第12話

文字数 6,222文字


 アビメレクと言う男は、冷酷な、どうしようもない少年であった。
 ペリシテの貴族の家に生まれた彼は、幼いころから他人の痛みも、自分の痛みすらよく理解していなかった。頭は良かったはずなのに、なぜかその痛みと言う一点だけ、彼の理解が及ぶところではなかった。痛みを理解しない彼にとって、痛みを知りあうことで成り立つ思いやりと言う概念など、まるで遠い異国の存在のようで、まるきり自分には関係しえないものだった。
 両親は、そんな彼を愛することはなかった。彼が冷酷だったから両親は罰として彼を愛さなかったのか、両親が彼を愛さなかったから彼は冷酷に育ったのか、アビメレク自身にもよくは分からない。だが、少なくとも両親は彼を我が子としては見捨てなかった。心の出来はともかく頭の出来は良かったのだし、彼の家柄はやりようによってはペリシテの領主の座も狙える立場ではあったのだから。
「出世しなさい」と、彼は両親に子供の頃幾度となく言われた。
「お前のような人でなしが世のため人のために貢献できるとすれば、それしかないだろう」
 アビメレクは、その言葉を拒むことはなかった。むしろ自分は出世するのが当たり前だ、と感じていた。
 彼は両親の言葉通りに、出世の道を歩んだ。邪魔なものは躊躇なく叩きのめし、彼の両親はそのたび、一層そんな息子から心を離していった。彼がどんな役職を得ても、「お前の人格をその程度で償えるものか」と突き放し、認めることなど一切なかった。
「領主にでもならなけりゃ、お前みたいな人でなし、我が家の恥だ」
 それでも、両親はアビメレクを勘当することはなかった。結局は彼らも、有能な息子の出世にあやかりたかったのだ。
 そんな彼は、ある日ソレクの谷の貴族に呼ばれた際に、ある一人の女奴隷に出会った。

 彼女はデリラ、という名前で呼ばれていた。ちりちりした赤い髪の毛に覆われた顔が化け物のように醜い女奴隷だった。
 痛みに疎いアビメレクすらも、彼女の容貌を美しいとは思わなかった。だが同時に彼は彼女の事を、今まで自分が使い古しにしてきた美しい、と称される何人もの女性にも勝る、絶対に掛け替えのない、女神のような存在と感じた。
 彼女はこの世で唯一、アビメレクに何でも話させることのできる人物だった。自分の冷酷さから出た、自業自得ともいえる孤独感を、彼はデリラの前でだけはいくらでも吐き出せた。デリラの前でだけ彼は、自分の一生で人々、特に実の両親から言われた言葉を、悪く言うことができた。今まで、彼にそれは許されていなかったのだ。それはお前が人でなしだからだ、人でなしが一丁前にほざくな、と、その人でなしの出世にあやかって増えた財産で肥え太った両親が何回も言ったのだ。
 だがデリラは彼の事を人でなし、とは言わなかった。彼の残酷さを知らないはずはなかったはずなのに、彼自身の口からそのことを何回も聞いているはずなのに、デリラは痩せこけた腕で彼を抱いて、そっとこのように告げてくれた。何度も、何度も。
「お可哀想に、アビメレク様」
 それはアビメレクにとって、言われたことの無い、言われることの許されない言葉だった。しかし、世にも醜い女奴隷が、ペリシテの中で一番虐げられる存在が、唯一彼にその言葉を受けることを許してくれたのだ。
 デリラの腕に抱かれながら泣きじゃくった日の事を、アビメレクは覚えている。その時の感覚の全てが、彼の体中に焼き付いていた。身を引き裂かれるかのような不快感が、生まれて初めて、心を満たしていたのだ、
「私は、愛されなくて当然だ」何回も言われた言葉を、まるで親に告げ口する子供のようにデリラに告げた。誰かにひどい事を言われて告げ口するなど、アビメレクの人生ではあり得なかった。それを受ける親は、いつでもアビメレクではない方の子供の味方をするのだから。
「私は、愛されるようなことを何一つしていないのだから。何一つ……!」
 そう嗚咽するアビメレクを、デリラはやせぎすな腕で優しく抱きしめた。「大丈夫です」彼女はアビメレクを責めることなく、ただそう告げた。
「大丈夫。大丈夫です。……アビメレク様は、酷いお方かもしれません。聖人君子になれる心を、ダゴン神から与えられなかったお方かもしれません。でも、この世に生まれてくることは、許されてきたお方です。どんなお方でも、この世に生を受けたのならば一生に一度くらいは……無償の愛と言うものを、受け取る権利があるはずです」
 そしてその言葉は、生まれて初めて感じるアビメレクの苦痛を、傷口にオリーブ油を塗るように優しく覆った。
「君は」震える声でアビメレクは言った。
「私を愛してくれるのか、デリラ」
「ええ」こともなげに、彼女はそう返した。
 痛みがわからないのがアビメレクであるのなら、デリラはおそらく、誰よりも痛みを感じてきた人間だ。誰にも痛めつけられ続けて、痛めつけられるのが当たり前で、もはや痛めつけられることに心など動きようもない存在、それが彼女だった。そんな彼女だけが、アビメレクに彼の知らなかった全てを教えてくれたのだ。

