第1話 ラブノート
文字数 5,483文字
あるところに、一人の内気な少女がいました。
彼女の名前は水谷恵理、まだ恋を知って間もない中学生です。
でも、その恋は片想い。彼女は想いを伝えるどころか、相手に話しかけることすらできませんでした。
彼女は神様に祈ります。どうか彼に振り向いてもらえますように、と。
しかし、神様はそんな一人の少女の願いを叶えられるほど暇じゃありません。毎日のように夜空へ向かって祈り続ける彼女を、神様はずっと無視しつづけました。
ある日のこと、恵理が一人で家路に続く田んぼ道を歩いていると、ふいに頭の上に何かが落ちてきます。幸い落ちてきたものは軽かったらしく、彼女は驚いた程度ですみました。
恵理は目をまんまるくさせて少しだけ痛かった頭をさすり、落ちたものを見つめました。それは小さなノート、A5版くらいの真っ黒なものです。不思議に思った彼女は空を見上げました。
そこにはただ青空が広がるたけ、周りにだって何一つ高い建物なんかありません。
誰が落としたんだろう? そんな呑気な事を考えながら、好奇心にかられた彼女はノートをパラパラとめくります。中にはどこか知らない国の言葉なのか、それとも暗号なのか、よくわからない記号が書かれておりました。
けーさつに届けなくちゃね。素直に彼女はそう思い、今まで歩いてきた道のりを引き返そうとしました。
しかし、ページをめくっていた手が止まります。それと同時に歩いていた足も止まります。彼女の興味がページの一点に集中します。
そこに書かれていた文字は、日本語でした。
『恋の魔法薬』
まさかね、そう思いながらも彼女は下に書かれている説明を読むことにします。
『恋の魔法薬に関するレポート』
・相手に自分を惚れさせる薬の材料
赤ワイン グラス一杯
カモミールの葉 一枚
イモリの黒焼き 一匹分
ハシバミの小枝 一本
……
ここに書かれている材料は、その気になれば手に入れられるものばかり。もちろん、誰かが冗談で書いたのかもしれません。それでも恵理は、その先を読まずにはいられませんでした。
・薬の調合方法
黒焼きにしたイモリは粉にし、赤ワインに溶かしてその中にカモミールの葉を浮かべます。ハシバミの小枝と……
冗談にしては手が込んでいる。でも、魔法の薬なんてこの世の中に存在するわけがない。そう思いながらも彼女は、読むのをやめることができませんでした。
なにせ、相手に惚れさせることができるという薬。それが百パーセントの確率ではなくても、おまじないのような効果があるのでは、そう彼女は考えていたからです。
恵理もいちおう女の子、占いやおまじないに興味がないわけがありません。好きな人だっているのですから、今まで本や雑誌に書いてあることを試したこともあるはずです。
夢中で読み、時間の感覚がなくなりながらも、文章から目が離せません。
日も落ちかけて、ノートに書いてある文字が見えなくなってきて、ようやく彼女は自分が立ち止まったままでいることに気がつきました。これでは、ママに怒られてしまいます。続きは家で読もうと、再び家路を駆け出しました。
**
家に帰って夕飯もそこそこに自分の部屋へと戻ると、恵理は真っ先にあのノートをひろげました。そして、読むこと数時間。宿題なんか手に着くはずもなくひたすら文章へと集中し、そこに書かれていることを彼女なりに考え、時には疑い、時には納得していきます。それは、物語を読む事や勉強する雰囲気とはまったくかけ離れた特異な感覚でした。
ぱたんと、ノートを閉じます。読み終わってその内容を整理するために、吐息を軽くつきました。読めば読むほど不思議な内容。理論はどうかわかりませんが、書かれている事柄には妙に説得力があり、彼女は感心したものでした。
