後編 祈雨

文字数 10,976文字

 鉛色の空だった。
 今にも曇天から雨が降り出しそうだが、天気予報の報せでは一時もすれば晴れ間が覗くのだという。
 霜月に入り、銀杏並木がうっすらと黄色に色づいている。ため池の水面に漂う銀杏の葉が蓮華に見えた。
『蓮は泥より出でて泥に染まらず』という言葉がある。
 蓮とはどんな汚れた場所においても清く正しく咲き続ける。高潔で純潔、何者にも侵されることない存在は咲き誇る場所を問わない。停滞する中でも、目まぐるしく行き交う時間の中でも、蓮はただ上を向いてひたすら輝きを持つ花を咲かせる。
『あなたの心は美しいわ、蓮』
 脳裏にこびりつく呪いはひたむきに前進する足に絡まってくる。その度にもつれる足取りは危うげに凪乃の言葉を振り切っていく。
 凪乃はいつも僕のことを褒めてくれた。当時は僕と凪乃はそれこそ対等な関係だったと思っていたが、実際は違う。どんな時でも飴ばかりを与えて人の心を縛ることを裏で楽しんでいた。今でこそ思い至ることだが、当時の僕は彼女を神聖視していたばかりではなく、ほとんど見えない鎖によって繋がれていたのではないか。
 離れることもできず、だがそれを望むこともなく僕は彼女が与えてくれる飴に甘んじ続けた。そんな結果が凪乃を壊してしまった。輝かしい未来が待っていた凪乃が自ら命を絶った原因は自分にあるのかもしれない。確証はない。それでも、その要因以外の動機が未だに見つけられない。
 もう何度目か分からないくらい腕時計を見た。約束の刻限を過ぎても、目の前の席が埋まることはなかった。
 学食のテラス席で人が行き交うキャンパスを延々と見続けて、もう数時間は経つ。
 知り合いが声をかけてくれたが、どうにも気が乗らずに生返事で追い返してしまった。その全員がスーツを着ていて、就職活動に明け暮れているようだった。
 誰もが忙しなく生きる世界で僕の時間だけが止まっていた。
 心配よりも徒労感が、哀しみよりも虚無感が先駆けて胸を支配していた。人形になったように手足が重く、動こうとしない。
 なんで、こんな場所にずっと留まっているんだろう。
 一抹の疑問の答えを持っているはずだったが、認めたくない自分がいた。
 いつまで経っても、宮地野乃花は来なかった。
「当たり前じゃない。死んだ人間があなたに会いに来ると思っているの?」
 凪乃が言う。
 そうかな、と彼女が言ったことを深く考えないように返事をする。
 すっかり冷たくなったコーヒーをすすると鉄くずの味がした。
 宮地野乃花が亡くなって四日が経過した。
 二日前、峰宮邸で彼女が自殺したと知った直後に警察が訪れてきて、峰宮女史と僕は事情聴取を受けた。話を聞いたところによると、最後に野乃花さんと会っていたのは僕らしく、峰宮女史よりも僕に質問が飛んでくることが多かった。
 野乃花さんと最後に会った稽古で彼女が歌っていたエーデルワイスが今でも耳に残っている。ソプラノの優しい声音と彼女との別れ際の姿。彼女は泣いているように見えた。
 悲哀よりも愛しさを孕んだ表情は見間違いだったのか。
「何を言っているの。あなたはもう気がついているのでしょう」
 何に? と凪乃に返す。
「あの顔は愛情と諦観。愛しい者のために全てを諦めた者の微笑み」
 ふいに最後に見た生前の凪乃の姿とそれが重なったように思えた。
 風邪を引いたと寝巻きにストールを羽織って玄関まで見送りにきた時、確かに凪乃は笑っているようで泣いているように見え、大丈夫かと声をかけた。そういえば、凪乃はその後なんて答えたんだっけ。
「ハーブティーでも飲んでゆっくりしているわ」
 蓮華の柄が描かれたティーセットがお気に入りの凪乃は毎日、茶葉を入れて飲んでいた。
 壁に寄りかかり、気だるそうな凪乃は体調不良と言って、その日の講義を休んだのだ。
「君は、泣いていたのか?」
 ふいに口からこぼれ出た言葉は自分が思っているよりも生々しく、重いものだった。
 いいえ、と凪乃は答えた。
「私は嗤っていたのよ」
 凪乃に似た悪魔が耳元で囁いた。
