると支障が出る。俺の自治会に回す」書類に電話番号と住所を書いた。
 加納はメモを受け取った。
「では審査に入ります。1週間以内に返事を出します。お待ち下さい」
「わし等は先が短いんだ、もっと早く出来んのか」
「善処します」
 代表は席を立ち、ドアに向かい部屋から出ていった。
「すまんの」議員は書類を受け取り、部屋から出ていった。
 加納はドアに向かった。妻が来た。
「久しぶりの依頼なのに、ぞんざいな扱いね。暇だったんだから、接客について勉強したら良かったのに」
「警察絡みの仕事は慎重にやらないとな」加納は書類を手に取り、ファイルが並ぶ棚に向かった。背には日付のラベルが付いている。書類の日付と近い日付のファイルを手に取り、開いた。新聞のスクラップが張ってある。地方欄に目をやった。事故の概要だけが書いてある。田舎の出来事は連続殺人でも起きない限り載らない。「事件の原因を調べ上げるのは相手に非があるのを期待しているんだ」
 女性は眉をひそめた。犯罪に関わる内容は断るのが基本だ。下手すれば犯罪の片棒を担ぐ羽目になる。「断るの」
「実際に使うか分からないし、既に終わった事件だからやる気なら調べれば分かる。久しぶりに直の仕事だ」加納は笑みを浮かべた。
「何を調べるの」
「事故の詳細と依頼者の身辺調査だ。終わったら審査する」
「はい」妻はテーブルに向かい、飲み物を片付け始めた。
 加納は妻の様子を見た。慣れた手付きで効率よく片付けている。メールでのやり取りが基本になりつつあるので、事務所に来る人は減っている。女性がぎこちない接客をするのでは、と不安だった。特に問題なかったので安心した。
 依頼者の実績や事件の詳細は公文書館に議事録や略歴を問い合わせ、知り合いの警察の話とを照合して完了した。仕事とは簡単な作業の積み重ねだ。一つの作業が終われば次の作業がある。



 4日が経過した。
 自治会の会館は話が進まないが故に閑散とし、村人が交代で電話番をしている。高齢の村人達は仕事がない。金もかからないので、生活する分には年金だけで足りる。農作業も生活費を稼ぐのはついでだ。
 電話番の男は窓から見える光景を見ている。木々が囲んでいて、誰も通っていない道路が隙間から見える。男は返答がないまま、夕暮れまで待機する状況に苛立ちを覚えていた。何も連絡がないまま時間だけが過ぎていく。
 夕暮れが近づいた。
 男は連絡は来ないと確信し、机に乗った連絡網を手に取り電話に手をかけた。
 電話が鳴った。音に驚き、男は受話器を手に取り、受話器を耳に当てた。
『すみません、加納探偵事務所です』女性の声がした。
「探偵事務所さんが、何の用です」
『担当の者はいますか』
「担当だと」男は苛立った。俺が担当なのに、担当がいるかと聞くとは状況が分かっていないのか。「俺が電話番をしてるんだ。文句あんのか」
『事情が分かる人ですね』淡々とした声が聞こえた。『4日前、仕事を依頼したのをご存知ですか』
「仕事の依頼、別の誰かが受けおったんだな。代わりに話は聞いてやる」
『分かりました。依頼の審査が完了しました。明日の午前中に私の事務所に来て下さい。以上です』電話が切れた。
 男は受話器のボタンを押して切った。机に置いてある連絡網の電話番号に電話を掛けた。「もしもし、俺だ。俺だよ」
『だまされねえぞ』
「詐欺じゃねえ、俺だ。電話番だ。事務所から連絡が来やがった」
 電話の先が騒がしくなった。



 翌日、代表と議員は4日ぶりに加納探偵事務所に向かった。道のりは以前向かった場所と同じだ。感覚でたどり着いた。
 議員は始めてきた時と同じく、インターホンを押した。妻が出てきて、初めて来た時と同じ応対をした。部屋に入った。
 予め加納が座っていて、机に書類と封筒が置いてある。
「お座り下さい」加納は二人に声をかけた。二人は席に座った。
「早かったな」議員は加納に話しかけた。
「暇でしたから」加納は笑みを浮かべた。「審査の結果、依頼内容に問題はないと判断しました」
 代表は書類を手に取って眺めた。概要が載っている。
「契約書にサインをして下さい。請求書に記した金額を振込み次第、調査を開始します」
 代表は議員の方を向いた。「サインって、俺がやるんか」
「言い出したのはお前だ、他に誰がいる」
「麓の街に行くと言ったのはお前だぞ」
「俺が事実を知って何になる。お前が知りたがっているんだから、お前がやれ」