ものは試しと、恵理は比較的簡単にできそうなおまじないを(彼女はこの時点では魔法とは思っていないのです)一つだけ実践してみることにします。
項目は、『好きな相手に声をかけてもらう方法』。
満月の夜、カモミールの葉で入れたお茶を銀のスプーンでかき混ぜながら呪文を唱える、という誰でもできそうなものでした。今日は、ちょうど満月、恵理の家にはカモミールティーも銀のスプーンもあります。あとは呪文が言えれば問題はありません。
さっそくお湯を沸かして、カモミールのティーバックを探します。でも、ティーバックなんかで効果が薄れなければいいな、とちょっと不安になったりする恵理でした。
銀のスプーンは従姉妹の誕生日の時の引き出物で奥の方に仕舞われているのはわかっておりました。が、それを探し当てるのに大変な苦労をすることになった彼女でした。
カップにお湯を入れてから探し始めたので、見つかった頃にはいかにも渋そうなお茶ができてしまったのです。
それでもめげずに、彼女はそっと自分の部屋へと戻ります。あとは、呪文を唱えるだけですから。
ノートを確認して、心の中でひとまず唱えてみます。何事にも練習は必要です。本番で言い間違えたら洒落になりません。彼女は胸の高鳴りを抑え込みながら、カップの中でスプーンを回します。
「シュンパテイア」
声に出しながら恵理は頬を赤く染めてしまいます。誰かに聞かれたらどうしようという気持ちと、こんなおまじないを真剣にしている自分が恥ずかしいという感覚が、彼女の頬を染めているのでしょう。
「これで効き目があらわれれば……」
ふとそんな気持ちを口に出しながらも、おまじないに頼らなくても自分から話しかけられればいいのに、という気持ちが心の中で衝突していました。彼女は、自分の性格を変えられないかとノートを読み探しましたが、そのほとんどが恋に関するものばかりです。
「もしも彼が振り向いてくれたのなら、わたしはきっと変われるはず」
恵理は心の中で強く強く誓いました。
それにしても誰が落としたんだろう? まさか神様がわたしの為に……なんてことはないよね。でも、もし本当に神様の気まぐれでこのノートが手に入ったとしたならば。 うん。そうね、神様にお礼を言わなければいけない。恵理は、部屋の窓を開けると夜空を見上げます。今日はお願いではなく、感謝の気持ちです。そう、呟きながら彼女はそっと手を合わせました。
**
「水谷さん」
恵理はそう呼ばれて心臓が飛び出さんばかりに驚きました。でも、奥山くんの見ているところでそんな醜態は見せられません。彼女は冷静を装って、呼ばれた方へと振り返ります。
「な、なんですか」
さすがに緊張だけはとれません。わずかながらに声が震えてしまいます。
「広山センセが呼んでたよ」
なんだそんな事かと、恵理は拍子抜けしてしまいました。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言ってすぐに職員室の方へと歩き出そうとすると、彼はまた声をかけてきました。
「水谷さん」
胸の鼓動がどきりと一段階早くなります。
「え? なんですか?」
二度も呼ばれて照れてしまい、彼の顔が見られずに、おもわずうつむいて振り返ります。
「クラスメイトなんだからさ、敬語使うのは変じゃないか?」
「ごめんなさい」
条件反射的に彼女は謝ってしまいます。なんだかそれが彼女の癖のようなのです。
「ま、いっか。強制することじゃないし」
奥山くんは恵理の態度に悪気を感じてしまったのでしょうか。頭を掻きながら困ったような顔をします。もちろん、彼女は彼のそんな態度にも気づいていません。
恵理は頭を上げるとともに、駆け出していきます。この場にいることが気恥ずかしいのでしょう。
せっかく声をかけてくれたのにもったいない、そんな気持ちはないのでしょうか?
