文字数 3,972文字

 今日は音楽プレイヤーを持ってきた。面会中に使用し、帰るときに持ち帰れば良い、と医者から許可が出たのだ。お見舞いの品も、差し入れも、何もかも医者の許可がないと持ってこられない。最初は違和感しかなく、反発の気持ちもあったが、慣れてきている自分が、少し寂しい。
「お母さん、CD持ってきたよ」
「CD? 音楽かしら?」
「そう。好きな曲だと思うよ」
「あら、ありがとう。どうして私の好みを知ってらっしゃるのかしら。ありがたいわ」
 母は私を娘だと忘れてしまっているけれど、私は母を「お母さん」と呼ぶ。私は、母を忘れていないから。最初は、そうすることで少しでも何か思い出してほしい、忘れる速度を緩めたい、そんな感情が強かったけれど、今は少し違う。忘れる速度を緩めたいとは思っているけれど、忘れていく母のことも、受け止めるようになったのだと思う。
 いろんなことを忘れてしまった母だけれど、音楽をかけると、ときどきメロディに合わせて「ふふふん」と口ずさむので、私は音楽の力を感じざるを得ない。私のことは忘れても、シューベルトのメロディは忘れない。残酷にも思える脳の構造に、今となっては感謝もしている。
 シューベルトの歌曲集「冬の旅」が真夏の病室に流れる。この部屋は季節感が希薄だな、と思う。シューベルトは、静かで少し暗い印象もあるが、どことなく激しさも感じられる。「冬の旅」は、恋に破れて冬の荒野をさまよう若者の心の風景を描いているそうだ。深くて美しい絶望の歌。シューベルトは、短命だったにも関わらずものすごい量の曲を生み出した作曲家だと聞いたことがある。三十代になったばかりの頃に書いたと言われている名曲たちも、三十代の若さや溌剌さよりも、酸いも甘いも知った老人の哀愁のようなものすら感じる。

 母は、北関東の生まれである。優しい母親と厳格な父親と、年の離れた兄に可愛がられて育ったそうだ。「そうだ」と憶測でしか言えないのは、私が祖父母を始め、親戚に会ったことがないから、わからないということだ。母は、相手が誰であるか誰にも告げぬまま私を身ごもり、家族から産むことを猛烈に反対された。それでも母の決心は固く、結局勘当された。母は、一人で上京し、私を出産し、育てた。
「加奈はお母さんのたった一人の相棒だから」
 いつもそう言って、私の手をとって、両足をしっかりと地面につけて立っていた。若い頃は保険の外交員をしていた母。一人で踏ん張って立っていた。それは、子供ながらにとても格好良かった。私は、母と二人で生きてきた。父親が誰なのか、知ろうとしたこともなかった。親戚に会いたいと思ったこともない。私は母のたった一人の相棒。それが誇らしく、母みたいに強く優しく生きたいと願っていて、それだけで良かった。
 母の母、祖母からは、何度か連絡があったようだ。祖父に内緒で、母を援助したかったらしい。でも、それを母は断った。
「愛情だけもらっておくね、お母ちゃん。気持ちは十分伝わってるから。ありがとう」
 母が電話で話しているのを聞いたことがあった。それは、母なりの覚悟だったのだろう。自分で決めて出てきたのだから、自分の力で生きていく。そう決めていたのだろう。
 私が大人になって働いてからは、生活に余裕もできて、二人で買い物をしたり、ランチをしたり、ときには贅沢にマッサージに行ったりした。そんな時間が楽しかった。私は、それで満足だった。その時間は、まだ続くと思っていた。終わることなんて、想像したことすらなかった。