 代表は契約書を開き、内容を読まずに印を押した。請求書の入った封筒を手に取り、中身を取り出した。宛名と金額、振込先と期限が書いてある。請求額を見て、一瞬顔がゆがんだ。自治会費だけではなく無尽からも金を出す羽目になる。
「以上ですか」議員は加納に尋ねた。
「以上です」加納は簡潔に答えた。
「分かった」代表は書類を一通り手にし、ドアを開けて出ていった。
 議員は加納の方を向いた。「議会についても調べたのか」
 加納はうなづいた。「無論です」
 議員は顔をしかめた。余計な詮索は村議会の存続に関わる。「選挙も含めて一切もか」
「当然です」加納はうなづいた。「ご安心下さい。私どもは信頼で成り立つ商売です。裁判所からの礼状がない限り、明かしません」
 議員はうなった。信頼は人を相手にする仕事の基本だ。追及する気はない。「良い知らせを期待している」席を立ち、部屋から出ていった。



 小代里は退院し、中学校へ復学した。体から違和感が消えても、事故前後の記憶はゆがんだままだ。療用を理由に部活に参加せず病院で検査した結果、脳ではなく精神に問題があると診断を受けた。
 医者は麓の街にある精神科に紹介状を書き、小代里に渡した。
 同行した母親は世間体を理由に反対した。小代里が精神に異常をきたしていると分かれば、村の人間の嫌がらせが悪化する。
 医者は悪化すれば生活に支障が出ると説得した。母親はやむなく応じた。
 小代里は精神科に足を運んだ。精神科は手の負えない人間の巣窟だと不安だった。
 指定した精神科は駅前から外れた、並木がブロックで舗装している道を覆う通りにある。出入り口には車止めが付いていて、4階建ての雑居ビルが並んでいた。
 小代里は、ビルの一つに精神科の看板が付いているのを見て中に入り、受付を済ませて待合室に入った。
 待合室はリビングに似た構成で、病院の無駄のない空間のイメージとかけ離れていた。
 暫くして呼び出しを受けた。
 診察室で医師の質問に答えつつ、自分自身の記憶の曖昧さについて話をした。
 精神科医はテーブルにカルテを開いて書き込んでいた。小代里の脳に異常がないのは、紹介状に添付してある診断書と検査から分かっている。一通り話を聞き終え、内容をカルテに書き込んだ。「道を通る度に怖くなる感覚はないのですね」
「はい」小代里はうなづいた。
「事故の記憶は意識しなければ次第に薄れていきます。無理に掘り返さなければ消えて戻りますよ」精神科医は笑みを浮かべた。
 小代里はうなづいた。
 精神科医はカルテに時間を書き込んだ。「今日の診療は以上です」
「ありがとうございました」小代里は席を立ち、診察室から出た。受付で会計を済ませ、精神科を後にした。診察前に感じた不安は消えていた。
 夕方に差し掛かっていた。
 ムクドリが午後の並木に集まって汚い声を上げていた。
 小代里は通りを歩き、駅に向かう。少女が対面方向から自分に向かって歩いてきた。誰だと気になり、少女の姿を見た。真紀の姿に似ている。
 少女は小代里の前で足を止めた。
「思い出す気がないのに、病院に行く理由はあるの」少女は小代里の前で尋ねた。
 小代里は苛立つも、同時に疑念を覚えた。「貴方は誰」少女に話しかけた。
「思い出したがっているのに忘れたいって、意味が分からないわ」
「話をそらさないで質問に答えなさい」小代里は少女に問いかけた。
 少女は何も答えず、背を向けて駆けていった。
 小代里は少女の後を追いかけた。知らぬ間に通りを外れ、空き地に来た。
 空き地は木々の枝が伸び放題で、草が生い茂っている。古ぼけたほこらが奥にあり、目の前に村にある神社と同じ鳥居がある。
 小代里は周囲を見回し、少女の姿を探した。少女の姿はない。奥に向かったのかと推測して奥を見た。不気味さを覚えるも、歩き出した。踏み込むとわずかに沈む。地面は落ち葉や枯れ草が重なり、柔らかくなっていた。恐怖を覚えたが、少女の姿を見つけた。
 少女は小代里の姿を見て、木の密度が濃い箇所に向かっていく。
「待ちなさい」小代里は少女がいた場所に進んでいく。弱々しい鳥の声が近くから聞こえてきた。立ち止まり、鳥の鳴き声がした方に向かった。
 開けた場所に来た。木の根本から鳥と猫の鳴き声が混じって聞こえた。
 小代里は声の元に近づいていく。猫が草むらから飛び出てきて、小代里を威嚇した。
 小代里は一瞬ひるんだが、踏みとどまった。
 猫は威嚇を解いて逃げ去った。引かない相手に意地を張っても無駄だと判断した。
