第7話

文字数 9,827文字


 サムソンはマハネ・ダンに帰らなかった。それも、何日もの間。
 彼はデリラを引っ張って、メレクと一緒にエタムにある岩山の、岩の裂け目に入った。そこは、彼が時々メレクと一緒に訪れる、彼の隠れ家だったそうだ。その証拠に、ボロボロになって汚れてはいるが、毛布が一枚、その中に置かれていた。
「嫌いだ。……あいつら全員、嫌いだ」
 昼間のうちはサムソンは時々そんなことを言うだけで、後は全く自由気ままにエタムの山岳地帯を駆けずり回った。そしてメレクと一緒に野生の鹿や山羊を狩り取って、デリラに料理させた。デリラはそれに何も抵抗しなかった。サムソンがやりたいことならやらせてやる他ないのだし、逆らおうとしてもどうなるものでもないではないか。
 今頃は勿論マハネ・ダンではサムソンを探して騒ぎになっているだろう。だが、サムソンは当然そのようなことは全く関係ないようだった。
 夜になれば、焼いた鹿を食べつくして、寝転がりながら、サムソンはデリラに言った。
「デリラ」
「何でしょうか」
「……俺、悲しいよ」
 デリラはそれを聞いて、「お可哀想に」と言う。
「なんで、こうならなくちゃ、ならなかったんだよ」
 彼はえずくように、体の中の異物を吐き出すように、そう言った。あの夜一晩、いや、あの結婚式の日からずっと彼の身に起こったことを、彼はうまく言葉に言い表せなかった。ただ彼は自らの苦しみを表明した。
「お可哀想に、サムソン様」
 デリラはそう繰り返し続けた。サムソンは彼女にそう言われ、メレクにもいたわるように指を舐められながら、ぽろぽろ泣いた。
「なんでだよ?なんでだよ!?どうしてこんなことが起こったんだよ!?俺が悪いから?全部、俺のせいだから?」
「お可哀想に……」
 いつの間にか、デリラも貰い泣きしていた。あまり感情を貰うことなどなかったが、彼と自分とメレクしかいないような空間で、彼の感情は驚くほどデリラに伝播した。うまい理由は見つからなかったが、彼女も悲しくて仕方がなかった。
「もっと言って」サムソンは呟いた。「もっと、可哀想って言ってくれよ。デリラ」
「はい、言います。何回でも申します。お可哀想に、サムソン様」
 彼らしかいない岩山に、そんな声が何回も、何回も響いた。


 マハネ・ダンではもちろん、サムソンがいないことが問題になっていた。しかも、それはただの問題ではなかった。
 マノアのもとに、一人のペリシテ人の、高貴な身なりをした男性が現れたのだ。彼はガザの領主、アビメレクと名乗った。
「無論のことあなた方もお聞きしていることではあるでしょうが、先日のティムナの町で、サムソンが大量に人を殺しました」
 普段のマノアであるのなら、ひょっとすると啖呵を切って追い出したかもしれない。しかし、今は勝手が違った。
 マノアは先のペリシテ人への反乱で、反乱の戦果としてイスラエル民族の自由をいかに認めるか否かの交渉をずっとしていたのだ。そして、それが最近ようやく功を奏しそうになっていた。そんな時に、サムソンが事件を起こしたのだ。しかも大義のある反乱ではなく、全く狂乱的な大量殺人にすぎなかった、と、しつこすぎるほどにアビメレクは彼に言ってのけた。
 マノアも、無論のこと初めて聞くそのことに頭を痛めた。仮にもイスラエル人のリーダーとして、サムソンが起こしたのはあまりに破天荒すぎる事件だった。言い訳の余地はなかった。
「サムソンはティムナ、いや、ペリシテを支える前途ある若者を皆殺しにしたのです。ペリシテ人として、ただで許すわけにもいきませんな。私はあなた方の事を、異教徒ではあれど民族に強い誇りを持った気高い人々と思っておりましたものを」
 アビメレクはマノアにさらに言った。
「すでに、このことに対する報復のため、ユダの地に我がガザの軍隊を向かわせましたよ」
「なに!?」マノアは驚く。
「無論のこと、あなたと結んでいたイスラエル十二部族のうち五部族に対する減税と自治の件も、我らは無しにすると決定いたしました。まあ、当然でしょう。我々は敵ながらあなた方の大義と誇りに敬意を表してそれらの事を取り決めたのです。ところが当のサムソンは誇り高い戦士ではなく、ただの気の狂った大量殺人犯にすぎぬのですから」
「ま、待ってくれ!」マノアは慌てて彼に食いついた。
「それだけは困る!イスラエル人達に自由を与える事こそ我らの使命だ!」
「あなた達の使命など、なぜ我々が考慮せねばならんのですか?」アビメレクはねちっこく言った。そして、答えに困り黙りながらも、それでもなお言わなくてはと困っているマノアをしばらくの間放置し、頃合かと思った頃に唇を開いた。
「そうですねえ……あなた方が本当に大義ある存在ならば、けじめを見せてください。それで、例の件も引き続き執り行ってもよろしいでしょう」
 マノアはパッと顔を明るくして「それならば、無論のこと、どんなことでもしよう!」と言った。アビメレクはそれを受けて、にやりと笑った。


