第7話 奈々と真理

文字数 20,499文字

                    十一
 そんな奈々は思い切って真理に聞いてみた。
「ねえ、真理さん。真理さんは結婚しないんですか」
 すると、そんな奈々の質問を予期していたかのように、真理は驚いた顔も見せず、
「今はしていないということよ。それだけ。先のことはわからないわ」
「そうですか。そうですよね…」
「私にとって、結婚は目的じゃないから」
 真理の言っていることが、いまひとつ奈々にはわかるようなわからないような。
「奈々ちゃんはさあ、仕事をするために生きているわけじゃないよね。生きるために仕事をしているんだよね」
「はい。生きるためにというか、生活をするためでもあると思います。でも、もちろん、働き甲斐を得るためでもありますけど…」
 奈々が母と同じ女子大を卒業して就職した会社は金融機関だった。他の大学生と同様、その選択基準は「将来性」や「安定性」「給与・待遇」といったものだった。自分には両親のような劇的な生活よりも、安定した穏やかな生活のほうが似合っていると思っていたからである。
 しかし、実際に入社してみると、そこは、仕事をするために仕事をする、仕事をするために生きるというような職場だった。真理が言うように、仕事のために生きなければならないというのは間違っていると思う。
 世間ではブラック企業なる言葉が囁かれ、労働環境が問題視されていた。奈々の勤めた会社はブラックではないといえるけど、グレーといえなくもなかった。「働き甲斐」の前に、ただ消耗する感覚。だから、この先の、この会社での自分を考えることはできなくなっていた。そこで、あまり頼りたくはなかったけれど、祖父にお願いして、現在の会社に転職した。自分で選ぶとまた間違ってしまうかもしれないという不安があったからだ。おかげで、今は働き甲斐を感じながら仕事ができている。
「ううん、私の言っているのはそういうことではないの。奈々ちゃんは、私が施設で育ったことは知っているよね」
「ええ」
 真理は幼い頃に施設に預けられたため、実の両親のことは覚えていないという。あくまで、施設の人から聞かされた話として真理の記憶に残っているのは、こういうことだという。
 大学院生の男と大学生の女の恋愛の末、真理は産まれたらしい。もちろん、堕胎するという道もあっただろう。しかし、真理の母親は真理を産んだ
 当時の二人の間にどんな話し合いがなされたのかはわからない。堕胎を望んだ男に対して、女がどうしても産みたいと言ったのか。あるいは、双方納得の上で産んだのかはわからない。いずれにしろ、二人は何らかの理由があって別れた。別れるにあたっても様々なことがあったであろうことは想像に難くない。二人の間の思いの交錯は、考えただけで辛い。
 やがて、真理が産まれ、母親は一人で子育てをしていたのだが、自身、身体が弱く病気がちで働くことができず、生活が立ち行かなくなったらしい。それを見かねた姉が、真理を預かることにしたという。そして、子供のいなかった姉夫婦は、真理を養子にした。その養父の苗字が橋本であり、真理の今現在の本名の橋本百合となっている。実母のその後については、まったくわからないという。
 真理にとっては、実の両親から捨てられたということであり、そのこと自体決して幸せとはいえないけれど、その後姉夫婦に育てられたのであれば、それはそれで、それなりの幸せに恵まれたかもしれない。しかし、運命は意地悪である。今度は、その姉が不慮の交通事故で亡くなってしまったのである。残された養父は、当時超がいくつもつくほど多忙だったらしい。そんな仕事中心の生活の中で、男でひとつで子供を育てる自信がなかったのだろう。真理は児童擁護施設に預けられることとなる。真理が五歳の時である。そして、その後、その養父とも連絡が取れなくなってしまったという。
 これらはあくまで施設の人から真理が間接的に聞かされた話であり、真理自身は本当のところがわからないという。自分はなぜ産まれたのか。母はどんな思いで自分を産んだのか。そこには、どんな事情があったのか。父や母は自分に愛情を持っていたのか。養父母にとって自分は迷惑な存在でしかなかったのか。何もかもがわからないという。間接的に聞く話に真実があるとは思えないという。だから、今は一切のことを考えないようにしているという。考えてもどうしようもないし、そこからは真理が生きる意味を見いだせないからだという。結果的に真理はこの世でたった一人になってしまったけれど、そのこと自体辛くもなければ、悲しくもないという。
 奈々の父親が、そんな真理の父親であるかもしれないのである。そう思うと、奈々の心は張り裂けそうになる。この場で、父に代わって謝りたいという衝動がおきる。ひとりぽっちになった真理は、決して弱みを見せないけれど、本当のところ実の両親のことをどう思っているのか、どう思おうとしているのか。聞いてみたいという思いはある。真理のことだから、聞けばきっと答えてくれる。でも、真理が受けた傷は、奈々の受けた傷よりもはるかに深いに違いない。だから、真理にとってのそれは、心の奥底で、まだ固まり切っていない瘡蓋のままなのかもしれないと思うと、辛くて聞けない。
「施設を出た私は、とりあえずバイトをしながら、正社員で働ける仕事を探していたんだけど、なかなか見つからなかった。日本は公平で、誰にも均等に機会が与えられているなんてうそ。世間の厳しさを痛切に感じていた私が、偶然コンビニにあった雑誌で目にしたのが映画のオーディションだったの。そこで監督に選んでいただいたおかげで、私は女優という仕事に就くことができたわ。だから、当時の私にとっては、女優は生活するための、生活を維持するための仕事であり、特殊な仕事ではなかった。もちろん、自分の夢への入口として女優があったわけでもなかった。駆け出しの女優だったけど、いくつかの賞を受賞できたおかげで、生活できるだけの給料を事務所からもらうことができた。そのことが嬉しくて、その後の仕事も、ただ一生懸命にやった。おかげで少しずつ評価されるようになって、やりがいを感じることができるようになった。でもね、私が一生懸命にやればやるほど目立っちゃったのね。いじめや悪意に満ちたいたずらに会うようになっていたの。嫉妬で、あらぬ噂を流されたり、現場で大女優という人から、あからさまな無視を受けたり、誰かに衣装を破られたり、私が台詞を間違えたように、誰も気づかないような仕掛けが組まれていたり」
