第12話 閑話 その三 個人の厄払い

文字数 9,650文字

 目覚めると、闇があった。
 恐怖はない。
 この数年、この闇とは付き合っている。
 数日前まで、僅かに明かりを照らす者が現れていたが、最近はそれがなく、闇が遮られる事がなくなっただけだ。
 闇のうごめく人影も、今迄と同じだ。
 飽きることなく助けを求める声を上げ、ただ一つの扉を叩く。
 そして、思い出したように、寝ころんだままの自分に近づき、乱暴に床に押し付ける。
 そろそろ飽きるか、諦めるかすればいいものを、こちらが抗う気がないのをいいことに、連中は怒鳴り喚く。
「お前がっ、泣いて謝らねえから、オレたちがこんな所に閉じ込められたんだぞっっ。早く言うとおりにしろっっ」
 抗う力も既にない自分は、その度に内心呆れていた。
 ここに閉じ込めた男に、自分が謝る理由はない。
 一緒にいるこの男たちにも、謝る理由がない。
 むしろ、泣いて謝って欲しいのは、こいつらだ。
 頭の中に鮮明に残る、祖母の死にざま。
 自分を捕え、あの男に笑いながら火をつけられた老女が、苦しみ叫びながら死にゆく様を、あざ笑いながら見続けていたこの男達に、自分が泣いて詫びる事など、絶対にない。
 それにしてもと、男たちの暴言と暴挙を受けながら、考える。
 あの男が来なくなって、何日たっただろうか。
 これまでは毎日顔を見せ、自分の手が届かぬ所に立って、男たちが今の様に自分を嬲るのを、面白くなさそうに眺めていた男が、急に姿を見せなくなった。
 大人しく機会を待っていたと言うのに、その機会が訪れない内に、男はここから遠ざかってしまったようだ。
 それでも、もしかしたらと思い、時々外からここに運ばれる食事を、口に押し込み続けていたのだが、それもこの三日ほど、出来なくなっていた。
 冷たい床に横になったまま扉の方を一瞥すると、そこに転がった真新しい遺体が見える。
 食事を運んできたこの建物の使用人らしい男は、扉の内側に引き込まれ、その場で殺されてしまった。
 男たちが食事を散らし踏みつけ、完全に床と見分けがつかなくなり、その日の食事はお預けとなった。
 戻ってこない使用人がどうなったのか分かったのか、この建物の主はそれ以来、食事を運び入れる事を止めてしまった。
傍を走る鼠や虫を、捕まえる力すらない自分は、すでに息をするのも苦しい。
 機会を待つと言う、悠長な事は言えなくなった。
 それどころか、明日死ぬとも分からぬ命、だった。
 折角、火の中から助けてもらったのに、折角、受け入れて貰えていたのに、何かを返す間もなく、今度は餓死を迎えようとしていた。
 心残りはあるが、それはここで考えても無駄な事だ。
 ようやく、人と接しなくてもいい死を、迎えられる。
 その事には、ほっとしていた。
 最期は静かに、眠らせて欲しいものだと思っていたら、力任せに自分を押さえつけていた男たちが、不意に離れて扉の方を見た。
 にわかに、扉の外が騒がしくなる。
 朦朧とした意識の中で聞き取りにくいが、どうも悲鳴も混じっている。
 何事かと思っていたら、部屋に光が細く差し込んだ。
 ゆっくりと開かれた扉の隙間から、誰かが中に入って来る。
 まさか、あの男がと目を見開いたが、すぐに落胆した。
 細身の大人の男で、血の繋がりも感じるが、全くの別人だ。
 体から力を抜くと、転がっている遺体と大差なく見えるだろうと、そのまま動かずやり過ごすことにした。
 これが最後の騒ぎで、これさえやり過ごせれば、生きる事を止めても文句を言われないと、そう考えての事だったのだが、何を思ったのか、踵を返した男に声をかけた者がいた。
 相変わらず意味の分からない事を言いつのり、男の前に乱暴に自分を投げだす。
 その振動で、思わず顔を顰めてしまった。
 つい、目を上げると、驚いた顔の男の目と目が合った。
 その目に浮かんでいる思いが何なのか、分かる間もなく床に頭を押し付けられ、僅かに残っていた意識が途切れた。
 夢なのか現実なのか、男が顔を歪ませて自分を見ていたような気がしたが、どこまでが気絶する前の記憶かは思い出せない。