 もう何日経ったのかも分からない。三日も経っていないような、ひと月は軽くたったような、そんな感覚の早朝だった。ザワザワと騒がしい遠くから聞こえる音を聞きつけて、デリラは目を覚ました。案の定、サムソンもメレクも起きていた。
 何だろうと彼女がうろたえていると、サムソンは「デリラ。ここに居て待ってろ。俺が見てくる」とはっきり言い、彼女の返事を待つまでに彼はメレクさえ置いて行ってしまった。
 彼女はそれを承知するつもりだったが、やはり心配なのもあってそっと彼の後をつけた。すると、彼女はすぐに驚いて足がすくんでしまった。影から伺った先には、ざっと三千人はいそうな軍勢が、まだ日も登り切っていない岩山に、松明をともしてやって来ていたのだ。そして彼らは、サムソンに向かい合っていた。
 ペリシテの軍勢か、と彼女は思った。だが、違った。彼らはイスラエルのうち、ユダ族の軍隊だったのだ。
「イスラエルの士師、サムソンは貴方か?」彼らはサムソンに言った。
「そうだ、なんか用か?」
「よくもそんな口が聞けたものだな!貴様がしでかしたことのおかげで、我々ユダ族はペリシテの軍隊に攻め込まれたのだぞ!」
 彼らは怒った口調で、何が起こったのかを把握していないサムソンに説明した。要は、サムソンの起こしたことのおかげでユダは攻め込まれるしようやく決まろうとしていたイスラエル人に対する減税がふいになってしまった旨などをだ。
「何が士師だ!我々がペリシテ人の支配下にあることも分からないなんて」
「うるせえな。俺はただ奴らが俺にしたことをやり返しただけだよ。何が悪いんだ」
 悪びれることなくそう言うサムソンの前に、一人すっと歩み出る者がいた。軍隊の中にありながら鎧を纏っていないその男は、マノアであった。
「親父……」
 サムソンが言い終わる前に、マノアはサムソンを平手で思い切りぴしゃりと打った。そして「この、馬鹿息子が!」と言った。
「お前のおかげでイスラエルがめちゃめちゃだ!」
「んだよ……俺は、ペリシテ人を殺しただけだぜ?なんで責められなきゃならねえんだ?」
 サムソンの言葉には、繰り返すが全く悪びれた様子がなかった。マノアはその言葉を聞くなりいよいよ激怒し「良いか、我々はお前を探しておったのだ。このことに対するけじめをつけるため!」と言った。
 ユダの軍の長が、さらにマノアの隣に歩み出た。「サムソン。我々は君を縛ってペリシテ人のもとに連れて行く。ペリシテの法律で君を裁かせるためだ。ペリシテ人を殺した、と言うが、今回君がしたのはそれ以上の事だ。ペリシテの領主たちは、そうしさえすればひとまず結んだ条約は破棄せずにいてくれると言っている」
 彼らはサムソンに高圧的に言った。デリラは物陰で、ただ震えながらそれを見ているだけしかできなかった。
 サムソンは彼らの前に仁王立ちになったまま、返した。「じゃあなんだ、つまりお前ら、俺を捕えるために来たってことか?……こんな軍隊引き連れて?」
「そうだ」
 マノアはもう一度、サムソンに威圧的に言った。
「息子よ。まさか怖気づくではあるまいな。お前はイスラエルを救うのが本分なのだぞ。潔く向かうがいい。お前が行きさえすれば、イスラエルは助かるのだ。喜んで向かわんか!」
 サムソンはその言葉を聞いて、ぎっと歯を食いしばった。そして、「分かったよ……やればいいんだろ、やれば。イスラエルのためにペリシテのもとに向かえばいいんだろ」と言った。
「そうだ!それこそがお前の仕事だぞ、何故分からぬ、昔からお前をそう育ててきたというのに……」
「分かったって言ってんじゃねえか!しつけぇな!」
 彼はマノアの説教をそれ以上は聞かず、代わりにユダの軍の隊長に言った。
「あんたらは、俺に害は加えないと誓えるか?」
「ああ、誓うとも。我々はペリシテ人のもとまで君を護送するだけだ。殺しはしないよ」
「……俺の女奴隷を一緒に連れてきている。そいつを一足先にマハネ・ダンに戻してくれ。あいつは俺と一緒にいただけで、虫一匹も殺しちゃねえ」
「承知した」
 彼らがそうやり取りした後、サムソンは踵を返して彼の秘密基地に向かった。だが、それよりも早く彼はデリラを見つけた。
「なんだ、聞いてたのか」
「はい、あの……」
「そう言うことだから、お前は一足先に帰ってろ。またババアがうるさいと思うけど、ごめんな」
 サムソンは淡々とそう言った。顔は明らかに不快そうではあったが。
「あ、あの、サムソン様は……」
「心配すんな。大丈夫だから。それと、メレクは一緒に戻らなくていいぞ。あいつは、俺の後をついてきてくれる」
「は……はい」
 デリラはそうとだけしか返せなかった。サムソンはあと余計な言葉は言わずにすぐにまた踵を返してしまい、彼らのもとにすたすたと向かった。そしてデリラを引き渡すと自分も護送されてユダの軍隊と一緒に行ってしまった。デリラは数人の兵士と一緒に、それを見ているだけだった。