 真理の受けた傷の深さが、自分のことのように奈々の中にも浸食し始め、悲しみの波に襲われる。
「もちろん、すべての現場がそうだったわけじゃないけれど、突如現れて、歴史ある賞の新人賞をさらっていった『生意気』な女優に対する風当たりは強かった。どんな世界にも起こり得ることだけど、やはり私たちのいる芸能界は、それが強く表れてしまう。現場は一つのチームではあるんだけど、やはり企業のような組織ではなくて、基本的にはみんな個人なのよね。個々の自意識が強過ぎてぶつかり合ってしまう。みんな仲間でありライバルでもあるから、高い自意識がないと生き残っていけないのは当然でもあるの。だから、現場で手を抜いている人なんて一人もいないの。みんな一生懸命なのよね。そんな中で、自分より一生懸命な人が同じ場所にいると、その一生懸命さが気に障るし、鬱陶しいのよね、きっと。一生懸命の強さだけが理由で、私がスポットライトを浴びる場所に立っているように思えて許せないのだと思う。毎日のように行われる毒を塗ったイベントに、私の心はズタズタになっていた。孤独には慣れていたけど、案外、孤立には慣れていなかったのね。奇妙な虚しさに、ずっとさいなまれていたわ。私の生きる道は女優しかないという思いは変わらなかったけど、だからこそ悩んでもいたの。奈々ちゃん、生きるって難しいわね。自分の思うようになんて絶対にいかない」
 当時のことを、記憶に貼った付箋を剥がすように頭に浮かべながら回想する真理の姿は、影法師のように頼りなげで切ない。張りつめた現場の裏にある、ぬめり気を帯びた悪意、偽りで装飾された親密さ、合わせ鏡に映る憎悪などで満ち満ちた生臭い空気感に、奈々も息苦しさを覚え、いたたまれなくなる。
「でも、そんな悩みの中で仕事をすることで、 かえって自分を見つめ直すことができたの。それまで気づかなかった、自分の心の中を覗き見るすき間ができたのかもしれないわね。私の心の中には、ずっと燻る火種が澱のようになって沈んでいたの。それが何であるか、まだわからなかったんだけど、何かが違うって気づいたの。このままでは、自分の心が裂けてしまうのではないかとさえ思えた。そんな時、監督から二度目のオファーがあったの。再び会った監督は、以前にも増して厳しかった。もちろん、一本目の作品の時、まだずぶの素人だった私に監督は厳しかった。でも、二本目の作品の時の厳しさは、それとは次元の違うものだった。主役の私に、ダメ出しの嵐だった。それは、みんなの前で貼り付けの刑にされ、手や足に釘を打たれているような感覚だった。晒し者にされた私は、それまでの役者経験を全否定されたように感じて、すっかり自信を失い、どう演じたらいいか全くわからなくなってしまった。それでもやってくる地獄のような日々の中で、自分の存在まで否定されているような感覚に陥って、演じている最中に涙が止まらなくなってしまったこともあったわ。でも、それを抜けた時、そこには今までの自分じゃない自分がいた。施設にいた時に抑圧していた自分でもなく、施設を出て世間に怯えていた頃の自分でもなく、女優として、ただ一生懸命演じていただけの自分でもなく、自分とは違う「役」を演じていながら、まさに生きて輝いている自分らしい自分がそこにいたの。いつ抜けることができたのかは、自分でも未だにわからない。ある瞬間だったような気もするし、長いトンネルを少しずつ抜けたような気もする。どちらにしろ、その時こそ、女優という仕事が、私にとって、私が私であるための仕事になった時なの。同時に、私を悩ませていた周りの人たちとのトラブルも一切なくなっていた。監督のおかげで、ようやく自分の間違いに気づいたのよ。一生懸命って、言葉の響きはいいし、一見正義に思えるけど、実はその中には独りよがりの熱情や欺瞞的な思い上がりが含まれている部分があるの。まだ若かった当時の自分には、そんな自覚はなかったけれど。風もないのにくるくる回って見せているかざぐるまみたいなものよね。今は映画が私のすべて。だから、私は自分にある役が与えられた時、他の誰でもない、私がその役を演じる意味を見つめ、問い詰めることから始めるの。どうしてもそれが感じられない時には、仕事をお断りする。決して生意気で言っているのではなくて、それが曖昧なまま仕事を受けてしまうと映画そのものが輝かなくなってしまい、結果みんなに迷惑をかけるだけで、誰にも良いことはないから。そして、実際に仕事をする上では、周りの人たちそれぞれの思いや意味を感じられるよう常に心を柔らかくしているの。そうすることで、お互いに感応しあい、共振しあうことができて、そのシーンが思いもよらぬ色に染まったりして、最高の結晶が生まれるわ。それが、とても楽しいの。そんな大事なすべてのことを、あの作品を通じて教えてくれたのが監督。だから監督は私にとって一生の恩人。私の言いたいこと、わかってもらえる?」
「漠然とですけど…」
 真理が父から受けた影響は大きかったのだろう。でも、その父も嵐のような激しい感受性を持つ真理から大きな刺激を受けたに違いない。何か言いたかったが、何を言えばいいのかもわからなかった。奈々は真理の言葉に圧倒されていた。
「監督はあの作品に、監督としてのすべてを賭けていたと思うの。だから、こんな私にも全身全霊でぶつかってくれた。それが嬉しかった。今だから言えるんだけどね。あの瞬間瞬間は、ただ辛いとしか思わなかったから。すべてを出し切ったということと、当時の商業主義の強かった映画界に対する反発もあって、監督は映画界から身を引いたんだと思う。でも、女優が私にとって、私が私であるための仕事であるように、松本義隆という人が松本義隆であるための仕事は映画監督だと、私は思っているの」
 誰よりも父のことをわかっている真理の言葉はずしりと重い。
「監督は、ナイフのような感性を持っていて、現場にいるみんなの既成概念をあっさり壊して、言葉の下にある言葉を引き出してくれるの。その上で、それぞれの役者の一番輝いている瞬間を映像の中に永遠に凍結しようとしてくれる。そんな監督がたまらなく好きだったな、私は。だから、監督はずうっと監督のままでいてほしいと願ってしまうの。文芸評論家じゃなくてね。でも、それは、私のただのわがままなのよね。ごめんね、奈々ちゃん」