 だが、次の目覚めがあったのは、意外だが偽りない事実だった。
 意識が戻り、最後に会った男が安堵の笑顔を浮かべた時、戸惑いしかなかった。
 何故、あんな状態の自分を、助けようと思ってくれたのか。
 その答えは、すぐに分かった。
 周囲を見回せるほど回復したころ、男エンは、一人の男を引き合わせた。
 見上げる程の大きな、全身皺まみれの老人だった。
 床に座った自分と目線を合わせた老人の目は、潤んでいた。
「お前が、セイ、なんだな? よく、生きていてくれた」
 こわごわと手を伸ばし、小さな細い体を抱き寄せ、老人は嗚咽を漏らした。
 肩越しに広い背中を見下ろして目を上げると、老人の後ろに男が立ち尽くしていた。
 ほっとした笑顔を浮かべた男は、静かに二人を見下ろしていた。
 それを見て、そうかと思い当たる。
 この男は、この人の孫である自分を、助けただけに過ぎないのだ。
 目を覚ますまで、付ききりでいてくれたはずの男にも、そんな男を気にしているはずの老人にも、申し訳ない気持ちが湧いて来た。
 そこまで苦労して回復させた孫が、こんな無気力で最悪な子供なのだ。
 そう考えて必死で謝罪を言葉にしたのだが、二人からは更に抱きしめられて泣かれただけだった。

「……難しいよな。誰かの心の内を察するのも、誰かの幸せを願って動くのも」
「突然、何だ? お前に似合わん、難しい悩みを漏らすじゃないか」
 昔の事を思い出し、ついつい漏らした呟きに、鏡月が眉を寄せた。
 古谷家の所有する山に建つ一軒家の庭で、セイは枯葉を拾い集め、焚火をしていた。
 ただ、焚火をしているわけではなく、秘かな企みを試す前準備なのだが、先程訪ねて来た鏡月には、まだその意図は知られていないようだ。
 謹慎五日目の今日、鏡月はある報告を持って、わざわざ山登りして来たのだが、そんな若者を接客する余裕もないほど、焚火を大きくする作業に熱中している。
 そんな中での真面目な呟きを、鏡月は手持無沙汰なまま、聞きとがめた。
「まさかとは思うが、この謹慎の原因の動きは、連中の懸念通りの目的があったのか?」
 セイは昔から、自分の周囲への影響を、過小評価しているきらいがある。
 動くときは大胆な癖に、自分自身に関しては後ろ向きなのだ。
 他人への称賛は最大限に伝えるくせに、自分への称賛は最低限に感じているらしく、誉める言葉も真っすぐ受け取らない。
 容姿もどちらかというと完璧で、頭も悪くないはずなのに、どう言う教育をされてきたのかと、昔から疑問だった。
「……そう言う事は、はっきりと答えたくない」
「否定しろ」
 正直な答えに、思わず呆れた若者に、セイは言い訳がましく言った。
「こんな半端な時に動くとは思っていなかったけど、連中と縁を切れるとしたら、この案件だったんじゃないかとは、思ってた」
 思ってはいたが、思惑に反して戻る羽目になった。
 今なぜ、大昔の事を思い出していたのかというと、あのすぐ後ならば、楽に縁を切れていたのではないのかと、遅すぎる後悔をしてしまったせいだ。
 あの数年後、セイは祖父と死に別れた。
 正確には、今わの際の祖父を、戦の跡が生々しい場に残し、別れる事を選んだ。
 その時、エンもその場に残したはずだった。
「ああ、その話は、聞いたことがある。待ち合わせた場所に、お前がなかなか現れなかったのを心配していたら、先にエンが戻って来て、そろそろ戻って来ると準備を促したそうだな」
 初めてセイと会い、ぞろぞろと住処にやってきた面々を嫌々ながらも招き入れた時、鏡月が聞くまでもなくロンが、この若者を拾った経緯やそれまでの出来事を、一晩かけて話してくれた。
「……先回りされたのも驚いたけど、平然と戻って来てたのにも、驚いたよ」
 事実上、セイが初めて下した命令に、エンはあっさりと逆らった挙句、こう言い切った。
「死にゆく者の頼みの方が、お前の命令より重かっただけだ」
 火ばさみで火の中を探りながら、セイは溜息を吐いた。
「話に聞いてるなら、これも知ってるのか? エンと私の爺さんの、間柄」
「……逆に、お前も知っていたのか?」
 顔を引き攣らせた鏡月が問い返すと、若者は無感情に頷いた。