 サムソンが向かったのは、エタムからは近いペリシテ人の町、レヒだった。レヒの町では、ペリシテ人を苦しめるサムソンが縛られて連れてこられた、と聞いて大歓声がおこった。彼らは広場に出ていって、縛られたサムソンの姿を見た。しかも、それを縛っているのは彼の同胞であるはずのイスラエル人なのだ。愉快でないはずがない。憎らしい相手が同胞にも見捨てられるほどおちぶれる。これほどめでたいことがあるだろうか。彼らはサムソンとイスラエル人を嘲笑し、侮辱する歌を大喜びで歌った。サムソンはじっとそれを聞いていて、ユダの軍隊は屈辱に明らかに耐えかねていた。

「見事だな、アビメレクどの」
 アビメレクはまさに、レヒの広場、高々と備え付けられたペリシテ五大都市の領主たちの座る椅子、その真ん中に腰かけて、その歓声がだんだん近づいてくるのを聞いていた。彼の取り巻きや、こちらもサムソンの被害をこうむったアシュケロンの領主は彼を手放しでほめた。
「まさかサムソンが実際に捕らわれるとは」
「いくら豪傑と言えども、同胞のため、とあらばメンツのため出て行かざるを得まい」
 これは、アビメレクの策略だった。
 まず、サムソンを激昂させ、言い訳のしようのない罪を彼に負わせる。そのタネ自体は何でもよかったが、彼はセマダールの家を焼打ちにさせ、彼が放火犯を殺すことを選んだ。どうせセマダールの家も裏切り者として白眼視されていたのだし、ティムナの町はサムソンのみならず裏切り者一家も処刑できて一石二鳥となるだろうという判断だった。事実それは当たりだったし、作戦に乗ってくれるものも多くいて実に事は進めやすかった。もっとも、その同胞たちは殆どサムソンに殺されてしまったが。
 とにかく、そうしてサムソンに罪を負わせた後は、ようやく決まりかけていた減税と自治の件の取り消しをちらつかせ、倫理的圧力も加えてイスラエル人を追いつめる。彼らが豪傑サムソンを縄で縛ってペリシテ人の前に差し出さねばならないように。そして、サムソン自身もめったな反抗ができないように。
 まともに向かっていってもあの怪力相手では打ち取れまい。アビメレクはサムソンに関して、そのような考えを持っていた。その上で、今回の作戦だ。
「まあ、少し考えれば分かることだ」
「いやあ、その少しがなかなか出来ないものだよ。これで君の名声も、さらに高まるだろうね」
「ははは、そいつはめでたい」
 彼らがそう話している間、サムソンは縛られたまま引き回され、ついにはレヒの広場に立たされた。
 まず、ユダの軍の長とマノアが、アビメレクの前に跪く。
「この通り、サムソンを連れてきたぞ。約束を果たせ」
 全く、命令口調で言えた立場か、とマノアの場違いなまでの誇り高さにあきれながら、アビメレクは証文を手渡した。サムソンと引き換えに例の詔を改めて認めるという旨のものだ。マノアたちは彼らの前に一瞬跪いたことすら屈辱だ、と言わんばかりに踵を返し、そのまま急いで帰っていった。アビメレクは別段腹も立てない。返って滑稽だ、とまで思っていた。ユダの軍隊と入れ替わりにペリシテの兵隊がサムソンを押さえつけ、広場に居るイスラエル人はサムソンだけとなった。

