第4話 父と母

文字数 8,351文字

                    七
「ねえ、監督、奈々ちゃん、最近お母様に似てきたと思いません。顔は以前にも増して監督に似てきたと思うんですけど。話し方とか、声とか、全体の雰囲気とかがお母様に似てきたように思うんですけど、どう思います、監督」
 父の秘蔵っ子でもあった真理は、わが家によく遊びに来ていた。母も、真理のことは気に入っていたようで、それを歓迎していた。だから、真理は母のこともよく知っている。
「う~ん、というか、奈々は子供の頃から妻に似ていたよ。性格もね」
 そう言った父の顔を、奈々は思わず見上げた。父が自分のことをそう思っていたというのは意外だった。顔は誰もが父に似ていると言うし、自分でも子供の頃からそう思っていた。それがずっと嫌でもあった。でも、それだけではなく、性格も自分では父に似ていると思っていたのである。
「私の性格が母に似ているって、本当にそう思っているの」
 自然に挑むような口調になっている自分に気づく。
「嘘なんか言ってもしょうがないだろう」
 どうとらえたらいいのだろうか。自分でも気づかないところが母に似ているというのだろうか。もちろん、血を分けた母子であるのだから、全く似ていないといったら嘘になる。どこかが似ていても不思議はないけれど、やはり自分の性格は父のほうに似ていると思う。もういない母のことが懐かしく蘇ってきた。
 母は横浜にある大きな総合病院の娘として生まれた。上には二人の兄がいる。それぞれ、祖父が経営する病院で、副医院長として、院長である祖父を支えている。母は唯一の女の子ということもあって祖父母の深い愛情に包まれて育った。特に祖父は母のことが可愛くてしかたがなかったようだ。いわゆるお嬢様として、世間一般から見ればやはり甘やかされて育ったことと思う。その分、わがままな性格だったに違いない。奈々が知っている母も、十分にわがままだったから。その点からしても、自分は母とは違う。
 一方、父は地方都市からさらに奥に入った小さな町の小さな工務店の家に生まれた。職人肌で、しかもかなりの変わり者だったという祖父は、自分が嫌な仕事はすべて断ってしまうことから、収入が少なく、貧しい暮らしぶりだったという。家計を支えていたのは、祖母で、いつも複数のパートを掛け持ちしていたらしい。父が大学まで進学できたのは、多分にこの祖母の支えがあったからだと思う。ただ、父は頭は良かったので、高校も大学も公立に進学している。しかも、大学入学にあたってはそれに加え、試験で奨学金の受給が決まり、難しいと思われた進学への道を自ら開いた形だ。
 そんな、全く違う環境で生活していた父と母がどうして出会うことになったのか。それは、ただの偶然であった。それを運命といえば、いえなくもないけれど。
 母の女子大時代の友人の父親が映画配給会社の役員をやっていたことから、映画製作の現場を見学できるということになり、その友人と母が見に行ったところに、父がいた。当時、助監督だった父は、役員からの紹介ということで、二人の世話役をしたのであるが、その時に、父は母に一目惚れした。清楚で、上品で、美しく、しかも控え目な母に、一瞬で恋をしたと、奈々は子供の頃に父から聞かされた覚えがある。映画の助監督なので、何人もの女優を見ていて、綺麗な女性はもちろん多く知っていたはずであるが、母には全く別の美しさを感じたようである。奈々もその頃の母の写真を見たことがあるが、娘の奈々ですら、その美しくかつ愛らしさに目を奪われた。もちろん、自分の母親として、ずっと一緒に過ごした母も十分に美しかったけれど。