でも、むしろ二回も自分の名前を呼んでくれたことに喜びを感じているのでしょう。単純な性格といえば単純なのかもしれませんね。
さてさて、職員室での用事も済んだ恵理は、親友のところへやってきます。でも、昨日のノートの件を話すべきでしょうか。彼女は悩みます。そんな仕草も、彼へ告白できない悩みだと勘違いしている親友の美咲は、どんどんマイペースで話を進めていきます。
「今日、奥山くんと話してたでしょ? 私見ちゃったんだから」
「え? 話といっても広山先生に呼ばれているって、伝言だけだよ」
「でも、一対一で話せたじゃない。念願叶ったりってか?」
「もう茶化さないでよ。緊張してまともに喋れなかったんだから……それに」
「それに、なに?」
「敬語使うなって言われちゃった。なんか恥ずかしい」
「恵理って人見知りが激しいっつうか、他人さまに対して縮こまっちゃうっていうか。その性格なんとかしないと、奥山くんに告白どころじゃないよね」
「美咲ぃー、声大きいよぉ」
「まあ、偶然をもっと期待しながらさりげなく親しくなるのが、恵理には合っているのかもしれないね」
美咲は勝手に話をまとめてしまいました。恵理はそう言われて返す言葉もないまま、魔法のおまじないのことも拾ったノートのことでさえ話題としてあげづらくなっていきます。そして、いつの間にか「バイバイ」と手をふる状況になり、一人とぼとぼと家路を歩く羽目になりました。
**
「今日はどれを試そうかな」
おまじないの効果は少しずつ少しずつ確実に表れています。恵理は比較的簡単に調合できる薬やおまじないから始めていきました。今では奥山くんと挨拶ができるほどまで進展しています。
これもノートのおかげかなと思いつつ、だんだんと欲は出てきます。 今までは、声をかけてくれるとか挨拶ができるとか、一日に何回も出会えるとか、他人から見ればたわいもなく、恋としての効果も薄いものばかりでした。
結果、少しずつ進展してくればしてくるほど、もう少し強いおまじないを試したくなります。でも、一番に興味を惹かれた「相手を自分に惚れさせる薬」は、今までのような簡単に調合し実践できるものではなく、それなりの準備と覚悟が必要なものなのです。
だいたい、イモリの黒焼きなんてどうやって手に入れましょうか? 昔から虫や爬虫類が苦手であった彼女には、外で捕まえてくるなんて方法はとれません。第一、見つけても触ることすらできないでしょう。
彼女は考えました。もっと奥山くんと話したい。もっと奥山くんを知りたい。そのためには、奥山くんと仲良くならなければいけません。でも、彼女には告白する勇気も、ましてやそれが成功する勝算すらありません。ならな、手っ取り早く、魔法の薬を使うしかないでしょう。
もし仮に、このノートに書いてあることがデタラメだとしても、誰に迷惑をかけるわけではありません。黒こげにしたイモリはかわいそうかもしれませんが、誰も傷つかないし、彼女もほんのちょっぴりの期待を裏切られるだけなのですから。
試してみてダメでもともとです。この世に魔法なんかなくても生きてはいけます。
彼女はそう思い立ち、材料集めにとりかかりました。
17種類のうちの7品までが家の中で調達でき、9品が店で買えばなんとかなる代物でした。
「イモリはどうしよう?」
悩んだあげくに、商店街をぶらぶらと歩きます。ぴんと閃き、それと同時に看板が目に映ります。なんてグッドタイミングなんでしょう。
ちょっとあやしげな扉を開けて中に入ります。
「あの……」
恥ずかしいので声のトーンは落とします。
「いらっしゃい、なんでしょう?」
元気な対応の店の人の声。ここは、古びたペットショップです。
「あのー、爬虫類とかいますか?」
「いますよ、いますよ。ヘビからイグアナまでだいたいは揃っています。えー、何かお探しですか? もしかしてお友達にプレゼントかな?」
両手をこすり合わせながら店員が恵理に近づいてきます。そのあまりの迫力に、彼女は少し後ずさりしてしまいました。
「イ……モリなんですけど」
「イモリですか、今どき珍しいですね。家で買うならヤモリの方は人気はありますが」
本当かどうかわからない説明を店員は彼女にします。
「イモリを頂けますか」
「イモリでしたらこの入れ物にいっぱい入っていますが」
店員の指さす方向には、透明ケースに入ったイモリが何十匹とその中を蠢いていました。恵理は、貧血になりそうな頭を抑えながらこう言いました。
「どれでもいいです。一匹いただけますか?」
思わず目を背けてしまった恵理を訝しげに見つめながら、店員は無言でその中の一匹をとってくれました。
「お客さん。餌はどうしますか?」
そう訊かれて、恵理は返答に困りました。だって、飼うわけじゃないのですから餌などいらないはずです。でも、黒焼きにするなんて言えるはずがありません。
「それもつけていただけますか」
彼女はそう言うしかありませんでした。
こうして、17種の材料を手に入れた恵理は、籠の中でかさかさと動き回るイモリに目眩をおぼえながら、なんとか帰路につきました。
情が移らないうちにイモリの処理をしたいのですが、どうすればいいのでしょうか?
