第9話

文字数 11,880文字

 水月は、しみじみと実感した。
 今の自分には、長さが足りない。
 手足の長さもだが、何よりも背丈が足りないせいで、昔の動きの感覚が、全く掴めない。
 あれでは、役に立たなかったかと、今では趣味の域の行動を反省する。
「やはり、触るだけで視覚のない時の感覚を、補うのは無理があったか」
「何、訳の分からんことを、言ってるっ? 早く動けっ」
 唸る少年に、大男が喚いた。
 声に余裕がないのは、セイに襲い掛かろうとしていた者を羽交い絞めにして、そのまま絞めあげているせいだ。
「動いている。ただ、今の背丈では力不足だと、嘆いているだけだろうが」
 水月は答え、立ち尽くしたまま絶命している、自分よりはるかに大きな女を見上げた。
 背と手の長さが足りなくて、剣の刃が喉仏で止まっていた。
 昔なら、骨の節をうまくすり抜けて、首を貫通しているはずの業だ。
 一撃で、首を刈り獲れるはずの動きが、今は出来ないようだ。
 舌打ちして無慈悲にその死体を蹴り倒し、全体重をかけて刃を首の奥に突き立てる。
「ただでさえ体力がないと言うのに、面倒な事だな。やはり、斧にしておくべきだったか?」
 しかも、抜くのにも力がいる。
 舌打ちしながら剣を抜こうとしている水月に、チャンスとばかりに殴りかかる大男の背に、それより小柄な男が飛び降りた。
 振り向く間もなく、首を刈り取られ、大男は無言のまま倒れた。
「……ん? カスミの旦那の親族にしては、骨がなさすぎはしまいか?」
 首を傾げながら、次に襲い掛かる男を一凪ぎする重は、妙に身軽だ。
「……お前、武の心を捨てたのか?」
 その身軽さは、武道を志す以上のものになっているように思え、水月がつい尋ねると、袴姿の男は少し考えて答えた。
「拾ってくれたのは武家だったが、名を売る気のない方でな。一家総出で旅三昧だったのだ。それ故に、少し筋が荒くなってしまったのであろう」
 そうなのかと納得した水月と共に、目標を見失ってがむしゃらに襲い掛かる連中を、確実に絶命させる。
 その様子を見ながら、ウルがようやく一人片付け、つい呟く。
「化け物が、二人か」
 聞きとがめた少年が、睨む。
「獣の化け物が、人を化け物扱いか。使えん化け物よりは、オレの方がなんぼかましだろうが」
「それだって、限度がある」
 睨み返して反論する狼に、水月は舌打ちした。
「何で、こんな図体だけの男を、あの旦那は使うと決めたんだ? いまいち分からん」
 凌の代わりにしては、弱すぎると吐き捨てる少年に、重は苦笑した。
「否定するには、その者を知らなすぎる」
 助け舟を出そうにもできないと言ってから、男は別方向にいるはずの若者の方を見た。
「だが、向こうの事情なら、少し聞いた。ここでその者を使う理由は知らぬが、この者を世に戻した理由なら、想像できたぞ」
 正確に言えば、後者の事情を考慮すると、おのずとウルを使う理由が見える。
「……どういう意味だ?」
「お前たちを補佐していた者は、別にこ奴らの事などどうでも良かった、という事だ」
 ただ、報酬を申し出られて、それならと願い、その代わりにこの件に係ったのだろう。
「襲う事情はあるが、本当に憎い者は、この中にはいないらしいからな。気が晴れる程度にしか、ならぬであろう」
 見届けるとは言ったが、この後どうするつもりなのか、重は気にしていた。
「あそこまで話してくれたのも、気まぐれ程度の所作のようでな、深く訊く事が出来なかったのだ。機会があれば、お前さんも訊いてみてくれぬか?」
「機会があれば、な。律は気にしているが、あまり顔を合わせる間柄でもない様だ。オレの事は気にするなと、言っているのだが」
 苦笑する少年の言葉に首を傾げ、重は思い当たって頷く。
「ああ、お前をこの世に呼び戻した旦那の、弟君の件か」
「もう少し成長してから、再挑戦するのもいいかと思ってはいるのだが、このまま会わずに、別な面白い事に挑戦するのもいいかと、思っている所なのだ」
 襲い掛かって来る敵を瞬殺しながら、重が首を傾げて考え込んだ。
「ん? 何だ?」
 少し要領を思い出し、同じように敵を瞬時に斬り捨て始めた水月が見とがめると、男は慎重に問いかけた。
「あの旦那、あの子の伯父に当たるはずだな? あの人の父親違いの弟が、あの子の父親だと聞いているのだが……」
「らしいな。だが、あの旦那と凌の旦那とは、一滴の血の繋がりも、感じられん」
 クリスと名乗る男とは、定期的に顔を合わせている。
 水月は一度だけ、この疑問を男に対して口にしたことがあった。
 なぜ、素直に血の繋がらない兄弟だと、凌に告げなかったのか?