卵型の輪郭の顔に、大きくてまん丸な目が並んでいる。笑うと、その目が横に細く広がり、優しい顔になる。鼻も高すぎず、奈々の鼻のような自己主張がない。口は小さめで、可愛らしい。いかにも女性らしい美しさと色気を持ちながら、幼女のように明るく天真爛漫なところがあり、接した人をみな惹きつけてしまう。でも、父の心をわしづかみにしたのは、瑞々しく純真な心を映した、母の際立った上品さであったらしい。どちらかといえば、貧しい家庭で生まれ育った父にとっては、母の生まれ持った品のある美しさは眩しかったのかもしれない。だから、父が母に恋をしたのはわかる。でも、母がなぜ結婚相手に父を選んだのかが、子供の頃の奈々には謎だった。だから、一度思い切って母にその理由を聞いたことがある。すると、母は「成り行きよ」とだけ答えた。
 しかし、それは嘘だ。母が「成り行き」なんかで結婚を決める人間ではないことは、奈々がよく知っている。後に、祖父母から聞いた話と、多少の奈々の推測も併せて考えると、きっとこんなことだった。
 母が恋に落ちたのは、今まで自分の周りにはまったくいないタイプの男と出会ってしまったからだ。つまり、父との出会いである。寡黙で、まるで哲学者のように、いつも現実を超えた遠くを見ている。しかし、こと映画に関しては、熱くいつまでも語る。自分から母にアプローチしておきながら、どこか醒めていて、母を見ていない。そんな、自分が今まで会ったこともない御しがたい「男」に、母が強い興味を抱いたことは十分に想像がつく。
 恋は時に本人たちの意思を超えて、「状況」のうねりを作り、飲み込もうとする。同時に、恋は愛と違って、人を美しくもするが、エゴイストにもする。
 二人の恋が、というより母の恋を燃え上がらせてせてしまったのは、祖父母の反対だった。母を溺愛していた祖父母は、それまで母の願いは全て叶えてきた。しかし、そんな祖父母が、二人の恋愛だけは決して認めようとはしなかった。
 その当時、母はまだ大学の四年生だった。一方の父は、八つ年上で三十歳の映画の助監督。祖父母からすれば、不安定極まりない職業にしか映らない。しかも、父の家と母の家では、家柄が違いすぎる。その上、母は、当時、学歴も家柄も申し分のない祖父の経営する病院のメインバンクの頭取の次男と付き合っていた。いわば許嫁のような存在だ。だから、祖父母が反対したのは当然のことだった。
 にも関わらず、自らを黒い渦に巻き込むような「状況」に、母の心は奪われてしまう。むしろ、そんな状況を楽しんでいたのかもしれない。だから、反対が強ければ強いほど、その深みへと自らを落としてしまった。歪曲された母の恋情は、もう誰にも止められなかった。
 恋のゴールは必ずしも結婚ではないが、突っ走っていた母にとっては、結婚というゴールしか選択肢がなかった。そこには、祖父母に対する意地のようなものも含まれていたに違いない。結婚しなければならなかったのである。自尊心の強い母は、恋に破れて祖父母のもとに戻ることなどありえないこと。わがままに育った分、どこまでも我を通そうとする、母のある種子供じみた部分でもある。
 また、母は、結婚すれば、あの御しがたい父も母の思い通りの男になると、冷静に考えていたはずだ。子供の頃からモテた母は、どんな男でも、結局は自分の思うようになると思っていた節がある。しかし、母のその思惑は見事に外れることになる。
 母の結婚は、「成り行き」ではなく、母が自らの強い意志で突き進めた結果としてある。恐らく恋愛に興味はあっても、結婚には関心の薄い父は、それに乗っただけ。なので、父にとっては、母との結婚は「成り行き」だったといえるかもしれない。
 母の卒業を待って行われた二人の結婚式は、祖父母も含む周りの人達の反対を押し切って行われたため、親しい友人数人が集まっただけの寂しいものだったという。それでも母は、まったく後悔していないという。自分の思いを成し遂げたのだから、それはそうだろう。
 それでも、結婚生活はうまくいっていたらしい。母は甲斐甲斐しく、父の世話をしていたようだ。祖父母とは、その後も音信不通状態が続いていたが、孫の奈々が産まれたことで事態は変わった。母が祖父に手紙で奈々の誕生を知らせたのである。もともと祖父母は娘である母のことが憎かったわけでもなく、嫌いになったわけでもなく、ただ心配していただけだ。祖父母のほうも関係修復のきっかけを探していたところだったのだろう。だから、すぐに反応があった。祖母から母のもとへ連絡が入ったのを契機に、徐々にわだかまりは解け、気がつけば以前と変わらぬ関係に戻っていた。母が祖父に手紙を出したのは、なんだかんだといっても、実家の経済力に頼りたい母がとった、したたかな行動のひとつである。