 はったとした。聴く者すべてを魅了する蠱惑を振り払うべく空席であるはずの席を見た。
 凪乃も野乃花もいないと分かっていたからこそ、しなやかな指先が背もたれに添えられていた時は鼓動が不気味に飛び跳ねたことが分かった。
「ここ、空いてる?」
 強烈な既視感が駆け巡ったが、その声は聴き慣れた優しいソプラノではなかった。
 しかし、声の一つだけで相手の強張りや緊張が容易に伝わってくる。心のささくれを刺激する、聞き覚えのある声。
 微かに口角を上げて、強張った笑みをこちらに向ける秋月友華がそこにはいた。
 凪乃の葬式以来、二年振りに顔を合わせた友華は以前よりも、さらに凛々しく美しくなっていた。
「どうして、ここに?」
 彼女はその問いに答えずに僕の目の前の席に座った。
「久しぶりね」
「……髪、切ったんだね」
「ええ」
 奇妙な沈黙が訪れた。残念なことに二年来の友人との再会を祝う言葉などいまさら持ち合わせていない。幾重にも封をした凪乃の死は、友華にとって未だ消えることなく進行しているのだろうか。
 だからこそ、いまさら僕の前に現れたのだろう。
「どうして凪乃の三回忌に来なかったの?」
 非難を帯びた声音と眼差しだが、それは二年もすれば慣れるものだ。
「ずいぶん遅い法事だったんだね」
「あんた、自分の母親が倒れたこと知らないわけじゃないでしょう?」
「君の便りで聞いたよ。何事もなかったなら良かった」
「だったら、手紙の返事くらいしなさいよ」
「便りがないのは良い便りって言うじゃないか」
 呆れた、と友華はコーヒーの入った紙コップをすする。
 高校時代、凪乃と同じ部活に所属していた経緯で友華と僕は交流するようになった。それでも良い思い出も悪い思い出も等しく少ない。姉の友人という立ち位置はあまりにも特別性を誇っていて、彼女と同じクラスになっても、その壁が取れることはなかった。親しいクラスメイトになるより先に最愛の姉の友人という最も警戒すべき対象が出来上がってしまったからだ。
 凪乃に寄せる近親愛が露呈してしまうリスクが共通の友人ができたことにより、未だにぎくしゃくした距離感が間には存在する。一般的に異常と称すことができる性的嗜好であるが、世間体を気にするほどには正常な思考を持ってはいる。人間の大半はどこか一部がおかしいだけで、だいたいはまともなのだ。
「それで凪乃に申し訳ないと思わないわけ?」
「なんというか、凪乃に絶対的な信頼を寄せているように思えるね」
 それはどちらに放った言葉なのか、深く考えなかった。
 僕か友華か、どちらも亡者を神聖なものだと迎え入れて檻の中で動けなくなった者同士だ。ひっそりと冷える底で耽々とまなこを光らせてこちらを見つめる凪乃をいつでも見ることがある。眼を瞑って眠りに就こうとしても、まぶたの裏で嗤っている凪乃がいる。
 君が殺したんだと囁くように暗い双眸は檻の中の僕を震えさせる。
「あなたの小説読んだ。すごいわね」
「すごくないよ。あれは僕と凪乃だ」
 心のささくれが中途半端に痛みを放つ。
「やっぱり、あんたはちゃんと家に帰るべきよ」
「いまさら、何の話?」
「あなたのお母さん、今回は大事じゃなかったからいいけど、いつかそういう日が来るんだよ」
 ありきたりな言葉。
 二年経って、そんなどこにでもあるような言葉に愕然とした。
 本当は別のことを伝えたいに違いない。
 仲直りしましょうとかあの時はごめんねとか同じくらいありきたりだけれど、きっと僕と友華の間において、一番に必要している言葉が出てこなかったのだろう。
 だとしても、それは僕も同じだ。
 あの日、友華は当たり前のことをした。
 母親と同じく、腐りかけていた心を正気に戻したのだ。それはとても正しい。誰もができることではない。
 けれど、正しいことが善となるわけではない。
 僕があの時欲していたのは凪乃に慰められることだった。
 限りなく吐き気を催す、けっして叶わない願いである。
「だから、会いに行けって?」
 だからこそ、母親のことを持ち出された僕は失望と怒りを抱いた。
