予言

文字数 4,777文字


 その男は名を森野丸一といい、ある市に住んでいたが、どういうわけだか、子供のころから非常に迷信深かった。
 金持ちの家の一人息子に生まれたので働く必要はなかったけれど、その迷信深さは町内でも有名で、例えば外出するというだけでも、丸一の場合はかなり大変だったのだ。
 まず丸一は、自動車など運転しない。
「自動車は縁起が悪い」
 のだそうだ。なぜなら、
「タイヤが4つあるから」
 だから丸一は、タクシーに乗車することもない。
 外出や旅行には、常に列車かバスを用いた。
 タクシーがダメで、なぜバスなら良いのかというと、
「バスにはタイヤが6つある」
 からだそうで。
 あるとき市の区画整理があり、町名が大きく変更された。
 町名をどう変えるかは市議会が決定したのだが、屋敷に届いたその通知を見て、丸一は文字通り真っ青になり、ついで震えあがった。
「どうなさったのです、旦那さま?」
 と執事が声をかけたが、それに答えて震える指先が示す先には、半年後に丸一の屋敷が名乗るはずの新住所が書かれていた。

『〇市○○町9丁目…』

「はあ旦那さま、数字の9でございますか? それはまた…」
 執事の慰めなど、もちろん丸一の耳に入りはしない。
 すぐに顧問弁護士を市役所へ向かわせたが、
「町名と住所変更はすでに決定済みのことなので、今さら撤回はできない」
 と当たり前の返事が返って来ただけだった。
 それを聞いて、丸一はどう行動したか?
 もちろん引っ越しをした。
 引っ越し先は慎重に選ばれ、4丁目でも9丁目でも、13番地でもない。
 風水に気をつかうのも当たり前。ああだこうだと不動産屋にはかなりの無理を言ったらしい。
 丸一にはお気に入りの占い師がいて、食う物も飲む物も、着る服の色でさえ、丸一はこの占い師の言いなりと言ってよかった。
 だから丸一が常に黄色の帽子をかぶり、紫色の洋服を着ているのだって、本人の色彩感覚のゆえではない。
 占い師の指示に1から10まで従っているからこそ、現在の自分の人生があるのだと丸一は信じていたが、ある時この占い師が奇妙なことを口にしたのだ。
「丸一さん、あなたはきっと、最期はマグロに当たって死にますよ」
 占い師が、なぜそんなことを言ったのかは分からない。
 本当にそういう占いが出たのか、単なる冗談だったのか。
 しかし丸一のような人物にそんなことを言えば、どうなるかは簡単に想像がつく。
 まったくその通り、丸一はマグロを徹底的に避けるようになったのだ。
 それまでも特に好物だったふうはないが、とにかく寿司屋へは、つま先を向けようともしなくなった。
 使用人にも命じ、屋敷の中でも、マグロの含まれるものは一切の調理を禁じた。
 ごくたまに外食や旅行に出かけるに際しても、食事や宿泊予定の店や宿には事前に厳重な問い合わせをし、
『マグロなどカケラ一つ、汁の一滴たりとも混入しない』
 と約束させてからでないと出かけないというほど徹底していた。
 それだけではない。
 屋敷の書斎にあった書籍の中からも、マグロという言葉を含んでいそうなものはすべて取り除き、庭に山と積んで消却した。
 丸一は読書家でもあったから、辞書や百科事典、料理関係の本など、マグロという文字を含みそうな本は少なくなかったが、丸一の予防ぶりはいささか常識を外れていたのだ。
 だが幸いなのは、丸一が独身だったことで、そのやり方に従わされる不幸な妻子など始めから存在しなかったわけだ。
 変わり者による害のない奇行と、町の人々も笑っていた。
 例の住所変更の件で、ちょうど屋敷の新築とそこへの引っ越しが完了したところでもあり、近所の住民も最初の頃こそ、
『丸一さんのお屋敷』
 と呼びはしたが、それもすぐに、
『マグロなし屋敷』
 と風雅とはいいがたい名に取って代わられつつあった。
 しかし当の丸一は、そんなことは夢にも知らなかった。