 真理は何に対して謝っているのだろう。少なくとも、私に謝まる必要なんて全くない。独特な表現で父に対する熱い思いを口にする真理と、目の前に座る、無防備で天使のようなあどけないさまの真理の姿が、あまりにアンバランスで、奈々の頭を混乱させる。
 今の真理の話は、父らしいし、真理らしいと思うけど、奈々にはわかりにくい部分があった。でも、頭の中では自然に思考回路を働かせている。その人が輝いている瞬間が、その人が生きている意味を持つということはわかる。だから、最高の瞬間を永遠にすることが人生の目的と言えるかもしれない。もちろん、瞬間といっても、一定期間の意味だろう。人によっては、数年あるいは一年。数か月の場合もあるだろうし、一日の場合もあるだろうし、それこそ一瞬の場合もあるだろう。いずれにしても、その『瞬間』を最高に輝かすことができれば、人生の期間の長短に関わらず、その人が生きた証として永遠に残る。真理の言いたいことは、そんなことだろうと漠然と理解する。
「もちろん、今監督がされている仕事も価値のある仕事だとはわかっているのよ。でもやっぱり監督にはいつかまた映画を撮ってもらいたいの。その時は、ぜひまた私を使ってほしい。そうしたら、また違う自分に会えるかもしれないじゃない」
 最後は孵化する新たな卵を見つけた時のような、無垢な笑顔を見せて言った。父と真理は、決してほどけない結び目のように、監督と女優として深いところで想いを重ねている。その上で、時に全身全霊でぶつかり合い、影響しあい、高めあってきたのだろう。その止めどない深さに羨望する。
「なんか父が羨ましいです。真理さんにそんなふうに言ってもらえるなんて」
 父があの作品に込めた思いは、娘としてなんとなくはわかっていたけれど、今の真理の言葉を聞いて、奈々の心の底で何かが弾けた。
「つまりね、結婚より前に、自分色の幸せを見つけることのほうが大事だということを言いたかったの。人生なんて辛いことのほうが多くて、時々迷子になるけれど、自分を置き去りにしない限り、揺らぎ立つ炎によって新しい道が見えてくるわ。奈々ちゃんは奈々ちゃんであって、奈々ちゃんでしかないの。そのことを絶対忘れないでほしいの。今付き合っている人との結婚に悩んでいるとしたら、まずは、その悩みが意味することを深く考えてほしいの。結婚なんてそれからでも遅くないでしょ」
 いくつもの種類の違う悲しみや苦しみを暗涙とともに胸の奥底に烙印して、ひたむきに生きる真理の、その澄んだ瞳が、迷いに揺れて自分を見失っていた奈々の倦んだ魂を打ち抜いた。これまで奈々は、父に動かされ、母に動かされて生きてきた。それほどに、両親の自分の人生への影響は大きかった。ようやくそれから解放され、自分の人生を歩み始めている奈々ではあるけれど、結局、ただ右往左往していただけで、そこに「自分」はなかった。そのことを真理はしっかり見抜いていて、だから敢えてこんな話をしてくれた。父には相談できなかったが、その答えを真理からもらうことができた。
 奈々が感じていた鈍重な苛立ちと硬質な不安は、自分自身の至らなさを俊の姿に投影させていただけのこと。なんと自分は身勝手な人間なのだろう。俊のせいではなく、自分の生き方が定まっていなかったことに原因はあった。俊の本意がどこにあるにせよ、こんな芯のぐらついている自分には、俊の望んでいる答えは出せない。出してはいけない。今の自分のまま俊と結婚してしまったら、自分の大事な人生を損なうことになるかもしれない。
同時に、俊の人生も狂わすことになる。
 考えてみれば、母の人生がそうだったのではないか。女子大を出て就職もせずにすぐに父と結婚した母は、自分を見出すことなどできないまま、父に翻弄され続けた。結局、唯一自分を守ってくれる実家に戻ってしまったことで、精神はさらに小さな殻の中に閉じこもり、そこから出られなくなり、がんを発症してしまったのではないだろうか。そんな母が愛おしいと思う。
 でも、俊がプロポーズさえしなければ、奈々はこんなことを考えることはなかったかもしれない。きっと二人はまだ今まで通り、普通の恋人同士だっただろう。こうなってしまったけれど、奈々の俊に対する気持ちは変わらない。結果的に、俊には悪いことをしてしまうようで、複雑な気持ちになる。「俊、ごめんね。でも、俊のせいよ」と心の中で言って見ると、なんだか涙が流れそうになり、真理に気づかれないように、そっと目元を拭った。まっすぐ前を向いたままの真理が続ける。
「いろいろな考え方があっていいと思うけど、私の人生の中では、結婚で途中下車するという選択肢は必然ではないの。だから、私の存在意義に強い刺激を与えてくれるような人が現れでもしない限り、結婚は考えられないわ。でも、万が一、そんな人が現れたとしても、同じ空間で一緒に暮らすなんて鬱陶しいだけ。どちらにしろ、結婚という形には関心ないの。もっと自由でいたいのよ、私はね。塗り絵に色を当てはめるだけの人生なんてつまらないと思わない、奈々ちゃん」
 真理の話を聞いていて、奈々は自分が思っている以上に、強く結婚を意識していたことに気づく。両親の結婚がうまくいかなかったことが、奈々の結婚に対する思い入れを深めたのかもしれない。両親の離婚を経験した子供は、自身の結婚に冷めた見方をするようになる場合と、逆に理想的な結婚観を持つ場合があるのではないか。奈々の場合、後者だったことを真理が教えてくれた。
「真理さん、ありがとうございます。話を聞いていて、気づいたことがありました」
「そう。良かったわ」
なぜだか、あまり気持ちの入った言い方ではなかった。思わず真理の顔を見ると、何かに逡巡している様子が浮かんでいる。先ほどまでの強い目は喪われ、淋しい色に変わっていた。不思議に思っていると、真理が再び口を開いた。
「でもね、本当はそんな恰好いいもんじゃないの。今のは私の強がり。自分に自信がないのよ。いい夫婦になるとか、いい母親になる自信なんて全くないわ。どこかで、母と同じような過ちを犯してしまうんじゃないかという不安を抱えているの。愛された記憶がないから、恋をすることはできても、人を愛することに臆病になっちゃうのかもしれない。自由でありたいなんて、自由じゃないから言っているのよね。自分でもわかっているの」