「こいつらに対抗する人材と言うのだから、要らぬ慈悲を感じさせるのはおかしかろう? 実際、凌の旦那は躊躇して見逃してしまった。その時には、全くの赤の他人の親族だと知っていたはずでも、情は湧いてしまったのだろう」
 もしかして、わざとなのかと、そう訊いた。
 答えは、否定だった。
「言った時は、まだあの旦那もその兄も、若かった。だから、信じたくなかったのだろうと、そう言った」
 母と思っていた女が、名ばかりの正室で、自分たちの母親は、それぞれ別にいると言う事実を。
「複雑だのう……」
 呆れ果てて首を振る重と水月は、着々と事を成していたが、不意に動きを止めて振り返った。
 大男の前に、一人の女が立っていた。
 西洋系の顔立ちの、美しい女だ。
 優雅に微笑んで、狼の大男を見据えていた。
「面白い玩具が手に入りそうだと、クリスに言われたんだけど、この狼の事じゃあ、ないわよねえ。あら」
 優雅に視線を流して見た先の、少年を見つけて破顔する。
「あの子ったら、また面白い子を作ったのね。しかも……珍しいものまでいる」
 微笑んで水月とその隣に立つ男を見て、面白そうに笑った。
「いやだ、そんなに怖い? 命乞いは大歓迎よ。無駄だけど」
 男の背後から、新手が襲い掛かるが、重はあっさりと反撃した。
「……違うな。重なっておったから、危うく強敵かと、身構えてしまった」
「全くだ。おい、狼が怯えてるぞ、これ以上使い物にならんようには、しないで欲しいんだが」
 水月も呼びかけながら、再び襲って来た敵を打ち払う。
 意味不明な言葉に、顔を歪めた女の背後から、やんわりとした声が言った。
「何をよそ見してるんだ? こっちはあんたが出てくると聞いて、楽しみにしてたのに」
 女が振り返る前に、背後から腕を攫まれ、その体を後ろへと投げ出された。
 声を上げる間もなく、後ろへ飛んでいく女のいた場所で、若者は目だけをウルに向けた。
「ウル小父さん、しっかりしてくれないかな」
「お、おう」
 立ち尽くしていた大男が、何とか頷くのを見て、セイは微笑んだ。
「後の奴の始末は、お願いするよ」
「わ、分かった」
 何故か目を見開くウルから、頼りになる二人へと視線を流した若者は、微笑んだまま言った。
「あいつは、私が貰います。後はよろしくお願いします」
「身元が分かるようなところは、残すんだぞ」
「はい」
 何とか注意する水月に頷き、セイは踵を返して女を追って行く。
 その背を、目を見開いたまま見送った大男が、我に返って叫んだ。
「こらっ、そんなに走ったら、転ぶぞっっ」
 勢いよく追って行こうとするウルを、水月は呆れながら止めた。
「お前の方こそ、頭の中が転んでないかっ?」
 足払いをかけて倒し、更に起きようとする大男を足蹴にする。
 全体重をかけたまま、隙をついて襲い掛かる敵を斬り払うと、少年は溜息を吐いて感想を述べた。
「オレがおかしいのか、この男が鈍いのか。どっちが正しい感覚だ?」
 嘆くような問いかけに、重は苦笑した。
 難しい質問だ。
 自分と水月の手を、止めさせた気配。
 今まで、感じた事のない類のものだった。
 怒りでも殺意でもない、ただ、言いようのない戦慄が、背筋を走った。
 その正体が、無邪気に笑う若者から発せられていたのが意外だったが、妙に納得してしまった。
「……あれが、素だったのだな」
 仕事の時の笑顔とも、いつもの無感情の顔とも違う、素直な顔。
 気を抜いていたら、取り憑かれていたかもしれない、そんな警戒すらしてしまいそうだった。
 だが、気安い者にとっては、そうではない様だ。
