第5話 父の秘密そして…

文字数 7,143文字

                      八
 奈々は、父の顔を見ながら、今日この家に来たもう一つの目的を思い出した。
「ねえ、お父さん、書庫でまた本探していい?」
 突然の申し出に、父は少し驚いたようだったが、
「ああ、いいけど、書斎には入るなよ。散らかされると困るから」
「わかっています」
 そう言って、奈々は二階へ上がる。二階には、仕事部屋兼書斎と、書庫、それに寝室がある。書庫には一万冊を超える蔵書と仕事関連の資料が入っている。その重量に耐えられるように設計されている。この建物を建てる際に鉄筋・鉄骨造りにしたのもそのためだと聞いている。
 まずは仕事部屋兼書斎に入る。父から書斎には入るなと言われたが、構わずに入る。まずは、さあっと部屋全体を見渡し、女の影がないことを確認した。書斎にも書棚があり、奈々の興味を誘いそうな本があることを前回来た時にチェックしてあったので、父の言葉を無視して入ったのである。奈々も父親譲りで本が好きだった。特に歴史書に興味がある。いわば世間でいうところの歴女である。
 一年半ぶりに入った書斎は、古本の、少しかび臭い匂いと煙草の匂いの混じった父の匂いがした。窓際の奥に大きな机があって、上にはデスクトップパソコンがある。その周りには、資料や本が一見乱雑に重なりあっていて、ほんの少し前までここで仕事をしていたかのようだ。確か八帖だったと思うが、机の横や、部屋のあちこちに本がうず高く積まれた山があって、狭く感じられる。明らかに、前回訪れた時より本の量は増えている。文芸評論家を生業としているのだから、当然のことではあるが。
 まずは壁側の書棚を探してみる。前回目星をつけておいた歴史書を発見し取り出す。これは今回借りて帰るつもりでいた本のうちの一冊である。その他の借りたい本は、書庫にあったので移動しようと思い、書斎を出ようとした。しかし、書棚の端に置かれていた観葉植物の葉が数枚枯れていたのが気になり、それを取り除こうと手を出した時だった。奈々の目が一点に吸い寄せられた。それは、見覚えのある古いアルバムであった。観葉植物で隠れていたため、前回来た時には気づかなかった。いや、万が一奈々がこの部屋に入ることも想定して隠していたのかもしれない。母は、父が家を出ていった後、アルバム類はすべて焼却処分したと言っていた。私の思い出の写真だってあったのにと、泣いて怒ったことを思い出す。それがどうしてここにあるのか。
 見つけてしまった以上、見過ごすことはできない。まるで爆発物を扱う時のように、そっと慎重に書棚から取り出す。鼓動が早まっている。机の上に置き、開くと、まず目に飛び込んできたのは、結婚する前の父と母の姿であった。デートに出かけた時の、楽しそうな写真が並ぶ。でもそれらは、奈々も以前見た記憶があるものばかりだ。ページをめくり続けると、赤ちゃんを抱いた母の姿や、二、三歳の女の子が笑っている写真が見つかる。もちろん、それは奈々の姿。やがて、小学校にあがった奈々と両親で様々な場所へ出かけた時の写真が出てきた。中には、奈々と父の二人だけで写っている写真も結構ある。母が撮ってくれたものだろう。写真の中で、父は奈々の手を握っていたり、抱っこしていたりする。その顔はみな嬉しそうである。
 記憶の中の父は、奈々と手を繋いでいる時も無表情だった。抱っこされた記憶もなかった。一時あった自分の父への嫌悪感が、過去の自分の記憶を歪めてしまっていたというのであろうか。見進めていくうちに、家族が家族であった時の幸せな感情が蘇ってきた。しかし、それが、もう母はいないという悲しみの感情に変わった時、奈々はアルバムを閉じた。
 アルバムを持ち上げ、棚に戻そうとした時だった。何かが下へ滑り落ちた。目をやると、それは古びた封筒だった。アルバムのどこかに挟まれていたものとみえる。急いで拾い上げ、アルバムに戻そうとしたのだが、開いていた封の隙間から中のものが見えてしまった。もう止めることはできなかった。奈々は封筒の中に入っていた三枚の写真を取り出した。手を繋いだ若い男女の写真が一枚。もう一枚はその女性が赤ちゃんを抱いている写真。そして三枚目の写真は、三歳ぐらいの女の子が一人で写っている写真。三枚とも初めて見る写真だった。