 真理が自分の弱い部分を初めて見せた時だった。真理も、奈々とは違った意味で結婚を強く意識していたのだろうか。
「実はどうしようもないほど拘っているの。いつも、夫と子供のことだけを考えて、今日の夕飯のおかずは何にしようかとか、休みの日に家族でどこへ出かけようかみたいな、ありふれた幸せが頭の中を占めているんだけど…。でも、絶対女優を辞められないことも分かっているの」
「女優と平凡な結婚生活は両立できないんですか?」
「少なくとも、私にはできないわ」
 真理は自分の弱さを、意志の強さで乗り越えようと決意している。
「そうですか。真理さんの覚悟を聞いて、私も覚悟ができました」
「でも、奈々ちゃんは私と違うのだから、よく考えて自分らしく生きてね。私はきっと結婚はしないと思うけど、棺の中に入れる恋はしてきたし、これからもすると思う」
 棺の中に入れる恋と言ったときだけ、真理の感情の波の泡立ちが眉根に浮かんでいた。
 棺の中に入れる恋って、いったいどんな恋なのだろう。真理がこれまでどんな恋愛をしてきたか、奈々には伺い知ることができないけれど、恋多き女と自ら認める真理の恋は、きっとこんな恋だ。
 私と違って自由奔放で、情熱的で、大胆かつ精細な真理の恋は、過剰なほどに濃密な香りのするものに違いない。ひとつひとつ、一回限りの恋の炎を燃やし尽くすこと、燃え尽きることだけのために、一瞬一瞬に命を賭け、涙や吐息をも天真爛漫に味わい尽くす。その先にあるものなど、一顧だにしない。真理の場合、恋は恋のままで完結させなければならないのだろうから。そうでありながら、真理は朱い色をした恋に、魂を売ったりはしない。その恋が死の底のように深ければ深いほど、透明な光を湛えた怜悧な女優の目で、燃え尽きる自分の姿を客観的に見ている。だからと言って、奈々のような冷めた恋をしているわけでは決してない。
 そんな真理の恋の相手をする男は大変だ。生半可な気持ちで恋をすることを許さないからだ。時に剥き出しの神経に触れた時のような痛みを伴う、黒く深い海に共に落ちる覚悟がないと、真理との恋は成立しない。美しく、蠱惑的で濃い陰影のある真理に射すくめられ、惹かれる男は多いだろうけれど、その権利を得られる男は少ないはずだ。
 あくまで奈々の想像だけど、真理の生き様に近くで触れてきた奈々の確かな皮膚感で、この想像は当たっていると断言できる。
 真理の理不尽な過去は、湿り気をおびた夜の大気の中を風船のように揺らめきながら、絶望とその反対の希望を共に産んだ。嵐の中の船のように、もがき苦しんでいた奈々も覚悟が決まった。これまで、回り道ばかりしてきたけれど、真っ白な気持ちで前へ進むことができそうだ。
 ようやく俊に返事ができる。でも、それは俊が望んでいない答えだ。
 大体の男が、攻めには強いが守りは弱い。だから、突然思わぬ攻めに会うと、屁理屈を捏ねる。そして、日ごろ頭がいいと思っている男ほど、その自分が発してしまった屁理屈に執着してしまい、さらに深みに嵌る。そんな男の姿ほど見苦しいものはなく、女は冷めてしまう。これまでの付き合いで、俊にもそうしたところが見えている。それさえも可愛いなどと思えるのは恋愛初期の段階で、もはや二人はそういう時期を終わっている。だから、今回、俊が私の出した答えにどんな反応を示すのかはわからない。できれば、俊の醜い姿は見たくない。どうかかっこいい俊のままであってほしいと願う。なんだか、すごく自分勝手なようだけど、このことは奈々自身の問題であって、ある意味、俊は関係ないともいえる。だから、いっそうのこと、こんな私に愛想つかしてくれたほうが全然いいとも思う。俊には俊の人生があるのだから。

                 十二
真理の運転する車で、昭和記念公園を目指す。車内は赤と黒でまとまっていた。ハート型のハンドルには赤のハンドルカバーがかかり、シートは白だけど、足元のマットは赤と黒のチェック柄。その他の部分を見てもいかにも真理が好むと思われるデザインのものばかりだ。ティッシュカバーがミニーなのにはいささか驚きながらも、真理のうまい運転に身を任せていた。
 フロントガラス越しに見える風景が、徐々に都心に近づいていることを示す。すると、精巧な模型のようなビル群の向うの空に、飛行機が小さな尾を引きながら雲の中へ消えて行くのが見えた。母を亡くした後の、限りない喪失感から救ってくれたのも、こんな無機質な風景だったことを思い出す。
 車中では、真理が自分が出演した映画の裏話を聞かしてくれた。そのどれもが初めて聞く話で、奈々にはすごく面白かった。そういう話が一段落した時、
「突然なんだけどさあ、奈々ちゃん、お父さんのことどう思っているの?」
 本当に突然で、奈々は答えに窮してしまう。
しかも、今までずっと、監督という言葉を使っていたのに、突然お父さんという表現をしたことにも驚いていた。
 わが家ではなぜか、両親のことを呼ぶ時、パパママではなく、父母であった。恐らく、父の考えでそうなったのだろう。子供の頃はそれが嫌でしょうがなかった。学校へ行けば、ほとんどの子供がパパママで話しているので、父母は使いづらい。子供の作る狭い世界では、そんな些細な違いがいじめの材料になり得る。しかも、最初は親しい友人間で、仲が良いからこそ使われる、軽いからかいから始まったりする。しかし、それがあっという間にいじめへとエスカレートしてしまう。そんな怖さを知っていた奈々は、学校で友達と交わす会話の中ではずっとパパママで通した。
 今になって思うのは、父はやはり「父」がふさわしい。でも、母は絶対に「ママ」が似合うということだ。
「どう、って、どういう意味ですか?」
「今日の奈々ちゃんを見ていて思ったんだけど、まだお父さんのこと許していない?」
 難しい質問だった。まだ自分の中でも解決できていない問題だったから。
「う~ん、正直、自分でもわからないですね」
「まあ、いろいろあったから、無理もないとは思うけど」
 真理は、私たち家族の中で起きたほとんどのことを知っていた。
「だけど、嫌いじゃないんでしょ?」
「う~ん、それも難しい質問ですね。ただ、嫌いになった時期はもちろんありましたけど、今はそうでもないです」
「嫌いじゃないのね」
 曖昧な言い方をした奈々に、真理は、はっきりした答えを求めた。
「そう、ですね」