 サムソンは憮然とした顔で広場を見渡していた。
「そこの者」領主たちのそばに侍る、ペリシテの長老が言った。
「礼をせんか。ペリシテを治める領主様たちの御前だぞ」
「俺はイスラエルの士師。てめえらなんぞに下げる頭はねえな」
「無礼者!」声が湧き上がった。「お前はティムナの若者を何人も殺した大量殺人犯としてここに来ているのだぞ!」
「サムソンとやら」声を荒げる周囲達とは裏腹な静かな声で、アビメレクは高い椅子の上から彼に告げた。「イスラエルの士師とは聞こえたものだな。お前はイスラエル人に、ここに引き渡されたのではないかね?」
「ああ、ああいう奴らだから」
「ははは!自分の民を信頼せぬとは、下等民族は全く知れたものだ」
 アビメレクはそう言った。そして彼は「石打ちにせよ!」と合図する。その合図とともに、ペリシテ人は待ってましたとばかりに嬉しそうに沸き立ち、手に持った石を一斉にサムソンに向かって投げつけた。
 はずだった。
 石打ちの前に、サムソンを押さえつける護衛兵たちが離れた。無論のこと、自分たちまで巻き添えを食わないためだ。だが、それが命取りだった。サムソンは、その隙をついた一瞬で、自分を縛っていた縄から抜け出したのだ。

 どうやって抜け出した?と、次の瞬間、ペリシテ人たちは目を疑った。何のことはない。彼は、引きちぎっただけだ。自らを縛った強靭な縄を。まるで、焦げた亜麻紐のように。
 そして、そのペリシテ人たちが戸惑っている瞬間の事だった。ひゅうと空から、何かが降ってきて、サムソンはそれに合わせて手を伸ばした。彼の手に落下してきたそれは、ろばの顎骨だった。
「ありがとな、メレク」
 彼は言った。彼を追って武器になりそうなものを持ってきて、それを彼に投げ落としたメレクは、レヒの民家の屋上からワンと鳴いた。
 そして、さらに次の瞬間の事だった。ペリシテ人たちは慌てて彼に石を投げようとし、兵士たちは彼を取り押さえようとした。だが、彼はそこにはいなかった。いつの間にか一人の兵士の裏側に居て、ろばの顎骨で彼の頭を殴りつけたのだ。それは兜を貫通し、彼の頭を直接えぐった。その兵士の頭から血が吹き出、彼は絶命した。
「まだるっこしいな。要するによ、『大義』がありゃ、お前ら俺を許すんだろ?じゃ、俺は今からてめえらに反乱するぜ」

 広場に悲鳴が沸き起こる。パニックになった。サムソンは、そのできた隙をぬって、二人目を打ち殺しにかかった。次に三人目、四人目。まるで蟻をつぶすかのように、彼は、一秒一秒ごとにやすやす人を殺した。