 彼はアドニバアルに何回も金を渡し、彼女といる時間を作ってもらった。あんな顔の女相手に物好きな、という嘲笑など、全く耳に入ることはなかった。彼はただただ、デリラを心の底から愛した。人を愛するなど、初めての事だった。彼女と離れたくはない。一生を共に過ごしたい、彼は心の底からそう願った。

 だが、彼の両親はそれを許さなかった。いつもの通りの目、デリラの慈愛のこもった目とは似ても似つかない、劣ったものを見下ろす目で息子を見つめながら、とんでもないことだ、と言った。
 貴族のくせに女奴隷を、それも貴族に負けることの無いほど清らかで美しい女ならまだしも、あんなおぞましい容貌の女を家に迎え入れるなんて、と。ただでさえ人でなし、家の恥であるのに、この上まだ恥を重ねるのか、と両親は躊躇も何もなく、アビメレクの心に初めて芽生えたその感情を叩き潰した。
 アビメレクは、それには逆らえなかった。領主になるという野望は、まだその段階では実家の家柄なしに達成することは不可能な夢であった。
 領主にならねば、という言葉、幼いころから呪文のように繰り返し繰り返し聞かされてきた言葉、それらを毅然として否定するには、彼は若すぎた。彼はずっと、領主にならなくては生きている価値などない、と信じこまされてきたのだから。昔ならまだしも、痛みの感覚を味わってしまった身には、領主になれない人生を歩むことは、ただならない恐怖にしかならなかったのだ。
 両親の言葉を無視して、だが突っぱねることもできずソレクに通い続けていたある日、ソレクにいたアビメレクのもとに、とうとう両親からの最後通牒が来た。すぐ帰り、もうソレクには行かないと誓わねば、親子の縁を切る、と。何回も何回も聞かされてきた言葉も、添えられていた。お前のような人でなしは領主になってこそなのだ。家を富ませて初めて、普通の人間並みになれるのだ。普通の人間は親孝行をするのだから、と。
 彼は、デリラにその旨を話した。親に逆らって彼女と歩む道を選べない自分の胸中も、全て。
 すまない、と彼は何回も繰り返し続けた。女神のように慕った彼女を、このペリシテのだれよりも、自分が侮辱している気分だった。だが、彼女は怒ることもなく失望する様子も見せずただただ穏やかに笑って「いいんですよ」と言ってくれた。アビメレクの不安を、罪悪感を、全て包み込むように、最後まで彼女は優しかった。
「幸せな時間を賜りました。私などには、過ぎたほどの幸せを」
「過ぎただって!?」アビメレクは叫んだ。「何が過ぎた幸せなものか。私は君に、まだ何もできていない……これしきで、何が過ぎているものか!この世のすべての人間には……いくらでも、幸せになる権利があるじゃないか!君にだって、私にだって!」
 デリラは悲しい顔を見せることはなかった。言い含めるように、彼に言った。
「領主におなり下さい。それがきっと貴方の幸せです。きっとアビメレク様は、領主になれるお方です。神は貴方に心は与えなかったとしても、そのような運命を与えられたのです。神に与えられた運命を歩むことを人に許されないお方も、この世にはたくさんございます。そんな中で、神の采配なさった運命を歩けるお方は、きっと幸せです。だって、この世のどこに、自分の作りだした存在が不幸になることを望まれるお方がおられましょうか」
 彼女は、誰も憎んでいなかった。アビメレクの事も、彼の両親の事も、自分を虐げた人間の事も、自分をこんな姿、一生蔑まれ呪われる姿に生まれさせた神の事も、誰一人。それは、痛めつけられたが故に憎む心が死んだからなのだろうか。いや、違う。彼女はきっと、ただただ優しかったのだ。それが、神が彼女に与えた、たぐいまれなる贈り物だったのだ。
「どうぞ、ガザにお帰り下さい。ガザで出世する貴方様を、遠い地より見て居たく思います」
「私は、幸せになれるのか」アビメレクは呟いた。「領主になれたとして、それまで私は、幸せでないまま、過ごさなくてはならないのか」
 デリラはアビメレクを優しく撫で、包み込むように言った。
「では、幸せになる方法をお教え致します。アビメレク様。……私がこの世にいると、私とあなたの愛がこの世にはずっと存在すると、忘れないでいてください」
 彼女は最後まで、アビメレクを受け入れてくれた。両親ですら愛さなかった彼を。愛されなくて当然だ、そう言われ続けた男に、ただただ彼女は最後まで愛を向け、そんな男の差し出す愛を、全て受け止めてくれた。
「忘れるものか」アビメレクは彼女を抱きしめた。「死んで地獄に落ち、地獄の悪魔に頭をえぐられようとも、君の事だけは忘れるものか」

