第5話
文字数 3,066文字
「一本よこせよ」
「立ち食いは厳禁ですよ」
「いいんだ、俺たちはもう上級生だぞ。監督、コーチに構うことはないさ」
「それもそうっすね」
レジ袋からホームランバーを一本康太に差し出す。味はチョコ味だった。
「バニラよこせよ」
「いやっす」
「俺の金だぞ」
「厳密には菱田さんの親のお金でしょ」
「そうだな。じゃあチョコで我慢するわ」
「我慢してください」
寮までの道を戻る。蒸し暑い気候に嫌気がさし、熱帯夜を過ごさなければならないことに心底嫌気がさす。
「……足はもういいんすか」
「あぁ」
「そうすか」
康太は自身の右足を叩いた。ケガをして、それでも僅かな望みをかけて半年間死ぬ気でリハビリと練習に励んできた。自分のわがままに最後まで付き合ってくれた体に今は感謝している。
「なんども言って悪いがお前まで俺と現役引退することなかったんだぞ」
「別に同じってわけじゃないすよ。僕は来年の就活のことを考えての引退ですから」
そういえば東京消防庁に行きたいんだよな。少し前に上宮が言っていたことを思い出す。
「お前もいろいろ考えてんだな」
「菱田さんほどじゃないすけどね」
康太からしてみれば上宮の才能には目を見張るものがあった。身長は平均的に比べて低いがその分並外れた運動センスがあり、守備に至ってはその非凡なセンスをいかんなく発揮していたのだ。しかし、それだけならこのチームにごまんといる。実力を見出される選手とそうでない選手の特徴はなんなんだろうか。康太は引退してからずっと探している。高みを目指すと誓ったあの日から突然始まった競争のゴング。更に縁やら運やら才能やらと言ったぼやついた、でもたしかにはっきりとした事柄が永遠のように付きまとう。スポーツマンシップに反する最もフェアじゃない戦いがそこで起きている。
「菱田さん」
「どうした?」
「明日、久しぶりにキャッチボールしませんか?」
「やるか」
上宮は軽くステップを踏んで夜空に向かってボールを投げる仕草を披露する。三分の力でも、バランスの良さを感じさせる美しいフォームだ。
練習の途中で荒田監督に高校に出向くことを説明すると快く承諾をもらい康太はグラウンドを後にした。みんなより早く練習を切り上げることに他の学生コーチの奴から少なからずの嫌みをもらい受けたが、そんなこといちいち気にしている暇などない。昨日の夜はあれから高校時代の簿記の教科書を机の引き出しから引っ張り出して、勘定科目から連結財務諸表のやり方まで細部にわたり復習してきた。生徒はおろか他の大学の学生に絶対に舐められるわけにいかないのだ。
寮に帰って素早く汗をシャワーで流し、制汗スプレーをかけまくる。少しきついスーツに身を纏い今度は余裕を持って電車に乗った。幸手駅から程遠く離れた桜高校はもともと桜商業高校という名前だったが、数年前に近隣の工業高校と普通高校と吸収合併し総合学科の高校として生まれ変わった。これも少子化の影響なのかと思いながらも康太は足を進める。
「君たちのために大学から勉強を教えにきてくれた先生方です」
泉主任の簡単な紹介が終わると、さっそく授業に入っていく。どうやらこの教室に集められた大半は中間試験や小テストで赤点をとってしまった生徒らしい。
『まったくこんなことなら昨日早く寝ればよかった』
康太は昨日の猛復習も虚しく、簡単な勘定科目で貸方、借方を間違える生徒にできるだけ優しく教えていた。
「菱田くん」
自分の名前が呼ばれたと思って振り向けばやっぱり校長の金井だった。ドアを半分ほど開けて手招きする。
「なんすか?」
「どうだね調子は?」
「まぁぼちぼちですよ、でなんすか?」
「そんなことより、今日はユニフォーム持ってきたかね?」