「死ねと罵倒を受けるために? それとも凪乃を返せと泣きつかれるために?」
「どうして、あんたはそうひねくれたことばかり言うの」
「事実を述べているだけだよ。身体は腐っても取り返しはきく。けど、心が腐ったらもうダメだ。手遅れだ」
「それが凪乃が望んでいること?」
 聞いた瞬間、声に出ない数多の感情の渦が思考を支配した。
 僕の心情など二の次。友華はあくまで凪乃のことを思って、僕に会いに来た。
 友華の中では未だに死者は生きている。
 それは僕も同じ。
 そして、忌まわしいことに母親と同じなのだ。
 凪乃を中心に世界は回っている。
 どうしようもなく、逃れられない檻の中にいるのだ。

 雲ひとつない晴天、宮地野乃花の葬儀が営まれた。
 糊のきいたシャツを身に着け、ジャケットを羽織ると微かに線香の匂いがした。
 凪乃の葬儀以来に着る喪服は子どもの頃に遊んだおもちゃを見つけたような、懐かしさに包まれていた。
 あの後、友華とは喧嘩別れをした。どちらも未だに分かり合えることはない。同じことで苦しんでいるのに、お互いに分かち合う余裕がないのだ。
 野乃花さんの自宅に訪れると、すでに多くの人が訪れていた。聖さんはもちろん、主宰や劇団員、劇団関係者が顔を合わせるなり、無言で会釈をしてくる。
 納棺の際、僕は初めて死後の野乃花さんの姿を見た。
 死に化粧をしているのか、口紅がぬられている。見ていて別の人の葬儀に訪れているようだと呑気に思う。
 親族から菊の花を受け取り、彼女の右手の傍にそれを置いた。一瞬だけ、彼女の手先に触れてみたが、やはり冷たいままだった。
 それから通夜が無事に終わり、挨拶をしに聖さんの元を訪ねると、彼は少しだけ付き合えと服装そのままで連れ出された。
 聖さんに連れられて、いかにも高級か老舗という文字が店名の前につきそうな厳格な回らない寿司屋へと訪れた。予定も何も聞いていなかった僕はとりあえず財布の中身を確かめて最低単位の紙幣が二つほどしかないことに不安を感じた。
 さらにコースメニューとして次々と価格が分からない無駄に豪勢な寿司が出てきて、思わず眩暈にかられる。
「食えよ、奢りだ」
 寒気がする。僕はこの後、コンクリート詰めにされて太平洋に放り出されるのだろうか。
「……最後の晩餐」
「なにアホなこと言ってるんだよ」
 聖さんは普段と変わらない様子で、僕を見て笑っている。
「宮地さんこそ、よくこのタイミングで来ようと思いましたね」
「貧すれば鈍する。食事は悪くねえし、縁起の良い悪いもない。あんな儀礼ばっかなもんはしょせん生きたやつらが満足するためのエゴイズムの塊なんだよ」
「そんな簡単に割り切れるのは羨ましいです」
「警察ですら分からねぇんだから、野乃花が死んだ事実だけを受け止めればいいだろ」と言う。
「なによりあと一週間で本番だろう。二人だけの決起集会みたいなもんだと思え」
 その後、互いに無言で寿司を食した。
 味はよく分からなかった。野乃花さんが死んで、泣くことのできなかった罪悪感と納棺される凪乃と野乃花さんの姿を重ね合わせている自分に対する嫌気しかなかった。
「案外、理由なんてないのかもしれないと思うんだ」
 しばらく経った後、おちょこで日本酒をあおりながら彼は言う。
「たとえば、今日は曇りだったから死のうとか前髪を切るのに失敗したから死のうとか、そんなどうでもいいことを理由に死んだのかなと思うわけだよ」
 胡乱げにこちらを見つめながら、彼は静かな口調で続ける。
「何かがあったから死んだわけじゃなくて、死ぬ建前ができたから死んだだろうな。あいつは不幸願望があったから」
「不幸願望?」
「うちの母親はな、まともなんだよ」
 僕は頷く。だが聖さんを見て、まとも? と小首を傾げてしまう。
「そのまともが度が過ぎててよ、『あなたは幸せな家で育ったのよ』って口癖のように言うんだ」
 はあ、と曖昧に相槌を打つと、彼はため息をついた。
「お前は自分には敏感なのに、他人には鈍いよな。……逃げ道をなくされてんだよ。まともな境遇で育っているからお前は優秀なはず。ミスしたらすべてお前のせい。お前の努力が足りない。環境のせいにするな。言い訳をするな。洗脳と言ってもいいくらいには言い聞かせられてたんだよ」