「会った頃から今でいう、熟年の夫婦みたいだったからね。子供が出来ないのが、不思議だった」
「いや、それは、どう頑張っても、無理だ」
 しどろもどろの返しにも、セイは無感情に頷く。
「そうらしいな。その時は、どうして男と女の区別があるのか、分かっていなかったからな……何で、男女で体や体力に違いが出来るのか、考えた事もなかった」
 そこまでだったのか。
 つい出そうになった驚きの声を、何とか抑えた若者の心境を察したのか、セイは振り返った。
「自分の身で体験しないと、分からない違いも、あるんだな。あの時、蓮が説明してくれたんだけど、結局未だに、分からない事もある」
 あの時とはいつの事か、何を教わったのかと、思わず下世話な疑問を抱いてしまったが、次の若者の言葉で全て吹っ飛んだ。
「昆虫や他の生き物と同じように、交尾で子孫を作ってることは分かったんだけど、その現場を見た事がないんだよな……いつ、人間はそんな事やってるんだろう?」
 いや、見た事どころか、実体験もあるはずだ。
 だが、それに答えてしまっては、深い所まで教えなくてはならない羽目になる。
 鏡月はしばし固まって、そこまで考えると、首を大きく振って咳払いした。
「その、蓮の事だが」
 完全に、こちらの疑問を無視した切り出しに、セイは流石に不審な目になっていたが、構わず続けた。
 鏡月の訪問は、この報告の為だったのだ。
「例の始の息子を弟子にすることを条件に、謹慎を短縮できた」
「は?」
 珍しく険しい顔で、セイが聞き返した。
「何で、あの人が真っ先に許されるんだっ?」
 あの時期に、二つの一族を一辺にと考えたのは、蓮が動き出す兆しがあったからだと、画策していた男が言っていた。
 あの若者が動きさえしなければ、別な計画で慎重な対応が出来たはずなのだ。
 あんな、完全に周囲を混乱させるやり方で、殲滅することはなかった筈だ。
 そう言い切る若者に一応同意しつつも、鏡月はのんびりと返した。
「今回、動く原因が蓮であっただけで、いずれ、実行する気だったんだろう? そいつらの殲滅も、自分の身の清算も」
 どちらにせよ、簡単に許される話ではないと言われ、セイは口を噤んで焚火の方に視線を戻した。
「奴らにとっては、幸いな話だったな。蓮が動いたことで慌てた画策者が、事を大きくして騒がせた。それがなければ、気づかぬうちにお前はここを去っていただろう?」
 狼男や、まだ幼い水月は元の鞘に収まるだろうが、恨みを晴らしたセイには、もう何も憂いはなくなる。
「……いや、違うか。お前、期待していたんだろう? 殲滅する奴らの中に、自分を殺せる奴がいるのではないかと。ジュリが死んだとき、いくら圧倒的に不利な奴らでも、力尽きた自分を殺せるだろうと、期待したように」
 あの時の事情を聞いた時、鏡月は引っ掛かった事がいくつかあった。
 誰もが気づくほどの仲間の逆心に、セイは襲われる直前まで気づいた様子がなかった事。
 咄嗟に反応できるはずの若者が、全く無防備にその刃を受けようとしていた事。
 ジュリが庇ってその刃を受け、絶命した後の若者らしくない怒り方。
 戦の中、散り散りになった仲間が目を離したあの時が、側近たちが助けられなくても仕方がない、そんな状況で自分をこの世から消せる、最大の機会だと、そう思っていたのではないか。
 ジュリの死の後は、怒りに任せた風を装いそのまま力尽きた後、仲間たちの手にかかる気でいたのだ。
「お前はまだ、自分が許せないのか? この場に、生きている事が?」
 投げかけた言葉に答えず、セイは火ばさみで枯葉の中を探っている。
 香ばしい香りのする何かを取り出して見つめ、再び枯葉の中に戻しながら、ぽつりと言った。
「最近、色々と分からなくなってるんだ、昔以上に」
 年を重ねれば、おのずと出ると思っていた答えから、どんどん遠ざかっている気がすると、セイは力なく言った。
 自身の存在自体が憎たらしい中で、安らぎの場が時折ある。
 その安らぎを前に、幸せだと感じると同時に、いつも感じる疑問。
 目の届く場にいる知り合いは、幸せだと思ってくれているのだろうか?