 写真に写っている男が父であろうことはすぐにわかった。奈々が知っている父よりもはるかに若かったが、その高い鼻、強い目。細身だけど筋肉質な身体を持ち、野性味を感じさせながらもどこかに洗練された部分を持つ男。まさしく父であった。女の人の顔にも見覚えがあった。奈々の親しい人に、その顔はよく似ていたのである。そして、三歳ぐらいの女の子の写真を裏返してみると、そこには百合と書かれていた。しかも、その文字は右肩上がりの特徴を持ち、一目で父が書いたものと判断できた。
 もちろん、だからといって、これだけで百パーセント自分の父が真理の父でもあると決めつけることはできないと、奈々もわかっている。でも、まず間違いない。確信めいたものを感じていた。それは、父の真理に対するこれまでの眼差しや接し方から感じられるものであり、単にそうであって欲しいというような願望ではない。奈々が真理に対して以前から感じていた、ある種、本能的なシンパシーでもあった。真理の顔は父には似ていなかったけれど、写真の女性にそっくりだった。
 鼓動を刻む音がせり上がってきて胸がざわつき、チクリと痛む。
 あまりの出来事に、奈々は言葉を失っていた。あの三倉真理が自分の血のつながった姉かもしれないのである。
 おそらく父は自分が監督する作品の主役オーディションに現れた真理の顔を見て、その事実を知ったのであろう。だが、真理は知らない。奈々がかつて一度だけ「実の両親について調べたいと思ったことありませんか」と真理に聞いた時、真理は「そんなことして、どんな意味があるというの。一度できた心の空洞は、まったく違うものでしか埋められないの。だから、私は今後も一切そんなことはしないわ」と言っていた。だから、知りようもないのだ。もし自分だったら、なんとしてでも知りたいと思うのに。どちらが幸せなのかはわからないけれど…。
 真理が実の姉であったとしたら嬉しい。しかし、この現実をどう受け止めたらいいか、まったく心の整理がつかない。百合と書かれた写真を持ったまま、奈々はその場でしばらく動けなかった。
 どれほど時間がたったであろうか。このままずっとここにいては怪しまれると、我にかえった奈々は、衝撃で力の入らなくなった自分の身体を両手で持ち上げる。写真を封筒に戻し、アルバムの中に挟んで、書棚の元の位置に戻す。急いで書斎を出て書庫に移り、適当に数冊を選んだ。本当は、ゆっくり選びたかったのだけれど、もうそんな余裕はなくなっていた。

              九
 数冊の本を抱え、何事もなかったかのように階段を降りようとするが、足がもつれそうになる。なんとか一階にたどり着き、リビングのドアを開けると、こちらを見つめる父の顔に出くわす。ここで悟られてはいけないと、動揺を隠して父のほうに歩み寄り本を出しながら言った。
「これだけ借りていきたいんだけど」
 父は、ちらっと本を見たが、どんな本なのか確かめようともせずに、
「ずいぶん時間かかったなあ」
 と、ちょっと呆れたような表情で言った。「いろいろ迷ってしまって」
 父の顔は見ずに答える。
「まあいいよ。ちゃんと返してくれればいいから」
 父は奈々の動揺に気づいていないようだった。そのことに安心し、また真理の横に座った。真理が実の姉であろうこと、その側にいられることに、奈々は幸せを感じた。
「あっ、そういえば青梅って桜で有名なお寺があるんですよね」
 父と奈々の間に流れた不思議な空気を変えるように、真理が言う。
「うん、梅岩寺ね。あそこの桜は確かにきれいだよ。でも、どうせなら、昭和記念公園の桜を見に行ったほうがいいと思うよ。昨日あたりが満開だったらしいから、もう散り始めているかもしれないけど」
 と父が答える。
「そうですか」
「やっぱり規模が違うしね。もし、時間があるんなら二人で行ってみれば。僕はもう何回も行っているんで」
「私は時間あるけど。奈々ちゃんどう?一緒に行けたら嬉しいけど…」
「ええ、大丈夫です」
「じゃあ行こうよ、奈々ちゃん。駅前の駐車場に車を停めてあるから、私の車で行きましょう。あっ、待って。でも奈々ちゃん、今日監督と何か話があって来たんじゃないの」
 もちろん、本来の目的はプロポーズされた俊とのことを相談することだったけど、もうどうでもよくなっていた。
