第14話

文字数 6,662文字


「決心がついたのかい?」
「……はい」
 アビメレクはデリラを奥に通した。彼は薄く微笑んでいた。嬉しそうだった。他のペリシテの領主たちもそれを聞いて部屋に一堂に会し、全員でデリラと向かい合った。
「……本当にできるのか?」
 エクロンの領主が疑わしげにデリラに言う。デリラは「はい」と言った。
「……サムソンは」
 どうやって?普通に縛り上げてもあれは抜け出してしまう、と、彼らが口々に言いかけようとしたところ、デリラは彼らの機先を制して口を開いた。
「サムソンは、人間離れした怪力の持ち主です。……おそらく、それは、イスラエルの神が彼に力を与えているからなのでしょう」
「証明のしようもないが、確かにそれが一番説明がつくことも事実だ」アシュケロンの領主が相槌を打った。「説明をするには、あまりに常識から離れすぎているからね」
「サムソンは、ナジル人です。生まれた時から彼は、神にその身を捧げられた存在なのです」
「それと引き換えに、神が力を与えているということか?」と、アビメレク。
「はい。……おそらくは」
「それで、どうなるんだ?」と、ガトの領主が聞く。デリラはそれに答えた。
「……ナジル人は、三つの誓いを立てます。一つは、葡萄を食べないこと。一つは、死体に触れないこと。そしてもう一つは、髪の毛を切らないことです。……サムソンは、このうち、二つの誓いを破りました。私の目の前で、です。……もしも、最後の誓いを破れば」
「……サムソンは神の加護を失い、全くの無力になる、と?」
「無論断定はできません。しかし、可能性があります」
「可能性、ねぇ……」と、アシュケロンの領主。「だが、可能性であっても縋らねばならんのが我々の現状と言うことも、また確かだ」
「デリラとやら、それを、君が?」と、アシュドトの領主が言う。
「はい。私以外に、それができる方など、おられますでしょうか」
「……無理だろうな」アビメレクが言った。
「結構!デリラ、君にこのランプを渡しておこう」
 アビメレクはデリラの手に、一つの銀無垢のランプを手渡した。
「金曜の夜、君がサムソンの髪を切ったら、このランプに明かりをともして合図したまえ。我々はサムソンの家に乗り込み、無力になった奴を連行する。それでいいね?」
「かまいません」
「よし」アビメレクは本当に、嬉しそうだった。「それではデリラ。君は……」
「ですから、領主の皆様」デリラはあくまで控えめに、しかし奴隷の卑屈さは、今までの彼女からすれば不思議なほど感じさせない堂々とした声音で告げた。
「厚かましいとは存じますが、礼金を頂きたく思います。それで……どうか、これきりとなさってください。このような私にペリシテ人に戻るがよい、と言ってくださったお気持ちは大変光栄に思いますが、私はもう、ペリシテに帰れる身ではございません。ダゴンの信徒を名乗るにはイスラエルに汚されすぎてしまいました。イスラエル人をペリシテに迎え入れたとあっては、皆様の恥にもなりましょう。ですから、礼はお金でいただきたいのです。イスラエルの娘をお金で雇ったと、今回の事は、そう言った形にしてほしく思います」