「わかったわ。じゃあ良かった。大丈夫よ、奈々ちゃん」
 何が大丈夫というのだろうか。
「他人から許せないことをされた時は、その人が嫌いになるわよね。そして、残るのは憎しみの感情だけ。でも、親子とか夫婦といった家族間の場合は、それでも嫌いにならない、というか嫌いになれないことがあるのよね。不思議よね。今奈々ちゃんは、嫌いじゃないと言ったわ。だから大丈夫と言ったの。家族間でのことで、もし本気で嫌いになってしまったら、他人に対するものより強い憎悪しか残らないはずだから」
 真理の心の中にある両親への思いは、今でも憎悪なのだろうか。それとも…。
 真理の言葉を聞きながら、奈々は今年行われた母の七回忌の法要の時のことを思いだしていた。奈々は仏壇の中の母の遺影を見ながら、改めて母の気持ちを考えていた。外に女をつくり、家を出て行った父親のことを、最後まで詰っていた母だったが、本当のところ、母はずっと父のことが好きだったのだと思うようになっていた。本当は好きで好きでたまらなかったからこそ、あんなふうに精神をおかしくしてしまったのだと気づいた。
 もともと母は天真爛漫の明るい人だった。誰にでも優しく接し、周りの人達に慕われていた。奈々は、長い間そう思っていた。でも、本当の母は繊細で今にも切れそうな神経を持っていた。誰にでも心を許しているようで、誰にも心を許していない母の孤高の精神は、海岸線の砂が波にさらわれるうように、少しずつ失われていった。母が落ちた深い海に、奈々は何度も立ち尽くした。
 奈々は、そんな母を苦しめ、追い詰めた父をずっと許すことができなかったけど、母の本心に思い至った時、自分の父に対する気持ちが少し変化したように思う。こうして奈々は、傷ついた記憶の層の中の言葉を、剥がしては、剥がしては、悲しみを薄めていった。
「そうですね。私たち親子は、そこまで酷くはないと思います」
「それから、奈々ちゃん誤解しているかもしれないから言うけど、お父さんは奈々ちゃんのことが大好きよ。もちろん、私のことも大好きなんだけどね」
「父が真理さんのことを大好きなのはわかっています。でも、私のことは…」
「だから、そこが誤解だっていうの。なんでそう思うの」
「父はきっと、子供自体が好きじやないと思うんです。そのせいか、子供の頃、父に優しくされた記憶がないですし、可愛がってもらったという記憶も…」
 夜の川のような過去を遡っても、父は奈々にとって身近な存在ではなかった。いつも家族のことではなく、抽象的な夢を追いかけていて、難しい顔をして、難しいことを考えているように思えた。削った氷のように不機嫌で、周りの人間を不可解な不安に陥れる。父の作る病巣が日常に根を張っていて、母も奈々も方向感覚を失ってしまった。頭がいいのだろうけれど、それは先回りして影を欺くような、ひねくれたところがあり、時に誰をも寄せ付けない毒性の高いものとなっていた。そんな傷ついた野獣のような精神の父に、母は献身的なまでに愛の肥料を注いだ。それなのに、父の乾いた心を湿らせることはできなかった。
「確かに、監督はお父さんとしての愛情表現は苦手だったかもしれないわね。映画監督として、役者の私たちにはもの凄くきめ細やかな表現を要求するのにね。でも、そこは大目にみてあげて。私は、お父さんからいつも奈々ちゃんのことを聞かされていたのよ。離れて暮らすようになってからは余計に奈々ちゃんのことが心配だったようで、私が奈々ちゃんと仲が良かったのを知っていたお父さんは何かにつけて私から奈々ちゃんのことを聞きたがっていた。それに、奈々ちゃんのことだけじやなくて、お母様のこともずっと心配していたのよ、奈々ちゃん。離婚の原因も、お母様のご病気も、すべて自分に責任があると、監督は自分を責めていた。でもね、あの不倫報道は間違いだったのよ。記者が推測だけででおもしろおかしく書いたもの。監督はああいう人だから肯定も否定もしなかったけど、監督の近くにいた人はみんなわかっていたの」
 父の不倫報道は間違いだと、真理は言った。真理のいうことだから、それが事実であると思いたい。でも、記事になったものが父の浮気のすべてではないことを奈々は知っている。それに肯定も否定もしないというのは卑怯だ。母からすれば、疑わしい行動をとった時点で裏切りだ。だから、父がどんな言葉を使って説明しようと、母は信じようとは思わなかっただろう。
「それと、これだけは言っておきたいの。監督は今でもお母様のことを愛しているわよ奈々ちゃん」
 真理は奈々の立場にたった時だけ、父をお父さんといい、真理自身の立場で話す時は監督と言っていることがわかった。
 真理は、母と同様に父も、今でも母のことを愛しているという。きっと本当のことなのであろう。母は憎しみと同じ分だけ父を愛した。愛していたからこそ、母は針の先ほどの毒を父に塗り続けた。気づいてほしかった母。気づかぬふりをした父。奈々は、胸の奥で歯ぎしりをする。
 父は?、父はきっと浮気はしながらも、私と同じように、平坦に、でもずっと母を愛していたのだろう。父には、そういう愛し方しかできない。
 そこまで考えて、今の今まで自分は大きな勘違いをしていたことに気づく。それは、母が不幸だったと勝手に思い込んでいたことだ。
 生きていく上で、一番大切なものは何だろう。もちろん、それは人それぞれだろう。でも、案外それは、本人でさえ気づかないものではないか。一生気づかない人もいるかもしれない。少なくとも、今の奈々には見えていない。まだわかっていない。いつかわかる時がくるのかさえもわからない。
 真理は気づいている。理解している。そのために生きている。そして、その一番大切なものの最高の瞬間を永遠にすることが、自分が生きた証となることも知っている。そのために、強い意志を持って、出来得るすべての準備と努力をしている。だから、きっとそれは成し遂げられるだろう。
 父は?、わからない。現時点の父が何を一番大切思っているかわからないといったほうが正確かもしれない。いずれにしても、母が一番大切に思っていたものとは違うはずだ。人それぞれなのだから、夫婦であっても違うことはあり得る。だから、それをもっては何も評価できない。しかし、父は、母にとって何が一番大切だったかをわかろうとしたのだろうか。知ろうと努力したのだろうか。そこがわからない。
 そして母は?