 ここで、佐藤という人物がこの物語に登場する。
 佐藤は駅員だった。 
 制服に身を固め、特急ツバメや遠く九州へ向かう夜行列車、新鮮な魚を一秒でも早く東京へ送り届けるために全速を出す鮮魚急行などをホームで見送る。
 そういう仕事にプライドを持っていたのだ。
 この日も佐藤は、いつものように鮮魚急行の通過をホームで待っていた。
 朝早くから東京へ行き、魚を降ろして帰ってくる空の列車だ。
 佐藤のいる駅を通り過ぎると、鮮魚急行は鮮魚市場へと向かい、魚を満載して、再び東京めざして出発するのだ。
 白く塗られた冷蔵貨車の長い列車で、ごうごうと通過していくのはいつもの光景だった。
 だが今日は、それが普段と違うことに佐藤は気がついた。
 機関士が運転台の窓から身を乗り出し、佐藤めがけて大きな声で何かを叫んでいるのだ。
 車輪の轟音のせいで、何を言っているのかはもちろん聞こえない。
 叫んでいるだけでなく、機関士は大きく両腕を振り回してもいる。
 何か普通でないことが起こっているに違いない、と佐藤は気がついた。
 機関士の表情はそれほど必死で、何かを訴えようとしているのだ。
 目が合った瞬間、機関士が機関車のブレーキ装置を指さしたことを佐藤は目にとめた。
 絶望に満ちた表情で、機関士はまた何かを叫んでいる。
 列車のブレーキが故障し、きかなくなっているのだと佐藤が気がつくのには、一秒もかからなかった。
 佐藤はすぐさま駆け出し、駅の事務室へと飛び込んだ。
 そこには電話機がある。受話器をひっつかみ、佐藤は耳に押し当てたのだ。
 まず交換手を呼び出そうと試みた。緊急事態の発生を管理局へ通報するのだ。
 だが交換手は答えなかった。何の応答もない。
 佐藤が何度スイッチを押しても、電話機はうんともすんとも言わないのだ。
 いつもならハキハキした若い娘の声で、
「はい、鉄道電話交換台です」
 と返事があるのだが。
 ここで佐藤は思い出した。
 今日は鉄道電話は故障しているのだ。
 昨日どこかでトラックが電信柱に衝突してしまい、修理に一日かかるということだった。
 なんてことだ。こんな日に。
 電話機をほうり出し、佐藤は駆け出すほかなかった。
 鮮魚急行はもう通り過ぎてしまい、赤いテールライトが遠くかすかに見えているだけだ。
 駅を飛び出し、佐藤は自転車に飛びついた。
 それを見た同僚が声をかけてきたが、返事をする時間も惜しい。全力でペダルをこき始めた。
 鮮魚市場まで、列車と自転車では勝負になりそうもない。
 だが佐藤は賭けたのだ。
 地形の関係で線路は半円形に大きなカーブを描き、ぐるりと迂回して鮮魚市場へと向かう。
 自転車なら直線距離だ。
「うまくいけば間に合うかもしれない…」
 心臓も破れんばかりにペダルをこぎ続ける佐藤の目前に、ようやく細長い建物が見え始めた。
 これが鮮魚市場だ。
 近在でとれる海産物を一手に扱う場所で、敷地は広く、構内を移動するのにも仲買人たちが自転車を必要とするほどだ。
 敷地内には専用の駅まである。
 積み込みを待つために、今ごろそのホームには、魚介類を入れた木箱が何百も積み上げられているに違いない。
 ホーム全体が魚の匂いで満ちていることだろう。
 ゴム長靴をはいた男たちが、鮮魚列車の到着を今か今かと待っているのだ。
 守衛の制止を振り切り、佐藤の自転車は市場の正門を突っ切っていった。
 ハンドルを押さえ、急カーブをきった。
 古い自転車だったせいか、大きな音を立てて突然チェーンが切れたが、気にしているひまはない。
 それに、もうそんなことはどうでもよかった。
 目的地に到着したのだ。
 自転車をほうり出し、佐藤は駆け出した。
 仲買人たちでごった返す中を進み、ホームへ急いだ。
 ホームの様子は、想像していたとおりだった。
 魚を詰め込んだ木箱が整然と何百も並んでいる。
 その手近な一つに手をかけ、佐藤が中身を線路に向けてばらまき始めたとき、まわりの男たちには意味がわからなかったに違いない。
 一瞬は呆然としたが、すぐに佐藤に飛びかかり、やめさせようとした。
 その手を振りほどこうと佐藤は暴れた。男たちはますます手に力を込める。
 だが佐藤の口から出る言葉を聞いて、男たちも迷いを感じないではいられなかった。
「ブレーキの壊れた鮮魚列車が暴走している。もうすぐここへやってくる。ここで止めないと大変なことになるぞ」
 仲買人たちは、きょとんとして顔を見合わせた。
 自由になった佐藤は、線路に魚を落とす作業を再開した。
 だが彼の表情に真実を感じとることができたのだろう。
 仲買人たちも一人二人と加わっていき、一分もたたないうちには全員が手伝い始めたのだ。
 線路はすぐに魚で埋めつくされることになった。
 ハマチ、サバ、アジ、タチウオといった普通の魚から、タコやイカのたぐい、ナマコやシャコまでいた。
 何をあわてたのか、なんの役に立ちそうもないダシジャコをまき散らす者までいた。
 線路はそうやって埋めつくされたが、鮮魚列車を止めるにはまだ不十分だと思われた。
 仲買人たちは仲間に声をかけ、もっと多くの魚を持ってこさせた。
 巨大な冷凍庫の扉が開かれ、保管されていた中身までが大量に運び出されたのだ。
 鮮魚列車が姿を見せたのは、その最後の一匹が線路上に並べられたときだった。
「来たぞ」
 ヘッドライトを光らせたまま、鮮魚列車はものすごい勢いで接近してくる。
 汽笛を鳴らし続けているが、スピードがにぶる気配はまったくない。
 駅の入口を通過した。ホームめがけて、矢のように飛び込んでくる。
 魚の山に衝突し、鮮魚列車の速度はガクンと落ちた…。


