第20話 あなたはあなただから
文字数 3,344文字
翠は、お茶の準備をしている。
薬缶を火にかけ、茶葉をポットに計りいれて、ちょっと高いところからお湯を注ぎ、蒸らしの時間をとって。それだけのことだと思っていたのだけれども。
お屋敷へ戻ると、ミステリオーザ婦人はソファに倒れ込んだまま動かなくなってしまったのであった。
温かいものをあげようとやってみたものの、ダージリンの香りも味も、花のような豊かさがでない。お茶は生き物なんだ。私はお茶に好かれていない。翠はしょんぼりする。
テーブル越しに毒々しい花。白、青、黄、赤、大人の手のひらほどもあろうかという朝顔が、蔓男の呼吸に合わせてゆらゆらしている。
カラスが犬になり、犬と猫が普通に喋るのを目の当たりにして、蔓男はすっかり腰を抜かしてしまったようだった。洸一とダーリンに支えられながらやらやっと歩いて、お屋敷に入った途端、糸の切れたあやつり人形のように昏倒した。
「白い帽子を被って白い靴を履いた男が最初、そして青い帽子と青い靴、黄色い帽子と黄色い靴、最後に赤い帽子と赤い靴の男が現れた」アブラダモッチがそう言いながら、朝顔を一つずつパンチしている。蔓男が眠ったままでピクっと身を震わせる。
「ホニョーラは朝顔が咲くのを、男の意識を通して見ていた。幻覚なんかじゃなかった。ほら、やっぱりホニョーラの言った通り無臭」黒犬コッコーラが用心深そうに花の匂いを嗅いでいる。
翠は、コッコーラとアブラダモッチの前に山羊ミルクを置いてやる。ピチペチピチペチペチペロペロリン。
ぼうっとしながら二人の会話を聞くともなしに聞いた。
「ねえアブラダモッチ、本当にホニョーラを初期化するの」
「するわ」
「そう」最後の一滴までミルクを舐めとると、コッコーラはおずおずとしたような様子で言った。「わたしこわい」
「こわい?」
「みんな無くなってしまうんじゃないかって」
「あたしを信用できないわけ」
「そうじゃない」黒犬がぶるぶる震えている。
「コッコーラ、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
こんな言い争いをしている二人を初めて見る。
「なによ、うじうじしちゃって。このまま放っておいたら、ホニョーラは消えちゃうのよ」
「もとどおりにできるの」
「やってみないとわかんない」
「チーロンとジーロンは、洸一さんと翠さんのこと、覚えてなかったわけだから」
「しかたないわ、初期化ってそういうこと」
「ホニョーラは、おかあさまのことも、わたしも、アブラダモッチも、ダーリンさんも、みんなみんな忘れてしまう」
「どうしろって言うの。ホニョーラが消えてなくなってしまうより、ずっとましでしょ」
「ホニョーラはホニョーラであって欲しいのに」
「あんた、カラスになったらどう。そうしたら、今の状況ってものを理解できるでしょうよ」
「ひどい、アブラダモッチ」黒犬のぶるぶるが高速になっている。
この喧嘩、止めた方がいいかな、翠は心配になる。
「もし初期化に失敗したら、そのときはアブラダモッチまで消えちゃう。二人ともいなくなってしまうのよ」黒犬はワッと泣き伏した。
翠は虚をつかれた。
アブラダモッチが喋るのを止め、ゆっくりとコッコーラのところへゆく。スリスリスリスリ、ずっとスリスリ。
「ホニョーラが消えたらおかあさまも消えちゃうわよ」
「ひっくひっく」
「おかあさまときたら、ずっと見てるのよ、ホニョーラのこと。身じろぎもしないで、そのうち化石になって、いなくなってしまう」
「ひっくひいいっく」
「あたしだってこわい。でも、やる。ねえコッコーラ、あたしやってやる」
翠は呼吸できなくなる。私は、仲良しってものを理解できてないんじゃない? それは、信頼で、つまりは、愛。私は愛を、信頼を、捨てたんじゃなくて、元からちっともわかっていないんじゃない?
