第3話 完結

文字数 1,813文字

 二年後。恩田は常連客であった、陸子(りくこ)という女性と恋仲になった。これまで女性に対し奥手だった恩田だが、例のハサミのおかげで女性客が殺到し、自分からデートに誘えるようにまで成長していた。
 陸子は翌年に恩田の妻となっていた。
 結婚したとはいえ、陸子にもハサミの秘密を漏らしてはいない。かねてから疑問に思っていたらしい陸子は、事あるごとに訊いてきたが、その都度はぐらかしてばかりいた。

 八月のある月曜日。その日は定休日だった。
 恩田は理容学校時代の友達と釣りに行っていた。釣りは恩田の唯一の趣味で、これまで多忙を理由に断っていたのだが、本心は金欠だったのが理由である。
 釣り竿を抱えながら玄関を出る亭主を見送った陸子は、昼過ぎに約束していた親友の紗代(さよ)と共に自宅の居間でティータイムを楽しんでいた。
「陸子の旦那さんってカリスマ理容師なんでしょう? いいわね。ウチなんてしがない魚屋よ。ガタイばかりデカくてセンスの欠片もないわ。どんなに洗っても体中魚臭いし、声もガラガラ。そのうえ……」
 紗代の愚痴は止まらない。毎度のことながら陸子は辟易しながら頷いていた。
 陸子だって大して変わらない。いつも恩田の悪口を紗代に聞いてもらっているのだ。互いの夫の罵り合いは、むしろ二人にとって人生の潤滑油となっていた。
「ねえ陸子。ちょっと髪を切ってくれない? 最近、肩にかかって邪魔なのよ」
 不意の言葉に戸惑う陸子。理容師の妻とはいえ、今まで散髪の経験が無かった。
「ちょっと待って。夕方には夫が帰ってくるから。私なんてハサミも握った事ないのよ」
「判っているけど、わざわざ旦那さんに頼むのも何だか申し訳なくって。この間も人気女優の長浜あさ美の髪型にしてもらったでしょう? 友達のよしみで無料でカットしてくれたけど、他のお客さんもいるのにこれ以上お願いしたら悪いわ」
「今日は休みだから気にする事は無いわよ。私がカットして、もし失敗でもしたら、それこそ紗代に悪いわ」
 陸子は丁寧に首を振ったが、それでもかまわないと両手を合わせて頼み込む紗代。
「お願い、明日は結婚記念日なの。少しはオシャレしたいじゃない? あんなガサツな旦那でも少しは綺麗なところを見せたいのよ。ほら、私って、枝毛が凄いでしょう。毛先を揃えてくれるだけでいいから」
 たしかに紗代の毛先は少しバラついている。気が引けるが、毛先だけならばと陸子は重い腰を上げた。
「ちょっとだけよ。もし失敗したとしても絶対に文句は言わないで。それが条件よ」
 紗代はお願いしますと頭を下げた。

 二人は店舗に移ると、紗代は散髪台に座り、自分でケープを首にかける。緊張をほぐすために陸子は備え付けのテレビをつけた。恩田は集中できないと嫌っていたが、陸子としてはテレビをつけた方が気が紛れそうで、実際少し落ち着いた。
 テレビにはニュースが流れ、タレントのコガネムシ宮田が何度目かの不倫会見を行っている。
 陸子はキャビネットを開き、並べられたハサミの中から恩田の愛用している物を取り出した。店が繁盛し始めた頃から使いだしたハサミだと聞かされていた。これまで陸子はおろか、従業員にも触らせないほどで、よほど貴重なものであることは想像に難くない。
 だが、そう言われれば言われるほど気になるのが人情というもの。せっかく散髪するのであれば、夫がいない隙に使用したいと考えたのだ。
 いよいよである。
 ハサミを手にした陸子は震える指で紗代の毛先に刃先を伸ばす。しかし、いざとなると、どうしても指を動かすのをためらってしまう。
「やっぱり駄目。私には無理よ」吐き捨てるように言うと、構えた手を下におろす。
「ここまで来て切らないつもり? 何も旦那さん並みの腕前を期待しているんじゃないのよ。気楽にすっと切ればいいのよ。すっと」
 そう言われて力が抜けたのか、陸子は両手を構えると、シャキシャキと勢いよくハサミを鳴らす。テレビはいつの間にか高校野球の中継に変わっていた。
「高校野球っていいわよね、これぞ青春って感じで。私も学生時代は先輩の野球部員に憧れたものよ。陸子もそうじゃない?」紗代は声を弾ませた。
 テレビをチラ見して、陸子は遠い目をした。
「そうよね。私もあの頃に戻りたいわ。今の旦那は嫌いじゃないけれど、あの頃のときめきはもう二度とないかも。案外ウチの旦那も坊主頭が似合うかもね」

 一瞬、陸子はハサミが光ったように感じた。
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