 デリラの言葉に、アビメレクは目を瞬かせていた。信じられないと言った風に。だが他の領主たちは、彼のそんな様子などには気が付かないようだった。
「それでいいのか?」エクロンの領主が言った。「分からんものだな。イスラエル人は君を丁重に扱っていたわけではないのだろう?」
「ええ、でも、もう決めたことです」
「まあ、それならそれで我々は別にかまわんのだがね……金を惜しむ気もない。間違いなく、礼に値する事ではあるし」アシュケロンの領主が、少し驚きながら言う。
「とりあえず、我々一人銀貨で千……いや、もう一声色を付けて千百枚位ならすぐにでも都合できる。五人分で五千五百だ。そんなものでいいかね」
「ありがとうございます。結構です。では、そのお金を決行日の前まで……町はずれの荒野に、石を積み立てて作った小さなお墓があるのです。そのお墓に埋めてほしく思います」
「了解した」
「ありがとうございます。では、私はこれで」
 デリラはぺこりとお辞儀をして、踵を返した。その後ろから、追いかけてくる影があった。
「デリラ!」
 アビメレクだった。彼は、悲痛な顔でデリラに取りすがった。
「私のもとに、帰って来てくれるのではなかったのか?」
 彼は震える声で言った。デリラには、彼の気持ちも分かる。自分だってずっと、父親か母親、そのどちらかに会いたかった。
 しかし、デリラはもう決めた。サムソンの泣く顔を見たとき、親と一緒に暮らしたいという自分の気持ちは、掻き消えてしまったのだ。
「お前はサムソンを捕える手伝いをしてくれるのだろう?」
「はい」
「なら、何故ペリシテに帰ることを拒む」アビメレクは膝をつき、娘の肩を抱いた。「イスラエルに汚されているだと。誰にもそんなことは言わせない。この私が、誰にもお前に文句など言わせない。本当だ、信じてくれ。だから……」
「ありがとうございます。でも……」
 デリラは包帯の奥で、口元を笑わせながら言った。父親の目を、しっかり見つめて。
「サムソンを、愛してしまいましたから」
 それを聞いて、アビメレクは目を丸く見開いた。冷徹な君主に似合わない、幼い表情だった。デリラはくすりと笑って、続ける。
「サムソンは、ペリシテ人を何人も殺してきました。ペリシテの領主の皆さんが彼を殺そうと思うのは、当然の事だと思います。サムソンに一番愛している人を殺された人も、命にも代えがたい程大切なものを壊された人も、何人も、何人もいらっしゃるでしょう。だから、サムソンを憎む気持ちを、私は否定できません。ここで死ぬなら、彼のその罪が償われるということなのでしょう。……でも、それでも、あの人はずっと一人だったんです、親にも、誰にも愛されなくて、あの人もずっと、可愛そうな人だったんです」
 ふと気が付いた。アビメレクの自分を見つめる目は、どこか、サムソンのそれに似ていた。ああ、きっと母も、このような気持ちだったのかもしれない。このような気持ちで、この男の人を愛して自分は生まれたのかもしれない。
 自分は汚れていると思っていた。しかし、今思える。このような気持ちのもと作られた自分は、大変な幸せ者だ。なぜそんな自分が、汚れているものか。
「だから、私はイスラエルを離れません。彼だって、最後まで誰かがそばにいて……愛されたって、いいはずですから」
 ではなぜお前はサムソンを裏切る。そう言う問いかけがされるかも、とデリラは考えていた。だがアビメレクは一切そのような野暮なことは聞かなかった。
 彼にも、何かが分かったのだろう。
「……どんな人間にだって、一生に一度くらいは、無償の愛なるものを受け取る権利がある」アビメレクはポツリと呟いた。
「お前のお母さんが言っていたんだ。私を抱きしめながら……何度も勇気づけてくれた言葉だ……デリラ。お前はお母さんと同じだね、本当に、同じだ」
 アビメレクは立ち上がり、そっと娘の頭を撫でた。
「行くがいい。私に邪魔する権利などない。私もあの時、お母さんと一緒にいた時にその愛を与えられるのを邪魔されようものなら、絶対に許せなかっただろうから」
「ありがとう……ございます」
 デリラは自分の頭から手が離されたのを見届けると、銀無垢のランプを揺らしながら、宿屋を後にしていった。

