第22話 しちしちしじゅうく

文字数 3,308文字

 お屋敷に夏がやってきた。
 白い犬の駆け回る先に、次々と向日葵が咲く。
 また、ホニョーラと一緒。みんなの喜びがお屋敷の白壁を揺らし、文月(ふづき)の森をさざめかせる。
 それにしても。
「ここで泳ぐことはないと思いますよ」婦人が笑いを噛み殺している。
「ホニョーラはやっぱりホニョーラ」その足元でアブラダモッチはコッコーラと一緒になって、転げ回って笑う。
 婦人が大きなボウルに卵を割り入れるのを、アブラダモッチはみんなと一緒にワクワクしながら見ていた。ホットケーキ! 新しい小麦粉の袋を取りに婦人が姿を消したほんの数分のことであった。
 あまり背の高くない婦人が愛用する踏み台から、ゴミ箱を経由して調理台の上にあるボウルへ。みんなの目の前で、ホニョーラは華麗な三角跳びを決めたのである。
 ボウルに浮かぶ黄色い仔犬。昔からあったよね、卵の黄身が消えちゃうことが。
「それであの、ホットケーキはどうなりますでしょうか」蔓男さんたら、以外と甘いもの好きなのかも。
「僕の出番」ダーリンさんがウィンクしながらエプロンを手に取る。「ガルデーニアも僕も、スフレのようにふわふわなものより、どっしりしっとりした生地が好みなんですよ。そこにたっぷりのバターと蜂蜜をかけて」
 蔓男が笑う。目尻がすっごく下がって、なかなか可愛いところがあるじゃない、とアブラダモッチは思う。あ、あたしたちの分は、お砂糖抜きでよろしく。
 すっかり綺麗になったホニョーラが婦人に抱かれて戻ってくる。
「たまごシャンプーで艶々」アブラダモッチは黒犬と一緒になって、またも転げ回って笑う。
 ホニョーラがいて、おかあさまが笑っていて、ホットケーキが焼けて。
 素敵。
 そんな毎日が繰り返されてゆく。
 なんて素敵。
 いくつもの満月の晩を経て、ホニョーラはおおかたの記憶を取り戻したらしかった。正確には、ダウンロードしたのだそうだ。
「月に預けておきましたの」喋り方まで昔のままだ。「わからないことは、月に聞いてみるんですの。あたくしの守り神なのです」
 だから新生ホニョーラは、ホニョーラ・ルナ・マニョーリアというのが正式な名前となった。
「いいなあ。ホニョーラだけ三つ」
 すぐに羨ましくなるアブラダモッチ・ティグレである。
 そもそも、チーロンやジーロン、ホニョーラ・ルナの卵を産んだのはあたしだしね。ということで、アブラダモッチ・オロチ・ティグレと名乗ることになった。
「コッコーラは要らないの」
「わたしは別に。だっておかあさまもダーリンさんも二つだし」
 復習しておくと、コッコーラ・ネロ、ガルデーニア・ミステリオーザ、オルテンシア・ヴェルナーレ、である。
「ねえ、チーロンもジーロンも、一つでいいの」
「ぼくたちはとりたてて」
「ぼくたちはとりたてて別に」
「ふうん」
 穏やかに過ぎていく日々。
 そうして次の文月がやってくる頃、ホニョーラ・ルナはすらりと優美な若犬になっていた。
 でもね。
「ねえコッコーラ、あたしちょっと気になることがあるんだけど」
「アブラダモッチ、わたしも言おうかどうしようか迷ってました」
 ホニョーラ・ルナ、ちょっと小さいよね。
「もとのホニョーラからすると、六割くらいに思えます」とコッコーラ。
「大型犬だから、もう少しは成長するとして、七割ってとこかな」アブラダモッチは考え込む。初期化すると、二代目は小さくなる。これしかしようがなかったけれど、でも、初期化って黒魔術みたいだ。
「もう一度やると七かける七で四割九分。ほぼ半分」コッコーラの声が自然と小さくなる。
「小柄になっても、あの能力を保持できるのかな」
「わかりませんけど。でも同じ力を発揮するとすれば、体への負担が大きくなりそう」
「ねえあんた、犬のくせに九九完璧じゃないの」
「えへへ。わたしが初期化されたらミニミニになっちゃって見えないかも」
 そんな会話を交わしていると、逞しい成犬となったチーロン、ジーロンを従えてパトロールに向かおうとするホニョーラ・ルナが庭へ出ていくのが見えた。それは騎士を従える女王のようで、アブラダモッチは思わず見惚れた。