 アビメレクは、目を疑っていた。大暴れするサムソンの、すぐ目の前で。
 パニックになる広場。有頂天だったペリシテの人々は逃げる事すらままならない。逃げる前に、サムソンが彼らをしとめる。たった一人しかいないのに。剣どころか、そこいらに転がっているようなろばの顎骨しか武器に持たぬと言うのに。彼は大勢でとらえようとすれば飛び上がって上に逃れ、剣を振り回される前にろばの顎骨を体に叩きこんで相手を殺してしまう。
「なんだ……なんだ、これは?」
 アビメレクはそうとしか言葉が出なかった。彼の護衛が慌てて彼に「お逃げください、領主様!危険です!」と言った。
 だが、アビメレクの耳にその言葉は届かなかった。彼はその様子から目が離せなかった。余りの惨状のすぐそばにいて、目が離せず、体が凍りついたかのように動かなかった。これは現実か?現実であるはずがない。そうに決まっている。あそこにいるのはたった一人の少年。百人でも、千人でもないのだ。それなのに、それなのに、やはり、目の前にあるのは現実だった。彼の頭はその異常を処理するのに精いっぱいで、目や耳、体を動かすどころではなかった。自分の護衛兵や他の領主が勝手に逃げてしまったことにすら、彼は気が付かなかった。人間業とは思えぬ俊敏な身のこなしで身長ほどもある輝く金の髪をたなびかせながら、その少年はいっそ見事、妙義ともいえるほど、ペリシテ人をあっさりと絶命させていく。次々と。アビメレクはそれを、たった一人玉座に座りながら見つめ続けていた。

 広場がようやく静かになるころ、広場には、ざっと千人の死体が積み重なった。その頃になれば、広場に生きている人間は二人しかいなかった。サムソンと、アビメレクだ。
「ろばの顎骨で、一山、ふた山、ろばの顎骨で、千人を殺した……俺は、千人殺した」
 サムソンはそうぶつぶつ呟いていた。
 アビメレクはただ、微動だにせず玉座の上に座っていた。サムソンはゆらりと、血で真っ赤に染まったろばの顎骨を持ったまま、彼の前に立つ。そして血にまみれた顔で、彼に言った。
「おい、おっさん。俺はまがりなりにもイスラエルの士師、あんたは今回俺を捕まえたペリシテの領主だ。民族を統べる者同士、俺はあんたとサシで対話する権利はある。そうだよな?」
「……ああ」
 冷静に考えれば、まだほかに言うことのある状況だった。だが、アビメレクはまるで催眠状態にかかったように、サムソンの言葉を聞いた、真っ赤に輝く血の色に心を惑わせられたかのような思いだった。それは恐怖の一言で片づけるには、あまりにも複雑な感情だった。いや、むしろ、恐怖ではない事だけが唯一、確かだった。
「見ての通りだ。俺はあんた達に向かって反乱した。それであんた達を打ち取った。……じゃ、俺の要求を飲んでもらえるだろうな?」
 サムソンはアビメレクを睨みつけてそう言った。要求と言うよりも脅迫であったが、アビメレクはなぜか、そうと思わなかった。感性が麻痺したような気もしていた。
「……うむ」
 彼は、なめきっていた少年に接する態度ではないのはもちろんのこと、恐ろしい殺人犯に向かい合う態度でもなかった。この惨憺たる状況とはまるで裏腹にそこには対等な民族指導者同士の談話があり、しかもアビメレクは敬うべき相手の要求を素直に聞くときの心情と似たような気持ちを、その時なぜか持ったのだ。
「減税と自治の件だ。五部族じゃなく、十二部族全部に認めろ。……それと、減税もこれっぽっちじゃ減ったことにもなんねえよ。あー……そうだ。いっそてめえら、俺らから税なんてとるんじゃねえ。俺らはイスラエル人だ、ペリシテ人じゃねえ。今日を持って、お前の口自ら、イスラエルは自分たちに服従する存在じゃない、って言え。もちろん十二部族全部だぜ。他の領主の野郎どもにも伝えろよ。これが俺の要求だ。どうだ?おっさん」
 アビメレクは、「ああ、承知した……」と、ぼんやりとした声で言いながら、不思議と、流れるように勅命を書いた。