どうしてこの人は疑問を疑問で返してくるんだろう。康太は自分の頭を軽く撫でると明らかにめんどくさそうに「持ってきました」とだけ言って再び授業に戻った。しかし、金井は自室に戻ることはなくそれどころか教室の一番後ろに居座り周囲を見渡している。
『このおっちゃん、おれがばっくれると思ってんのかよ』
まるで信頼されていないのが腹を立たせるが、正直康太にとってバイト代がもらえればそれでいいのでバイト代がでない野球部の監督を最初から真剣に受けようとははなはだ思ってもいなかった。ただ後ろから感じる視線にひどく気疲れした。
授業が終わってから二十分が過ぎて、康太は金井に借りた教職員用の着替え室でユニフォームに着替えグラウンドに向かって歩いていた。野球部専用グラウンドは十分な広さはあれど手入れの行き届いていない乾いた土はダイビングキャッチをしようものならきっと怪我をするくらい固かった。内野に足を踏み入れたところでふと足を止めた。ユニフォーム姿の男子生徒が二人そこでキャッチボールをしていた。一人はピッチャーのように大きなモーションで思いっきり腕を振っていて、もう一人はその球をなにも言わずに受け止めている。その様子を立ち止まったまま見守った。
「おい太一もっとなんか感想とかないのかよ!」
雄大は不満そうに太一に言った。
「うん、ナイスボール」
「おいおい、もっと明るくやろうぜ」
雄大の笑いがはじける。その後も楽しそうに投球する雄大は勢いのあるストレートを投げ込んでいた。捕手役の太一は康太が見ている限りでは一度もグラブのシンでボールを捕ることが出来ていなかった。立派なキャッチャーミットをこさえているのに全部網の部分で捕球している。
それから十球ほど見たあと、康太は二人の元へ近づいて行った。
「なかなかのボールを投げるな。一球受けてもいいか」
「あ、菱田さん! ウスッ!」
康太に気が付いた雄大が帽子をとって元気よく挨拶する。
「どうも」
捕手をしていた太一は対照的に申し訳なそうに頭をちょっこんと下げた。
「大野くんだっけかきみはピッチャーじゃないだろう?」
雄大は首を縦に振る。
「そうです雄大は本来ならセンターなんですよ」
太一がすかさず補足しながらグラブを康太に渡した。
「穂浪くんせっかくいいミットを持ってるんだ。捕球はいい音をならさないと」
康太は腰を軽く落としミットを構えた。雄大は嬉しそうに振り被ってミット目掛けて腕を振った。勢いのあるボールは空気を裂くようにシュルルと音を立てて康太に迫るが、ピッチャーの投げる球ではない。スピードはたしかに一三〇キロほどだが回転数が圧倒的に少ない、つまりボールに伸びがないのだ。勢いがあるボー球だ。しかし、そんなボールが、康太の近くまでくると不規則な動きを僅かだがした。
なるほど。
康太のミットがバシッっと音を立てる。
「おおっ」と隣からもれた声が聞こえた。
「若干ボールが動くね、これは捕球が難しいわけだ」
「そうなんです、雄大は投げるときボールをわしづかみに持ちかえちゃうくせがあってしっかりした握りで投げれなくて」
「ナイスキャッチっす!」
雄大は康太に賞賛の言葉を贈ったが、太一は表情を曇らせていた。大学生とは言え一球で雄大の癖球を完璧に捕球され、自信を無くしているようだった。
康太は雄大にボールを渡そうと歩み寄る。
「わざわざどうもありがとうございます。」
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょうか?」
康太は周りを見渡したあとでボールを雄大のグラブの中に入れた。
「他の部員はどこにいるの?」
「いませんよ二人だけです俺と太一の」
はっきりと言った雄大の屈託のない笑顔とは裏腹に康太の顔は困惑を隠せず、苦し紛れに空を見上げる。文字通り雲行きが怪しくなってきた。
