勇気
文字数 1,404文字
走る電車の車内。
乗客の間に身を潜めても、目つきの鋭い男とは思いがけず目立つものだ。
中学に入学したばかりで、見るもの聞くもの興味津々、人生が面白くてたまらない聡子のような娘になど、目ざとく発見されて当然だろう。
「あら、あの男の鋭い目つき…」
読みかけていた本をひざに置き、聡子は心をさまよわせた。
あの男の正体は刑事だろうか?
探偵?
それとも指令を受けた暗殺者か?
聡子は男の視線の先を探った。
そして息をのんだのだ。
視線の先にいるのは、ハンチング帽をかぶった別の男。背は低く、若く小柄。
この小柄な男が、隣にいる第3の人物、つまり派手な化粧の中年女のハンドバッグに向けて、不自然に手を伸ばしているのだ。
そういえばつい先ほど、ハンドバッグの金具が開くパチンというかすかな音が聞こえた気がする。
「あの小柄な男はスリだわ。女の人のハンドバックを狙ってる。ようし…」
ここで行動を起こさないと乙女ではない。
正義の味方、お嬢様硬派の名がすたる。
「そうか。目つきの鋭いあの男は刑事で、スリの犯行を見張っているのだわ」
今しも目前で逮捕劇が展開すると考えるだけで、聡子は血わき、肉おどる。
聡子の視線は、スリの手に注がれた。
もちろん刑事の視線も同様だ。
スリの手先はハンドバッグの中に消え、何かをしっかりとつかんだようだ。
その瞬間、聡子は叫んだのだ。
「あんたスリね。何をしているの」
突然の大声に、車内の全員があっけにとられた。
仁王立ちの聡子の右手は、小柄なスリをまっすぐに指さしている。
聡子は続けた。
「刑事さん、私も目撃しました。あのスリを逮捕しましょう」
この騒ぎで一番驚いたのは、ハンドバッグの持ち主の中年女だ。
ウトウトしかけていたが目をカッと開き、一瞬で状況を把握したらしい。
肉付きのいい手でスリの手をピシャリとはたき、ハンドバッグを守っただけでなく、何かを手の中で握りなおし、スリに見せつけた。
いや、突きつけたのだ。
ピストルだった。
真っ赤な口紅を塗った口を開き、中年女は言った。
「おやお嬢さん、教えてくれてありがとうよ。とんだ油断をしていた」
それだけではない。
いつの間に取り出したのか、スリと思っていた男の手の中には、銀色に輝く手錠が握られている。
それは目つきの鋭い男も同じで、こちらは上着のポケットから警察手帳を取り出し、まわりにかざしているのだ。
「えっ?」
聡子にはわけがわからない。
だが目を丸くしたのもほんの1秒ほど。中年女は聡子に銃口を向けたのだ。
銃など、聡子はおもちゃしか見たことがない。
だがこれは本物。
鉄の肌は見た目にもずっしりとし、先端の小さな丸い穴は、チクワのように平和とはとても言えず、それが冷たく自分をまっすぐに見つめ…。
電車が揺れたわけでもないのに、足の力が抜けてバランスを崩し、聡子はそのまま気を失ってしまった。
『拳銃強盗 主犯の女逮捕 白昼の電車内で捕り物劇』
翌日の新聞に、小さく報じられた。
家族に事情を打ち明けたのは聡子の最大の失敗で、「お姉ちゃんの弱虫」と弟からさんざん馬鹿にされた。
しかし新聞記事に聡子の名が出ないように警察に頭を下げ、取り計らってくれたのは父だ。
もしも自分の名がニュースなんかに出たら…。
明日からの校内の大騒ぎを考えるだけで、聡子は夜も眠れない。
だから父親の功績には、聡子もほんの少し感謝しているのだ。