「いえ、特に話があったというわけじゃないんです。しばらく会っていなかったから、元気で暮らしているのか、自分の目で確かめたかっただけです」
 気がつけばそう答えていた。本当は父も奈々が何か話があって来たということはわかっているはずだ。だからこそ、敢えてその時間に真理を招いた。どうしてこうも私たち親子は素直になれないんだろうか。二人とも、鉄を舐めて、その味を楽しむような歪んだ性格をしている。やっぱり、先ほど父が私の性格が母に似ているといったのは間違っていると、改めて思う。
「心配するな。私は大丈夫だ」
 表情ひとつ変えずに父が言った。
「ああ、ああ、あー、監督、そこはありがとうじゃないですか。娘が心配しているんですから。ねー」 
 父のほうを呆れたように見た後、奈々の横顔を見ながら真理が言う。
「いえ、いいんです」
 奈々のほうも父の顔を睨めつけるようにしながら無表情に答える。
「ああ、なんだかなー。二人とも面倒くさい性格してるんだから」
 真理が二人を見比べながら、心底呆れたという表情で言った後、続けた。
「まあ、いいっか、じゃあ、奈々ちゃん行きましょう」
 真理が意地を張ってまだその場にへばりついている奈々の片手をつかんで立ち上がった。父の答えにこだわっていた奈々も、しかたなしに立ち上がり、二人は荷物を持ってリビングを出る。それを見て父も無言で二人の後に続く。ぶすっとしたままの父に見送られ、二人は外へ出た。歩き出してすぐに真理が言う。
「本当に良かったの?。監督と話し、あったんじゃないの」
「いえ、大丈夫です」
 売り言葉に買い言葉のような感じで出てきてしまった。自分の中に沸き上がっている自己嫌悪感を振り払うように、努めて明るく答えた。
「そう。ならいいけど…」
 真理のほうはまだ疑っている。
「さあ、行きましょう。昭和記念公園の場所は、私知っていますから。去年も行きましたし」
 真理に悟られないように、大きめの声で言う。
「そうなんだ。じゃあ案内してね」
「はい」
 父の家を出た時から真理は帽子を被り、サングラスをかけている。それを見て、ああこの人は今を時めく女優だったんだと、改めて思うのであった。父の家から駅までは徒歩で七分程度。しばらく並んで歩いていたが、真理が奈々に近寄り、腕を組んできた。
 奈々は母のことを思い出した。母と二人で出かけると、母はいつも奈々の腕に自分の腕を絡めてきて、二人はまるで恋人同士のように歩いていた。そんな母がちょっと気恥ずかしかったけれど、深い愛情を感じて嬉しくもあった。
「奈々ちゃん、駅近の喫茶店でお茶しない。今日ここへ来た時、少し街を散歩したんだけど、レトロな感じの、良さげな喫茶店見つけちゃったのよ。それに、奈々ちゃんと二人でゆっくり話もしたいし」
「はい。嬉しいです」
「この街、いいわよね。雰囲気があって。今度、時間作ってゆっくり回ってみようと思っているの」
「私も好きです。昭和の感じが優しくていいですよね。それに真理さんは女優さんだから、手書きの映画看板とか見ると、私とは違う思いもあるでしょうし」
「うん、そうね」
 二人は青梅駅から上り方面の線路沿いを少し歩き、いかにも古い木造建築の前に着いた。そこは、「夏の扉」という店名の喫茶店だった。小さなごく普通の喫茶店だけど、真理の言っていたように、昭和の匂いのする、なんともいえない懐かしい感じの店だった。自分はその時代に生きていたわけではないのに、不思議な感覚だ。店内も昭和そのものだった。窓枠は鉄製で、すぐ横を電車が通過すると、その窓枠がガタガタと振動する。二人は、ホットコーヒーを注文した。気さくなマスターに、真理が店名の由来を聞いたところ、ロバート・A・ハインラインの小説のタイトルからつけられたものだという。サングラスを外した真理のことを見て、マスターはすぐに三倉真理だとに気が付いた様子だったが、決してそのことには触れなかった。そういう気遣いも、いいなあと奈々は思う。コーヒーを飲みながら、知りもしない昭和の時代に思いを馳せていた奈々に、真理が身を乗り出すようにし、少し声を潜めて言った。
「奈々ちゃん、今恋してるでしょう」
「えっ、どうしてですか」
 俊と一緒にいるところを見られたのか。それとも、誰かが真理に告げ口をしたのか。思わず山本部長の顔が浮かんでしまう。