「立ち食いは厳禁ですよ」
「いいんだ、俺たちはもう上級生だぞ。監督、コーチに構うことはないさ」
「それもそうっすね」
レジ袋からホームランバーを一本康太に差し出す。味はチョコ味だった。
「バニラよこせよ」
「いやっす」
「俺の金だぞ」
「厳密には菱田さんの親のお金でしょ」
「そうだな。じゃあチョコで我慢するわ」
「我慢してください」
寮までの道を戻る。蒸し暑い気候に嫌気がさし、熱帯夜を過ごさなければならないことに心底嫌気がさす。
「……足はもういいんすか」
「あぁ」
「そうすか」
康太は自身の右足を叩いた。ケガをして、それでも僅かな望みをかけて半年間死ぬ気でリハビリと練習に励んできた。自分のわがままに最後まで付き合ってくれた体に今は感謝している。
「なんども言って悪いがお前まで俺と現役引退することなかったんだぞ」
「別に同じってわけじゃないすよ。僕は来年の就活のことを考えての引退ですから」
そういえば東京消防庁に行きたいんだよな。少し前に上宮が言っていたことを思い出す。
「お前もいろいろ考えてんだな」
「菱田さんほどじゃないすけどね」
康太からしてみれば上宮の才能には目を見張るものがあった。身長は平均的に比べて低いがその分並外れた運動センスがあり、守備に至ってはその非凡なセンスをいかんなく発揮していたのだ。しかし、それだけならこのチームにごまんといる。実力を見出される選手とそうでない選手の特徴はなんなんだろうか。康太は引退してからずっと探している。高みを目指すと誓ったあの日から突然始まった競争のゴング。更に縁やら運やら才能やらと言ったぼやついた、でもたしかにはっきりとした事柄が永遠のように付きまとう。スポーツマンシップに反する最もフェアじゃない戦いがそこで起きている。
「菱田さん」
「どうした?」
「明日、久しぶりにキャッチボールしませんか?」
「やるか」
上宮は軽くステップを踏んで夜空に向かってボールを投げる仕草を披露する。三分の力でも、バランスの良さを感じさせる美しいフォームだ。
練習の途中で荒田監督に高校に出向くことを説明すると快く承諾をもらい康太はグラウンドを後にした。みんなより早く練習を切り上げることに他の学生コーチの奴から少なからずの嫌みをもらい受けたが、そんなこといちいち気にしている暇などない。昨日の夜はあれから高校時代の簿記の教科書を机の引き出しから引っ張り出して、勘定科目から連結財務諸表のやり方まで細部にわたり復習してきた。生徒はおろか他の大学の学生に絶対に舐められるわけにいかないのだ。
寮に帰って素早く汗をシャワーで流し、制汗スプレーをかけまくる。少しきついスーツに身を纏い今度は余裕を持って電車に乗った。幸手駅から程遠く離れた桜高校はもともと桜商業高校という名前だったが、数年前に近隣の工業高校と普通高校と吸収合併し総合学科の高校として生まれ変わった。これも少子化の影響なのかと思いながらも康太は足を進める。
「君たちのために大学から勉強を教えにきてくれた先生方です」
泉主任の簡単な紹介が終わると、さっそく授業に入っていく。どうやらこの教室に集められた大半は中間試験や小テストで赤点をとってしまった生徒らしい。
『まったくこんなことなら昨日早く寝ればよかった』
康太は昨日の猛復習も虚しく、簡単な勘定科目で貸方、借方を間違える生徒にできるだけ優しく教えていた。
「菱田くん」
自分の名前が呼ばれたと思って振り向けばやっぱり校長の金井だった。ドアを半分ほど開けて手招きする。
「なんすか?」
「どうだね調子は?」
「まぁぼちぼちですよ、でなんすか?」
「そんなことより、今日はユニフォーム持ってきたかね?」