 母は早くからわかっていた。自分にとって一番大切なものを知っていた。それは、父を愛すること。私を愛すること。つまり家族を愛すること。それこそが、母にとってはすべてだった。だからこそ苦しんだ。辛い思いもした。でも、母には、間違いなく父を、私を世界の何よりも誰よりも愛した瞬間があった。真理の言葉を借りれば、その時の母の最高の愛は永遠となって、少なくとも私や父の中に残った。しかも、母はその後も苦しみながら、その一番大切なものを守ろうとした。さらに、母なりに、父にとって一番大切なものを理解しようと一生懸命に努力した。だから、母は決して不幸などではなかった。幸せな人生だったのだ。しっかりと生きた証を残した。母は私よりずっと強い人だった。私、お母さんのこと何もわかっていなかった。ごめんね、お母さん。
 今回初めて真理とじっくり話すことができて、自分の知らない父がいっぱいいることに気づかされた。今まで奈々は限られた父の姿しか見ていなかったのかもしれない。奈々自身も最近になって父と話す機会が増え、へぇー、こんなところがあったんだとか、こんな風に考えるんだと驚くことがあり、奈々の頑なだった心も少し縮みつつあったところだった。そんな思いに浸っている奈々に対し、「今日だって、奈々ちゃんが来る前、私が奈々ちゃんの話をしだしたら、監督ずっと嬉しそうな顔をするんだもん。嫌になっちゃうわ。だから、残念ながら、監督は私のことがが好きな以上に奈々ちゃんのことが大好きなのよ」
「そうでしょうか…」
「奈々ちゃん、もっと感情出していいんじゃない」
「私も愛情表現下手なんです」
「駄目、奈々ちゃん。そんなこと言ってたら、幸せなんてつかめないわよ。何なのよ、監督も奈々ちゃんも」
 思いのほか強い口調だった。真理のほうを向くと、サングラスの下に見える目に、うっすら涙が浮かんでいるのが見えた。私のために本気で怒ってくれている。
「私はね、監督にはいつも言っているの。もっとちゃんと奈々ちゃんと向き合ってくださいって。奈々ちゃんもそう。私は愛情表現が下手だなんて、そんなことのせいにしないで。もっと真剣に生きて」
 胸をつかれた。自分の目からも涙が零れ落ちる。真理の真剣な思いを受け止めることができた。
「真理さん、ありがとうございます。目が覚めました」

                   十三
 真理の運転する車が西立川に近づくと、街はとたんによそ行きの顔を見せ、都会の孤独を浮き彫りにする。人々の思いが絡み合い、、もつれ合って漂い、波打っている。車の中まで聞こえてくる喧騒に、感情がうごめく。まだ大きな空隙を抱えたままの奈々の頭の中では、遠い日の影絵が浮かんでは消えていた。悲しくないなんていったら嘘になるけれど、両手を強く握りしめて必死に堪える。
 駅の近くにある昭和記念公園の駐車場に車を入れ、二人で入口へ向かう。入園料を払い、中へと入ると、二人と同じように花見が目的と思われるカップルや家族づれが歩いていた。朝は冷えたが、快晴だったこともあり、温度は上がっており、絶好の花見日和となっていた。
 昭和記念公園は立川市と昭島市をまたにかけた、広大な国営公園である。広さは東京ドームの三十九倍もあるという。森のゾーン、広場のゾーン、水のゾーンなど五つのゾーンに分かれている。奈々が車中でスマホを使い調べたところによると、公園内の桜の名所は二か所あるという。一つは、公園のほぼ中央を北から南に流れている残堀川沿いの桜並木であり、もう一か所は、公園中央にあるみんなの原っぱという場所にある桜の園のというところらしい。昨年ひとりで来た時は、残堀川沿いを歩いた記憶がある。園内には三十一品種、千五百本の桜が植えてあるという。今回は桜の園に行こうということで、入り口でもらった公園のミニマップを見ながら進む。とはいえ、園内が広いため、なかなか着かない。
「なんか遠いのね」
 普段あまり歩きなれていない真理が、少しうんざりしたように言う。
「そうですね。でも、もうすぐですから。何か歌でも歌いますか」
 真理を励まそうと言ってみる。
「いやよ。奈々ちゃんが歌ってくれるのならいいけど」
「そうですよね。私も恥ずかしくって歌えないんですけどね」
 そんなことを言っていたら、少し先にけやきの大木が見えた。
「あっ、あれがシンボルの大けやきじゃないですか。それに桜も見えてきましたよ」
 奈々が指した方向を見て、真理もテンションを上げる。
「本当だ。きれいね」
 遠くから見ると、神の強い意志が作り上げた群青色の空から地上に降りてきた花の雲が、庭園をすっぽり覆っているように見える。決して鮮やかな「ピンク」色ではないけれど、繊細で淡い「桜色」に染まっている。まるで、ミルクを煮詰めた海のようだ。
 入口から歩いて、十五分ほどかかっていた。平日の昼間のせいか、花見の客はそう多くはなかったが、それでもビニールシートを敷き、その上で花見をしているグループが、あちこちに見られた。二人は、そうしたグループから少し離れたベンチに腰掛けた。
 売店を見つけた奈々が、真理に言う。
「真理さん、ソフトクリーム食べません?」「いいわね」
「じゃあ、待っていてください。私、買ってきます」
「うん、お願い」 
 真理を残して、売店に向かう。なんだか幸せな気分だった。大好きな姉と桜を見に来て、その姉のためにソフトクリームを買いに行く。そんな、他愛もない楽しさだった。奈々には兄弟姉妹がいない。だから、これまで何かあっても心を許して相談できる相手はいなかった。いつもひとりぼっちのような感覚だった。子供の頃は母が相談相手だったけれど、母が精神的に追い詰められてからは、子供の自分が母の相談相手になっていた。父は相談できる相手ではなかったし、それに、途中から父は遠くへ行ってしまったのだから。