 木曜日が終わろうとするとき、デリラはメレクの墓に、彼と一緒に五つの袋が隠されているのを見つけた。彼女はそれを、秘密の場所に持っていった。


 金曜の晩の事だった。
 デリラはサムソンと一緒に、彼の部屋にいた。彼は、夕食に出たパンを一つ部屋に持ってきていた。
「デリラ。今日もお疲れさん」彼は言った。そして、パンを裂いて、彼女に大きく裂けた方を手渡した。
「あれっぽっちの飯じゃ足りねえだろ、食えよ」
 デリラは彼の手ずから渡されたそのパンを受け取り、自分の唇に押し込む。彼もいっしょに、小さいほうのパンを食べた。
 彼は三つ編みも解かないまま、寝台に座るデリラの膝を枕にして、寝そべった。デリラはそんな彼の額を静かに撫でた。
「なあ、デリラ」彼は言う。
「なあに?」
「俺、大人になりたくねえな」
 彼はもう一度、そのことを言った。デリラは包帯の下で笑って「ええ」と言う。
「俺が大人になったら、俺、お前と結婚したくなるから」
 彼は彼女の顔を見上げながらそう言った。
「結婚したら、あんなことしなきゃならないんだろ。そんなのはいやだ。したくないし、お前がされるのも嫌だ」
「大丈夫、大丈夫よ。サムソン」
 その会話は、非常に穏やかで温かかった。非現実的と言ってもいい心地だった。彼らはまるで、そこが外界から隔離された夢の空間のように、話し合った。
「デリラ、俺、お前が好きだ」
「ええ、私も」
 驚くほど、二人ともその言葉をするりと発した。
「デリラ。俺を、憐れんでくれてありがとう。俺のそばに居てくれて、ありがとう。……大丈夫だ、って言ってくれて、本当にありがとう」
 サムソンは何を分かっていたのだろうか。彼の勘がなせる技かもしれない。しかし、ひょっとしたら、彼はデリラの心をすっかり分かっていたのかもしれない。そう、デリラは思った。デリラにも、サムソンがこれから何を言うか分かっているような気分だった。サムソンが言う言葉の一つ一つに、全く意外性がなかった。まるで自分の心とサムソンの心が同一になった気分だった。
 デリラは彼を自分の膝に乗せ、ずっと彼の頭を撫で続けていた。彼はデリラを下から覗き込み、言った。
「お前、髪が伸びてきたんだな」
「ええ」
「いいな、お前の赤毛。素敵だ」
「ありがとう。顔は酷いものだけど」
「顔がどうしたよ。お前は赤毛が綺麗で、そして、あったかいんだ。それで十分じゃねぇか」
 サムソンはそう言って、デリラの細く痩せた膝に深く顔をうずめた。
「あったかい。お前、本当にあったかいよ」
 痩せこけて骨ばんだ体、働き疲れて冷え切った体を、サムソンはそう言った。そして、その上で涙を流した。デリラも彼と一緒に泣いた。彼らの涙は寝台に転がり落ち、そして、一緒になって混ざった。
「サムソン」
 泣きながら、彼女は彼に告げた。
「大人になんか、ならなくていいのよ。サムソンは、今までずっと頑張ってきたんだもの。何十年も生きている大人よりずっと、頑張って、頑張りぬいて、生きてきたんだもの」
 彼女の涙が、彼の顔に転がり落ちた。デリラは、サムソンの頬を優しく撫でる。サムソンは、彼女の言葉に「ありがとう、ありがとう、本当に、ありがとう」と、何度も、何度も繰り返した。


 夜は更けて、遅い時間になっていた。彼は、デリラに「頼むから、寝ないでくれ。そこに、いてくれよ」と言った。彼もデリラも、泣きに泣いて、非常に疲れていた。
「ええ。大丈夫よ。サムソン。私はずっと起きているから」
 彼女もう一度、彼の頭を撫でた。そして、自然に歌を歌った。ペリシテ人の子守歌だ。
 自分は、この歌をどこで初めて習ったのだろうか。屋敷に仕える乳母が、屋敷の子供に歌っていたものだろうか。それとも、覚えてもいないほど遠い遠い昔に、彼女の母が、彼女に歌ってくれたのだろうか。
 サムソンは、それを聞いて心地よさそうだった。やがて彼はデリラの膝の上で、穏やかな寝息を立てて、眠りについた。