 水月の足元で、じたばたと暴れる大男を見下ろしながら、重はそんな感想を抱いた。

 セイは追いかけた女を見つけ、しみじみと見つめながら思った。
 やはり、何も感じない。
 祖母を油断させたその容姿を見るのは、あの時以来だ。
 祖母を死なせた張本人が目の前にいるのに、怒りも憎しみも湧いてこない。
 地面に転がっていた女が、顔を顰めながら身を起こしてこちらを見た。
 その顔が驚きを張り付かせ、すぐに笑顔になったが、引き攣っていた。
「お前、生きていたのか。まさか、あんな状態で生き続けられるとは、余程運がいいのだな」
 声を抑えた憎まれ口に、セイは微笑んだ。
「これを、運の良しあしで分けるのなら、そうでしょうね。こうして、あなたとも再び会えた」
「だが、その運も、ここで尽きるようだな。私の前に、再び顔を見せてしまったのが、お前の運のつきだ」
「そうですか?」
 血走った目の女を見下ろし、若者は首を傾げながら返した。
 その背後から投げられた縄を、立ち塞がった大男が攫み、腕に巻きつけた。
 ドスの利いた掛け声とともに力任せに縄を引き、力づくで引っ張られて、飛ぶように引き寄せられた男の顔面に、思いっ切り拳を叩きこんだ。
「運の尽きが来たのは、あなたの方に思えますが」
 目を剝く女は、周囲の自分の仲間たちが次々と殲滅されているのが、信じられない様だ。
「一つだけ、意見があるんですが」
 そんな女に、セイは静かに切り出した。
 こちらを見返す目を見据え、若者は言った。
「その姿、いつまで続けるんですか? 私はその人を知らない。知っていたとしても、姿だけで取り乱せるほど、優しい性格もしていない。あなたの本来の姿が年を取っているからと、気遣ってしまう事を懸念しているのなら、要らぬ心配ですよ。負ける言い訳にする気なら、話は別ですけど」
 微笑む若者に、女は目を剝いたが、それは怒りのせいだった。
「このガキが、舐めんじゃねえっ」
 瞬時に姿を変え、襲い掛かる男を見やり、セイは少しだけほっとした。
 若い体で確実に、自分を抹殺する気で来てくれた。
 それなら、こちらも思いっ切り、反撃できると言うものだった。

 風が、静かに流れて、凌にもその場が元に戻ったのが分かった。
 広い土地に、崩れた屋敷がポツンと建っている風景が、目の前に広がる。
「半日ほど、早く済んでしまったな。首実検と行くか」
 傍で立っていたクリスが言い、手を振る少年に近づいていく。
「……」
 凌は、その幼い姿を遠目に見て、躊躇った。
 近くで様子を伺っている、良を振り返る。
「顔は、覚えているんだよな?」
「勿論です」
「なら、シュウレイと、顔を確かめてくれるか? あの中にいてくれるのなら、肩の荷が下りる」
 良も頷き、珍しそうに周囲を見回していた姉弟を促した。
「えげつないものを見せますが、容赦ください」
「大丈夫だよ。私もこの子も、ある程度のえげつなさは、見慣れてるから」
 言って男の後に続いて足を踏み出した女は、すぐにそのえげつないものを目撃した。
「久しぶりだな、ここまでの血の匂いは」
 弟も顔を顰めながら歩き、血まみれの実行者たちと顔を合わせた。
 疲労困憊している、狼の大男が座り込むその傍で、もう一人の大男が、弟の息子に胸倉を攫まれている。
「お前なあ、人をボール球みたく、放り投げてんじゃねえっ」
「ボール球は、そんなに持ち難くねえよっ。ボール球になりたきゃ、もう少し丸くなれっ」
「そう言う事を、言ってんじゃねえんだよっ」
