第4話

文字数 2,866文字

 康太は現役を退く大学四年の春までに一度もリーグ戦のメンバーになったことがなかった。しかし決して康太が練習をサボっていたとか、チームにとって足を引っ張るような行動をしていたわけではなかった。部員百三十人を超えるチーム内で一軍のメンバーに入るだけでも大変なことで、いくら結果を残そうが、甲子園で活躍した新入生が入部してきたらすぐに入れ替わりが起きる。そんな無情にも儚い勝負の世界に身を置いて、ようやく掴んだ三年生の晩夏、康太にとっては初めて一軍に呼ばれ、時期的にも秋の大会のメンバーに選出される最後のチャンスだった。それなのに、

 メンバー選考のための大事なオープン戦。六番ファーストで先発出場した康太は最終打席までヒットがなかった。この試合のスタメンはおもにベンチメンバー当確ぎりぎりの選手がピックアップされていたため、この打席で結果を残さなければ長年の夢は立たれてしまう。そんなプレッシャーの中、康太はバッターボックスで落ち着いていた。

 八回裏ツーアウト三塁。ツーストライクと追い込まれながらも冷静にボールを見極め相手チームの守備位置を確認する。アウトコースを中心に攻めていたバッテリーも打ち取れないバッターにしびれを切らし、集中力が散漫になったところを康太は見逃さなかった。

 思うように抑えられず、苛立った分だけ力みすぎたボールはキャッチャーの構えたところよりわずかに内に入ってきた。そのボールを康太は強引に引っ張って打球は三塁線を破った。このときレフトを守る選手が左利きであったため一塁到達の際のオーバーランを緩めることなく二塁に向かう。ライン際のボールを処理する時に左利きの選手は右利きの選手に比べて進行方向に体を回転させる分どうしてもワンテンポ遅れてしまう。これは野球のルール上仕方のないことで、左利きの選手は右利きが多い野球界では重宝されがちだが、守れるポジションが限られるなどデメリットもある。

「セーフ」

 同点打を放った康太はベンチに向かってガッツポーズした。ベンチには同じように苦労してきた同級生や共に練習をしてきた後輩たちがいて、皆、自分のことのように喜んでくれている。

「ナイスバッティン! これでメンバーも決まったかな」

 三塁コーチャーを務めていた星コーチがタイムをとりエルボーガードとバッティング手袋を回収しにきた。

「はい、ありがとうございます。あとは僕がホームインするだけです」

「そうだな、ツーアウトだし、バットにボールが当たった瞬間スタート切れるようにだけ意識して、一気に駆け抜けろ。オレは全力でまわす」

「わかりました。あとは松下を信じて駆け抜けます!」

 松下は、康太と同じような境遇で努力をしてきた同級生で、苦しい時、つらい時に切磋琢磨してきた戦友だった。そしてここまでノーヒット。しかしプレッシャーのかかる場面で逆転打となれば監督の評価は高くなるはずだ。

 ――絶対打てよ松下。内野を抜けた瞬間ホームを駆け抜けてやるからな。

 初球だった。康太の祈りが届いたかのように松下は肩口から甘く入ってきた変化球を完璧に捉えてレフトにはじき返した。

「よし!!」

 スタートはいい。康太は一度打球を確認するともう迷うことなく三塁ベースを駆け抜けるためにトップスピードにのる。

「ダメだ! クロスプレーになる無理すんな止まれ!」

 星コーチの声が響く。冗談じゃない。あいつの苦労を誰よりも知ってんだ、俺は止まれない。

「行きます!」

 三塁ベースをまわる。星コーチと一瞬だけ目があった。今思えばあの瞬間から星コーチは事の結末が分かっていたのかもしれない。


「菱田さんそのまますべりこめ!」

 八番バッターの上宮がネクストバッターズサークルを飛び出して指示を送る。
 
 康太は指示通りにスライディングを始めた。その時、キャッチャーが急に康太の走路上に体を入れてきたのだ。「まずい」康太がそう思った時にはもう遅かった。両者はそのまま激突しキャッチャーが康太に覆いかぶさるようにのしかかってきた。

 ぶちっ。

 鈍い音が聞こえ、数秒の間なにが起きたのか分からなかったがすぐに右足に激痛が走った。

「ぐあぁぁ」

 真っ暗だった。汗が目にしみて目を開けられないわけでもないのに康太は、目を開けることが出来なかった。駆け寄ってくるチームメイトの心配そうな声と、季節外れのセミの鳴き声だけが虚しく鼓膜を揺らし、頭がい骨を振動させる。「やめてくれ、やめてくれ」そう叫ぶにはあまりに残酷すぎた。

 すぐに医務室に運ばれ、応急処置を施した後病院に直行した。右足首靱帯断裂。そう診断を受けた時、悟ってしまった。

 勝負の世界に長くいるからよくわかる。これで夢は断たれたも同然だった。

 康太が電車に揺られ寮に帰ってくる頃には、食堂にはチームメイトの姿はなかった。机にぽつりと寂しく置いてあった辛すぎる麻婆豆腐だけが康太の帰りを待ちわびている。

「今夜ははずれだな、これ辛いだけで味しないもんな」

 サランラップで丁寧に封をした皿を電子レンジに入れて三分待つ。その間冷蔵庫にあったマヨネーズを拝借して真っ白な白飯にかけて口にかき込んだ。現役を引退したとはいえ食べる量は依然とあまり変わっていない。それでも大盛りご飯はおかわり二杯までと決めていた。運動量が急激に減ったためこれまでと同じ食生生活だと体重の増加に歯止めが利かなくなるのだ。

 しかし、腹を満たすだけの食事ではなんとも心持たない、そんな時康太は決まって自室の向かいの部屋に赴く。

「なんすか、菱田さん」

「ラージA行こうぜ、上宮」

 上宮佐祐はめんどくさそうに両目をこすると「アイス食べたいっす」とだけ言って部屋を出てきた。

「どこ行ってたんすか、食堂のおっちゃん怒ってましたよ」

 寮からラージAまでの道すがら上宮はさして興味もなさそうに尋ねてきた。

「うん、ちょっとな」

 康太は財布の中身を気にしながら答える。午後九時に差し掛かろうとしていた。ラージAは二十四時間営業している小規模なスーパーマーケットだ。寮からグラウンドまでの道のり上にあるため大概の寮生は朝ここで昼飯や栄養ドリンクを買っていく。アルバイトが制限されている寮生にとって比較的安価な商品が揃っているラージAは第二の食堂のようなものだった。

「俺これがいいっす」

「ばかヤロー、ハーゲンダッツは誕生日に食うもんだ。ホームランバーにしなさい」

「アイス選ぶくらい野球から離れましょうよ」

 渋々ホームランバーを手にとった上宮に康太は「なぁ」と声をかける。

「なんすか?」

「俺が高校野球の監督をやるって言ったらどう思う」

「できないでしょ、菱田さんに」

「だよな」

 想像していた答えが返ってきてしかめっ面になる。そりゃそうだ。

「監督やるんすか?」

「成り行きで……な」

「成り行きで高校野球の監督にはなれませんよ」

「そうだな」

 上宮は意外に冷静な口調で言った。上宮に渡した二百円でホームランバーを二本。会計レジにいる店長の川内さんはすっかり顔なじみになっていて、二人に軽い微笑みをくれる。



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