「あの人たちが涙ぐむ時は、私が決まって、知らずに笑ってる時なんだ。私が笑うと、泣く程に怖いのかと思ったら、やっぱり、傍から離れるのがいいと思うんだけど、それを口にすると、やっぱり泣く人がいるんだ。どうすればいいのか、全く分からない」
 かと言って、いつの間にか笑っているのに、それを抑えるのは難しい。
 真剣な、本当に深刻な悩みなのだが、鏡月は目を瞬いた。
 空を仰ぎながら、聞いた話を反芻する。
 つまり、最近セイは、笑うようになったと言う事だ。
 その頻度がまだ少ないのなら、周囲の反応も仕方ないが、多くなったのならば、周囲も慣れなければならない時期だ。
 自覚がないのも大概だが、これは周囲も悪い。
 見当違いな納得をし、鏡月は溜息を吐きながら焚火をつつく若者を見た。
 さっきから、何を焼いているのか。
 焼き芋の匂いではなく、どう嗅いでも肉の様な香ばしさが鼻を突く。
 さっき取り出した物を一つだけ、焚火の中で焼いているようなのだが、何の肉なのか判別が出来ない。
 嗅ぎ分けには自信がある鏡月は、妙に肌につく煙に近づかずに立ち尽くしながら、その不可解な焼き物の正体を気にしていた。
気にしながらも今は、若者の悩みに真剣に向き合う事にする。
「お前、自分が離れたいと思う理由を、奴らに話したことはあるのか?」
「あるはずないだろ。言ったら、そんな事はないと、怯えながら言われるだけだ」
「怯えるとは、限らんだろう? 笑った顔を見て涙ぐむのも、怖がっての事ではないかもしれんぞ」
「あんたも、そんな気休めを言うのか」
 気休めと、切り捨てるか。
 意外に根深い。
 思わず笑ってから、尋ねる。
「その気休めをオレ以外で言ったのは、エンか?」
 だから昔の後悔を、今更思い出しているのだろうと問うと、セイは素直に頷いた。
「……爺さんには、最期ぐらい幸せでいて欲しかったんだ」
 なのに祖父は、そんな場面でも、孫の自分を優先するようエンを送り出した。
「エンも、爺さんを看取った後、自由になって欲しかった」
 自分はもう、充分に幸せだった。
 だからこそ、幸せにしてくれた二人が、身を裂かれるような思いで別れるのを見るのは、嫌だったのだ。
そこまでの間柄だったのに、よく、雅になびいたな……。
鏡月はまたまた、下世話な事を考えてしまった。
 セイにそこまでの物と思わせるくらいだから、本当に熟年の夫婦の空気があったのだろう。
 熟年過ぎて、馴染み過ぎた空気が。
 確かに身を裂かれる別れ、だったかも知れないが、エンの口からは殆どセイの祖父に関する話は、聞こえてこない。
 色事を通り過ぎた熟年さ、だったのではなかろうか。
 秘かに納得しながら、若者の様子を伺った。
 セイは、火ばさみで火の中をつついている。
 妙にぎこちない攫み方で、火ばさみを握っているのに気づき、思い出した。
 鏡月には分からないが、がんじがらめのギブスで、右腕を固定されたままなのだ。
 左手だけで火を起こし、大きくする作業をしていれば、突然来た気安い客など、放置するしかない。
 しかし、規模の割には焼いている物が、小さすぎる気がする。
 一体何を焼いているのかと、ますます不審に思いながらも、セイに呼び掛けた。
「子を持つ者たちは例外もあろうが、大体似たような事を言う」
 可愛いわが子が、幸せに笑ってくれるのなら、それで幸せだと。
 自己満足は、幸せを呼ぶものだ。
 その自己満足を与える相手の心境など、関係ない。
「エンやその爺さんも、そんな気持ちだったんじゃないのか?」
「私は、あの二人の子供じゃない」
「孫、だろう? 二人して、孫を育てて成長を喜んでいる気で、いたんじゃないのか?」
 眉を寄せたまま、セイは焚火を睨んでいる。
 二人の心境を、自分なりに分かろうとしているのだろうが、そんな若者に鏡月はのんびりを笑いながら言った。