 吐き捨ててから更に喚こうとする前に、雅がやんわりと尋ねた。
「で、葵君? あの子は?」
「あ、あいつは……」
 言い淀んだ男の言葉で何故か、ロンが笑った。
「そうだわ。ウルちゃん」
「な、何だ?」
「ちょっと、八つ当たりしてもいい?」
「いいわけ、ないだろうがっ」
 座り込んだままの大男が、僅かに腰を浮かしながら喚く。
 その背に隠れて、少年がそっと律の傍に移動した。
「……おい、何で、あの娘がいる?」
 少し離れて立ち、良とクリスが残った首をかき集めているのを見守っていた律が、気のない様子で返事をした。
「ここにいるはずの子を、迎えに来たんですよ」
「……ああ、成程な」
「あの子は、どこに行ったんですか?」
 知っていて当然と問いかける弟子を上目遣いに見、水月は返した。
「言ったら、許してくれるか?」
「何を、ですか?」
「黙って学校をさぼった事を、だ」
 律が、やんわり笑い、少年を見下ろした。
「許してもらわないといけないのは、それですか?」
「義務教育で、そこまで金は使っていないだろうが、給食費は払っているだろう?」
「……」
「一日でも休んだら、それが無駄になる」
 言った水月の頭に、拳が落とされた。
 体重をかけた分、強い力がこもったそれは、まだ幼い少年には充分な衝撃だったが、水月はすぐに立ち直った。
「お前、虐待だぞっ」
「人聞きの悪い、これは、躾ですっ」
 つい口走った少年に、吐き捨てる様に反論してから、律は言った。
「あんな、虫の這ったような書置き一つで黙って家を出ておいて、何でそんなに偉そうなんですかっ」
「む、虫の這ったようなは、ひどいだろうがっ。丁寧に書いた字をっ」
「何と書いてあるのか、読めないくらいなのに、丁寧と言い切りますかっ?」
 息切れ気味になった弟子を見上げ、水月は目を見張った。
「読めなかったのか? そうか、なら、あの書置きは忘れろ。予定が変更になったんだ」
「はあ? 何を、勝手な事を……」
「ほら、怒鳴り過ぎて、疲れたんだろう? 徹夜明けに、無茶はするな」
 誰のせいだと睨む律に、少年は優しく笑った。
「明日からは学校も行く。だから、そう怒るな」
 気楽な少年と、空を仰ぐ律を見守り、雅が首を傾げた。
「変な、親子ですよね」
「まあ、な」
 鏡月が曖昧に返事すると、女は何を思ったのかその親子に近づいた。
「水月君」
「はい」
 思わずいい返事をして振り返った少年の前に顔を寄せ、雅は優しい笑顔で問いかけた。
「あの子は、どこ?」
「あ、あの子? 誰ですか?」
 きょとんとする水月に、女は辛抱強く言った。
「私くらいの、金髪の子、いたでしょう?」
「は、はい。でも、いつの間にかいなくなってて……」
「そう……」
 おどおどと答える少年に、雅は頷いてから溜息を吐いた。
「どうするんだろう。戻ってくる気が、あるのかな」
 つい不安を吐露した女に、様子を黙って見ていた葵が、笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ、後でちゃんと、一緒に戻りますから」
「何で、後でなの? 戻るのなら、今からでもいいじゃないの」
 思わず言ったロンに、葵は困ったように言った。
「ここの後始末が、まだ残ってるんで。ああ、心配はいらないですよ、高野を呼びましたから」
 心なしゆっくりと答えた刑事の言葉で、黙って周囲を見回していた蓮が、男を見上げた。
「……おい、まさか……」
 ロンも、近くに立つ大男と顔を見合わせてから、雅を一瞥する。
「……これ以上は、ちょっと、勘弁だわね」
