文字数 3,972文字

 薄くぼんやりと曇った土曜日。あっという間に散った桜が終わった途端、気温の高い日が続いている。
 私はいつものバス停で、いつも通り少しだけ早く家を出て、背中越しにピアノの音を聞いている。それは、Jの奏でる旋律。私の少し汗ばんだ背中から、痩せた背筋を抜けて、背骨の中心を通って、肋骨に響き、胸の真ん中に届く。私の情緒を落ち着かせる、静かな安寧。
 Jのピアノを初めて聴いたのは去年の春だった。バス停にいるとき、懐かしいような沈丁花の香りとともに、微かにピアノの音が聞こえて思わず振り向いた。それが、母の好きなシューベルトの「セレナーデ」だったからだ。バス停のすぐ後ろにある音楽スクールのガラス張りのレッスン室から、こちらに背を向けてピアノを弾いている男性が見えた。若い男性だった。物悲しくも美しいシューベルトに思わず聞き入った。私は、初めて、音楽が生まれる瞬間に立ち会ったと思った。男性の指が鍵盤を撫で、愛で、ときに叩きつけ、新しい音が発せられるたびに、そこに新しい音楽が生まれていた。バス停から少しだけ移動して、男性を斜め後ろから観察した。逞しい肩幅、適度に筋肉のついた腕、細く美しい指、紡ぎ出されるピアノの音。私はその男性から目が離せなかった。そして今まで聞いたどの「セレナーデ」よりも清らかなその音からも、立ち去り難かった。
 男性がピアノを弾き終えて立ち上がった。すっと振り向いて窓の外を眺めるその人は、若い、凛々しい、溌剌とした雰囲気の青年だった。白いTシャツの胸にJとプリントしてあった。そのとき、私は彼のことを自分の中でJと名付けた。Jは楽譜を整えて、鍵盤に臙脂色のフェルト布をかけ、蓋を閉めた。私は、そのいちいちを眺め、羨望にも焦燥にも似た、不思議な感覚を持った。眩しくて初々しくて懐かしいもの。若さ、未来、将来。そんな言葉の象徴。自分が失ってとうに忘れていたものを、Jは体全体に纏っていた。
 エンジン音がして、ふと我に返って振り向くと、乗る予定だったバスが走り去るところだった。

 それから私は、バスを利用するとき、少し早めに家を出て、運良くJがピアノを弾いているところに遭遇できれば、少し聞いてから出発するようにしている。中年の女にこっそり聞かれていると知ったら、不気味に思うかもしれない。でも、Jの弾くピアノは、私のほんの一時の癒しなのだ。そして癒されていると感じるとき、自分が何か不安を持っているという事実に、気付かされるのだ。目的地までバスに乗っている最中、Jのピアノの音は私の耳の中で揺れている。鼓膜の内側まで満たされている。それだけでも、私にとっては妙たえなる時間なのだ。
 バスは目的地に着くと、私を降ろし、排気ガスの匂いをさせながらぶうんと去っていく。Jのピアノの音も、バスとともに去っていく。しばしその後ろ姿を見送ってから、長い上り坂を歩き出す。自然に囲まれた静かな一角にその建物はある。心なしか、街中より少し涼しい。薄いピンクの外壁。色とりどりの花が植えられた花壇。
 この病院に、私の母は二年前から入院している。
 病院の入り口で名前を書いて、面会者バッジをもらって、病棟へ行く。淡いベージュ色を基調とした清潔な廊下。病棟は、消毒や薬みたいな病院本来の匂いと、生活臭の混じった、独特の匂いがする。
「あ、城田さんの娘さん。今ちょうどおトイレが終わったところなんです。ちょっと廊下でお待ちくださいね」
 すっかり顔見知りになった看護師がにこやかに声をかけてくれた。
「あ、はい。いつもありがとうございます」
「いえいえ~」
 看護師は、声にまで微笑を含ませ廊下を去っていく。
 隣の部屋から「ぎゃー」と大きな声がして、びくっとする。もう二年、母のお見舞いに通っているけれど、この突然の大声だけは、まだ慣れない。
 母の部屋のドアが開き、別の看護師が出てくる。
「あ、娘さん、こんにちは。おトイレ終わりましたよ」
「ありがとうございます」
「城田さーん、娘さん、いらっしゃいましたよー」
 看護師が振り返り、部屋の中の母に声をかけていく。空調のコントロールされた母の部屋は微かに便臭が残っていて、窓が数センチだけ開けてある。でも、それ以上は、開かない。
「いらっしゃい。外は暑いのでしょう? どこのお嬢さんか知らないけれど、ゆっくりしていってちょうだいね」
 そう言って母は、ベッドから手を伸ばして、私に椅子を勧めた。