 ガザに帰った彼を出迎えたのは、彼の帰りも祝わない両親の罵倒だった。お前のようなものを今の今まで家族としてやっただけありがたいと思え。お前がいなくなった方が我々は幸福なのだ、そこを情けで生かしてやっているのだ、思い上がるな、と。
 アビメレクは、再び痛みを知らぬ人でなしとなった。自分の利益のためなら他人が、時には自分がどうなろうとも構わない存在に。どうせ彼が一度は痛みを知ったのだと言っても、誰も信じてくれるはずはないのだから。彼はただただ、両親に憎まれ、恐れられながら働き続けた。
 そんな彼のもとに、ある日人目を憚るようにひっそりとアドニバアルからの使いが来た。彼はデリラが、アビメレクの子供を産んだと告げた。
 使いはそれだけ告げて、さっさと帰ろうとした。「待て!」アビメレクは呼び止めた。
「その子の名前は何だ、私の娘の名前は何だ!」
 使いはアビメレクの事を蔑むような目で見ながら……彼にとってアビメレクはガザのエリートではなく醜い女に入れ込む下手物食いだったのだろう……吐き捨てるように言った。
「奴隷の二代目に名前なんていりませんよ。みんな、娘の事もデリラって呼んでます。母親似の赤毛をして、母親似の化け物面した、似ても焼いても食えない赤ん坊ですよ」
 やがて、一年と少しもした頃にもう一人従者が来た。デリラが流行病で死んだ。従者はただ、それだけを告げてさっさと帰っていった。
 アビメレクはその時、久しぶりに味わった。デリラの腕に抱かれて自分が感じたあの感触を。心臓が、体中を傷つける小さなナイフを絶え間なく送り出しているかのようだった。
 アドニバアルの家の者は、誰も彼女の死を悲しむまい。彼女の娘ですら、死という概念を知るには幼すぎるのだ。アビメレクはきっとその時、世界中の人間の分デリラの死を悲しんだ。だが一人で背負いこむには、泣いたりわめいたりする暇を持つには、その悲しみはあまりにも膨大過ぎた。