恵理の魔法の薬へ本格的な試みは、大きな問題を残して座礁してしまいました。
彼女の名前は水谷恵理、まだ恋を知って間もない中学生です。
でも、その恋は片想い。彼女は想いを伝えるどころか、相手に話しかけることすらできませんでした。
彼女は神様に祈ります。どうか彼に振り向いてもらえますように、と。
しかし、神様はそんな一人の少女の願いを叶えられるほど暇じゃありません。毎日のように夜空へ向かって祈り続ける彼女を、神様はずっと無視しつづけました。
ある日のこと、恵理が一人で家路に続く田んぼ道を歩いていると、ふいに頭の上に何かが落ちてきます。幸い落ちてきたものは軽かったらしく、彼女は驚いた程度ですみました。
恵理は目をまんまるくさせて少しだけ痛かった頭をさすり、落ちたものを見つめました。それは小さなノート、A5版くらいの真っ黒なものです。不思議に思った彼女は空を見上げました。
そこにはただ青空が広がるたけ、周りにだって何一つ高い建物なんかありません。
誰が落としたんだろう? そんな呑気な事を考えながら、好奇心にかられた彼女はノートをパラパラとめくります。中にはどこか知らない国の言葉なのか、それとも暗号なのか、よくわからない記号が書かれておりました。
けーさつに届けなくちゃね。素直に彼女はそう思い、今まで歩いてきた道のりを引き返そうとしました。
しかし、ページをめくっていた手が止まります。それと同時に歩いていた足も止まります。彼女の興味がページの一点に集中します。
そこに書かれていた文字は、日本語でした。
『恋の魔法薬』
まさかね、そう思いながらも彼女は下に書かれている説明を読むことにします。
『恋の魔法薬に関するレポート』
・相手に自分を惚れさせる薬の材料
赤ワイン グラス一杯
カモミールの葉 一枚
イモリの黒焼き 一匹分
ハシバミの小枝 一本
……
ここに書かれている材料は、その気になれば手に入れられるものばかり。もちろん、誰かが冗談で書いたのかもしれません。それでも恵理は、その先を読まずにはいられませんでした。
・薬の調合方法
黒焼きにしたイモリは粉にし、赤ワインに溶かしてその中にカモミールの葉を浮かべます。ハシバミの小枝と……
冗談にしては手が込んでいる。でも、魔法の薬なんてこの世の中に存在するわけがない。そう思いながらも彼女は、読むのをやめることができませんでした。
なにせ、相手に惚れさせることができるという薬。それが百パーセントの確率ではなくても、おまじないのような効果があるのでは、そう彼女は考えていたからです。
恵理もいちおう女の子、占いやおまじないに興味がないわけがありません。好きな人だっているのですから、今まで本や雑誌に書いてあることを試したこともあるはずです。
夢中で読み、時間の感覚がなくなりながらも、文章から目が離せません。
日も落ちかけて、ノートに書いてある文字が見えなくなってきて、ようやく彼女は自分が立ち止まったままでいることに気がつきました。これでは、ママに怒られてしまいます。続きは家で読もうと、再び家路を駆け出しました。
**
家に帰って夕飯もそこそこに自分の部屋へと戻ると、恵理は真っ先にあのノートをひろげました。そして、読むこと数時間。宿題なんか手に着くはずもなくひたすら文章へと集中し、そこに書かれていることを彼女なりに考え、時には疑い、時には納得していきます。それは、物語を読む事や勉強する雰囲気とはまったくかけ離れた特異な感覚でした。
ぱたんと、ノートを閉じます。読み終わってその内容を整理するために、吐息を軽くつきました。読めば読むほど不思議な内容。理論はどうかわかりませんが、書かれている事柄には妙に説得力があり、彼女は感心したものでした。