 心拍数が上がった。
 それは呪いだ。自ら解くことができない桎梏。
「……僕は彼女の思いを否定してしまいました」
 震える唇をわずかに動かして、必死に声を出す。
「不幸を望むことをしてはいけないと身勝手な感情から軽率に否定しました」
 あの時の野乃花さんの顔を思い出す。どんな表情をしていたのか、思い出しても何を思っていたのかが分からない。
「じゃあ、オレたちにできることはなんだったんだ。清く正しい善人としてあいつに寄り添うことか? 違う、無理だ。オレたちは万能じゃない。誰かに成りきる役者と誰かを生み出す作家だ。それ以上のことをしてはいけない」
 それ以上踏み込めばお前だって呪われる、と聖さんは言った。
「お前は正解だよ。ただの友人として当たり前のことをしただけだ。だから、気にしなくていいんだよ。むしろ、野乃花の分も演じろ。ありきたりな言葉だが、それは万人に等しく通用するってことだ。嫌でも聞き入れろ」
 慰めにしてはずいぶんと傲慢である。
 だが、凪乃も自殺した理由がはっきりと分からない以上、その聖さんが思ったことはある意味では正解なのかもしれない。
 その後、しばらくして聖さんと別れた。
 別れ際、彼は峰宮女史の様子について尋ねてきた。
 病気がどうとか、彼女と何を話すんだとか。とにかく当たり障りのないことだった。
 彼と彼女の関係は犬猿の仲であるが、根っこでは互いに嫌い合っているわけではないようだ。聖さんと話していると、認めるのが嫌なくらいにはその実力に嫉妬しているというように見える。
 とはいえ、峰宮女史はオブラートに包むという配慮はしない。
 彼女は聖さんのことを類希なる凡才と称していた。
 その上で聖さんの功績をある程度は認めているということは、ある意味、天才という言葉以上の褒め言葉なのかもしれない。
 峰宮彼方のことを思う。
 彼女は僕のことをレインメーカーと言った。
 祈りでしか世界との繋がりを保てない透明な存在。
 いてもいなくても世界は廻る。
 雨が降るという現象は科学的に説明がついてしまったのだ。利己的に祈る者など必要ない。
 僕は誰かのために祈る人になりたい、と思う。

 よく晴れた日だ。
 今日も今日とて、晴天に望まれた世界はどうしようもなく美しい。
 幼少期から見慣れた通学路を車で走っていることを除けば、僕の人生は清く正しいのだろう。正しさなんて人一人の尺度で測ることなどできないと決まっているが、たまに思ってしまう。
 凪乃が死を選んだことが正しいのか。
 どこまでも答えのない泥沼にはまることがある。
 足先からではなく、頭のてっぺんから。まず、口が塞がれて足が地から離れ、意識が朦朧とするまでもがき苦しんだ後に最悪の結果を導き出してしまう。それは答えでもなんでもない、ただの妄想を重ねた予想であるが、突きつけられる現実が変わることはない。
「良い街だな」
 助手席で煙草をふかす峰宮女史が言った。
 峰宮彼方には特殊な趣味がある。それは自殺現場を撮影することだ。他者が自ら命を経った現場に赴き、その場をカメラに捉える。死ぬ間際の感情の残り香を捉えることによって自身の欲を抑えることを目的とする。それは極めて猟奇的な趣味と言えるだろう。
 そんな趣味の一環に運転手として呼び出されたわけだが、いつもベッドの上でパソコンに向かっている峰宮女史が外に出るなどということが今でも現実的ではなかった。
 それにここは僕が生まれ育った街だ。
 凪乃とともに過ごした、強い残り香が漂う場所。
 それをきちんと理解しているのかどうか、峰宮女史は今もなんともないように窓の外で流れゆく景色を眺めている。
 服装も黒いフォーマルドレスというパーティーにでも出かけるのかと思わせるもので、それだけは峰宮彼方のイメージに沿うものだった。
「生理は治まったんですか?」
「あれから何日経ったと思っているんだ」
「あなたはたまに、頭が悪い」