 認知症と診断されてから、私はほとんど母のアパートで過ごすようになって、母が今まで通りではないことを目の当たりにした。料理の味が、母の味付けではなくなっていった。物をすぐに失くし、泥棒が入ったと繰り返し訴えた。その都度、私はその物を見つけ出し、安心させなければならなかった。もう自宅では厳しいかもしれない。そう思い始めたのは、夜中に突然起きだして、布団を敷いたり畳んだりを繰り返すようになったときだ。私は翌日も仕事で、夜中の三時に起こされるのは、正直気が滅入った。
「お母さん、何してるの?」
 母は布団を畳んで、床を手でさすって何かをじっと見ているようだった。
「ここが、これは、ほら、あれを探さないといけないから」
「何? わかんないよ。何よ、こんな夜中に。もう寝た方がいいよ」
「そうね、寝ないと」
 そうして母は布団を敷き、横になった途端にまた起きだして、布団を畳んで床をなでさするのだ。このときばかりは、物忘れの粋を越えて、話が通じないのだ。そして、そのことを翌朝にはすっかり忘れている。夜中に起きていたこと自体、忘れているのだ。
 後日、医者に相談すると、「夜間せん妄」という状態で、意識障害の一つらしい。そんな専門的なことは何もわからないわけだから、ただ意味不明なことを言いながら奇行を繰り返す母に、私は苛立ちと恐怖を覚えた。もう家では難しいのかもしれない。そう思い始めたとき、医者から入院を勧められた。
「娘さんもお疲れでしょう。入院することは、お母さまのためでもあり、ご家族のためでもあります。ご家族が倒れてしまったら、お母さまを支えてさしあげる方がいなくなってしまいます」
 日に焼けた女医は静かに説明した。認知症になった母を家で看みられないことは私の落ち度だと感じていた。入院させることなど、親不孝なのだと思っていた。でも、そうではないと医者は言った。
「共倒れになってしまったら、お母さまが悲しみます」
 あのとき、家で看られない私を責めず、入院を勧めてくれた医者に感謝している。自分で思っていた以上に、当時の私は疲弊していたのだ。仕事をしていても、母のことが心配だった。母の世話をしているときも、仕事のことが気がかりだった。両方とも、中途半端で、両方とも、一生懸命やろうとしていた。
 テレビで、認知症の方が徘徊して事故にあった、なんてニュースを見たりすると、母のアパートも、内側からは鍵が開けられないようにしたほうが良いのではないか、などと真剣に悩んで、ネットショッピングでそういう鍵がないか、検索してみることもあった。だから、入院を選択した。それは悪い判断じゃなかった。今はそう思っている。

 入院してすぐの頃、私は医者や看護師と多くのことを話し合わねばならなかった。それは、母に関するさまざまな選択なのだけれど、母の認知機能が低下しているため、母自身のことなのに、私が決めなければならなかった。
 例えば、入院自体もそうだ。母自身が入院を希望したというより、私が限界になって、医者の勧めもあり入院を選択した。それ以外にも「部屋を個室にするか」「洗濯は家族がやるか病院のレンタルパジャマを使用するか」など細かい項目から「自分や他者を傷つける可能性がある場合、身体拘束をしても良いかどうか」などという今までの人生では自分と関係するとは到底思えなかった選択もあり、私は大いに迷った。今でも、その一つ一つの選択が、正解だったかはわからない。
 一番迷ったのは「いざというとき、延命治療をするかどうか」という選択だった。
「急いで決めなくて大丈夫ですから」
 医者はそう言ったが、いつかは答えを出さなければいけない。そんなことまで、私が一人で決めなければならない。それは、私にとって非常に酷なことであった。そんな迷いを持ちながら母を見舞うことも、心苦しかった。まだ認知機能が正常だったときの母に聞きたい。相談したい。叶わぬ願いでも、私だけじゃ決められないと思った。いつもしていたように「加奈、お母さんはこう思う」そう言って私を安心させてよ。
 悩みながら母の顔を見ていると、母が、延命治療に関して話していたことがあったことを思い出した。確か「たくさんのチューブにつながれて、ベッドに縛られて生きるような最後は嫌だわ」というようなことを言っていた気がする。
「延命治療は悪いことじゃないわ。それを選ぶ人がいるのも、わかる。でも、私はいいかなあ。そこまでしないで、静かに逝きたいわ」
 テレビで医療関係のニュースを見ていたときだったと思う。何気なく言ったこの母の言葉が本音だったのか、今となってはわからない。当時はまさか自分がこんな選択を迫られると思っていなかったから、完全に他人事だったのだ。どうしてもっと話し合っておかなかったのだろう。後悔しても、仕方ないのはわかっているけれど、もっと母の本心を聞いておいても良かったと思った。それでも、今選択するのは私しかいない。邪気のない笑顔を見せる今の母を見ながら、あの日の母の言葉を、信じるしかないと思った。
 窓の外は炎天。病室には「冬の旅」。シューベルトは亡くなる直前まで「冬の旅」の校正を行っていた、と聞いたことがある。晩年、体調を崩してまで書いていた曲。だから、悲壮感の中に、仄暗い情熱を感じるのだろうか。

 人は様々なものを失いながら生きている。何かを得るためには、何かを失う。そうやって、得たり失ったりしながら生きていく。母は記憶を失う代わりに、何を得ているのだろうか。今まで生きてきて感じた歓喜や苦悩、日常の細やかな出来事、出会った人々、誰にも告げずに愛した人のこと、それらの記憶を少しずつ失いながら、母は何を得ているのだろう。どうかそれが穏やかなものでありますように。そんな気持ちで母を見ると、「ふふふん」と軽くハミングしていて、CDを持ってきて良かったと思った。
「じゃ、今日はそろそろ帰るね」
「あ、そうなの? もうすぐお夕食だから、召し上がっていけばいいのに」
「ありがとう。でも、明日仕事だから。お母さんは、ちゃんとご飯食べてね」
「ええ、食事は全ての基本ですからね」
 そう胸を張って微笑む母は、あどけない少女のようだった。


つづく
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