閉幕 比翼
文字数 1,841文字
初めての舞台で緊張しない人なんていない。
それは相当の阿呆か峰宮彼方だけだろう。
本番直前、何度目かのトイレに立った帰り、野乃花さんの代役を務める女性に声をかけられた。
役の衣装である仮面を取ることなく、彼女は言う。
「今もお姉さんが見えますか?」
「たまに見えます。けど、もう何も言いません」
「そう。良かった」
女性が微笑んだ。
僕も微笑みを返した。
そして、舞台が終わりを迎えた。
もちろん無数にミスがあり、それを聖さんや代役の女性に助けられながら僕は演じ終えることができた。
息は絶え絶えで指先や聴覚はほとんど麻痺していて、世界の全てが透明だった。
幾度目かのカーテンコール、メインキャストの二人と手を取って、ともにお辞儀をした。顔を上げた向こう側、客席の端で微笑みを浮かべる制服姿の少女がこちらを見つめていた。穏やかな表情には裏がなく、まるで僕を祝福しているかのようだった。
僕は誰にも悟られないように別れの言葉を紡いだ。
それに少女は頷いたように見えた。
喝采が増していく。照明の光が強くなっていき、少女は消える。僕は静かに眼を閉じた。
憎しみと禍根は消え、僕らは生を謳歌して死へと近づいていく。
それは決して哀しいことではない。
誰もが平等に抱える枷はきっと呪いではなく、祝福と呼ぶのだろう。
「さあ、現実に戻る時間だ」
二か月間、聞き慣れた声の女性が隣で囁いた。
僕もそれを返して、また笑った。
いつだったか、野乃花さんが言っていたモノマネが上手という言葉は嘘ではなかったらしい。
どこからどう聞いても、それは野乃花さんの声だった。
宮地野乃花がボイスレコーダーに遺したものはエーデルワイスだけではなかった。
これから死を選ぶことに対する謝罪とこれまでの感謝。
馬鹿げている。
それを聞いた聖さんがそう言ったのを覚えている。
たしかに馬鹿げている。だが、僕はそれを否定することはないだろう。
人魚姫が望んで泡となったように、僕は宮地野乃花が望んだものを肯定しよう。
誰もが否定の言葉を紡いでも、たとえ間違っていたことだとしても、僕は唯一の味方となろう。もう二度と凪乃のような残酷な結末と呪いがこの世に残らないように祈りを続けよう。
『蓮とは仏教では美しいものの象徴として使われる言葉だそうです』
奇しくも、その言葉はかつて凪乃に言われたことのある忌々しいものとよく似ていた。それでも使う者の意志が違うだけで、それは毒にも薬にもなり得る。
『佐倉さんの心はきっと美しいです。これからも生きてください』
師走に入った夜はとても寒い。
公演は終わったが、峰宮女史に使いっぱしりを頼まれる日々が続いていた。勘弁してほしい限りだ。
峰宮邸を後にした僕は近くの電話ボックスに入った。
まだ、一つだけやるべきことがある。
ボタンを押す少しの間、幼い頃に凪乃が僕に言った言葉を思い出していた。
中国に伝わる比翼の鳥という伝説上の生き物は、つがいである雄と雌がそれぞれ眼と羽を一つずつ持ち、一体となることで空を飛ぶことができる。
『私たちは比翼の鳥。どちらかが欠けてしまったら、飛び立つことすら叶わない幻想のような存在なのよ。いい、蓮。あなたは私なくして生きていけないの』
彼女がくれた祝福は呪いのように僕を縛りつけている。
凪乃への想いは消えないだろう。
凪乃の死も凪乃の言葉もきっと消えない。
それでも、もう憎くはない。
死を神秘的なものとも思わないだろう。
亡霊は神聖さを失い、檻の中で僕を見つめている。
暗い牢獄の中で僕を呼ぶ声がしても、もう振りかえることはない。
遠くにある一条の光が手を伸ばせば届く距離にあることをいまさらながら知った。
受話器の向こうからコール音が聞こえてくる。
空は一面が鉛色の雲に覆われていた。
コール音を噛みしめるように眼を閉じる。
峰宮彼方は、僕のことをレインメーカーと呼んだことがあった。
祈りでしか世界と繋がる手段を持たない、とても愚かな人間。
僕たち表現者は心の中に聖地を持ち、巡礼を行う。
死者の再生も過去との決別も僕はこれから先も祈り続けるだろう。
コール音が終わりを迎える。
微かなノイズの後に、はい、と柔らかな声音が耳を揺らした。
もしもし、と彼女は続ける。
「元気かな。君に話さなければいけないことがあるんだ、友華――」
ふと空を仰ぐと、ガラス越しに水滴が弾けた。
祈りは届く。