 マハネ・ダンに戻ってきたサムソンを出迎えたのは、あの日ユダの軍勢と会った時とはうって変わっての歓迎の声だった。それはそうだろう。彼のおかげで、イスラエルはペリシテの支配を逃れたのだ。
「サムソン、サムソン!」彼らはペリシテ人とは全く違う大歓声を持って、彼を出迎えた。
「イスラエルの救い主よ!」
 サムソンを迎えるための色とりどりの上着が敷かれた道の上をマノアがやって来て、彼を抱擁した。
「お前がこのたびやったことを、私は誇りに思うぞ、サムソン!」
 サムソンの方が彼よりもずっと背が高いので、マノアは息子の胸板に顔をうずめる形になった。
「ダン族だけではない。ルベン、シメオン、ユダ、イサカル、ゼブルン……偉大なるヤコブから出た十二の部族のものは皆、お前に本当に感謝し、お前を祝福しているぞ!さあ、お前を祝う宴会の前に神様の前に礼を言おうではないか。お前にこれほどの栄光を与えて下さった偉大なるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に祝福あれ!」
「まあまあ、こんなに汚れて……」
 ハツレルポニも出てきて、一人で長旅の末帰ってきた息子を祝った。
「宴会の前に、体だけでも洗ったほうがよさそうですね」
 マハネ・ダン中が盛り上がり、彼の帰りを祝福した。デリラは彼が帰ったのを屋敷で掃除をしながら、その歓声を聞いて知った。そして、それを喜ばしく思った。


「……何たることだ!」アビメレクはすっかり人のいなくなったレヒでそう呟いた。あの後も数時間放心状態にあった彼は、日没にも近づくころ、広場に広がる赤い水面に映る夕日を見て、ようやく我に返った。レヒの広場に広がった大量の血はまだ乾かず、まるでそこに血の泉が湧いたかのようであった。
 何故、言われるままに彼の言い分を聞いた?恐れた?自分が、イスラエル人の、あんな道理も分からない少年如きを?このままでは自分も殺されると思い尻込みしたというのだろうか?冷徹で知られた自分……事実同胞たちの血の色を見てもどうとも思わないこの自分が……。我に返ってみれば、アビメレクの心の中には耐えがたい屈辱がむらむらと湧いてきた。
「(サムソン……まさかここまで滅茶苦茶な存在だったとは……)」
 彼は自分の誇りを傷つけたサムソンに、今一度、尋常ならざる恨みを覚えた。
「(覚えていろ、あのイスラエル人の小僧が!この私がお前を必ずや、死刑にしてやるわ!)」


 宴会が終わり、ようやくサムソンは開放された。彼は自分の部屋にフラフラと入ってきた。デリラはすでに仕事を終えて、彼を待っていた。
「おかえりなさいませ。おめでとうございます」
 デリラは彼にそう告げる。そして、どっかり座った彼の三つ編みをほどいて、水桶の水で静かに洗い始めた。さすがの彼の艶やかな髪も、いささかばかりもつれているようだった。彼女は丁寧に、彼の髪を洗った。
 デリラはふと、不思議に思った。サムソンからの返事がない。サムソンは、ずっと嬉しくなさそうにふさぎこんでいた。
 理由を聞くべきか、とデリラは思ったが、サムソンは沈み込んでいるようで、その気にもなれなかった。
「デリラ」彼がやっと口を開く。
「はい」
「可哀想に、って言ってくれ」
 彼は全く唐突に、そう言った。
「可哀想にって言ってくれよ。誰も、言ってくれなかったんだ。俺、今度は悪いことしなかったのに、誰も言ってくれないんだ」
 デリラはその言葉を受け、サムソンの金髪の汚れを洗い流しながら、赤ん坊を落ち着かせるように「お可哀想に、サムソン様」と言った。
「俺は道具か?」
 彼は、デリラに言った。小さな、小さな、間違っても部屋の外には聞こえないだろうという音量で、彼女に言った。
「イスラエルの誇りを汚したら、自分の息子でもあっさりペリシテ人に引き渡す。そんなことしても、イスラエル人の誇りのため戦ってきたら、大喜びで迎える……なんだよ、それ?それ、親のすることか?俺、子供じゃないのか?道具なのか?イスラエルのために働く道具なのか?」
 彼の声は本当に小さかった。万が一にも、マノアやハツレルポニに聞こえることがないように、と言った風であった。
「いいえ、サムソン様は、道具ではありません」
「じゃ、なんで俺のジジイは、俺をそう言うふうに扱うんだよ」
「……お可哀想に、サムソン様」
 デリラの持った手拭いは、彼の金髪に付着した血のかすと荒野の埃で、どんどん黒く染まっていった。

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