どうしてこの人は疑問を疑問で返してくるんだろう。康太は自分の頭を軽く撫でると明らかにめんどくさそうに「持ってきました」とだけ言って再び授業に戻った。しかし、金井は自室に戻ることはなくそれどころか教室の一番後ろに居座り周囲を見渡している。
『このおっちゃん、おれがばっくれると思ってんのかよ』
まるで信頼されていないのが腹を立たせるが、正直康太にとってバイト代がもらえればそれでいいのでバイト代がでない野球部の監督を最初から真剣に受けようとははなはだ思ってもいなかった。ただ後ろから感じる視線にひどく気疲れした。
授業が終わってから二十分が過ぎて、康太は金井に借りた教職員用の着替え室でユニフォームに着替えグラウンドに向かって歩いていた。野球部専用グラウンドは十分な広さはあれど手入れの行き届いていない乾いた土はダイビングキャッチをしようものならきっと怪我をするくらい固かった。内野に足を踏み入れたところでふと足を止めた。ユニフォーム姿の男子生徒が二人そこでキャッチボールをしていた。一人はピッチャーのように大きなモーションで思いっきり腕を振っていて、もう一人はその球をなにも言わずに受け止めている。その様子を立ち止まったまま見守った。
「おい太一もっとなんか感想とかないのかよ!」
雄大は不満そうに太一に言った。
「うん、ナイスボール」
「おいおい、もっと明るくやろうぜ」
雄大の笑いがはじける。その後も楽しそうに投球する雄大は勢いのあるストレートを投げ込んでいた。捕手役の太一は康太が見ている限りでは一度もグラブのシンでボールを捕ることが出来ていなかった。立派なキャッチャーミットをこさえているのに全部網の部分で捕球している。
それから十球ほど見たあと、康太は二人の元へ近づいて行った。
「なかなかのボールを投げるな。一球受けてもいいか」
「あ、菱田さん! ウスッ!」
康太に気が付いた雄大が帽子をとって元気よく挨拶する。
「どうも」
捕手をしていた太一は対照的に申し訳なそうに頭をちょっこんと下げた。
「大野くんだっけかきみはピッチャーじゃないだろう?」
雄大は首を縦に振る。
「そうです雄大は本来ならセンターなんですよ」
太一がすかさず補足しながらグラブを康太に渡した。
「穂浪くんせっかくいいミットを持ってるんだ。捕球はいい音をならさないと」
康太は腰を軽く落としミットを構えた。雄大は嬉しそうに振り被ってミット目掛けて腕を振った。勢いのあるボールは空気を裂くようにシュルルと音を立てて康太に迫るが、ピッチャーの投げる球ではない。スピードはたしかに一三〇キロほどだが回転数が圧倒的に少ない、つまりボールに伸びがないのだ。勢いがあるボー球だ。しかし、そんなボールが、康太の近くまでくると不規則な動きを僅かだがした。
なるほど。
康太のミットがバシッっと音を立てる。
「おおっ」と隣からもれた声が聞こえた。
「若干ボールが動くね、これは捕球が難しいわけだ」
「そうなんです、雄大は投げるときボールをわしづかみに持ちかえちゃうくせがあってしっかりした握りで投げれなくて」
「ナイスキャッチっす!」
雄大は康太に賞賛の言葉を贈ったが、太一は表情を曇らせていた。大学生とは言え一球で雄大の癖球を完璧に捕球され、自信を無くしているようだった。
康太は雄大にボールを渡そうと歩み寄る。
「わざわざどうもありがとうございます。」
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょうか?」
康太は周りを見渡したあとでボールを雄大のグラブの中に入れた。
「他の部員はどこにいるの?」
「いませんよ二人だけです俺と太一の」
はっきりと言った雄大の屈託のない笑顔とは裏腹に康太の顔は困惑を隠せず、苦し紛れに空を見上げる。文字通り雲行きが怪しくなってきた。