 二人分のソフトクリームを手に持ち、戻ろうとした奈々の目に、サングラスを外し、一人桜を見つめる真理の姿が映った。ベンチの上で微動だにしないその姿は、うっとりするほど美しく、まるで魔法によって絵葉書の中の風景の中に閉じ込められてしまったかのようでもあった。悲し気でもあり、寂し気でもある表情を顔に貼りつけながらも、意志の強さと繊細さを感じさせる眼差しの奥では、ずっと答えのない問いをし続けているに違いない。真理の美しさの奥にある陰の部分が胸を打つ。やすやすと自分を裏切った肉親たちへの氷のような憎しみを、真理はどこに埋めてきたのだろうか。
 しばらく見とれていた奈々だが、うっかり瞬きをしたら、真理が消えてしまいそうで怖くなり、急いで真理のもとへ向かった。 
「お待たせしました真理さん、ソフトです」
 そう言って、真理の顔の前にソフトクリームを指し出す。
「ああ、ありがとう」
 二人並んでソフトクリームを食べながら、桜を愛でる。低い枝を切っていないので、目の高さまで垂れ下がっている枝もあり、花に埋もれてしまう感覚がする。
「きれいですね」
 今度は奈々が言ってみる。
「うん」
 真理はそう答えるだけだった。昨日降った雨が、桜をいっそう艶やかにしていた。時折吹く風に揺さぶられ、桜の花びらが渦を巻きながら舞い落ち、緑の芝生をうっすら桜色に染める。季節は少しづつ動いているのだろう。
 ひとつひとつの花びらは可憐なのに、満開となった桜には、辺りを圧倒する堂々とした美しさがある。奈々はそんな桜が大好きだった母のことを思い出していた。そんなに広くもない私たち家族の家の庭に、実家にあった桜の木の一部を移して植えた。母は毎年誰よりも、その桜が咲くのを待ち望んでいた。精神に破たんをきたしてからも、ひとりでじっと桜の花を見ていた。
 だから、母の葬儀の日、出棺前の最後のお別れの時に、奈々は手を尽くして集めた桜の花びらを母の顔の周囲に敷き詰めた。すると、真っ白だった母の頬がほんのり桜色に変わり、優雅に微笑んでいるようにさえ見えた。それは、これまで奈々が見てきた母の顔の中で、最も美しいものであった。長い間、あらゆることと戦い続けた母が、最期に見せた矜持に奈々の胸は震えた。
 奈々にとって、幸せと不幸せは、いつもこんな風に背中合わせにあった。悲しみの沼に落ちた奈々は、真理にもっと自分のほうを向いてほしくなった。
「ねえ、真理さん」
「うん」
 真理は相変わらず奈々を見ず、桜を見つめたまま答える。
「真理さん。真理さんには、桜にまつわる思い出ってあります?」
 真理が奈々のほうを向いた。
「桜にまつわる思い出かあ」
 そういって、また黙ってしまった。しばらくして、真理はまだ桜を見ながら言う。
「いっぱいあるような、何もないような。桜が咲く四月って、私にはいい思い出ってないのよね。桜は華やかで、心をウキウキさせてくれることもあるけれど、その華やかさがかえって辛いと思えることもあるのよ」
 真理には辛い思い出のほうが多かったのかもしれない。これ以上聞いてはいけないと、言い聞かせた。
「そうですね」
「でも、最近ようやく、桜が舞う中に自分を埋めていると、なんか救われるような気持になってきたの。だから、今日も、奈々ちゃんと一緒に桜を見たかったの」
 その時、再び風が吹き、桜の花びらが雪のように、触れ合う音をたてながら降ってきた。
 何も言わずに立ち上がった真理が、あたかも前から決まっていたことのように桜吹雪の中に吸い込まれて行く。突然の出来事に、奈々はただ眺めるしかない。  
 顔をあげながら、落ちてくる花びらを受け止めるように広げた両手を肩の高さに保ち、心持ち身体を反らした真理は、桜吹雪の真ん中で、身体を何度も何度も回転させながら、優美に舞い、踊る。白のカットソーの上に薄いピンク色のジャケットを纏った真理は、次第に渦巻く花びらと一体化し、まるで桜の精のように無窮の天で微笑んでいた。風がやみ、訪れた静寂の中で真理は、ミュージカル女優が舞台の上で観客にお辞儀をするように、奈々に向かって深々と頭を下げた。奈々は、胸の前の手を合わせるように小さく叩いた。何事もなかったように、奈々の隣に座った真理に、
「きれいでした」
 と言った奈々。
「ありがと」 
 まっすぐ前を向いたまま、真理が答える。
真理の意外な行動には、いつも驚かされる。
二人はまたしばらく黙って桜を見ていた。静かな時間が流れた。やがて、真理が奈々の横顔を見ながら言った。
「そうやって、思いつめた表情をして、一点を見つめているところ、監督に似ていて素敵よ」
 奈々の頭の中では、両親と自分のこれまでの出来事が、走馬灯のように流れていた。暗がりに飲み込まれていた奈々の前に、柔らかな真理の笑顔があった。我に戻った奈々は、思わず真理のほうを振り向く。
「えっ、そうですか。でも、ありがとうございます」
 一瞬、どう答えていいかわからなかったが、素直な気持ちで答えた。真理の思いがけない言葉は、奈々の気持ちを動かした。これまで、父に似ている自分がずっと嫌だったけど、似ている自分を少しだけ好きになれた瞬間だった。
「奈々ちゃん、もっと自分のことを好きになって」
「えっ」
 自分というのが、真理のことを指しているのか、奈々のことを指しているのかわからなかったのである。
「奈々ちゃんって、自分のこと、無理矢理嫌いになろうとしているように見える時があるもの」
 無理矢理という言葉に驚きはしたが、思い当たる節がないわけではない。奈々に向けられた言葉だと理解した。
「私、自信ないんですよね」
「自信?」
 返事が意外だったのか、少しだけ間をあけた後、続けた。
「さっき話したように、私だって自信ないところはあるわ。でも、逆に、奈々ちゃんだって、自分のすべてに自信がないわけじゃないでしょ」