「一つ、提案がある」洸一の声をきっかけに、翠は息を吸う。
「記憶コントロールウィルスを、ホニョーラに感染させたらどうだろう」
「洸一、それは」
「そうすれば、今の時点でホニョーラが持っている記憶が残るかもしれない」
「ウィルスを強化するあの薬も投与すれば」
「うん、記憶を保っておけるかもしれない」
「なるほど」翠が頷くと、洸一の頬が紅潮する。
大統領のウィルスがホニョーラを救う? そんなことがあるだろうか? アブラダモッチは腑に落ちない。
「わたしは賛成できない」さっきまで泣きじゃくっていた黒犬が毅然と反論をはじめた。「チーロンとジーロンを見ても、残っているのは大統領に関する記憶だけ。洸一さんと翠さんのことも、わたしたちと死闘を演じたことも、全く覚えていなかった」
「ホニョーラの記憶も、全部保持できるとは思っていないけど。でも、せめて少しだけでも残れば」
「洸一さんが、良かれと思って考えてくれたのはわかっています。けれど、裏目に出たら」
コッコーラ、あんたカラスじゃなくてもずいぶんしっかりしてきたじゃないの。ねえホニョーラ、聞いてる? アブラダモッチは心の中で語りかける。
「その可能性は大いにある」蔓男が割り込んできて、アブラダモッチもみんなも一斉に声の方を向く。
「すみません、途中から聞いていました。大統領は自分に有利なものしか作らない。つまり、自分に関連した記憶が濃くなるように設計していると思うんです」
「ホニョーラが大統領の犬になってしまうかもしれない」と、アブラダモッチが納得したように口を挟むとと洸一が頭をかきむしる。
「洸一さん、翠さん、先生。ありがとう」婦人がダーリンの手を借りてゆっくりと起き上がった。ゆっくり、眠り姫に近づく。「みなさんのお気持に感謝します」真っ白い椅子の上で、規則正しく寝息を立てている大きな白い犬を愛しそうに撫でる。「アブラダモッチが、この娘を生まれ変わらせてくれる。でもね、再生とは元通りになるということではない、と思いますよ」
アブラダモッチは婦人と目を合わせて頷く。
婦人は続ける。「まっさらなままでいいの。ホニョーラのたましいの音は、ずっと変わらないのだから」
「ホニョーラは、どんなときもホニョーラ」コッコーラが真っ白い額をそっと舐める。
「ホニョーラは、なにがあってもホニョーラ」アブラダモッチは大きな白い体に頭を擦り付ける。
「お願いよ、アブラダモッチ、あなたもきっと無事でいて。うまくやろうとか考えないで、ただ、元気で帰ってきて」
ありがとうおかあさま。アブラダモッチは真っ直ぐに婦人を見つめ返した。
四人で白い犬を抱く。
とく、とく。
ホニョーラの心臓の音が聴こえる。
とく、とく、とく、とく。
みんなの鼓動が同期してリズムを刻む。ずっと感じて響き合ってきたハーモニー。あたしたちのたましいの音。
あなたはあなた。どうなろうとも、あなただから。
(おかあさま、コッコーラ、アブラダモッチ、ありがとう)
アブラダモッチは、ホニョーラの声を聴いた。そう、とっくに聴こえていたはずなのだ、みんなで聴いていたはずなのだ、ホニョーラの音を。
ホニョーラにもわかった。ホニョーラも、いつだってわかっていた。
白い犬が少しずつ、少しずつ、白い大蛇に呑み込まれてゆく。どこからともなく光の粒が一つずつ姿を現して、細かなしゃぼん玉のように辺りを満たす。それが一つずつはじけて消えて、はじけて、消えて、はじけて、最後の一個が消えた頃、白い犬の姿はすっかりなくなってしまった。
ミステリオーザ婦人とコッコーラが祈るように蛇と頭を合わせる。そうして同時に昏倒した。
蔓男も、もう一度昏倒した。
ダーリンがクッションやら毛布やらを婦人と黒犬と蛇に、ついでに蔓男にもあてがってやるのを、翠は手伝う。寝室に運んだりしないでいい、ここでみんな一緒にいればいい。
「一心同体なんだよ、チーム・ミステリオーザは」ダーリンが婦人の頭をぽんぽんとする。
「ヴェルナーレさん、妬いたりしないんですか」翠は悪戯っぽく、でも半分本気で尋ねる。