 事件が起こったのは、気持ちの良い昼下がりのことだったと記憶されている。
 外出などせず、いつものように丸一は屋敷の中にいたが、町の反対側で暴走列車の騒ぎが起こっていることなど、もちろん夢にも知らなかった。
 しかし丸一は、あまり上機嫌ではなかった。
 ちょうど書斎で新聞を読んでいたのだが、遠洋マグロ漁船の盛衰にかかわるルポを紙面に見つけ、鼻息も荒くクシャクシャに丸め、ゴミ箱に突っ込んで成敗したところだったのだ。
「マグロの記事を載せるなど、まったく非常識きわまる新聞だ…」
 とそのとき、いかにも金持ちの屋敷らしく開放的なデザインで、開け放たれたままだった大きな窓を通って、部屋の中へ飛び込んできたものがある。
 それは重く長く、流線型をして、何に一番似ているかと問えば、疑いなく砲弾だろう。
 その『砲弾』は轟音とともに着弾し、読書テーブルごと書斎の中央に大穴を開けたのだ。
 そのすさまじさは屋敷中の人間を飛び上がらせ、書斎へ駆けつけさせるのに十分だった。
「ああ旦那さま…」
 屋敷の使用人たちばかりでなく、近所ではその飛来物を直接目撃した者までおり、警察への通報が数件あったそうだ。
 鮮魚市場において、線路上には大量の魚介類が積み上げられた。
 そこへブレーキの故障した列車が飛び込んでくるが、ねばっこいタコやイカを車輪の下に巻き込みながら減速し、やがてゆっくりと停止した。
 つまり大惨事を未然に防ぎ、一人のケガ人も出すことはなかったのだ。
 しかし…。
 線路にうずたかく積まれた山の頂上には、偶然だろうが、あるものが置かれていた。
 生ものの魚をすべて置いてもまだ足りず、冷凍倉庫の扉までが開かれたことは、読者もご記憶だろう。
 機関車と貨車を合わせた鮮魚列車全体の運動エネルギーが、魚介類の上にぶちまけられたのだ。
 ならばゴルフボールのごとく高く打ち上げられた魚が一匹ぐらいいても、特に不思議ではない。
 その飛ばされた魚というのが、なんと冷凍マグロだった。
 まだ切り分けられる前の丸々一匹だ。重さは100キロにもおよぶ。
 しかもこれが冷凍されてカチンコチン、鉄のように固い。
 つまり丸一は正真正銘、マグロに当たって死んだのだ。
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