 祖父母の経済的支援を受けられるようになったことで、結婚生活は安定していた。それほど豊かではないけれど、穏やかで幸せな生活が続いていた。父の仕事も順調で、幸いにも助監督から監督になった。そして、三倉真理を起用した監督二作目の作品が大ヒットとなった。さらに、その後の作品も次々ヒットを生み、監督としての評価が高まると同時に、世間的にも知られる人物となった。
 しかし、父と母の歯車は、二人も気付かぬうちに少しずつ嚙み合わなくなっていて、家族の土台を蝕み始めていたのだ。
 順調な仕事は、収入を大幅に増やし、生活環境を大きく変えた。もともと裕福な家庭に育った母は、特に変わることはなかった。だが、父への影響は大きかった。監督として有名になると、映画関連の仕事だけではなく、映画以外の執筆活動やTV出演などの仕事もするようになり、交際範囲も広がっていった父。その過程で、付き合い上使わなければらならないお金が増えたことは理解できるが、同時に父にとっては使えるお金が増えたことにもなったのだろう。そのことが、父がそれまで抑圧していた欲望に火をつけてしまった。砂を吐く貝のように、欲望に駆られてしまったのだ。最初それは、遊興費に使われている程度だったが、いつしかその欲望の対象は女に移る。しかも、その相手が玄人から素人になり、やがて数人の女優と浮名を流すまでに発展していった。ちょうどこの頃から父の作る映画が難解なものとなっていて、世間から厳しい批判も受けるようになっていた。そんなことが、父の歪んだ性格をさらに歪め、父は自分を壊すように乱れた生活の中へまっしぐらに進んでいった。当然ながら、わが家は崩壊に向っていった。
 母は父を激しく責め、夫婦喧嘩が絶えなくなっていたと思われる。しかし、おそらく二人で話し合ったのだろう、奈々の前では、決して喧嘩する姿を見せなかったため、実は奈々は二人の関係がそれほど深刻だとは思っていなかったのだった。その実態を奈々が知ったのは、ある夜の出来事であった。
 午前二時頃に珍しくトイレに起きた奈々が、階段を降りて一階に着いた時、応接間の電気が点いていることに気づいた。中からは、母の感情的な声が聞こえ、両親が言い争いをしていると理解する。そのまま素通りしようかと思ったが、気がついたら、応接間のドアに耳を当てていた。
「あなたは、私たちがどんな思いで暮らしてるのかわかっているの。誰かを不幸にしておきながら、自分は幸せになれるなんて思わないでよね。いい加減、気づいてよ、自分のしていることに」
 おそらく、これまでも繰り返し父に向けられた母の怒りの言葉に違いなかった。父が何か答えているが、声が低く小さいため聞き取れない。母のすすり泣く声だけが聞こえる。
 しばらくして、父が何か言い、それに母が呆れたような声をあげる。
「それで、あなたは奈々のことをどう思っているの。奈々をかわいそうだと思ったことないの」
 父が自分のことをどう思っているかということについては、奈々自身も、父に一番聞きたいことだった。父が答えたが、やはり何も聞き取れない。父の発する声が低い音となって伝わってくるだけだ。
「もういいわ。お願いだから、いっそのこと、私を殺して」
 ヒステリックではあるけれど、本当にそう願っているような母の切迫した声色に、奈々の心は凍る。
「そんなことを言うのはやめなさい」
 珍しく張り上げた父の大声は、ドア越しに奈々の耳にもはっきり聞こえた。
「何よ、偉そうに。そんな勇気もないんだったら、さっさと離婚してください」
 感情を押し殺した母の声は、今でも何かの折に、奈々の耳に響く。