「ええ。仕方ありません、地元に戻って、セイを待ちましょう」
「へ、何言ってんだよっ。セイもここにいるんだろ?」
 メルが目を剝いて言うのには、ロンが笑いながら返す。
「あなたはまず、蓮ちゃんとの話をつけなくちゃ、ね?」
「話? つけるような話なんざ、もうねえ筈だが?」
 わざとらしく、いつもより乱暴に返す若者に、思い出したメルが詰め寄った。
「お前になくても、オレにはあるのっ。オレ、そんなに鬱陶しいかっ?」
「……」
 沈黙した蓮が、視線を逸らした。
 それで言いたいことを察し、メルは顔を歪ませた。
「そ、そうなのか? オレ、嫌われてたのに、気づいてなかったのか……」
「いや、嫌ってるって程では、ねえけど……」
 余りに落胆する女に、若者はつい答えた。
「ほ、本当か? じゃあ、絶縁は、なしでもいいよな?」
「それと、これとは、話が別だ。そうだな、あんたの息子に、早く本当のことを話せ。そうしてくれるんなら、考えねえでもないぞ」
 メルが詰まり、その隙にその傍から後ずさる若者を、雅はやんわりと捕まえた。
「君の魅力は、そうやって本音を隠さない所だけど、今回はちょっと言い過ぎじゃないかな?」
「これくらい言わねえと、元の木阿弥になりそうじゃねえか」
「そうだけど、さっき言った事、忘れてない?」
 目線が同じくらいになった女が、優しく微笑んだ。
 身構える若者に、雅は言った。
「黙って絶縁しようとした件の説教は、受けるんでしょう?」
「先にやる事やってからの話だ、まだ、あいつを見つけてねえ」
 見返す蓮に、女は首を振った。
「葵君が戻ってくると、言ってるんだから、私は信じて地元で待つ。その間暇だから、君を説教するメルを、手伝うよ」
「はあ?」
 呆れ気味の声に、思わず笑い、ロンも咳払いをして切り出した。
「そうね。差し当たって、することがないもの。セイちゃんの説教は後にして、あなたで予行練習でもしようかしら」
「おい……」
 思わず睨んだ蓮を、ロンは意外に真面目な顔で見返した。
 声を潜めての話でも、雅には聞こえてしまう。
 何とか、こちらの思惑を察してもらおうと見つめると、若者は目を細めた。
「まとめて終わらせた方が、ましかもしれねえぞ?」
 慎重に言う蓮に、男も慎重に答えた。
「そうだけど、今回の件は、そう出来ない程の余韻が残ってるのよ。こういう修羅場が、まとめて来るのは、ちょっと辛いわ」
 不審に思った雅が首を傾げたが、その前に蓮が渋々頷いた。
「……仕方ねえか、今回は説教の一つや二つ、食らってから話を治めさせてもらうぜ」
「治めるって……結局、絶縁する気は、失くしてないんだね」
 分かってはいたが、これは手強いと雅は唸り、ロンが良に声をかけて暇を告げると、六人の男女がその場を後にした。
 残った姉弟がその姿を見送り、姉の方が弟に声をかけた。
「私たちも、帰ろうか?」
「その前に、あんたを連れ去った人は、この中にいたか?」
 慌てて良が確認すると、シュウレイは笑顔で答えた。
「いないみたい。きっと、別口だったんだよ」
「ち、振出しに戻ったか」
 セキレイが舌打ちし、律も考え込む。
「別口、と言っても、こういう一族は複数ありますよ。その中で、あなた方を標的にしようと思う者たちが、果たしてどのくらいいるのか、見当もつきません」
「でしょう? 逆に言えば、これからまた、私を狙うかどうかも、見当がつかない。だから、のんびりと待つしかないだろう? 先は長いんだから」
「姉貴は、気が長すぎるんだ」
 嘆く弟を促し、シュウレイは凌が待っているはずの方向へと、歩き出した。