「乙女のプライベートには踏み込むべきじゃないことを知りなさい」
「……乙女?」
 冗談だろう。毒婦の間違いではないのか。
「ところで、セクシャルハラスメントって知ってるかい?」
「知りませんね」
 峰宮女史は、ふふっと笑ってそれっきり流れゆく外の景色を眺めて黙った。
 奇妙な沈黙が下りた車内は僕にとって穏やかなものだった。
「病気、治さないんですか?」
 峰宮女史は一日のほとんどを自室のベッドの上で過ごしている。今日のような外へと出る機会は滅多にない。
 患っている病気が末期でも、ましてや不治の病などでもない。治療法があるにも関わらず、それに頼ろうとしないのだ。
「君は死を神秘的だと思っているわけだ」
 その言葉は問いへの返答ではなく、僕の新たな一面を見つけたものだった。
「佐倉凪乃がいなくなり、行き場のなくなった感情を昇華させた末でたどり着いたのがそれか。いっそ、殺人だとしたらその感情を憎悪に変えて犯人に向けられたか?」
 僕は無言を貫いた。
「死者にも尊厳はある。死の真相を探ることは、彼女たちの墓を暴くことに他らならない」
 それは凪乃だけを差しているのではないらしい。
 どれもこれもお見通しということだ。
「まあ、私は自然に身を委ねるべきだと思っているんだ。全ての生命は循環と還元を繰り返して先の世代へと種を残す。延命治療なんて自然そのものへの冒涜だと思わないかい」
 峰宮女史の視線を感じて、無言で首を振る。
「私が死んだら海に死体を投げ入れてくれ。自然の一部として循環を繰り返して、どこかの生命の糧になれたら光栄だ」
 それか鳥葬がいいな、と峰宮女史は笑い飛ばすように空気を入れ替えるように冗談を口にした。
「それ、僕が法律で捕まります」
「残念だ」
 二十階建てのマンションの前に車を止める。
 駐車場は郊外とあって無駄に広く、車はまばらだった。
 車から出ると、上にトレンチコートを羽織った峰宮女史が隣を歩きながら言った。
「私はね、佐倉凪乃の自殺について調べていたんだ」
 まるで空は青いと当たり前のことを言うような口ぶりだった。
 他人の自殺現場を写真に収めるほどの人だ。彼女にとってそれが日常茶飯事のことなのだろう。
 噂だが、警察庁と繋がりがあるとかないとか。
 改めて、これからは峰宮女史の陰口を叩かないように気をつけようと思った。
「だから、君のことも知っていた」
 マンションに入りエレベーターを使おうとしたが、あいにく点検中であり、仕方なく階段を上ることにした。
「峰宮さん」
「うん?」
「凪乃は殺されたんでしょうか?」
「ありえない」
 そんな残酷さを孕んだ言葉で平然と否定した。
「司法解剖の結果を見た。トリカブトの毒による呼吸麻痺と心停止。当然、他殺も考えられたが、マンションの監視カメラにも君が出て行ってから不審な人物は映っていなかった。無論、君と佐倉凪乃の関係者を含めてもね。さらに佐倉凪乃の身体に外からの損傷も争った形跡もなし。一体、彼女以外の誰を疑えって言うんだい」
 彼女はため息をつくようにふっと息を漏らすと、煙草を取り出して火を付けて述べた。
「佐倉凪乃は満足して死んだんだ」
 ――現実を見ろ。
 感情を殺した声音の裏には、そんな意図するものがあるのだろう。
 魂魄という言葉がある。
 魂と精神。魂は天へと逝き、精神は地へと還るのだという。しかし、凪乃はあの夕暮れの中で死んだ。その言葉を耳にすると今でも思う。彼女の意思は亡霊となって夕暮れの中を彷徨っているのではないか、と。地に還ることすらできず、ただ一欠片の未練と現実への悲哀を胸に後悔しているのではないのか。
 オカルトを信じるかという話ではない。これは折り合いの話だ。凪乃が死んだことを真摯に受け止めたつもりで、僕は小説を書いた。そうして、答えを延々と探している。それでも未だに凪乃が死んだことに眼を逸して、靄がかった現実にいる自分がいる。どこかで折り合いをつける気ではいた。それでも僕は、凪乃が自殺した真相を知るまではまだ直視することはできないだろう。
 ――君は、そんなに姉のことが好きだったのかい?