 永遠に続きそうな両親の激しい言い争いに初めて触れ、心臓に錐で穴を開けられたような痛みが走る。自分には何もできないという空虚な気持ちと、自分が生まれてこなければよかったのではないかという底知れぬ悔いが胸を濡らす。いたたまれなくなった奈々は、急いでトイレを済ませ、二階の自室に戻った。
 心を締め付ける息苦しさに、なかなか寝付けなかったが、知らぬ間に入った眠りの中で、奈々は悪夢にうなされた。
 寂寞とした冬の浜辺に、一人立つ奈々。地平線の彼方まで広がる透明な紺の夜空から、酸のような雨が降り、一枚の銀色の布となる。夜空と接する無表情な海の裂け目からは、無数の棘のような白波が押し寄せてきて、奈々を飲み込み泡となって消える。奈々は夢の中で、声にならない悲鳴で身体を震わせた。
 やがて父は家に帰らくなり、何日も何日も家を空けてしまうのだった。何不自由なく育ち、苦労らしきものの経験のなかった母は、打たれ弱かった。塞ぎ込んだり、逆に泣き叫んだりするようになり、精神的に追い込まれていった。そこには奈々の知らない母がいた。母はたぶん自分がそうであったように、奈々をまるでペットのように可愛がった。ベタベタといった言葉が似あう、まとわりつくような愛情表現に、子供ながらに鬱陶しく思ったこともある。そんな母が、自分を裏切った夫の顔に奈々が似てくるにつれ、「あんたはあの人に似ているから嫌い」とまで言うようになっていた。
 奈々は父から可愛がってもらった記憶はほとんどない。もともと子供が嫌いだったのか、それとも子供との接し方がわからなかったのかはわからないけれど、父は奈々をあまり側に寄せ付けなかった。奈々が小さかった頃に、家族で遊園地や旅行に出かけたことがあり、その時の写真の一部が残っているが、そのどれを見ても、父は楽しそうな顔をしていない。父に抱っこされた記憶もない。だから、奈々は父が帰って来なくなっても、正直なところ、それほど寂しいとは思わなかったのである。だからといって、奈々は父が嫌いではなかった。
 しかし、母の心はどんどん荒んでいった。愛する夫に裏切られたということだけでなく、大事に大事に育てられ、自尊心が人一倍強かった母は、自分の存在価値まで否定されたように思えたのだろう。泣きじゃくる母を奈々が抱きしめながら、「お母さん、私がいるから大丈夫よ」と言ったこともある。心をすり減らし、ボロボロになった母を見かねた祖父母が、二人を実家に引き取った。それからほどなく、父と母は離婚した。
 母から離婚を告げられた時、奈々は「そう、わかった」とだけ言った。二人の間の関係が決定的なことは、子供の奈々から見てもわかっていたので、そう言うしかなかった。そんな奈々を抱きしめながら、「ごめんね」と母は言った。奈々は無言で首を横に振り、自分の部屋へ走るように戻った。
 ベッド横の冷たい壁に凭れた奈々の目からは止めどなく涙が流れた。あの夫婦喧嘩を聞いてしまった時から覚悟していた。わかっていた。わかっていたはずなのに、悲しみの重さをわかっていなかった。心の襞に爪を立て、思い切り傷つけてみる。しかし、流れ出た生ぬるい血が胸にせりあがってくるだけだ。
 しばらくじっとしていたが、やがて気持ちを吹っ切るために、可笑しくもないのに笑ってみるがうまくいかない。あの時奈々は、生きていくためには時に自分が大事に思うものも捨てなければならないことを理解した。いい意味でも悪い意味でも「諦める」ということを覚えた。
 以来、奈々は、以前に増して感情を表に出すことが少なくなった。
 離婚した母は実家の姓の、大谷楓となった。奈々も松本奈々から大谷奈々へと変わった。離婚しても夫の姓を名乗り続けることはできる。母はそうしたかったようだ。しかし、結局祖父母に反対され、旧姓に戻ったのである。あれほど憎んでいたように見える父の姓に、母がなぜこだわったのか、奈々にはわからなかった。が、そこには、きっと奈々には測り知れない母の複雑な思いがあったのだろう。今の奈々には、なんとなくわかるような気がするけれど。離婚した父が、真理を再度主役にした映画を撮り、脚光を浴びることとなったのは、この頃のことである。