 小代里は深呼吸し、落ち着いた。鳥の書き声がする。草をかき分けた。若鳥がうずくまり鳴いている。手を出すと引き下がるも、草が邪魔をしている。次の瞬間、視界が大きく揺らぎ、雑多な音が脳裏から響いて来る。自分自身が騒音の発生源になった錯覚を覚えた。大きな痛みが体に走るも、瞬時に消え失せた。同時に幻覚も幻聴も消えた。鳥に目をやった。鳥は震えている。カバンから袋を出して手元に置き、鳥を抱えて袋に入れた。鳥は逃げずに鳴いている。袋を抱えた。
「助けたの」声が響いた。
 小代里は後ろを向いた。少女が立っている。
「当たり前でしょ」
「猫は食べる為に襲ってたんじゃないの」少女は平然とした表情で、小代里に尋ねた。「生きる為に弱い動物を襲って食べるのは当たり前じゃない。身勝手よ」
 小代里は鳥を見つめた。安心したのか鳴き止んでいる。「放ったらかしにして殺せって言うの」少女の方を向いた。
 少女の姿はない。
 小代里は眉をひそめた。少女がいた場所には草が乱れた形跡がない。近づいてみた。足跡すら残っていない。不安になりつつほこらの前に来た。板は剥がれかけていて、瀬戸物で出来たキツネの人形にコケがついている。何もないとわかり、ほこらから離れた。カラスの濁った鳴き声が響き渡る。鳥を奪う気だと悟り、駆け足で道路に向かっていく。草が足に絡み、足元の柔らかい土壌が勢いを奪っていくも構わない。空き地の敷地から道路に出た。
 並木にはムクドリが集まり、騒がしい鳴き声を上げている。
 小代里は位階から出た気分になった。地元の神社の奥に入ったのと似た感覚で、一人でいちゃ駄目だと悟り、逃げたのも同じだ。袋に入っている鳥を見た。ほこらから離れる前に見た状態と変わりなく、震えている。
「相変わらず立派ね。勢いだけで助けて何がしたいの」少女の声がした。
 小代里は声がした方を向いた。少女が立っている。
 少女は小代里に近づいてきた。「もしかして、鳥を食べたいの」
 小代里は少女の言葉に苛立った。「食べないわよ」
「面白い反応ね」少女は通りの人混みに紛れ、消えていった。
 小代里は眉をひそめた。鳥を助けるのが少女より先だ。精神科のある通りに戻った。周囲を見回し、動物病院の看板を探し回ったが見当たらない。通りの奥に進んでいく。
「捜し物でもしてるんですか」小代里に向かって、男の声が聞こえた。
 小代里は振り返った。加納が立っている。
「子供が一人でうろついていたら、危ないよ」加納は小代里に話しかけた。
 小代里は声に気づき、不審がった。「誰よ」
 加納は小代里に近づき、名刺を差し出した。「自分は加納と言い、探偵をしている。近くの村で起きた事故を調べていてね、話を聞きたい」
 小代里は名刺を見た。探偵事務所と名前が書いてある。
 加納は気を緩めない小代里の反応を見て、気を緩ませた。自分から緊張を解かないと、相手は身構えたまま何も話さなくなる。「村の事故を調べていくうち、当事者の君にあたったんだ。何でもいい、話を聞きたいだけだ。何かあったら警察に通報しても構わない」
 小代里は名刺を受け取った。大人を相手に立ち回る手段を脳裏で模索していた。「何で私が今、通りにいると分かったんですか」震えた声で尋ねた。
「村の人に聞いて張り込みをした。基本の積み重ねだ」加納は小代里の質問に答えた。
 鳥の鳴き声が袋から聞こえた。
 加納は袋に目をやった。隙間から鳥の姿が見える。「鳥を捕まえたのか」
「助けたのよ」小代里は加納に言葉を返し、袋を開けて中身を見せた。
 加納は袋の中身を見た。怪我をした鳥がいる。「飼うのか」
 小代里は首を振った。「違うわ。保護したの。動物病院に連れてくんだけど、場所が見つからなくて困ってるの」
「動物病院は近くにないよ、駅前に行かないと駄目だ」
「駅前ね、分かったわ。ありがとう」小代里は歩き出した。
「待て」加納は小代里の前に出て止めた。「着くまでに死んでいるかも知れない、応急処置が必要だ。近場で知り合いがいるから、対処してもらえ」
「知り合い」小代里は加納の言葉に警戒した。「変な場所に連れて行く気でしょ」
「警察に通報しても、今すぐ大声を出しても構わない。俺自身は慣れているからな。鳥を助けたいなら大人を信用してくれ」
 小代里は鳥を見つめた。鳥は保護した時より弱っている。「場所は」
 加納はうなづいた。「近くのペットショップだ」小代里の表情を見た。困惑している。自分が怪しい男だと認識しているのを悟った。
 小代里は顔をしかめた。判断に迷いが出ている。
「嫌なら鳥を渡してくれ。俺が一人でペットショップまで持っていく。今後一切関わらないから、君は何もしなくていい」加納は手を差し出した。やっと聞き込みが出来ると安心したが警戒していてはは仕方ない。最初に戻ってやり直す。
