第3話

文字数 3,149文字

 幸手駅に着いた康太はプラットホームを風のように駆け抜け、改札を飛び越える勢いで直進していた。(実際はしっかりスイカでタッチしている)電車の中でグーグルマップを開き住所をうちこむとなんと駅から歩いて十五分もかかる事実が発覚したのだ。

「先生無茶ぶりがすぎんだろ、なんで現役退いたのに一・五キロも全速力で走らなければならないんだ!」

 すでに約束の集合時間から五分も過ぎている。右肩に部活で使用した野球道具が入ったエナメルバックを左肩にかけながら、終始ノーブレスで通学路を走る。途中ですれ違う中学生は康太に少なからず好奇の目を向けていた。

「ばかやろ、中坊スマホで撮影すんじゃねぇ」

 康太はケラケラ笑いながらスマホを構えていた二、三人の男子の群れに二割ギャグ、八割本気の声量で注意する。しかし、それ以上追及するつもりはなかった。石坂先生はともかく荒田監督直々に頼まれた仕事だ。詳しいことはよく分からないとはいえ、自分の頑張り次第で大学と桜高校の間に友好関係が構築すれば、それはそれで誇らしいことだ。

「見えてきた」

 スマホの時間を確認する。三時十五分。まぁなんとか許してもらえるだろう。康太は正門の柵に手をあて、もう一つの手を腰にあてて、息を整える。六月とはいえ気温は夏に向けて日に日に上昇していた。まったく地球温暖化とはよく言ったものだ。春日部駅近くにある学生寮の部屋でも滅多にエアコン使わないし、深いため息もつかない。オレはこんなに地球に優しい男なのに、誰もオレに優しくしてくれない。

「あぁなんか悲しくなってきた」

 康太は一人つぶやき滴る汗をスポーツタオルで満遍なく拭った。更に車の中で石坂先生がこれ見よがしにくれた制汗スプレーを咳が出るほど体に吹かしまくった。

「これでよし!」

 康太は遅刻したことも忘れ我が物顔で事務室に赴くと事務長を名乗る女性から校長室に案内された。

 コンコン。

「はい」

 ドアの向こうから低く威厳がある声が聞こえてくる。
「校長先生、お連れ致しました」

「どうぞ、お入りになってください」

 事務長から促されると康太は一度深呼吸をして、ドアノブに手をかける。

「失礼します。この度はお日柄もよく……」

 その瞬間に、鋭い視線を感じた。

「遅い、遅すぎますよ。菱田くん!」

「はいぃ、すみませんでした」

 康太が思わず後ずさりして、気がつけば頭を直角に下げていた。身長は康太より少し小さいくらいの男性は、鋭い眼光で、陽に焼けた肌の眉間にしわをよせ怪訝そうに康太を叱責したのだ。

「いいんだよ。さぁさぁ菱田くん座って座って」

「はい! 失礼いたします!」

 校長室に備えられたソファーには、すでに他大学の学生がスーツ姿で、覚めるようなまなざしを康太に向ける。

「はは、失敬、失敬」

 石坂先生の研究室にあるものとは比べものにならないくらいふかふかで、いつもより尻が深く沈む。

「この度は遅れまして申し訳ありません」

「菱田くん頭をあげて」

 金井は、康太をなだめたが、泉主任は遅刻した康太に対して怪訝そうに横目をちらつかせていた。

「みなさん、まぁ若干一名遅れてきましたが、よく来てくれました。あなたたちには我が校の教育サポーターとして……」

 欠伸を我慢しながら長ったるしい説明を聞く。どうやら康太以外の学生は基本的に教員志望で、このアルバイトもそのための予行練習の一環らしい。

「皆さんには、おもに一学年の生徒を担当して……、学生でありながら未来の教師であり、生徒たちには秩序正しい見本になってもらいたい……、若干一名そうでない学生もいますが、間違っても生徒とSNSでのやりとりや連絡先の交換をしないようにお願いしますよ」