「他人の気持ちなど、無理に理解する必要はない。どうせ、理解した気になる位にしか、落としどころはないのだからな」
 血の繋がり云々は、この際抜きで言っておく。
「そうか……」
 そう応じたセイは、しんみりと言った。
「相手が満足しない限りは、私は幸せじゃないと思い込まれたまま、という事か」
「……言い方を変えれば、な」
 嫌らしい言い方だが、間違ってもいない。
 セイ自身の言葉に棘はないから、相手の好意を理解した上でのものだろう。
「今はまだ身軽な方だよな、昔から考えると。要は今のうちに、独立した大人だと、納得してもらう必要があるってことだ」
 己の胸の内で、何かを吹っ切ったセイは、大きく頷いた。
「その為には、早くこの謹慎状態を、解除してもらわないと」
「……今は誰もいないのに、お前、逃げないんだな」
 山の中も、その周辺も、見張りはいなかった。
 それなのに若者は、真面目に山の中で大人しくしている。
「右手が完治するまでは動くなと、言われてるんだ。なのに、昼間しか眠れない。夜は何人か連れ立ってやって来て、叩き起こされるんだ」
 本当ならば、後五日もすれば完治するはずの怪我なのに、ろくに眠らせてもらえないせいで治らず、謹慎が解けない。
「夜中にやって来て、一体何やってるんだ奴らは?」
「主に晩酌。一晩中働かされる」
 仮にも元頭領に、させる事ではない。
 が、あの盗賊一味の頭領の仕事は、主に雑用だった。
 習慣にしていた動きを、セイも抵抗なく行っているのだろう。
「今日は、ミヤとメルが来るんだ」
 だからこうして、寝る間を惜しんで、賄賂づくりを模索しているのだと言われ、鏡月は首を傾げた。
 焚火で焼いている物が、賄賂になるのかと不思議に思い、少しだけ近づいてみた。
 それに気づき、セイが注意する。
「余り、近づかない方がいい。その距離くらいなら、影響ないだろ? 最低で百匹分だから、そうとう濃い」
 煙の話だと気づいたが、一つの言葉に引っかかった。
「……百匹? 何の話だ?」
「……」
「そこで黙るなっ」
 不自然な黙り方をする若者に、鏡月は思わず声を投げる。
 セイは少し考えて、言った。
「毒がなければ、周囲に影響も出ないだろうし、大丈夫だと思うんだ」
「何の、毒の話だ?」
 薬の話ではない。
 ここで毒薬を焚き上げているのであれば、火の前にいる若者が真っ先に倒れている。
「瘴気って、火で浄化できるだろ? だから、それで何とか、毒だけ昇天してくれないかなと……思ったんだけど」
 言いながらセイは、燃える落ち葉の中から、火ばさみを取り出した。
 その先に挟まれている物を見て、溜息を吐く。
 見事な消し炭になり、真黒な小さな塊が、その間から崩れ落ちてしまった。
「この方法だと、何度やっても、体ごと昇天しちゃうんだ。そろそろ、別な方法を試そうかな。でも、焚火ならまだしも、別な方法は怪しすぎるし」
 真顔での言葉に、鏡月は声もなく立ち尽くした。
「ミヤが崩れれば、後は何とでも誤魔化せるのに。他の賄賂は、弱すぎるんだ。どうすればいいだろう?」
「その前に、何で、こんなものが、お前の手元にあるっ?」
 今まで気づかなかった。
 焚火する若者の足元に、大きく膨らんだ布の袋が置かれている事に。
 動かないそれから、疑う余地も合い程に禍々しい空気が漂っている事に。
「そんなもの、どこで手に入れたんだっ? そんな、袋一杯になる程の数……」
「? この中には、一匹しか入ってないけど」
 もう、動かないはずだと袋を持ち上げて見せるセイは、鏡月が顔を引き攣らせる理由が分からない。
「主体の奴は、捕まえた時に消えたから、襲われる事もない筈だ」
 残ったのは、その身に蟠った怨念だけだと言うと、鏡月は頭を抱えた。
「捕まえたっ? 普通、術者に返すもんだろうっ、蠱毒はっ?」
 というか、捕まえられるものだったかっ?