 小代里は鳥を見つめた。鳥を渡せば加納や鳥との縁が切れるが、加納が鳥を助けずに処分すれば引導を渡したも同然だ。「ペットショップは近くなんですよね」
「近いも何も、今いる場所から曲がった場所だ」
「一緒に行きます。けど」小代里はカバンに付いている防犯ブザーを握りしめた。「何かしたら通報します」
 加納は、小代里の意外な回答に驚くと同時に感心した。「案内する」通りを歩き出した。
 小代里は防犯ブザーを握りしめたまま、加納の後をついていった。
 通りを曲がり、ビルの前に来た。ペットショップの看板がある。
 加納は小代里を連れてペットショップに入った。
 店内は清潔に保っている。壁には子犬や子猫がガラス張りのショーケースで寝ている。棚には餌や衛生用品が積んである。
 加納は奥にあるカウンターに向かった。
「失礼、加納だ」加納は奥に向かって声を上げた。
 奥から店員が出てきた。加納の姿を見るなり、笑みを浮かべた。「探偵さん、またあんたかい。調査先でペットがかみついたんで、薬をくれなんて話ですかね」
「俺は殺し屋じゃない」加納は連れている小代里に目をやった。「子供が鳥を拾ってな、見てやってくれないか」
「別に構いませんがね」店員は小代里の方を向き、カウンターの隣にある台に移動した。「お嬢ちゃん、見せてくれないか」
 小代里は袋を台に置き、開けた。鳥は縮こまっている。
 店員は鳥の羽をつかんだ。特に抵抗するそぶりを見せない。遅めの動作で広げてみた。所々でけがをしていて、出血している。羽の関節部分は曲がっている印象がある。下手に動かすと骨ごと折れるのではないかと懸念した。
「状態は」可能は店員に尋ねた。
「相当なダメージを負っています。不慣れで高い場所から落ちたんですかね」
 小代里は不安げな表情をした。「猫が襲ってたんです、また飛べますか」
「猫か」店員は翼の根本を観察した。「翼は繊細だから、一度折れると飛ぶのは難しくなる」
 小代里はうつむいた。
「治療するのかい」店員は加納に尋ねた。「治すなら応急処置をして動物病院に送るよ」
 加納は眉をひそめ、小代里に目をやった。最終判断は自分ではなく、小代里がすると認識した。
「治さない時は」小代里は店員に尋ねた。
「引き取るか捨てるかだね。引き取るにしても野鳥の会に連絡しないとだけどさ」
 小代里は店員の言葉に顔をしかめた。助けた命を捨てる選択は出来ない。かと言って治療には金がかかる。財布に入っている金で間に合うのか不安になった。「治すと言っても、お金は」
「金なら俺が払う」加納は1万円を取り出し、店員に差し出した。「前金だ、足りん時は俺の事務所に請求書を出してくれ」
「はいよ」店員は加納に返事をした。
「医者には俺の事務所に連絡しろと言っとけ」
「分かったよ」店員は1万円を受け取った。
「任せた」加納はペットショップを出ていった。
 小代里は鳥が気になった。鳥を助ける名目で殺して捨てるかも知れない。
「不安なの、なら最初から断ればいいのに」後ろから少女の声がした。
 小代里は少女の方を向いた。
 少女は笑みを浮かべ、小代里に近づいた。「断る勇気もない、自分で何も決める気力もないなんて最低ね」小代里から離れ、外に向かった。途中で棚に隠れて見えなくなった。
 小代里は少女の言葉に苛立ち、後を追いかけて外に出た。
 加納がペットショップの前で立っていた。少女の姿はない。
「すみません、誰か出て来ませんでしたか」小代里は加納に尋ねた。
 加納は首を振った。「いや、出る時に店には誰もいなかった」
 小代里は困惑した。少女は確かに店内にいた。棚に隠れた時に出るふりをしたのか。ペットショップを見た。ガラス越しに見える店内には誰もいない。
 加納は小代里の言動に不自然さを覚えた。「見知らぬ人間が言うのも難だが、奴は信頼出来る。取って食わんよ」
 小代里は加納に頭を下げた。「すみません、お手数をかけました」
「気にしないでくれ。事故について何も知らないなら用はない。鳥なら事務所に連絡してくれれば状況を教える」
 小代里は眉をひそめた。鳥を助けてもらっておきながら、何も返さないのは失礼だ。「事故について調べているんですよね、知ってる範囲でなら話します」
 加納は小代里に頭を下げた。好意で協力する人に敬意を払った。
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