ものは試しと、恵理は比較的簡単にできそうなおまじないを(彼女はこの時点では魔法とは思っていないのです)一つだけ実践してみることにします。
項目は、『好きな相手に声をかけてもらう方法』。
満月の夜、カモミールの葉で入れたお茶を銀のスプーンでかき混ぜながら呪文を唱える、という誰でもできそうなものでした。今日は、ちょうど満月、恵理の家にはカモミールティーも銀のスプーンもあります。あとは呪文が言えれば問題はありません。
さっそくお湯を沸かして、カモミールのティーバックを探します。でも、ティーバックなんかで効果が薄れなければいいな、とちょっと不安になったりする恵理でした。
銀のスプーンは従姉妹の誕生日の時の引き出物で奥の方に仕舞われているのはわかっておりました。が、それを探し当てるのに大変な苦労をすることになった彼女でした。
カップにお湯を入れてから探し始めたので、見つかった頃にはいかにも渋そうなお茶ができてしまったのです。
それでもめげずに、彼女はそっと自分の部屋へと戻ります。あとは、呪文を唱えるだけですから。
ノートを確認して、心の中でひとまず唱えてみます。何事にも練習は必要です。本番で言い間違えたら洒落になりません。彼女は胸の高鳴りを抑え込みながら、カップの中でスプーンを回します。
「シュンパテイア」
声に出しながら恵理は頬を赤く染めてしまいます。誰かに聞かれたらどうしようという気持ちと、こんなおまじないを真剣にしている自分が恥ずかしいという感覚が、彼女の頬を染めているのでしょう。
「これで効き目があらわれれば……」
ふとそんな気持ちを口に出しながらも、おまじないに頼らなくても自分から話しかけられればいいのに、という気持ちが心の中で衝突していました。彼女は、自分の性格を変えられないかとノートを読み探しましたが、そのほとんどが恋に関するものばかりです。
「もしも彼が振り向いてくれたのなら、わたしはきっと変われるはず」
恵理は心の中で強く強く誓いました。
それにしても誰が落としたんだろう? まさか神様がわたしの為に……なんてことはないよね。でも、もし本当に神様の気まぐれでこのノートが手に入ったとしたならば。 うん。そうね、神様にお礼を言わなければいけない。恵理は、部屋の窓を開けると夜空を見上げます。今日はお願いではなく、感謝の気持ちです。そう、呟きながら彼女はそっと手を合わせました。
**
「水谷さん」
恵理はそう呼ばれて心臓が飛び出さんばかりに驚きました。でも、奥山くんの見ているところでそんな醜態は見せられません。彼女は冷静を装って、呼ばれた方へと振り返ります。
「な、なんですか」
さすがに緊張だけはとれません。わずかながらに声が震えてしまいます。
「広山センセが呼んでたよ」
なんだそんな事かと、恵理は拍子抜けしてしまいました。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言ってすぐに職員室の方へと歩き出そうとすると、彼はまた声をかけてきました。
「水谷さん」
胸の鼓動がどきりと一段階早くなります。
「え? なんですか?」
二度も呼ばれて照れてしまい、彼の顔が見られずに、おもわずうつむいて振り返ります。
「クラスメイトなんだからさ、敬語使うのは変じゃないか?」
「ごめんなさい」
条件反射的に彼女は謝ってしまいます。なんだかそれが彼女の癖のようなのです。
「ま、いっか。強制することじゃないし」
奥山くんは恵理の態度に悪気を感じてしまったのでしょうか。頭を掻きながら困ったような顔をします。もちろん、彼女は彼のそんな態度にも気づいていません。
恵理は頭を上げるとともに、駆け出していきます。この場にいることが気恥ずかしいのでしょう。
せっかく声をかけてくれたのにもったいない、そんな気持ちはないのでしょうか?
