第7話 ④

文字数 3,947文字

「ゆめちゃんは俺のことを好いてくれていた?」
 なおも並んで砂浜を歩き続けながら、蓮丸が唐突に尋ねた。
「ゆめちゃんが俺をあそこから連れ出したのは、ゆめちゃんが俺と一緒に逃げようとしているか、自分の手で殺したいほど俺を憎んでいるか、そのどちらかだと思った」
「わかっていないかもしれないが、僕もおまえが普通の人間じゃないことを知っている。なのに一緒に逃げようとするわけがない。僕はただ自分の口から別れを告げたかっただけだ」
 そう、それが本来の目的だったはずだ。経緯はどうあれ瑞島と蓮丸は共に長い時間を過ごした。染子から依頼された時間稼ぎも関係ない。研究室のガラス越しに動かなくなった蓮丸の亡骸と対面したくなかっただけだ。
「でもあの女の人が言っていることは間違っているかもしれない。俺は猫かもしれないし本物の人間かもしれない。あの人が言っているだけで証拠はないでしょ?」
 蓮丸の言うことはもっともだ。瑞島は二人の手を離して蓮丸を振り返った。証拠といえるかわからないが証明することはできる。
「社長からおまえは血と涙を流さないと聞いた。料理をしていて怪我をしたことはあるか? 悲しい話を聞いて涙ぐんだことは? それがないならおまえはやっぱり機械なのかもしれない」
「そんな……」
 蓮丸は辺りを見回して、足元に落ちている貝殻の欠片を拾った。一部分が割れて鋭いギザギザになっている。瑞島が止める間もなく蓮丸はそれを左手に突き立てて横に引いた。
「……」
 人体なら皮膚が切れて血が流れていただろう。蓮丸の左手はぱっくりと傷口が開いたが血は流れなかった。瑞島が触れてみるときめ細やかな肌はまるでシリコンのようで、本物の体温と変わりない温もりがあった。
「う、うぅ……」
 手に持った貝殻と靴をボトッと落とし、蓮丸が肩を震わせた。瑞島は見ていられず水平線に目をやった。人が涙を流すのはストレスや悲しみを緩和させるためだと聞いたことがある。それが事実であれば、蓮丸はいくら声を上げようともその悲しみが治まることはない。
 波の音にかき消されそうなか細い声を意識の端で聞きながら、瑞島は天宮から預かったスマートフォンを取り出した。そしてそこに表示された文字を見てどんなデータが内蔵されているかを理解した。蓮丸にとって機能停止や廃棄処理は死に等しい。
 瑞島は小さく息を吸って目を閉じた。染子が言った言葉をひとつひとつ思い返し、何か忘れていることはないか確認した。大丈夫、これは賭けだ。目を開けた瑞島は打ち寄せる波に向かってスマートフォンを投げ込んだ。
「え……」
 ボチャンという音に顔を上げた蓮丸は絶句した。スマートフォンの暗転した画面が海水の中でゆらゆらと揺れている。
「蓮の花言葉を知っているか?」
 瑞島は靴を置いてザブザブと波打ち際まで歩いた。足が濡れるのも構わずスマートフォンを水中から取り上げる。電源ボタンを押しても起動しない画面を見下ろしたあと、蓮丸のもとに歩いて戻った。
「蓮は泥から芽が出て水面に花を咲かせる。仏教では極楽浄土に咲く花だといわれていて、花言葉のひとつは「救済」だ。その名前を飼い猫につけた葦名はずっと誰かに救ってほしかったのかもしれない。あるいは飼い猫が自分の救いになることを期待していたのかもしれない」
 染子によれば葦名は天涯孤独で身寄りもなく職を転々としていた。どこか冷めた性格だったというが、救われたい思いを密かに持ち続けていたのかもしれない。実際、飼い猫に先立たれた葦名は自ら命を絶ってしまった。
「もうひとつの花言葉は「離れゆく愛」だ。蓮の花はとても寿命が短くてな。咲いてから数日で花びらが散っていくらしい。何かを愛する心は永遠のものじゃない、少しずつ離れていくものだ。どんなに大切でも自分に縛りつけておくことはできないんだよ」
 それは瑞島自身に向けた言葉でもあった。一度は好きになったホステスのラミ、好意を寄せてくれた菊池梢、それから蓮丸。いろんな出会いがあったが自分は今も独りのままだ。
 葦名もそうだったのだろうか。養護施設で育ち風俗業に従事する中で様々な一期一会があっただろうが、誰とも深い繋がりを持たずに生きてきた。その死後、蓮丸と入れ替わっても大きな混乱が起きなかったことからもそれがわかる。
「さっきから勝手なことばかり言っている僕を恨むか?」
 突然変なことを言い出して戸惑っているかと思ったが、蓮丸は首を横に振った。その眼差しは瑞島を通り越してどこか遠くを見ているようだった。
「今の話、どこかで聞いたことがある気がする。蓮の花言葉と、蓮は泥から生まれてきれいな話を咲かせるって話。だから蓮の花が好きだ……って誰かが」
 言ったとしたら葦名だろう。染子をはじめカグヤ社の誰かがそんな話をするとは思えない。葦名と飼い猫の思い出が蓮丸の原点になっているのだから、記憶の中にあったとしても何ら不思議はない。