「やきもち? いやいやこれはね、四人だけの特別な絆なんだよ。それに僕はね、そんなチームを作っちゃうガルデーニアが好きなんだ」ちょっと誇らしげなダーリン。
信頼のないところに、愛情はありません。
コッコーラに言われたことが甦って、翠は俯 いた。ぽた、と雫が床に落ちた。
<続く>
薬缶を火にかけ、茶葉をポットに計りいれて、ちょっと高いところからお湯を注ぎ、蒸らしの時間をとって。それだけのことだと思っていたのだけれども。
お屋敷へ戻ると、ミステリオーザ婦人はソファに倒れ込んだまま動かなくなってしまったのであった。
温かいものをあげようとやってみたものの、ダージリンの香りも味も、花のような豊かさがでない。お茶は生き物なんだ。私はお茶に好かれていない。翠はしょんぼりする。
テーブル越しに毒々しい花。白、青、黄、赤、大人の手のひらほどもあろうかという朝顔が、蔓男の呼吸に合わせてゆらゆらしている。
カラスが犬になり、犬と猫が普通に喋るのを目の当たりにして、蔓男はすっかり腰を抜かしてしまったようだった。洸一とダーリンに支えられながらやらやっと歩いて、お屋敷に入った途端、糸の切れたあやつり人形のように昏倒した。
「白い帽子を被って白い靴を履いた男が最初、そして青い帽子と青い靴、黄色い帽子と黄色い靴、最後に赤い帽子と赤い靴の男が現れた」アブラダモッチがそう言いながら、朝顔を一つずつパンチしている。蔓男が眠ったままでピクっと身を震わせる。
「ホニョーラは朝顔が咲くのを、男の意識を通して見ていた。幻覚なんかじゃなかった。ほら、やっぱりホニョーラの言った通り無臭」黒犬コッコーラが用心深そうに花の匂いを嗅いでいる。
翠は、コッコーラとアブラダモッチの前に山羊ミルクを置いてやる。ピチペチピチペチペチペロペロリン。
ぼうっとしながら二人の会話を聞くともなしに聞いた。
「ねえアブラダモッチ、本当にホニョーラを初期化するの」
「するわ」
「そう」最後の一滴までミルクを舐めとると、コッコーラはおずおずとしたような様子で言った。「わたしこわい」
「こわい?」
「みんな無くなってしまうんじゃないかって」
「あたしを信用できないわけ」
「そうじゃない」黒犬がぶるぶる震えている。
「コッコーラ、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
こんな言い争いをしている二人を初めて見る。
「なによ、うじうじしちゃって。このまま放っておいたら、ホニョーラは消えちゃうのよ」
「もとどおりにできるの」
「やってみないとわかんない」
「チーロンとジーロンは、洸一さんと翠さんのこと、覚えてなかったわけだから」
「しかたないわ、初期化ってそういうこと」
「ホニョーラは、おかあさまのことも、わたしも、アブラダモッチも、ダーリンさんも、みんなみんな忘れてしまう」
「どうしろって言うの。ホニョーラが消えてなくなってしまうより、ずっとましでしょ」
「ホニョーラはホニョーラであって欲しいのに」
「あんた、カラスになったらどう。そうしたら、今の状況ってものを理解できるでしょうよ」
「ひどい、アブラダモッチ」黒犬のぶるぶるが高速になっている。
この喧嘩、止めた方がいいかな、翠は心配になる。
「もし初期化に失敗したら、そのときはアブラダモッチまで消えちゃう。二人ともいなくなってしまうのよ」黒犬はワッと泣き伏した。
翠は虚をつかれた。
アブラダモッチが喋るのを止め、ゆっくりとコッコーラのところへゆく。スリスリスリスリ、ずっとスリスリ。
「ホニョーラが消えたらおかあさまも消えちゃうわよ」
「ひっくひっく」
「おかあさまときたら、ずっと見てるのよ、ホニョーラのこと。身じろぎもしないで、そのうち化石になって、いなくなってしまう」
「ひっくひいいっく」
「あたしだってこわい。でも、やる。ねえコッコーラ、あたしやってやる」
翠は呼吸できなくなる。私は、仲良しってものを理解できてないんじゃない? それは、信頼で、つまりは、愛。私は愛を、信頼を、捨てたんじゃなくて、元からちっともわかっていないんじゃない?