でも、むしろ二回も自分の名前を呼んでくれたことに喜びを感じているのでしょう。単純な性格といえば単純なのかもしれませんね。
さてさて、職員室での用事も済んだ恵理は、親友のところへやってきます。でも、昨日のノートの件を話すべきでしょうか。彼女は悩みます。そんな仕草も、彼へ告白できない悩みだと勘違いしている親友の美咲は、どんどんマイペースで話を進めていきます。
「今日、奥山くんと話してたでしょ? 私見ちゃったんだから」
「え? 話といっても広山先生に呼ばれているって、伝言だけだよ」
「でも、一対一で話せたじゃない。念願叶ったりってか?」
「もう茶化さないでよ。緊張してまともに喋れなかったんだから……それに」
「それに、なに?」
「敬語使うなって言われちゃった。なんか恥ずかしい」
「恵理って人見知りが激しいっつうか、他人さまに対して縮こまっちゃうっていうか。その性格なんとかしないと、奥山くんに告白どころじゃないよね」
「美咲ぃー、声大きいよぉ」
「まあ、偶然をもっと期待しながらさりげなく親しくなるのが、恵理には合っているのかもしれないね」
美咲は勝手に話をまとめてしまいました。恵理はそう言われて返す言葉もないまま、魔法のおまじないのことも拾ったノートのことでさえ話題としてあげづらくなっていきます。そして、いつの間にか「バイバイ」と手をふる状況になり、一人とぼとぼと家路を歩く羽目になりました。
**
「今日はどれを試そうかな」
おまじないの効果は少しずつ少しずつ確実に表れています。恵理は比較的簡単に調合できる薬やおまじないから始めていきました。今では奥山くんと挨拶ができるほどまで進展しています。
これもノートのおかげかなと思いつつ、だんだんと欲は出てきます。 今までは、声をかけてくれるとか挨拶ができるとか、一日に何回も出会えるとか、他人から見ればたわいもなく、恋としての効果も薄いものばかりでした。
結果、少しずつ進展してくればしてくるほど、もう少し強いおまじないを試したくなります。でも、一番に興味を惹かれた「相手を自分に惚れさせる薬」は、今までのような簡単に調合し実践できるものではなく、それなりの準備と覚悟が必要なものなのです。
だいたい、イモリの黒焼きなんてどうやって手に入れましょうか? 昔から虫や爬虫類が苦手であった彼女には、外で捕まえてくるなんて方法はとれません。第一、見つけても触ることすらできないでしょう。
彼女は考えました。もっと奥山くんと話したい。もっと奥山くんを知りたい。そのためには、奥山くんと仲良くならなければいけません。でも、彼女には告白する勇気も、ましてやそれが成功する勝算すらありません。ならな、手っ取り早く、魔法の薬を使うしかないでしょう。
もし仮に、このノートに書いてあることがデタラメだとしても、誰に迷惑をかけるわけではありません。黒こげにしたイモリはかわいそうかもしれませんが、誰も傷つかないし、彼女もほんのちょっぴりの期待を裏切られるだけなのですから。
試してみてダメでもともとです。この世に魔法なんかなくても生きてはいけます。
彼女はそう思い立ち、材料集めにとりかかりました。
17種類のうちの7品までが家の中で調達でき、9品が店で買えばなんとかなる代物でした。
「イモリはどうしよう?」
悩んだあげくに、商店街をぶらぶらと歩きます。ぴんと閃き、それと同時に看板が目に映ります。なんてグッドタイミングなんでしょう。
ちょっとあやしげな扉を開けて中に入ります。
「あの……」
恥ずかしいので声のトーンは落とします。
「いらっしゃい、なんでしょう?」
元気な対応の店の人の声。ここは、古びたペットショップです。
「あのー、爬虫類とかいますか?」
「いますよ、いますよ。ヘビからイグアナまでだいたいは揃っています。えー、何かお探しですか? もしかしてお友達にプレゼントかな?」
両手をこすり合わせながら店員が恵理に近づいてきます。そのあまりの迫力に、彼女は少し後ずさりしてしまいました。
「イ……モリなんですけど」
「イモリですか、今どき珍しいですね。家で買うならヤモリの方は人気はありますが」
本当かどうかわからない説明を店員は彼女にします。
「イモリを頂けますか」
「イモリでしたらこの入れ物にいっぱい入っていますが」
店員の指さす方向には、透明ケースに入ったイモリが何十匹とその中を蠢いていました。恵理は、貧血になりそうな頭を抑えながらこう言いました。
「どれでもいいです。一匹いただけますか?」
思わず目を背けてしまった恵理を訝しげに見つめながら、店員は無言でその中の一匹をとってくれました。
「お客さん。餌はどうしますか?」
そう訊かれて、恵理は返答に困りました。だって、飼うわけじゃないのですから餌などいらないはずです。でも、黒焼きにするなんて言えるはずがありません。
「それもつけていただけますか」
彼女はそう言うしかありませんでした。
こうして、17種の材料を手に入れた恵理は、籠の中でかさかさと動き回るイモリに目眩をおぼえながら、なんとか帰路につきました。
情が移らないうちにイモリの処理をしたいのですが、どうすればいいのでしょうか?
恵理の魔法の薬へ本格的な試みは、大きな問題を残して座礁してしまいました。