 名も知らぬ魚の群れが泳ぐ青い水槽が景色を変える。青白い月の明かりが揺れるカーテンに見え隠れする。日常と非常の境界で峰宮女史は微笑みを浮かべてそう言った。
 それがどんな意味を指すのかと言えば、言葉の通りだろう。
「いまさら佐倉凪乃のことを考えても救われないよ」
 峰宮女史が吐き出した煙の輪っかは虚空を進み、儚げに散っていく。
「哀しみなんて一晩で薄れる」
 階段は長く、目的の場所はまだ少しだけ先にある。
「あとに残るものは何もない。もし、本当に死者の痕跡があると信じているのなら、それは生きている者の未練だけだよ」
 死んでしまったからには仕方ない。
 そんな支離滅裂とも取れる感覚はよく分からなかった。
 話をしている間に階段は終わりを迎えて扉の前に辿り着いた。
「部屋は佐倉凪乃が死んだ時のままなのかい」
「片づけたら、それこそ凪乃との関係が終わってしまうんじゃないかと思うと怖くてですね」
「愚かだね。だけど、美徳だ。実に人間らしいじゃないか」
 すると、峰宮女史は平然と懐から部屋の鍵を取り出して扉を開けた。
「その鍵、いったいどこで手に入れたんですか?」
「君、よく見ると美形だね」
「話をそらすなよ」
 僕のことはお構いなしに彼女はずんずんと奥へ進んでいく。
 カーテンの閉め切った部屋の中はほこりっぽく、微かに凪乃が好んで使っていたローズの芳香剤の匂いがした。ダイニングテーブルのティーセットも凪乃が愛用していたマリンキャップも僕と凪乃の写真が収められている写真立てもすべてそのままだった。
 僕と同じで進むことのない時間の中に取り残されているのだ。
 峰宮女史は一番にカーテンと窓を開け放ち、バルコニーへと出た。
 海が一望できる景色を目の当たりにして彼女は心地よい風に当たりながら眼を細める。
 海の香りが乗ったそよ風がカーテンを揺らす。
「綺麗だね。どうして、こんなに綺麗なのに彼女は死んだんだろう」
 すでに太陽は水平線へと呑まれようとしている。徐々に空は赤みを帯びて、世界を塗りつぶしていく。
「君は佐倉凪乃のどこが好きだったの?」
 峰宮女史は、首にぶら下げた一眼レフで部屋の中を取り始めた。
「やっぱり、病気治すべきですよ」
「話をそらすなよ」彼女はにやりと笑みを浮かべた。
「そらしてません」
「どうしてそんなに私のことを気に掛ける」
 彼女のカメラを取る手が止まる。
「佐倉凪乃にでも言われたのか」
 それに答えず、凪乃が倒れていたテーブルを見続けていると、彼女が言う。
「こっちを見ろ」
 峰宮女史の強い声ではっとする。獣のような強い眼差しを持つ彼女が目の前にいた。
「いまさら亡霊の言うことに耳を傾けるな。君が見つめているのは聖母でも女神でもない。ただのシナプスの錯覚だ。死者は平等に死んでいる。幽霊なんて生者の未練が産み落としたモノだし、幻覚だって気のせいだ。ちゃんと眼を開いて世界を見つめろ。君の見る世界には何が見える?」
 金木犀の香りが風に乗って鼻孔をさする。
 目の前に広がている世界。
 鮮やかな夕暮れとその影を作る女性だった。
「峰宮さんと、夕陽」
 彼女は頷く。