 大混乱を起こし、喚くように言う若者に、セイもその点は頷いた。
「私も最近、捕まえられることを知ったんだ。お蔭で、捕まえられるなら浄化も出来るんじゃないかって思ったし、知らず犠牲を少なくできた」
 世の中、まだまだ分からないことだらけだと、若者はしみじみと頷いていた。
「……」
 一体、どう言う状況でその衝撃の事実を知ったのか。
 鏡月の疑問の答えを持って来たのは、一足早く訪ねて来た雅だった。
 玄関で声をかけて返事がなく、庭に回って来た女は、セイが焚火の前に立っているのを見て目を瞬いた。
 近づきながら、若者の足元の袋に気付く。
「あ、また、術師といざこざがあったのか?」
 やれやれと優しい笑顔を浮かべて近づく雅は、袋の口の隙間から中を覗きこんだ。
「ガマ、かな? 塚本さんの所と違って、作り方が甘いね」
「だから、すぐに形が崩れるんだ」
「……そう」
 何気ない会話だが、その節々に雅の正直な気持ちがにじみ出ていた。
「おい、雅」
「はい。あ、鏡さん、ご挨拶が遅れて……久し振りです」
「ああ。五日ぶりくらいか」
 挨拶を受けてから、鏡月はずばり訊いた。
「お前か? こいつにどうでもいい知識を、植え付けたのは?」
「?」
「……蠱毒は、手で摑まえる事が出来るなど……こいつが知ったら、実行するに決まっているだろうがっ」
 雅ははっと思い当たり、若者を振り返った。
「セイ、蠱毒はばっちいから、せめて、箸でつまみなさいっ」
「そうじゃないだろうっ」
「あんただって、手づかみしたじゃないか。私にだけそんな面倒な事を、強要するなっ」
 そんな喧嘩をさせるために、言ったわけでもない。
「大体、箸でそんな大きな獲物を攫むのは、無理があるだろう」
「じゃあ、その火ばさみにしておきなさい」
「……こんなの持ち歩いていたら、不審者じゃないかっ」
 いや、ゴミ拾いのお兄さんくらいには、見て貰える。
 そう返す雅は、袋を持ち上げた。
「あ、もう動かない。作り方は雑だけど、その方法は正確に行ってるみたいだね。これも、火にくべるの?」
 浄化するのかという意味だろうが、もう少し言葉を繕えと、鏡月は言いたい。
「誰かの口に、このまま収まるくらいなら、そうする」
「そうか。じゃあ、その後にでも、酒の肴の用意、お願いね」
「はいはい」
 優しく言う女は、名残惜しそうに袋を地面に置き、踵を返した。
 何でもない会話を治めて立ち去る図だが、盲目の若者は雅の気分が、一気に下がったのに気づいた。
 気づいてしまって、溜息を吐く。
「……この手の毒気を取り払うのに有効なのは、酒か塩、だ。酒はお前じゃあ扱えんだろうから、塩を刷り込んでみてはどうだ?」
 まさに、料理の下準備の様に。
 そう切り出した鏡月を振り返り、若者と女は目を瞬いた。
「その大きさだから、時間はかかるだろうが、質量が縮むのなら、塩の加減も可能だろう。まあ、縮んだものが、そのまま食うのと同じ味とは、限らんがな」
 視線に居心地が悪くなって、顔を逸らしながら続けた若者に、弾んだ雅の声が言った。
「問題ありません。味は殆どが苦みのある薄味なので。むしろ食感が、好きなんです」
 本当に、食ってたかっ。
 生々しい力説に、つい顔を引き攣らせてから咳払いし、鏡月は目を見開いている若者に言った。
「なら、量が少なくなった分は、お前が嵩ましして、一品料理にでもしろ」
 鏡月にとって、この二人は師匠の子供と、従兄弟の子供だ。
 頭を悩ませているのなら、少しは助けてやりたいと思う。
 例え、常人には計り知れない、食の趣味の悩みでも。
 二人の顔がほころぶさまを見れるのだから、時々は自称常識人の看板を下ろすのも悪くはないだろう。
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