「本物の蓮丸はどこにいるの?」
 月に照らされた海はところどころ金色に光って見える。蓮丸はそれを珍しそうに眺めながら尋ねた。
「病気で死んだそうだ。葦名との約束でカグヤ社が弔ってくれたらしい。葦名は飼い猫が死んだことに絶望して自分の命を絶った」
「そう。あるじは蓮丸のことを大切に思っていた。それだけは本当だったんだね」
「ああ。おまえの記憶にあるとおりだ」
 おもわずそう言った瑞島の言葉を、蓮丸は笑って否定した。
「俺の記憶じゃないでしょ。あるじと蓮丸が一緒に過ごした時間は短いけど、思い出の数が膨大すぎて俺もまだ全部見返せていない。死ななければもっと幸せな時間が続いていたのかな」
 蓮丸は自分自身と猫の蓮丸を分けて考え始めている。ようやく自分の状況を理解した、あるいは覚悟を決めたのだろうか。
「……死ななければ僕たちが出会うことはなかっただろうな」
 考えたくはないが、葦名が死んでいなければ瑞島はおそらく警察に捕まっていただろう。ホステスにうつつを抜かして破産していたかもしれない。
「そうだね。人を殺したいほど憎む気持ちを知ったのも事実だけど、ゆめちゃんとの出会いでそれ以上に尊いものを学んだ」
 蓮丸がためらいがちに瑞島を見た。少し歩みを進めれば触れられる距離なのに、その距離を縮めることに臆病になっている。
「ゆめちゃんとあの女の人のおかげで自分がどういう存在なのか充分わかった。でも俺だけ例外になることはできないのかな。ゆめちゃんを想う気持ちは俺から生まれたものだよ。あるじと猫は関係ない」
 いつもの溌溂さを失い、海風に吹かれている蓮丸の姿は今にも消えそうなほど脆く見えた。瑞島はその姿を見ているのがいたたまれず足元に目を落とした。うるさいほどお喋りな蓮丸が戻ってくればいいのにと思った。そうであればこんなにも自分の胸が苦しくならずに済んだだろうに。
「こんなことを聞くのは卑怯だってわかっているよ。でもゆめちゃんはどうしたい? もう俺とは一緒にいたくない?」
 蓮丸はほとんど聞き取れないぐらい小さな声で言った。瑞島はその頭越しに遠くを見やった。
「さっき僕がおまえを連れ出した理由を聞いたよな。あのとき僕が言った答えがすべてだ。僕は自分の口から別れを告げたかった。おまえが誰かの手で廃棄処理されるのを黙って見ていられなかった」
 海の上ではようやく月が西に傾きかけているが、まだ夜明けには遠い。暗くて蓮丸の表情がよく見えないのが幸いだった。
「いくらでも替えが利く世の中で、誰かの特別なひとりになるのは簡単なことじゃない。人は生きている間に大勢の人と出会うけれど、別れを告げられるのはその中でもわずかな人だけだ。……だから僕はおまえの最期を見届ける。この瞬間を他の誰かに任せたくない。こんな気持ちになるのはおまえが僕にとって特別だからなのかもしれない」
 染子が言っていた一部の企業の邪魔が入らなければ、カグヤ社は淡々と廃棄処理の準備を進め、ボタンひとつで完了していたかもしれない。もし企業に身柄を引き渡されていれば蓮丸はどういう結末を辿ったのだろう。無意識下で、あるいは計画的に人を殺めた人型の機械として何かに転用されていただろうか。
 そうなる可能性は充分にあったが、偶然の巡り合わせと強い希望により蓮丸の命運は瑞島の手に握られた。要するに染子と利害の一致があったということだ。瑞島は他の誰にもこの役割を取られたくなかった。
「でも……」
 蓮丸は瑞島の手にある水没したスマートフォンにおずおずと目をやった。これの用途は説明していないがおおよその予測はついているはずだ。瑞島は視線の意味を理解して頷いた。だからこれは賭けだ。刻一刻と迫るそのときを想像して緊張が高まった。
 もし蓮丸が生きている人間であればたった今、生命の危機を感じただろう。その瞳に恐れが浮かんでいないのは目の前の瑞島を心底信用しているか、人工知能が初めての状況に出くわして正しい答えを出せなくなっているかのどちらかだ。
「本当なら僕も答えが知りたかった。おまえにとって僕はどんな存在なのか。だけど、僕は蓮丸のことを愛してなんかいない。この気持ちは愛なんかじゃないんだ。ただの僕のわがままなんだよ」
 ぴたりと時が止まったように思えた。錯覚でなくその音が聞こえたように感じた。倒れかかる身体はこれまで知っているものとは桁違いに重い。瑞島は支えきれず砂の上に膝をついた。
 先ほどまであった温もりはもうそこにはない。冷たい無機質な素材の手触りがあるだけだ。うつむくと涙が出るかと思ったが瑞島の目は乾いたままだった。まるでおまえも機械と同じ血と涙を持たない存在だと突きつけるように。
「……もっとおまえのことが知りたかった。助けてやれなくてごめんな」
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