 さらにその二年後に母は胆管癌を患い、帰らぬ人となった。享年三十九歳だった。
 母の病状は一進一退を続けていた。薬がだんだん効かなくなり、強いものへと変わっていたが、依然として母は呻き苦しんだ。そんな中、久しぶりに母の飲む薬が少し効き、突然静寂が訪れたことがある。音のない世界で、奈々は自分の中に潜む悲しみの正体に気付き呆然とする。
 それでも自分の気持ちを奮い立たせ、毎日病院へ通った。祖父や伯父たちの治療と、祖母の看病もあり、その後母は何度かの危機を乗り越え、やや安定を取り戻す。母が病院から一時帰宅を許された日は、偶然、『母の日』だった。奈々は母のために花を贈ったが、
、世話をできる人がいずに枯らしてしまった。しかし、母はいつまでもその花を捨てようとはしなかった。あの時母は何と戦っていたのだろう。それは病でもなく、近いうちに確実に訪れるであろう死でもなく、ましてや父でもなかったはずだ。きっと、急に蒼ざめていく空気を肌で感じながら、反故にした約束を探し出すために見つめた水鏡に映る不確かな自分と戦っていたのだ。
 その日も奈々は、いつものように母のベッド横のパイプ椅子に座り、編み物をしていた。しばらく、病状の安定していた母の周りには穏やかな時間が流れていたからだ。だが、そんな奈々に神は罰を与えた。
 少し開けていた病室の窓から入り込んだ、雨が降る直前の冷たく湿った風が母を掠めたのだ。その瞬間に奈々は、母の死の匂いを嗅いでしまった。それは、はっきり意識されたものではなく、ぼんやりと嗅いだものだった。そのことがかえって奈々の胸を痛めつけた。気を緩めた自分を呪い、何かを吐くような低い声をあげて涙もなく慟哭した。
 やがて、昏睡状態が続くようになっていた母は、夕方の淡い陽射しが病室の窓を赤く染める中、奈々に何の言葉も残さず、ひんやりと静かに息を引きとった。
 一通りの処置が終わり、ひとりの患者を見送る医者として、悲しみを白衣に閉じ込め、母を静かに見つめる祖父と二人の伯父。
 奈々の隣にいた祖母が、母の胸の奥深いところにまだ残っている澄んだ命の欠片を確かめるかごとく、母の頬を慈しむように撫でている。あまりに現実感のない風景を、脳が受け入れるのを拒否していた奈々の目に、まだ涙はなかった。母の顔の上にあった祖母の手が母から離れ、奈々を促すようにそっと肩に触れた。奈々はまだ母の形をした、もう母ではない母に導かれるように、握っていた母の手をそっと離し、母の顔に自分の顔を近づけ、最後の口づけをした。そんな奈々の背中に祖母が「ありがとう」と声をかけた。その声はあまりにも母に似ていた。次の瞬間、感情を司る神経が一斉にけいれんを起こし、奈々は母の胸にくずおれるように顔を埋め、母の名を叫びながら嗚咽していた。
 太陽はゆっくりと空を横切り、暗黒の世界へと消えた。
 初めて経験した身内の死が母親の死だった奈々は、果てしのない喪失感で胸を塞がれていた。今まで見ていた何気ない景色から色が消え、世界はゼリーのような分厚い膜に覆われてしまった。暗く深い空洞への入口で立ち尽くす奈々を、薄い氷のような哀しみが襲う。
毎日がただのろのろと過ぎて行くだけだった。
 父は母が危篤の時も通夜にも葬儀にも、その後の法事にも来たことはない。祖父は嫌々二人の結婚は認めたものの、父についてはずっと許さず、母に関わる一切の行事への参加を拒絶していたため、来たくとも来れなかったのである。しかし、父が母の墓参に一人で、事あるごとに来ていることは、真理から聞かされていた。
 あれからもう六年が経つ。母を苦しめた父を、奈々はずっと許せないでいた。でも、時間が少しづつ奈々の心を溶かしている。奈々にとって、松本義隆はこの世で唯一の父であることにかわりはない。元気で暮らしているのだろうかと、心の中ではいつも気になっているのである。
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