第1話

文字数 2,277文字

「お前桜高校野球部の監督をやれ」

 昼休憩中に監督室に呼び出された菱田康太は、困惑を隠せなかった。

「あの、おっしゃっている意味が……」

 荒田監督はこれからしようとする説明があまりにめんどくさいのか、一瞬顔をしかめた。

「そもそも桜高校って知っているか」

「知りません、そもそも僕、埼玉県出身じゃないですし」

「そうだな、じゃあここから秘密の話しだ。我が大学の偏差値は年々少しずつだが上がってきている。そこで新たに指定校推薦枠の県内の高校を増やして、更に優秀な学生を集めようとしているらしい」

 言っている意味がわからない、という表情で首を傾げる。

「つまりだ。桜高校と指定校の協定を結ぶために我が野球部が一役買うことになった」

 荒田監督は右手で顎や肘をさわり、最後に帽子を触った。公式戦で使われるサインの動作だ。

「就活が終わり、選手も引退したお前が一番適任だと部長の石坂先生から昨日言われてな」

「それは断ることは出来ないのですか」

「出来ないな」

 康太は流れ出した汗を止めることが出来ず、しばらく荒田監督の顔を見つめた。

 レフトからホームベースへ吹き抜ける梅雨明けの生暖かい風がカーテンをそよかぜ、康太の頬を撫でる。その風に乗って、大学内から演奏サークルの音が外れたファンファーレがグラウンドに聞えてきた。

「あの、高野連的には他大学の学生が高校の監督を務めることは許されているのでしょうか」

 康太がそう言うと、荒田監督は意味ありげに笑った。康太の表情を見ながら面白がっているようにも見える。

「その辺は石坂先生に確認済みだ」

「まさか、監督さんは詳しいこと知らないんですか」

「そうだ、俺はただ石坂先生からされた話をそのままお前に話しているだけで、なにも知らん。ただ話を聞いた時面白そうだと思った」

「面白そうって」

 康太は荒田監督の言葉を繰り返し、一拍置いてから苦笑した。

 荒田監督はなにか言いたげな康太の表情を窺って、「どうした」と呼びかけた。

「監督さんは、自分に高校野球の監督が務まると思っていますか」

「全く思っていない。だからこそ興味がある」

「えっ」

「まぁそう深く考えるな、石坂先生のことだ。おそらくそこまで深い意味なんてない気楽にやれよ。そう言えばバイト代も出るらしいぞ」

「はぁ」

「とにかく今日の練習後に石坂先生の研究室に行ってこい。話はそこからだ」

 そう言うと、荒田監督は春のリーグ戦のビデオを見始めた。ライバル大学のピッチャーの癖を研究することに夢中になり、康太は一礼して監督室を退室した。

その日の練習後、康太はグラウンドの敷地から五十メートルほど離れたキャンパス内にある国際経営学部棟に足を運んだ。三十年ほど前までは短期大学だったが、いまでは規模が小さいながらも四大に名称を変え、昨年教育学部の他に社会人間学部が誕生した。

 康太は直接グラウンドに繋がっている裏門からではなく、大回りして正門から歩みを向けた。狂ったように木やコンクリートを殴っている空手サークルの目に留まるのを避けて。

 それにしてもここまでバットとボールが衝突する音が薄っすら聞こえてくるのは恐れ入る。おそらく我がチームの四番バッター山内の自主練習だろう。

「ランニングゥ」

 空手部のキャプテンがいきなりそう叫んで、道着をきた一団が列を作り康太の方へ進んでくる。康太はすぐに道を開け、一般学生を装った。

 強化指定され大学から多額の援助を受けている野球部が疎ましく思っているサークルや部活は多い。しかし、つい最近まで現役の選手だった康太は、その勇ましい体格から部活を偽ることは無理があった。かけ声をあわせ、足並みを揃えてこちらを睨み進むその姿はまさに熱気の塊だった。活気盛んな選手ならばこの集団に睨みの一つくらいかえそうものだが、蒸し暑さの中、大量の汗をかきながら殺気のような気合が漲っている彼らを相手にしようとはとても思えない。

 このまま帰ってしまおうかな。康太の心は揺れ動き、体は自然にバス乗り場の方へ向いていた。


「菱田くん、どこにいくんですか」

 先ほどまで目の前にあったキャンパスに背をむけた瞬間に声をかけられた。

 振り返ると、小柄で眼鏡をかけた初老の男が、面白くなさそうにこちらに近づいてくる。

「こんにちは、石坂先生」

 康太はその場に立ち止まり、深々と頭を下げた。

「はい、こんにちは。じゃないよ、お前いま帰ろうとしたよな」

「まさか、そんな」

 石坂先生は、野暮ったいスーツを身に纏い大学教授らしからぬ威厳の無さを醸し出していた。理由は分からないがいつも野球部の公式戦用の帽子を被っているのはこの人が紛れもなく我が野球部の部長であるからだ。

「今日監督から話を聞いただろう」

「えぇまぁ、断片的ですが」

「なら話は早い、とりあえず俺の研究室に来い」

 そう言って石坂先生はジャージの裾を掴んだ。

「先生恥ずかしいっす、どこにも行きませんって」

「あっそう、じゃあその言葉を信じよう。俺は学生を信じられる教授だからな、ところでお前長袖なんか羽織って熱くないわけ」

「ほっといてくださいよ、アンダーシャツがノースリーブの薄い奴しかなくてこれで外歩くの嫌なだけっす」

「あっそ」

 石坂先生はとことことキャンパスに足を進める。康太はバレないようにため息をつきながらその歩みを合わせた。遠くの方で威勢のいい掛け声が聞こえてくる。あの集団がおり返してくる前に早くこの場を去らなければならない。

「あと言い忘れたけど」

 首だけ振り返った石坂先生は事務的な口調で淡々と言った。

「お前高校生に野球だけじゃなくて勉強も教えるからな」
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