第1話

文字数 2,325文字

「毎度ありがとうございました」
 恩田(おんだ)は丁寧にお辞儀をする。閑古鳥の鳴く『恩田理髪店』にて、本日最後の客が帰っていったところだ。この日も利用客は常連の二組だけで、シャッターを下ろす恩田の手も力が入らない。親から受け継いだこの理髪店も、いよいよ限界に思える毎日が続いた。
「これでも昔は……」
 床を掃除しながらいつもの独り言を繰り返す。
「これでも昔は客で溢れていたんだ。腕には自信がある。そんじょそこらの理容師には決して引けを取らないはずだ。なのに……」
 肩を落とし、ため息交じりに窓越しに外を覗くと、数軒先のはす向かいに昨年オープンしたライバル店が網膜を震わせる。テレビCMが流れるほどの有名な系列店『ヘアサロン レディース&メン』で、膨大な資金力を武器に、破竹の勢いで展開していた。
 八台の散髪台と、三十人を越すイケメンぞろいのスタッフ。低料金の上に、おしゃれな店内と気の利いた喋りで、開業して半年も経たない間に恩田の客を根こそぎ奪い取った。
 対抗しようにも、日々の資金繰りもギリギリな恩田の理髪店では、象に立ち向かう蟻のようなもの。
 もはや風前の灯となり、廃業は時間の問題かと思われた。
 自宅兼店舗のあるその場所は立地も良く、かねてから不動産に売却を勧められていたが、両親に託されたこの店を、どうしても手放したくはなかった。

 ある日。金物屋を訪れた恩田は、カットシザーと呼ばれる散髪用のハサミを購入した。今まで騙しだまし使用していたが、いよいよ使い物にならなくなったからだ。
 今の恩田にとって、四千円は痛い出費であった。だが、背に腹は代えられない。言うまでもなく理容師にとってハサミは命の次に大事な道具。ケチる訳にはいかなかった。
 朝から降り続く雨は勢いを増しており、傘を差しながらバス停へと向かう。
 途中、何気なく足が行き先を変えた。
 そこは一軒の古道具屋であり、軒先には薄汚れたタンスや非売品の札が貼られた冷蔵庫などが置かれている。雨は当分止みそうもなかったので、恩田は店内へ、ふらふらと足を踏み入れた。
 こじんまりとした印象の外観からは想像できなかったが、店中は意外と狭くない。哀愁漂うそこにはガラクタにしか見えない雑多な家具やオモチャなどが溢れており、棚には中国製とみられる壺や、英字の書籍が並んでいる。カビだかほこりだか判らない匂いが鼻を突き刺し、黄ばんだアニメのポスターが目に映ると、ノスタルジックな空気に飲み込まれていくのを感じた。
「何かお探しですかな」
 不意に声が掛かり、驚いてふりむく。そこには身長の低い口髭の老人が腰を曲げながら佇んでいた。
「いえ……何となく入っただけですから」自分には構わないで下さいと言わんばかりに、視線をずらして生返事をする。
 髭の老人は、恩田を頭の先からつま先まで食い入るように見つめると、無言のまま奥へと引っ込んだ。不気味な匂いを感じ、すぐさま立ち去ろうとしたが、何故だか足が動こうとしない。悶えながら小声で喘いでいると再び老人が姿を現した。
「お主にはこれがええじゃろう」
 そう言って差し出された手には、一丁のハサミが握られていた。理容師である恩田にはそれが一目でハサミだと判る。
「あいにくですが、さっき買ったばかりなので」
 手にした袋を持ち上げながら丁重に断りを入れた。だが、老人はたじろぐどころかそのハサミをさらに押し付けてきた。
「ええから、持っておいて損はない。これは完全剪刀(ワンチェンシェンタオ)といって二千年前の中国で作られた由緒あるハサミなんじゃよ。試しに使ってみるかい?」
 二千年も前に金属のハサミなんてある訳が無いじゃないか――などと、胸の奥で突っ込みをいれる。恩田としては、これ以上老人に関わり合いたくなかった。だが、店を出ようにもなぜか体が動かない。
 仕方がないので、押し付けられたハサミに指をいれて、数回エアーカッティングしてみる。
 これまで使用してきたハサミと変わらない感触だった。
 実際にカットしてみないと何ともいえないが、老人があれほど自慢するくらいなのだから、おそらく切れ味が鋭く、使い勝手は良いのかもしれない。
 だが、理容師にとって大切なのは、ハサミの性能ではなく、テクニックだ。恩田に言わせれば、どんなに高級な道具を揃えたところで、それを使いこなせなければ、宝の持ち腐れ。要は経験と技術がものをいうのである。
「いいものかもしれませんが、僕には必要ありません」
 恩田はハサミをカウンターテーブルに置いた。
 すると老人はカウンターの裏側に潜り込むと、頭部だけのマネキンを出してきた。ヘアカットの練習で使う頭髪サンプルだ。
 今さらカットの練習なんて――呆れ顔の恩田はため息をつかずにはいられなかった。
 そんな恩田の気持ちを知ってか知らずか、老人は「ほほほっ」と笑い声を漏らすと、棚の隅に置いてある八十年代のファッション雑誌を手に取り、恩田に渡す。
「この中から何か一つ、好きな髪形を選んでくれ」
 何の真似だと疑問に思いつつ、恩田は言われるがままページをめくる。当然ながら当時はアイドル全盛期。どこをめくっても『聖子ちゃんカット』のオンパレードだった。
「……じゃあ、これ」
 渋々ながら典型的な松田聖子の髪型を指さす。デザインが複雑で、以前から一度試してみたいと思っていたからだ。
「試しにハサミを入れてしてみんさい。騙されたと思って」
 マネキンの頭髪は肩下までのストレート。もし、これを聖子ちゃんカットするのであれば、ヘアアイロンは必須。ハサミ一丁で仕上げるのは絶対に無理だ。
 正直面倒くさいが、これで老人が納得するのであればと思い、恩田は不貞腐れながらハサミを握った。
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