「……」
 そちらの方角を見つめ、水月が呟く。
「悪友との再会は、嫌らしいな。あの旦那は」
「前にも言っただろう、そういう感情を利用するために、お前を使うと決めたと」
 そうだったなと頷く少年は、少しだけ寂しそうに笑った。
 そんな水月を見下ろしながらも、律は全く別な方を気にしていた。
「……なるほど」
 そちらから、一人近づいてくる中肉中背の男を見て、女は頷いた。
「雅は、彼を、死んだものと考えているから、匂いを辿ろうとも、考えていないんですね?」
 手を上げて男を迎えた葵が、苦笑いした。
「やっぱり、姐御が気づかねえのは、そんな事情ですかね。あいつ今は、逃げも隠れもしてねえのに」
 というより、今回は雅と再会して一荒れ来る覚悟も、向こうはして来ているだろう。
 それだけこれは、エンにとって重大な事案だった。
「どっちかというと、オレはエンを姐御に押し付けて、蓮を行かせたかったんですけどね。あの人数の人員を押し切ってまで、思惑を通す気には、なれませんでしたよ」
「……まあ、今の事案に紛れれば、あいつも戻りやすかったかもしれませんね。皆が残っていなくて残念です」
 迎えられた刑事が言葉を引き継いで言い、事後処理を開始した。
 律も楓の一族がやらかした事を見つけ、驚き怒るしかなかったが、全ては終わった事だ。
 優秀な処理班が結成された為、昼過ぎにはその現場の事後処理を終え、残ったのは開けた広い空き地のみだった。

 一足早くその場を離れたセイは、心なしぼんやりとして歩いていた。
 一つの復讐を終え、喜びよりも胸に穴があいたような気分だ。
 確かに仇だったが、自分が憎む本当の相手ではないせいなのか、誰もがそう感じてしまうのか。
 もし後者ならば、今回同じように復讐した若者も、同じ気持ちだろうし、これから復讐する気の者も、こんな気持ちになるのだろう。
 ぼんやりと、そんな事を考えながら歩いているのは、そうやって何かを考えていないと、いつもの自分を取り戻せないのではと思ったせいだ。
 今の自分の方が、本当の自分だろうと思う。
 だが、この自分は、どうやら正気には見えないらしい。
 ほんの小さかった時分を知るウルや、セイの事を理解してくれている者たちなら、分かってくれる。
 だが、仲間の多くは、今の自分に恐怖を抱いてしまう。
 あの解散の前の騒動の時、本心で怒りを面に出した時、仲間たちの恐怖を張り付かせた顔を見た。
 そして、改めて思ったのだ。
 誰よりも自分を、この世から消し去りたい。
 あの後一時期は、どう穏便に姿を晦まし、死を招き寄せようか、そればかりを考えていた。
 あの頃程ではないが、ああいう昔の失敗が大事になっている時などは、今でもついつい事の解決のついでに、自分も消し去る策も考えてしまう。
 思ったよりも楽な作業だった今回は、不完全な計画のまま、終わりを迎えてしまった。
 話の流れで、葵と戻る約束してしまい、何とかいつもの自分に戻ろうと、内心苦戦していた。
 胸には穴が開いているが、頭の中はスカッと晴れ渡っていて、大声で笑いだしたい気分である。
 妙な気分を持て余し、困惑しているセイの前に、静かに歩み寄った者がいた。
 目を上げると、久し振りに見る、穏やかな笑顔があった。
「……」
「何だ、妙に、素直な顔だな。……久し振りだ、その顔を見るのも」
 エンは笑いながら言い、立つ尽くしたセイの前に立った。
「向かう場所が、違うじゃないか」
 久し振りに見るその顔を凝視した後、若者は顔を伏せて返した。