「一つ、提案がある」洸一の声をきっかけに、翠は息を吸う。
「記憶コントロールウィルスを、ホニョーラに感染させたらどうだろう」
「洸一、それは」
「そうすれば、今の時点でホニョーラが持っている記憶が残るかもしれない」
「ウィルスを強化するあの薬も投与すれば」
「うん、記憶を保っておけるかもしれない」
「なるほど」翠が頷くと、洸一の頬が紅潮する。
大統領のウィルスがホニョーラを救う? そんなことがあるだろうか? アブラダモッチは腑に落ちない。
「わたしは賛成できない」さっきまで泣きじゃくっていた黒犬が毅然と反論をはじめた。「チーロンとジーロンを見ても、残っているのは大統領に関する記憶だけ。洸一さんと翠さんのことも、わたしたちと死闘を演じたことも、全く覚えていなかった」
「ホニョーラの記憶も、全部保持できるとは思っていないけど。でも、せめて少しだけでも残れば」
「洸一さんが、良かれと思って考えてくれたのはわかっています。けれど、裏目に出たら」
コッコーラ、あんたカラスじゃなくてもずいぶんしっかりしてきたじゃないの。ねえホニョーラ、聞いてる? アブラダモッチは心の中で語りかける。
「その可能性は大いにある」蔓男が割り込んできて、アブラダモッチもみんなも一斉に声の方を向く。
「すみません、途中から聞いていました。大統領は自分に有利なものしか作らない。つまり、自分に関連した記憶が濃くなるように設計していると思うんです」
「ホニョーラが大統領の犬になってしまうかもしれない」と、アブラダモッチが納得したように口を挟むとと洸一が頭をかきむしる。
「洸一さん、翠さん、先生。ありがとう」婦人がダーリンの手を借りてゆっくりと起き上がった。ゆっくり、眠り姫に近づく。「みなさんのお気持に感謝します」真っ白い椅子の上で、規則正しく寝息を立てている大きな白い犬を愛しそうに撫でる。「アブラダモッチが、この娘を生まれ変わらせてくれる。でもね、再生とは元通りになるということではない、と思いますよ」
アブラダモッチは婦人と目を合わせて頷く。
婦人は続ける。「まっさらなままでいいの。ホニョーラのたましいの音は、ずっと変わらないのだから」
「ホニョーラは、どんなときもホニョーラ」コッコーラが真っ白い額をそっと舐める。
「ホニョーラは、なにがあってもホニョーラ」アブラダモッチは大きな白い体に頭を擦り付ける。
「お願いよ、アブラダモッチ、あなたもきっと無事でいて。うまくやろうとか考えないで、ただ、元気で帰ってきて」
ありがとうおかあさま。アブラダモッチは真っ直ぐに婦人を見つめ返した。
四人で白い犬を抱く。
とく、とく。
ホニョーラの心臓の音が聴こえる。
とく、とく、とく、とく。
みんなの鼓動が同期してリズムを刻む。ずっと感じて響き合ってきたハーモニー。あたしたちのたましいの音。
あなたはあなた。どうなろうとも、あなただから。
(おかあさま、コッコーラ、アブラダモッチ、ありがとう)
アブラダモッチは、ホニョーラの声を聴いた。そう、とっくに聴こえていたはずなのだ、みんなで聴いていたはずなのだ、ホニョーラの音を。
ホニョーラにもわかった。ホニョーラも、いつだってわかっていた。
白い犬が少しずつ、少しずつ、白い大蛇に呑み込まれてゆく。どこからともなく光の粒が一つずつ姿を現して、細かなしゃぼん玉のように辺りを満たす。それが一つずつはじけて消えて、はじけて、消えて、はじけて、最後の一個が消えた頃、白い犬の姿はすっかりなくなってしまった。
ミステリオーザ婦人とコッコーラが祈るように蛇と頭を合わせる。そうして同時に昏倒した。
蔓男も、もう一度昏倒した。
ダーリンがクッションやら毛布やらを婦人と黒犬と蛇に、ついでに蔓男にもあてがってやるのを、翠は手伝う。寝室に運んだりしないでいい、ここでみんな一緒にいればいい。
「一心同体なんだよ、チーム・ミステリオーザは」ダーリンが婦人の頭をぽんぽんとする。
「ヴェルナーレさん、妬いたりしないんですか」翠は悪戯っぽく、でも半分本気で尋ねる。
「やきもち? いやいやこれはね、四人だけの特別な絆なんだよ。それに僕はね、そんなチームを作っちゃうガルデーニアが好きなんだ」ちょっと誇らしげなダーリン。
信頼のないところに、愛情はありません。
コッコーラに言われたことが甦って、翠は
<続く>