それは生者から死者への祈りであっても、平等に雨は降り注ぐ。
―了―
それは相当の阿呆か峰宮彼方だけだろう。
本番直前、何度目かのトイレに立った帰り、野乃花さんの代役を務める女性に声をかけられた。
役の衣装である仮面を取ることなく、彼女は言う。
「今もお姉さんが見えますか?」
「たまに見えます。けど、もう何も言いません」
「そう。良かった」
女性が微笑んだ。
僕も微笑みを返した。
そして、舞台が終わりを迎えた。
もちろん無数にミスがあり、それを聖さんや代役の女性に助けられながら僕は演じ終えることができた。
息は絶え絶えで指先や聴覚はほとんど麻痺していて、世界の全てが透明だった。
幾度目かのカーテンコール、メインキャストの二人と手を取って、ともにお辞儀をした。顔を上げた向こう側、客席の端で微笑みを浮かべる制服姿の少女がこちらを見つめていた。穏やかな表情には裏がなく、まるで僕を祝福しているかのようだった。
僕は誰にも悟られないように別れの言葉を紡いだ。
それに少女は頷いたように見えた。
喝采が増していく。照明の光が強くなっていき、少女は消える。僕は静かに眼を閉じた。
憎しみと禍根は消え、僕らは生を謳歌して死へと近づいていく。
それは決して哀しいことではない。
誰もが平等に抱える枷はきっと呪いではなく、祝福と呼ぶのだろう。
「さあ、現実に戻る時間だ」
二か月間、聞き慣れた声の女性が隣で囁いた。
僕もそれを返して、また笑った。
いつだったか、野乃花さんが言っていたモノマネが上手という言葉は嘘ではなかったらしい。
どこからどう聞いても、それは野乃花さんの声だった。
宮地野乃花がボイスレコーダーに遺したものはエーデルワイスだけではなかった。
これから死を選ぶことに対する謝罪とこれまでの感謝。
馬鹿げている。
それを聞いた聖さんがそう言ったのを覚えている。
たしかに馬鹿げている。だが、僕はそれを否定することはないだろう。
人魚姫が望んで泡となったように、僕は宮地野乃花が望んだものを肯定しよう。
誰もが否定の言葉を紡いでも、たとえ間違っていたことだとしても、僕は唯一の味方となろう。もう二度と凪乃のような残酷な結末と呪いがこの世に残らないように祈りを続けよう。
『蓮とは仏教では美しいものの象徴として使われる言葉だそうです』
奇しくも、その言葉はかつて凪乃に言われたことのある忌々しいものとよく似ていた。それでも使う者の意志が違うだけで、それは毒にも薬にもなり得る。
『佐倉さんの心はきっと美しいです。これからも生きてください』
師走に入った夜はとても寒い。
公演は終わったが、峰宮女史に使いっぱしりを頼まれる日々が続いていた。勘弁してほしい限りだ。
峰宮邸を後にした僕は近くの電話ボックスに入った。
まだ、一つだけやるべきことがある。
ボタンを押す少しの間、幼い頃に凪乃が僕に言った言葉を思い出していた。
中国に伝わる比翼の鳥という伝説上の生き物は、つがいである雄と雌がそれぞれ眼と羽を一つずつ持ち、一体となることで空を飛ぶことができる。
『私たちは比翼の鳥。どちらかが欠けてしまったら、飛び立つことすら叶わない幻想のような存在なのよ。いい、蓮。あなたは私なくして生きていけないの』
彼女がくれた祝福は呪いのように僕を縛りつけている。
凪乃への想いは消えないだろう。
凪乃の死も凪乃の言葉もきっと消えない。
それでも、もう憎くはない。
死を神秘的なものとも思わないだろう。
亡霊は神聖さを失い、檻の中で僕を見つめている。
暗い牢獄の中で僕を呼ぶ声がしても、もう振りかえることはない。
遠くにある一条の光が手を伸ばせば届く距離にあることをいまさらながら知った。
受話器の向こうからコール音が聞こえてくる。
空は一面が鉛色の雲に覆われていた。
コール音を噛みしめるように眼を閉じる。
峰宮彼方は、僕のことをレインメーカーと呼んだことがあった。
祈りでしか世界と繋がる手段を持たない、とても愚かな人間。
僕たち表現者は心の中に聖地を持ち、巡礼を行う。
死者の再生も過去との決別も僕はこれから先も祈り続けるだろう。
コール音が終わりを迎える。
微かなノイズの後に、はい、と柔らかな声音が耳を揺らした。
もしもし、と彼女は続ける。
「元気かな。君に話さなければいけないことがあるんだ、友華――」
ふと空を仰ぐと、ガラス越しに水滴が弾けた。
祈りは届く。
それは生者から死者への祈りであっても、平等に雨は降り注ぐ。
―了―