「お前と一緒にいたら、あの人も来るだろう? 思惑としては、少しでも穏便に、あの人とは再会したいんだ」
「そうか、良かった」
「ん?」
「……あいつの元に戻る気は、あるんだな?」
 真っすぐな問いに、エンは詰まって考えた。
「それは、少し違うな。ミヤの事は気になるが、それ以上に、お前の事が気になってる」
「何で?」
 嫌そうに問う弟分に、男は思わず笑ってしまう。
「何が、おかしいんだよ」
「いや、こんな勘違いを、お前に指摘できるのは、オレくらいだろうから、嬉しくてな。役得ってのは、こういうのを言うんだな」
 出会った現場から保護し、その後も長い間、若者の機微を見守っていた兄貴分。
 そんな立ち位置を、他の誰かに譲る気はない。
 これからも、その立ち位置は変わらないだろうが、セイの周りで起こっている事が明らかになる時期は、そう遠くない。
 なら、本人に指摘する役だけは、エンが買って出たかったのだ。
「勘違い? 何のことだ?」
 すぐに気づいて追い付いて来るはずの女が、一向に現れないのに疑問を覚えつつ、セイは兄貴分の言葉に首を傾げた。
「お前のあの時の行動が、当時の仲間たちを恐怖に陥れたのは、本当の話だ。だが、その後を知らないだろう」
「後?」
 あの時、我に返ったセイは、暫く姿を見せなかった。
 その、我に返った経緯は知らない。
 エンが、ジュラを抱えて仲間の元に戻った時、既に事は終わっていたのだ。
 その時知ったのは、ジュラの妹のジュリも、同じ頃に死を迎えていた事と、その死の原因になった者たちが、すでにこの世から去っていると言う事だった。
 雅に付き添われて、セイは隠れ家の奥の部屋で休んでいると、珍しく力のない声でロンが告げた。
 詳しい説明をしてくれたその男が、何故かセイが我に返った経緯だけは、曖昧に誤魔化した。
 内心、首を傾げるエンに、ロンは恨みがましい目を向けたのだ。
「あなた、知ってたの?」
「何をですか?」
「あの子が、あんな可愛い顔が出来るって、知ってたのっ?」
 エンは、目を見張って答えた。
「何を言ってるんですか。あの子は、いつも可愛いじゃないですか」
 表情は余りないが、素直な性格の若者は、子供好きの間では、愛らしいと秘かに可愛がられていた。
 偶にその様子を見て、ロンが悶絶していると知っているエンの、今更何をという返しに、恨みがましい目のまま、男は先を続けた。
 我に返り、雅を見つめた目が、今迄見ないような顔だったのだと言う。
 怯えたような、傷ついたような、そんな素直な顔が、見ていた全員の心を、とっ捕まえてしまったのだ。
「……小動物を愛でるような感覚に、なっちゃ駄目ですよ。それ知ったら、あいつは怒ります」
 呆れたエンの前で、元々セイを崇拝している仲間たちまでが、悩ましい溜息を吐いてしみじみとしていた。
 その後、姿を見せたセイは、団体の解散を告げて別れを告げたが、周りの必死の説得で、一番気安い古谷家に身を寄せる事になった。
 あの頃の日本は、一昔前とは違う理由で毛色の違う者を嫌う傾向にあり、目立つ仲間たちの多くは、若者の元を離れるしかなかった。
 当のセイの容姿も目立っていたのだが、髪色を変えればどうとでも誤魔化せる。
 が、流石に大勢の者の髪色を変えて誤魔化すのは、無理があると判断しての、苦渋の決断だった。
「信之にも聞いているんだが、戦後早い内から、お前に会いに来る奴らがいたんだってな。その上で、居つく段取りをして、早々に腰を落ち着けた」
 腰を落ち着けた仲間たちは、目立たぬように土地に根を下ろした。