 母から妙なメールが来たのは三年前の夏だった。
【引き出しに入れていたお通帳がないの。泥棒が入ったのかしら】
 しっかり者で通ってきた母にしては、文面から不安そうな気配を感じたので【仕事の帰りに寄るね】と返信した。
 早々に仕事を終わらせ母のアパートへ行くと、珍しく少し散らかっていた。失くしてしまった通帳を探しまわったのか、几帳面な母らしくなかった。職場から一時間ほどで行けるため、たびたび母の部屋へ行くことはあったが、いつ訪れても片付いていた。掃除が行き届き、観葉植物やベランダの花は活気があり、無駄なものは一切なかった。それが、その日は室内が雑然としているだけでなく、シンクに洗い物が置いたままになっていて驚いた。私が子供の頃から、母がシンクに食器を置いたままにすることなど、一度も見たことがなかったから。
「お母さん、食器洗ってないの珍しいね」
「お通帳がないからそれどころじゃなくて。泥棒が入ったのかって心配なのよ」
「でも、今日ずっと家にいたんでしょ? お通帳、最後に使ったの、いつなの?」
 私は引き出しを探しながら言った。
「うーん、いつだったかしら」
 この返事に、もっと違和感を持つべきだったのだ。母が、通帳を最後にいつ使ったか思い出せないなんてこと、あるはずがないのだから。
「あ、あったよ」
 通帳は、母が言っていたのではない引き出しから出てきた。
「あら、本当だ。おかしいわね、こんなところには入れていないのに」
「まあ、あって良かったじゃん」
「そうね。泥棒じゃなかったのね。おまわりさん呼ばないで良かったわ」
 そう言って母は苦笑した。
「そうだね。普段、探し物なんて、私のほうが下手なのに」
 そう言って私も笑った。

【大切なネックレスがなくなった。泥棒が入ったのかもしれない】

 そうメールが来たのは、それから三日後だった。私は、見てはいけないものを見た気持ちになった。何かの間違いか、もしくは冗談か。でも、こんな類の冗談を、母が言うはずがないことを、私自身がよく知っていた。胸騒ぎというのは、こんな気分を言うのだろうか。指先の冷えるような、まっすぐ立っているのに視界が揺れているような、妙な気分だった。子供の頃、身に覚えがないのに職員室に呼び出されたときのような緊張感。
「悪いことはしていません、だから許してください」
 どこかへ引きずり出されて、尋問を受けるのかもしれない。何か聞かれる前から釈明したくなるような、そんな緊張感。

【泥棒が入った】と連日メールが来るようになって、さすがに心配になったため母を病院に連れて行ったものの、日に焼けた若い女医に「アルツハイマー型認知症の可能性が高い」と言われたとき、私はショックを受けるよりも「母がボケたりするものか」という戸惑いのほうが大きかった。いつも気丈で、賢くて、強い母。誰の世話にもならず、一人で私を育てた母。そんな母が、六十代でボケたりするものか。
 もっと詳しく調べてください。母に限って、認知症なんてありえません。
 そう言いたい私の横で、母は、医者の話を熱心に聞いていた。
 医者は、いくつか質問したあと、テーブルの上に、ボールペン、くし、ライター、ハンドクリーム、金属のスプーンを置いた。
「これを、よく覚えてください」
 そう言って、医者は一つずつ名前を言った。
「これは、ボールペン。これは、くし」
 母は一生懸命覚えているように見えた。馬鹿にするな。私はそう言いたかった。五つの品物の名前を言い終えると、医者は、布でそれらを覆った。
「城田さん、今ここにあったものを、教えてください」
 優しい口調だった。
「えっと……ボールペンと……くし。ボールペンと……くしと、えっと……ボールペンと……」
 嘘でしょ。お母さん、嘘でしょ。冗談でしょう。一番絶望したのは、この瞬間だったかもしれない。必死に、布で覆われている品物を思い出そうとする母の背中は、悲痛なものだった。
 六十八歳だった。まだ若い。そう思っていた。でも、診断されたアルツハイマー型認知症に「若年性」とはつかなかった。「若年性」と言われるアルツハイマーは、六十五歳以下だそうだ。自分の母が、認知症になってもおかしくない年齢になっていることに、私は自覚がなかった。四十三歳になった私は、まだ母の娘であった。これからも、一緒に、今までと何も変わらずに過ごして行けると思っていた。いつまでも二人で一つだと思っていた。でも、母は、いつの間にか認知症の高齢者だった。

 まだ三年前のことなのに、何十年も前のことのように感じる。この三年で、母は大きく変わった。そして私も。この変化は、悪いものではない。たぶん。そう思いながら母を見ると、オーバーテーブルに置かれた吸い飲みを不思議そうに裏返して熱心に眺めているので、思わず笑ってしまった。毎日使っているものでも、それが何なのか思い出せない。それは恐怖なのだろうか。それとも、新鮮なのだろうか。それとも、そのどちらの感情も、忘れてしまったのだろうか。
 独身の一人娘である私はいつまでも同居を望んでいたが、母は私が社会人になったのをきっかけに、一人暮らしをさせた。独立させることが目的だったというが、今となっては、一緒に住んでいたほうが良かったのかどうか、判断が正しかったのか、正解はわからない。



つづく
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