 パトロール隊が屋敷へ戻ってきて、翠はいつものように迎えに出る。蔓男の後ろに回り、恒例の蔓チェックをしていると、すっ、と何の抵抗もなく抜け落ちた。
「ぼくのだ」
「ぼくのだ」
 チーロンとジーロンが引っ張り合いを始める。
「ああ、まさか、こんなことが」蔓男は、放心したようにその場にへたり込んでしまった。
「森のどこかに、ハダニがいるといいなあと思ったのですよ」ちょっと得意そうな婦人。
「ハダニは朝顔を枯らす天敵です。蔓が少しずつ痩せてきたような気がしていましたが、こういうことだったんですね」とコッコーラ。
「大統領は、これを除くことができるのは薬だけだ、と言ったのに」蔓男、まだ信じられない、という顔をしている。
「歪んだ科学は、自然の力に敵わないということだね」ダーリンさんも感心することしきり。
 かといって、これで問題が無くなった訳ではない、と翠は考え込む。
 蔓男はNSPだ。以前男が昏倒したときに、翠はある予感にとらわれて男のズボンの裾をめくってみた。
 ふくらはぎに刻印。
 やっぱり。NSPを殺るのには、NSPを使うんだ。
 記憶コントロールウィルスにやられている蔓男は自分の名前を思い出せないようだ。翠の主治医であったことは覚えているものの、いつからその病院で働いていたのか、どこで生まれたか、など、答えられないことが山のようにある。
 きっとNSPのことを思い出せずにいるはずだ。話した方がいいだろうか。迷って、まだ口にしていない。本人だけにでなく、洸一にも屋敷のみんなにも。
 いまだにチーロンとジーロンの記憶コントロールウィルスも排除できていない。自分が洸一にもらった薬では、犬たちの強化されたウィルスには太刀打ちできないのだった。カラス型コッコーラという強力な助太刀を以もってしても、突破口は見い出せていない。
 どうすればいい。

 晩になったらリビングへお越しくださいませ、とホニョーラ・ルナが皆に告げた。
「あたくしも大人になったので、できるようになりましたの」と、見える犬、ホニョーラ・ルナ。かつて、翠の頭の中を、チーム・ミステリオーザに披露したという白い犬。今回、蔓男の頭の中が見えたというのである。
「とても刺激が強いと思いますの。直にご覧になりますか、それとも後でお話を聞かれますか」
「私は」ためらうように蔓男は黙り込み、やがて答える。「自分の目で確かめたい」
 それはとても勇気あることだ、と翠は思う。もし目の前で開示されていたら、自分は耐えられただろうか。
 ホニョーラ・ルナが、面々をゆっくり見回すと、ダーリンと目を合わせて頷き合った。その前にちら、と洸一の方に視線を向けたのを、翠は見逃さなかった。
 洸一と何か関係があるのだろうか。
 翠は胸騒ぎを覚えて、ホニョーラ・ルナの方を見た。真っ白な尾が大きく一振りされたけれど、犬はそれ以上何も言ってくれなかった。 

「それでは始めます」
 ホニョーラ・ルナが真っ白な椅子の上から厳かに宣言する。
 リビングの真ん中に、月。世間では月蝕の夜だ。
 淡い光を放つ球体の中に、映像が浮かび上がる。
 頑丈そうなコンクリート作りの建物。善々珈琲研究所とその附属病院だ。
 白衣の男が、大統領から叱責されているのを扉の陰でこっそり見ている蔓男。
「これは、発育が早すぎる。任務を果たす前に死んでしまったじゃないか」
「申し訳ありません、大統領。マウスで実験した時はうまくいったのですが」
 まさかこの声は。
「言い訳はいい。蔓がもう少しゆっくり、脳へ到達するように調整したまえ」
 例の朝顔だ。そういえば、洸一は研究所の庭で見たと言っていた。
「第一号の遺体を回収して来させた。次に活かすように」
「はっ」キレのいい返事をすると、白衣の男がずっとふせていた顔をあげる。
 それは。
 まごうことなき洸一の顔だった。
 一気に水分が蒸発して、空気がカラカラと乾いた音を響かせながらそこかしこで鳴りはじめる。世界が壊れていく音かもしれないと、翠はそんなことを思った。

<続く>
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ガルデーニア・ミステリオーザ・・・瀟洒な白壁の屋敷の女主人
ホニョーラ・マニョーリア・・・大きな白い犬
コッコーラ・ネロ・・・小さな黒い犬/カラス
アブラダモッチ・ティグレ・・・尻尾の白いアメショ猫
オルテンシア・ヴェルナーレ・・・ミステリオーザ婦人のダーリン
若竹翠・・・新進気鋭の遺伝生物学者。稲木大学准教授
高梨洸一・・・善々珈琲副社長。化学者。善造の娘婿
高梨善造・・・善々珈琲創始者。現職大統領。洸一の舅

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み