 真理が言っていることは正しいと思う。でも、でも…。真理の言うようにすべてに自信がないわけじゃないけれど、自信がないところが多いせいか、どうしても自分のマイナス面に心が向かってしまう。マイナス面の陰に隠れようとしてしまう。そのほうが安心できるのかもしれない。自分で自分を傷つけるほうが、他人から傷つけられるより辛くないと知っているから。そんな自分のやっかいな性格が答えを出せない。何も答えない奈々に、真理が続ける。
「でもね、自信って、文字通り自分を信じることよね。だから、そのためにもまず自分のことを好きになる必要があると思うの。自分を好きになれれば、いつか必ず自分に自信が持てるようになれると思うよ」
「ああ、そんな風に思ったことなかったです」
 新たな発見だった。容姿も含め、自分に自信がない。だから、自分のことが嫌いだった。逆に言えば、真理の言うように、自分を好きになれば、その先には自信を持てる自分がいるのかもしれない。自分に自信が持てるようになるためには、もちろん、相当の努力も必要だろう。でも、好きとか嫌いという感情は、案外容易に動く心の働きではないか。
 人はちょっとしたことで好きになったり嫌いになったりする。たとえば、友人の何気ない言動で嫌いになってしまったり、逆にあまり好きではなかった人にさりげなく優しくしてもらい好きになることもある。事実、ちょっと前に真理に「素敵よ」と言われただけで、自分のことを少しだけ好きになれたではないか。自分を好きになれば、いつか自分も真理のようにキラキラと輝けるのだろうか。
「奈々ちゃんは自分で気づいてないかもしれないけれど、他の人にはない魅力をいっぱい持っているのよ。私だって敵わないところがあるんだから」
 真理を超える部分が自分にあるというのは買い被りだと思いながらも嬉しかった。他の人はともかく、真理に褒められると、それだけで奈々の心は高ぶる。
「さっき奈々ちゃんが最近お母様に似てきたって、私言ったでしょ。奈々ちゃんに自覚はないみたいだけど、奈々ちゃん最近とっても可愛らしくなったわよ。まるでお母様みたいに。残念ながら、私にはその可愛らしさはないわ」
 私が可愛らしい?本当だろうか。なんだか甘酸っぱい気持ちになる。でも、どんなところが可愛らしいんですかなんて、恥ずかしくて自分からは聞けない。そんな奈々の気持ちがわかるのだろう。真理が続けた。
「どこがって思っているでしょう。いっぱいあるけれど、たとえば今みたいに嬉しいことがあると、くしゃくしゃってなっちゃうところ」
 くしゃくしゃって何?と思いながらも、案外的を射ているとも思う。奈々は顔を赤らめ下を向き、まさしくくしゃくしゃになる。
 真理はどんな役でもこなす演技派の女優でもある。だから、可愛らしい女の子の役も、見事なまでに演じ切る。でも、素の真理は見た目は可愛らしいけれど、凛とした美しさを持つ女性だ。
「監督はシャイなところがあるから、本人の前では言わないでしょうけど、私にはしょっちゅう言っているわよ。奈々って、ああ見えて母親に似て結構可愛らしいところあるんだよってね」
 ああ見えてという部分に父らしい照れが感じられるけど、初めて聞く父の思わぬ言葉に、奈々は心底動揺した。突然空中に浮かべられ、身体中がウズウズするような変な感覚に陥る。
 先ほど父に自分が昔から母に似ていたと言われた時、奈々が思い浮かべたのは、何事にもグズグズと考え、意思決定がなかなかできないところかと思った。確かにそこは母に似ている。俊とのことだって、なかなか決められないでいたのだから。父の頭にあるのは、どうせそんな母から受け継いだマイナス面を指しているに違いないと思っていた。
 そんな父が自分のことを可愛らしいなどと言ったと聞くと、嬉しいような嬉しくないような、なんとも気恥ずかしい気持ちになる。ちょっと前まで、少しは自分のことを褒めてほしいと思っていたくせに、いざ褒められると、父には今まで通り自分の欠点だけを見ていてほしいなどと、自分でも訳のわからぬ感情に支配されてしまう。自己矛盾の激しさに、自分でも唖然とする。でも、でも、少し嬉しい。
「何ニヤニヤしているのよ。まあいいわ。でも、私と奈々ちゃんて、性格似ていると思わない?」
 それは奈々も前から感じていたことだ。一見、竹を割ったような、男っぽい性格に見える。でも、心の中は細く、ぎざぎざに尖った神経が張り巡らされていて、傷つきやすい。時に放つ、きつい印象のせいで、周りから誤解を受けやすい。集中力が高く、物事を究めようとする。人を見る目に優れ、付き合う人を間違えない。などなど、どこを見ても奈々と似ている。だって、あなたは私のお姉ちゃんだから。
「私もそう思っていました」
「じゃあ、これからも仲良くね」
「はい」
 はらはらと舞い降りている桜のはなびらが真理の肩にも数枚落ちていた。再び二人は、ただ黙って桜を見る。静寂が空気のように二人を包んでいる。優しい沈黙が支配する中で、奈々はまだ形になっていない幸せをつかもうと、指先に力をいれる。
 体温を感じる距離に座る真理が、実の姉かと思うと、世界が浮き立って見える。でも、奈々の真理に対する憧憬は、ちょっと恋に似た感情でもあったので、その分だけ複雑でもあった。いつか「お姉ちゃん」と声に出して呼べる時が来るのだろうか。
 いつの間にか、他の花見客は少なくなり、残された二人だけが桜の海に浮かんでいるような幻覚を見た。奈々は、真理が愛おしくなり、恋人たちがするように真理の肩に自分の顔を預けた。真理は黙ってそれを受け入れ、しばらくして、反対の手でその顔を優しく包んでくれた。
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