 正攻法で土地を買い、地道に地元の信頼を得、少しずつ土地の結束を固めていた。
「お前を恐れているなら、こんなことまではしないだろう?」
 壮大になった話に目を丸くしていたセイが、僅かに目を据わらせた。
「何で、勘違いの話が、そんな大きな話になってるんだよ」
「ん? お前、あの時にいた仲間たちが、お前に怯えてしまったと思ってるんだろ?」
「あれで、怯えない方が、おかしいだろ?」
 力で威圧した結果が、年末年始や盆に会う仲間たちに、あんな腰が低い対応を強いているのだ。
 そう言い切る若者に、エンは笑いながら唸った。
「委縮はしていると思うぞ。だが、怯えているわけじゃない。敬っているんだ」
 怒ると恐ろしいが、分別を持った信頼できるお人だ。
 だからこそ、怒らせる要素を失くす手伝いをしたい。
 世界の全てをそう変えることは出来ないが、せめて、この人がいるこの土地だけでも、心から安らげる地にしたい。
 気負う必要のない居場所となれれば、素直な顔が日常で見られる日も来るだろうと、彼らは日々精進しているのだ。
「……大型の休みごとに、お前と会って、それを改めて誓い、子供たちにも伝えているそうだ。聞いた時は呆れたが、藪蛇な説教になって、どういう意見も言えなかった」
 そもそも、お前が離れなければ、ここまで考える必要もなかったんだと、信之の父親にも言われた。
 側近まで、傍に寄せ付けていないと知った仲間たちは、再会した一同と真剣に話し合い、得意な分野で、土地を活性化させる事を決めたのだ。
 ただ一人、崇拝する若者の安らぎの土地を、作るために。
「……」
 そこまで聞いたセイが、一歩後退した。
「引くな」
「……偶に、居心地の悪い空気があると思ったら、あの時の百姓たちと同じだったからかっ?」
「あれより凄いぞ。あの地の百姓たちは、感謝から崇拝と言う形になっただけで、お前が大人しくしている間に、話も言い伝え程度になったが、あいつらは元々、一緒に行動していた奴らの子孫だからな。初めから敬拝していたお前が、一気に神がかってしまったんだ」
 このままいくと、古谷の寺の中に、銅像の一つ作られるかもしれない。
 そうエンが指摘すると、セイは更に一歩後退した。
「だから、引くなと言ってる。それに、戻らない選択は、するんじゃないぞ。こんな大きな事をやった後に姿を消したら、血眼になって探されるぞ」
 知られていないのなら、やりようもあっただろうがと付け加える男を見返し、セイは溜息を吐いた。
 ここまで話し込んでいるのに、誰も追い付いてこない。
 おかしいと思い始めた時、セイの携帯電話が着信を告げた。
 葵の番号だ。
「消せそうな痕跡は消したから、地元の警察を入れるぞ」
「ああ、よろしく」
「それとな、姐御はいくら待っても、来ねえぞ」
 目を見張った若者の耳に、葵は苦笑気味に続けた。
「修羅場は、お腹いっぱいだとさ」
 これは雅の言ではないと、瞬時に分かる言葉だった。
 確か、ロンものっぴきならぬかかわり方をしていたと聞いていたから、仕方ないと言えば仕方ない。
「そうか、残念だな」
 黙って若者を待つ男を一瞥して返すと、現場の戻る意を告げて電話を切った。
「ミヤは、先に戻ったらしい」
「へえ。オレは、戻り損ねたのか」
 複雑そうに頷き、穏やかに笑った。
 またの機会も、いずれはあるだろうと、二人は軽く考えて歩き出したが……そのいずれは、その数年後に突如訪れるのだった。

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