 両親の望み通り、彼はやがて若くして領主となった。それでも彼の両親は、結局彼に求めることを止めはしなかった。お前の人でなしの償いが、こんなこと程度でできるとは思うな、と言い続けた。
 彼は結局、両親に逆らうことはなかった。ただ一点だけ、彼が両親に逆らえることが存在した。彼はどんなに言われても、結婚はしなかった。両親がいくら言っても。もう領主となったのだから、親子の縁を切るという脅しは通用しなかった。「私のような人でなしの子ができたからとて、この世に不合理なだけでしょう。いつか養子でもとりますよ」そう言って、彼はただずっと、デリラと自分の間の娘の事だけを考えていた。
 さっさと、両親が死ねばいい。自分を縛り付ける両親が。自分より無能な癖に、自分の積み上げた富でのうのうと暮らしているくせに自分に逆らうことも許さないこの老いぼれ共が死ねば、自分は自由なのだ。そうすれば自分はソレクに行ける。母親のように容姿を罵られながら奴隷仕事をさせられているのであろう娘を抱きしめてやれるのだ。ガザの領主の姫として、いくらでも愛情を注いでやれるのだ。
 アビメレクは両親に逆らえない自分を呪った。彼は知った。いくら痛みを知っても、いくら地位を得ても、アビメレクにとって両親とは逆らうことの許されない存在だったのだ。自分を幼いころから否定し続けていた二人の人間は。自分はなんと臆病者だ、と彼は呪い続けた。そしてそこからくる痛みを、ソレクに残された一人娘を唯一の希望とし、心のよすがとすることで、耐えてきたのだ。

 母親が死に、父親もついに死んだ。彼らは結局最後まで、アビメレクに満足することはなかった。彼らの納得する親孝行など、アビメレクは絶対にできなかったのだ。忘れもしない、愛したデリラの死んだ日から、十四年も過ぎていた。
 これで、ソレクへ行ける。アビメレクは歓喜に打ち震えた。これで娘に会える。私の愛を、私の希望を、もう一度取り戻せる。
 そうしてソレクに馬を走らせたアビメレクを、ちょうど逆方向から来た一団が慌てて遮った。行商人のようだった。
「おやめください、領主さま。ソレクの谷に行くのは危険です」
「何故だ、行かねばならん用がある!」苛立ったように言うアビメレクに、彼らは青い顔で言った。
「ソレクは今火の海です。士師サムソン率いるイスラエル人が反乱を仕掛けたのです」
 その言葉を聞き、アビメレクは時が停止したような感覚に陥った。彼らは、ソレクを通りすがり、命からがらイスラエル人たちに見つかる前に逃げてきたらしい。
「アドニバアルの」彼は恐る恐る聞いた。「アドニバアルの家を知っているか、あれは、あれはどうなった?」
「ソレクで一番大きいお屋敷でしたね……」彼は見てきた光景を思い出しただけで身がすくむのだろう、震える声で言った。
「どちらにせよ、ソレクの町で逃げ出したものは即座に切り捨てられましたよ。アドニバアル様のお屋敷は全壊していたので……逃げ遅れた方は、下敷きではないでしょうか」
 アビメレクは、全てを呪った。
 ダゴン神も、イスラエル人の神も呪った。
 アドニバアルも、彼の家の使用人たちも、死んだ自分の両親も、ペリシテ人も、イスラエル人も呪った。幸せそうに生きたものを、今この世に生きているものを、全て呪った。彼の恋人が、彼の娘が得られなかったものを享受していた、享受している者達を。
 そして何よりも、彼はサムソンを呪った。自分の唯一この世に残った希望を、灰にしてしまったイスラエルの少年を。

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