 一時間に及ぶ説明が終わると学生たちは泉主任から手渡された資料をカバンにしまい順番に校長室を後にする。康太もその流れにそって帰ろうとしたが、

「菱田くんは残ってくれ」

 帰り際に声をかけられた。気づかれないように大人しくしていたのにも関わらず。

 金井は泉主任に何かを持ってくるように指示をして、康太が頭を上げた時に目の前にさきほどまで食べていたものと同じフランス製のパウンドケーキの菓子箱が広がっていた。

「さぁさぁ食べながら話そう」

 机の上に広がったパウンドケーキを眺めながら、恐るおそる手を伸ばす。これを食べたらもう断れない気がする。そんな猜疑心に駆られながらも康太はパウンドケーキを一口かじった。

「どうだい、これは貰い物なのだがね、なかなかおいしいだろ」

「はぁ、はい」

『さっき食べた奴と全く一緒だ、うちの学長の貰い物じゃね』その真意を確かめる術は残念ながらないが、康太はパウンドケーキを食べたことは事実だ。

「君には我が校の生徒に簿記の勉強を教えてもらう。というのは口実で、野球部の監督やってもらう。まずは……」

「そのことなんですけど、なんで僕なんすか」

「聞きたまえ」

 言葉を遮った康太に憤懣やるかたなしと言った調子で、金井は康太の目の前に協定契約書と書かれた一枚の紙きれを差し出した。

 六月の一週目、夏がもう顔を出してじりじりと肌を焦がし始める。

「これは我が校と菱田くんの大学との協定書だ」

「なるほど」

 たしかにうちの大学と桜高校の協定書だ。間違えない。車の中で石坂先生が言っていた桜高校との指定校協定の話しで最後の最後でお互いの意見が合わず思うように言っていないと聞いた。

「ここの欄に私の捺印があればそちらとしては何の問題もないだろうね」

「まぁ僕には直接関係ないですが」

 投げやりにそう言った時だった。校長室のドアがノックもなしに勢いよくいきなり開いた。康太はその意表をついた大きな音に驚きながらも振り返ると、大柄な男子と小柄だが筋肉質の男子がこちらを見つめていた。二人とも真っ白いユニフォームを着用していて左胸には、「穂浪」「大野」と書いてある。

「校長先生! この人が新しい監督ですか!」

 「大野」と書かれた生徒が康太を尊敬のまなざしで見つめていた。

「もう、雄大失礼だろ」

 「穂浪」と書かれた生徒はその恵まれた体格とは対照的におどおどした声だ。

「お前らなんだノックもしないで!」

「まぁまぁ主任、ほら二人とも新監督にご挨拶だ」

「まってください、僕はまだ何も……」

 康太がしどろもどろして次の言葉を捜す前に、雄大は汗まみれの顔をほころばせる。

「俺、桜高校野球部主将大野雄大です!」

「え、いやそのはじめまして」

 その熱気あふれる挨拶に康太はすっかり気分をのまれてしまい無意識の内に立ち上がってしまった。

「僕は、副主将でえっと、キャッチャーです。えっとよろしくお願いします」

 体型は異なるものの、視線の高さは康太をゆうに超えている。穂浪太一は、身長一八〇センチはあるだろう。

「監督って言われたって俺経験ないぞ」

「それでも私が指揮をとるよりましだ」

 金井はなし崩しに康太の肩口をたたいた。軽く触れた程度なのにそこになんとも言えない重みがある。更に雄大のまなざしは康太の顔から両手の平に注がれた。

「やっぱりすごく皮が厚いんですね!」

「えぇあぁ」

「やっぱり大学野球は毎日千本素振りですか!」

「いや、そうかな、結果的にそれだけ振ってたかも」

「す、すげぇ~ こんなすごい人が監督なら甲子園だって狙える!」

 まずいな。康太はめんどくさくなる雰囲気を察して早くその場を去らなければいけないと感じた。

「こ、甲子園って、校長先生今日はこの辺で失礼しますよ」

 康太は無理やりにも金井や雄大に一礼して踵を返した。

「菱田くん、これだけは覚えておいてくれ――」

 背後から声が聞こえた。

「私はこの子達に良い思い出を残してあげたいんだ。最後の桜高校野球部員としてその花道を作ってやりたい。そのことを忘れないでくれ」
          
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