「どうしてって、そりゃあわかるわよ。奈々ちゃん、すごくきれいになったし、それにこうみえても私女優よ。だからわかるの」
「それは、大女優ですけど…」
「図星でしょ。白状しなさいよ」
「まあ、そうなんですけど…」
「やっぱりね。いいことよ、恋をするって」
 父には結局相談しなかったけど、真理に話してみようか。
「しかも、相手の人にプロポーズされたんじゃない?でも、悩んでいるんでしょ」
 眼の中を覗き込むようにして、真理が言う。こうやって真理は、いとも簡単に、するりと人の心の中に入ってくる。でもそれが決して不快ではなく、入られたほうの気持ちを軽くしてくれるから不思議だ。奈々がなんと答えようか迷っていると、
「今日会った時からわかったわ。思いつめたような表情をして、必死に何かに縋ろうとしているようだったから。奈々ちゃんの目は、監督のことも、私のことも見ていなかった。きっとその視線の先には誰かがいるってすぐにわかったわ。でも、伏せたまつ毛の下の目には翳りが見えたの。だから、ああ悩んでいるんだなって思った。それがまた奈々ちゃんをきれいにしているんだけどね」
 すぐにわかってしまうほどはっきりとした態度に出てしまっていたのだろうか。自分では意識していたつもりはなかったのだけれど。やはり、真理には人の心を見抜く力が備わっていると思う。でも、真理にきれいと言われたことは嬉しい。
 その時、窓枠が再び揺れた。
「あっ、電車だ」
 真理が小さな声をあげる。奈々にとっては、どうといったことでもなかったので、「そうみたいですね」とそっけない返事をした。
「新幹線とかは乗るけれど、普通の電車、というか各駅停車の電車に乗る機会ってなくなっちゃったじゃない、私の場合」
「そうですよね」
 一流女優となった真理に、そんな機会は、撮影でもなければ、なかなか与えられないだろう。
「だから、たまにだけど、そんな各駅停車の電車を乗り継いで、乗り継いで、鄙びた見知らぬ街に行ってみたいって思うことがあるの。人々は温かいのに、街自体はまるで死の床のように冷たくて、誰も私のことを知らない、知ろうともしない場所。そんな街で、嘘だらけの私に向けた星明りの予告を聞きたいわ」 
 まるで歌でも歌うように、朗朗と話す。でも、内容的には不可解な部分があり、その意味するものが奈々には理解できない。
 ただ、抱えているものをすべて捨てて、どこか遠いところへ行きたいという思いは誰にでもあるのではないだろうか。ただ、真理は、いつでもどこでも三倉真理であることを要求されるため、自分を解き放ち、心の荷物を下ろすという行為がいかに難しいかを知っている。叶わない思いだからこそ、思いが募るのではないか。
「なんかわかるような気がします」
 奈々には『なんか』という枕詞をつける他ない。
「それに、命の輪郭を感じながら、遠くを見つめ続ければ、近くが見えるようになるかもしれないじゃない」
 またしても、真理の中でしか意味を持ちえない言葉を使われ、奈々には理解できない。ただ、真理も何か問題を抱えているだろうことは想像がついた。誰しも問題や悩みを抱えて生きているのだから、不思議ではないけれど。
「そんな白と黒だけで描かれた水墨画のような遠い街に行けば、ひょっとして実の両親に会えるかもしれないじゃない」
 突然閃光に顔面を打たれたような衝撃を受け、奇妙な息苦しさを覚える。自然と顔が引きつった。
「冗談よ、冗談。そんな怖い顔するのやめてよ、奈々ちゃん」
 真理のことだから、本当に冗談だろう。でも、敢えて口にすることで、心の奥底に眠っている、どうしようもない思いを軽くしようとしているようにも思えた。なんと答えたらいいか、困惑していると、
「まったく、真面目なんだから。案外、近くにいるかもしれませんよとか、軽く返してくれるだけでいいのに」
 悪戯っ子のような真理の顔に出くわす。奈々の背中に、冷たい水を浴びせられたような緊張が走る。少し前まで頭の片隅に追いやっていた父の家の二階で見たあの三枚の写真が再び目に浮かび、心は波だった。
「ごめんなさい。私に心の余裕がなくて…」
 他に浮かぶ言葉はなかった。
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