 デリラは、衣服の懐から鋏を取りだした。そして、サムソンの七房の三つ編みのうち、一つの根元をつまみ出し、刃を当てた。
 デリラが鋏に力を込めると、それは動いた。絹糸のようにしなやかで美しい彼の金髪に、二枚の刃が食い込む。デリラは毎日のように自分が手入れし、磨き上げてきたその金髪に、一層強く刃を付きたてた。プチリ、とした感触があった。一本、彼の髪が切れたのだ。
 彼女は切り続けた。プチリ、プチリと根元から、彼の金髪はまるで素直に、奴隷にすぎないデリラに追従するように彼の頭から離れた。一度に大量の髪が切れていくその様子は、音楽的ですらあった。
 しかし、デリラは決して、乱暴にしはしなかった。彼女は彼の髪の毛と、そして彼自身をいたわるように、丁寧に髪を切った。やがて、三つ編みの一本が彼の頭を離れ、だらりと寝台にその身を横たえた。
 これでいい。これでいいのだ。奴隷が鎖で縛られるように、サムソンはこの髪の毛に縛りつけられてきたのだ。親に、イスラエル人に。そして、イスラエルの神に。この長い、美しい金髪は、彼を生まれた時から拘束し続けていたのだ。
 そんなものはいらない。誰も切らないというのならば、自分が切ってやろう。例え神が許さなくても、自分がそれを許そう。サムソンはずっと、そうしてくれる人を探していたのだから。惨めな奴隷の自分を憐れんでくれる人を。
 デリラは切り続けた。いたわるように、優しく、彼女は鋏を動かして、彼の金髪を切っていった。二房、三房、彼の三つ編みはどんどん彼の頭から離れた。丁寧に、美しい切り口を持って、彼らは熟れた果実が木から離れるように、サムソンの体を離れていった。
 そして、最後の七房目に、デリラは刃を突き立てた。掌に感じる滑らかな髪の感触。デリラはそれを、たまらなく、いとおしく思った。鋏が数百、数千の髪を切り刻む。彼女は最後まで気を抜くことはなかった。自分がずっとこの髪にしてきたように、細心の注意を払い、丁寧に、彼の髪を切ったのだ。やがて、七房目の最後の一本が切られ、寝台に落ちた。短髪になったサムソンは、まるで、別人のように思えた。
 デリラは部屋に点してあった蝋燭から火を移し、サムソンの部屋に隠した銀無垢のランプを点した。そして、それをそっと彼の部屋の外に吊るした。


 ほどなくして物音が聞こえた。どかどかと、サムソンの邸宅に殴り込む音。悲鳴が聞こえる。
 ふと気が付くと、サムソンが目を覚ましていた。しかし、彼は自分の髪の毛が切られていることに何の疑問も示さなかった。
「なんだ?デリラ」
「ペリシテ人が来たの」
「そうか」
 サムソンはそう言った。
 マノアと、ハツレルポニの声が聞こえる。彼らは叫んだ。叫んだあと、全く彼らの声は聞こえなくなった。切り捨てられたのだろう。
「サムソン」
 デリラは、寝ている彼に顔を近づけた。そして、彼の唇に、自分の唇を重ねた。彼も腕を伸ばし、彼女の両頬を抱いた。
 何秒、そうしていただろうか。足音が近づいたのを聞いて、サムソンは彼女から顔を離した。
「ありがとう」
 最後に、彼は言った。
「ありがとう、デリラ。行ってくるよ。いつもみたいに」
「ええ」
 彼女も、笑って言った。
「行ってらっしゃい、サムソン」

 彼が部屋から出ていく。「サムソンはここだ!」彼の声が聞こえた。そして、いくつかの物音。激しい音は一切しなかった。やがて、足音は去っていき、彼らが家を出たのがわかった。
 デリラはしばらく、サムソンの部屋の中にいた。サムソンが残した七房の金髪を手でまとめ、それをいじっていた。サムソンに歌っていた歌を、口ずさみ続けながら。すると、再び部屋に向かってくる足音があった。それがサムソンのものでないことは簡単に分かった。
「……作戦は成功だ」
 そう言って入ってきたのは、アビメレクであった。

「サムソンは、別人のように非力になってしまった。まるで……ただの十四歳の少年にしか過ぎないように」アビメレクは、デリラにそう告げた。
「今までの苦戦が嘘のように簡単に彼を捕えることができた。ガザに……私の町に連行されているよ」
「そうですか……」
 デリラはうつむいたまま、金髪を丁寧に撫でていた。
「デリラ。お前は……お母さんの事を、少し覚えていたんだね」
「え?」
「今さっき歌っていた歌……私はよく覚えてる。私をなだめようとして、お前のお母さんがよく、その歌を歌ってくれたのだ」
 それを聞いて、デリラは非常に、温かな気持ちになった。
 愛があったのだ。父と母、母と自分、サムソンと自分、全ての間に、同じほど温かく純粋な愛があったのだ。
「私の事は気にするな。好きなようにするといい。父は、娘をいつまでも手放さない権利など持っていないもの。お前はサムソンの花嫁だ。お前の母が……永遠に私の妻であるように」
「ええ」デリラは言った。
「ありがとう。お父さん」
 その言葉を聞いて、アビメレクは目を細め、満たされたように微笑んだ。そして、自分を待つ部下たちのもとに帰っていった。

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