「人は神秘を見上げるしかなかった。闇夜を照らす月と星々、霧がかる霊峰や黒雲の中でひしめく雷。人が、自然から派生した神を克服することは簡単だ。夜の帳が下りたのなら明かりを灯せばいい。寒さに震えるなら暖を取ればいい。だが、死だけは越えられない。だからこそ、生きた者がその者の死を越える必要がある。彼女に対して罪を覚えたのなら抱えたまま生きろ。死を神秘的だと思うな。本質から眼をそらすだけそれは肥大する」
 彼女は続ける。
「君が犯した罪はなんだ?」
 足に力が入らず崩れ落ちるように膝をついた。
「言わなくていいのよ。辛いのなら、私がいつものように慰めてあげるわ」
 テーブルに座り、ティーカップにハーブティーを注ぐ少女が言う。
「辛いのなら眼をそらせばいい。布団を被って眠りに就いて、彼女のことを忘れてしまえばいい。私はいつでもあなたの味方よ」
 甘い蜜が僕の思考を遮る。
「私がその罪を許すよ。生きている私がそれを見つめて、ちゃんと許してあげる」
 まるで泣いている幼子をあやすように背をさすって彼女は言った。
「……トリカブト」
「うん」
「凪乃が飲んだハーブティー。あれを摘んできたのは僕なんです」
 あれは凪乃が僕に摘ませたものだ。凪乃が亡くなる前、僕と彼女は野草摘みに行ったのだ。その際に僕に摘ませたトリカブトを、凪乃はわざとそれをハーブティーにして飲んだ。
 凪乃は呪いをかけたのだ。
 人生のどこかに失望し、死ぬことを選んだ末に僕に呪いをかけた。道連れよりも残酷な呪い。
 僕が彼女に好意を寄せていると知っていて、それは行われた。
「一つ、訊いてもいいかい?」
「なんですか?」
 もうまぶたを開けているのも辛かった。自分の声が後頭部を殴られたように鈍く響いている。
「君は姉が嫌いかい」
 僕を見下ろす峰宮女史は哀しそうな顔を作った。くしゃりと歪んだ表情は彼女の弱さの一端を見たように思える。
 嫌い? 口の中で反芻する。もう声を出すことさえ億劫だ。
「君が想いを寄せていると知っていながら、自らの意志で死を迎えた姉が嫌い?」
「嫌いたくない」
 そうか、と彼女は安心したように呟いた。
「では、今は眠りな。クリスティーヌ・ダーエ」
「そういうあなたは音楽の天使ですか?」
「何を言う、私はただの劇作家だよ」
 おやすみなさい、と誰かが言った。
 今まで聞いたどんなものよりも優しい声だった。

 夕暮れが景色を変える。
 佐倉凪乃が死んだ部屋に私はいて、その太ももの上に佐倉蓮が眠りに就いている。
 穏やかな寝息は静かに胸を上下させる。
 烏の濡れ羽色の髪を梳くと、彼は居心地の悪そうに身じろぎした。
 ずっと君を見ていた。
 二年前喫煙所で会った日、偶然を装って君に近づいた。
 事の発端は佐倉蓮の小説が新人賞大賞を獲得したが、彼がそれを降りたことだった。
 当時、出版社で打ち合わせをしていた私はその場に居合わせた。受賞を降りることは珍しくないが、その経緯を知った私は佐倉蓮という人物に興味が沸いたのだ。小説も己の欲望と祈りを書き綴ったものであり、久しぶりに鳥肌が立った。
 そうして、様々な伝手を利用して、葬儀を終えた佐倉蓮と接触を果たした。
 胡乱げな眼差しの彼はいるはずのない少女を探していた。囚われて、自由を失った彼を解放してやりたいとも思った。
「私は君の言葉が好きだよ。君の紡ぐ想いが好きだ」
 二年。再会した彼はあの時と変わらず、檻の中で腐り果てた少女を見つめながら生きていた。
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