第10話 明日への旅立ち

文字数 3,050文字

                  十八
 雨の度に季節は色を変え、風に運ばれる。私たちは、そんな季節の後ろ姿を見つめながら生きている。
 この後、友人の家に寄るという真理を駐車場まで見送ることにする。時折、桜を見上げながら、二人はゆっくり歩く。穏やかな陽光が木々の間から降りてきて、金色の微粒子をプリズムのように広げている。どこからか、虹の匂いがする。もう会話はいらなかった。ただ横に真理を感じながら歩くだけで、自分に纏わりついている不安やわだかまりが、砂時計の砂のようにサラサラと流れ落ちて行く。
 はるか先まで続く桜並木が作る幻想的な景色の中を歩いていると、この桜並木こそ、幸せを追い越して生きた母の、悲しみの通り道なのかもしれないと思う。
 駐車場に着き、自分の車に歩みを進めていた真理が立ち止まり奈々のほうを振り向いた。真理の視線と奈々の視線が絡み合い、透明な炎に彩られた二人の思いが重なる。甘く切ない喜びが奈々の全身を巡り、気づいたら真理の胸に飛び込んでいた。そんな奈々を真理は強く抱きしめながら、「幸せになろうね」と囁いた。優しい時間が降り積もって行く。 
 いつまでも離れようとしない奈々を、真理はまるで駄々っ子を諭すように両手で顔を挟んで剥がし、微笑みながら、まだその場に立ち尽くす奈々を残して、車に乗り込んだ。発車した車が奈々の前で止まる。窓を開け、顔を出して奈々に向かって言った。
「奈々ちゃん、約束楽しみに待っていてね」
「はい、連絡待っています」
「じゃあね」
 窓が閉まり、真理の運転する真っ赤なポルシェが、颯爽と駐車場を出て行く。それはまさしく三倉真理というオーラ全開の女優の姿そのものだった。
 先ほど花見をしていた時、二人は今度少し長い休みが取れたら、一緒に旅行に行こうと約束をしたのだった。忙しい真理が、いつ休みをとれるのかわからない。そして、その時、自分が何をしているのかもわからない。だけど、自分は万難を排して、真理との旅行に出かけるだろう。
 真理の車が見えなくなり、一人残された奈々は何だか力が抜けてしまっていた。そんな自分を奮い立たせるように、足に力を入れ、昭和記念公園を出る。出口から西立川駅へは直結した道があり、すぐに駅へ到着した。少し迷ったが、電車に乗る前に父に電話することにする。
「もしもし」
「はい」
 仕事をしている最中でもあったのか、相変わらず感情の抜けた、そっけない声であった。
「私ですけど…」
 自然とこちらも不愛想になってしまう。
「ああー、で、なんだ」
 思わず電話を切ってしまいたくなるが、先ほどの真理との会話を思い出し続けてみる。
「今、真理さんと別れたところ。昭和記念公園の桜、とってもきれいで真理さんも喜んでた」
「そうか、それは良かった」
 単純に嬉しそうな声である。どこまで真理のことが好きなんだと、ちょっと嫉妬心が沸き上がる。
「それでね、今更なんだけど、私真理さんが大好き」
「うん、彼女は素晴らしい女性だ」
 抑揚のない、淡々とした返事だった。何をわかり切ったことを言うのかという思いなのか。
「でもね、それ以上に、私、お父さんのことが大好きみたい。じゃあ、また行くから、それまで元気でいてね。それから、また映画撮ってください」
 そこまで早口で一気に言って、自分のほうからさっさと電話を切った。電話の向こうで父が息をのむ音が聞こえたような気もするが、気のせいかもしれない。
 感情の糸をもつれさせていた父と自分の暗く重い過去に、ひとまずアリバイ工作をした。しかし、長い間、心の内に淀んでいた澱を洗い流すことは、決して簡単なことではない。でも、ようやく今日、運命が目配せしてくれたのだから、これからは諦めることなく、父の固く冷え切った心と戦い続けようと決意する。それが、母の愛情を食べ尽くしてしまった奈々が、母のために今できる唯一のことだから。
 胸の内を透き通った水のような感情がひたひたと、静かに溢れてくる。
 今回は私のほうが仕掛けたんだから、次はお父さんの番よ。でも、本当はもっと大事なことを言いたかった。それは今日は言えなかった。父が何も言わなかったのだから、私のほうからは言えない。
 今になって考えると、父は今日奈々が何か大事な話があってくると予感して、敢えて真理を呼んだのではないかとさえ思う。そして、その場で、真理と奈々が実の姉妹であることを告げようと思ったのではないか。しかし、奈々が俊のことを話さなかったように、父も何も言わなかった。業火の中にある熾火のような情念と苦悩に戸惑いながらも、父は父なりに見えない未来を模索しているのかもしれない。
 改札口を抜け、ホームに上がる。平日の夕方のせいか、人は少ない。誰もいないベンチを見つけて座る。かすかに街の音が聞こえる。
 目の前には、先ほどまで真理といた昭和記念公園が見える。奈々の目は確かに公園をとらえてはいるが、何も見ていない。今日はいろいろなことがありすぎた。考えなければならないこともいっぱいある。父に聞いて問い質さなければならないこともできた。いろいろありすぎて何も考えられない。ただ、ボーッとしている。奈々は、こうした時間が好きだ。
 辛いこと、悲しいこと、苦しいことなどがあって、圧し潰されそうになった時、それらをほんのひと時、心の奥底に沈め込み、無になる術を身につけたのだ。これも、奈々が生きていく上で欠かせない知恵のひとつになっている。長い時間は無理だけれど、たとえ一時でも心を自由にすることで、閉塞感から抜け出せる。とても贅沢な時間であるようにさえ思える。誰のものでもない「時間」というものが、この時ばかりは自分のためだけに明確な意志を持って、やさしく包んでくれているような、そう、まるで母親の胎内にいるかのような感覚だ。
 ああ、もう一度、母に会いたい。母の顔を見たいから、そっと目をつむる。瞼の裏で母はいつまでも微笑んでいた。
 濡れた思いが静かに脈を打つ。父と真理ほど強くない自分は、限りある時間を指で掬い取って見ても、きっと確かな答えなど掴めない。蛍のように一瞬光った母に倣い、せめて永遠のとなりに泳ぎ着きたい。
 知らぬ間に公園は、夜の底に沈む準備を始めている。太陽は思いつめたような表情で空を赤く染め、今日という日に終わりを告げようとしていた。はからずも巻き戻してしまった「時」は、心なしか歪んでいた奈々の片付かない過去に風穴を開けようとしているのかもしれない。
 駅のアナウンスで、電車が近づいていることを知らされる。立ち上がって、レールの先を見ると、眩しいほど美しい大気に包み込まれた電車が徐々に大きくなって、風を起こしながら、こちらに向かってくる。どこかで同じ光景に出会った。心の膜が内側からの力で破れる。
 なぜなのか、鼻の奥がかすかに熱くなる。洗い流したはずの思い出が鮮やかに色づき出し、空虚感を飼い馴らして生きてきた奈々の、心の一番柔らかな部分に控え目に火をつける。まつ毛にわたる風が心地よい。
 ホームに滑り込んだ電車のドアが開く。中にいる見知らぬ人たちの視線を浴び、一瞬戸惑う。奈々を乗せた中央線直通の東京行き電車は、都会の孤独の中を思わせぶりにゆっくり走り出す。おぼろげな未来を手繰り寄せるために、日常の裂け目に一歩踏み出した奈々は、吊り革につかまりながら、幸せの温度を確かめる。
 
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