猫にまたたび、彼にはなに

文字数 1,115文字

 静まり返った教室に、授業を進める自分の声が響く。
「23ページ開けろー。この公式のだな」
 ペラリっと教科書をめくる音。シャーペンで書き込みをする音。
 熱心に聞いている生徒たちばかりではないけれど、そのなかでも目立つ、ひとりの生徒。
(今日も明後日の方向か……)
 頬杖をついて窓の外に顔を向けているが、その瞳には何も映ってはいないのだろう。


「姉が、自死……?」
 年度初めの申し送りのときに。
 1年生のときの担任の話に、言葉を失った。
「学校には家族構成の変更しか届け出てないけど、三者面談の日程調整でね」

――申し訳ありません。それどころじゃないんです。体調も思わしくないんです――
――書置きもなく娘がいなくなったんです。そっとしておいてください――

「都合がつくなら、いつでもいいと言っても、これの繰り返し。”書置きもなく”で、そういうことかなって」
「頬を腫らしてたっていうのは?」
「……”親子ゲンカで親父に殴られた”しか言わないの」
「このときだけ?」
「一応、目に見える範囲では」
「体育なんかで着替えるじゃないですか」
「ジャージを着ちゃうとわからないでしょ?それに、いつの間にか、着替え終えてるらしいのよ」
「怪しいですね」
「でも、確証はない」
「……ですね」
 
 高校になると、家庭訪問も授業参観も懇談会もない。
 三者面談だって、保護者の都合によっては、本人のみで済ます場合もある。
「歯がゆいね。受援力が育ち切ってないのに、隠すスキルばかり上がっちゃうから」
 申し送り書類に目を落とす元担任と、同じタイミングでため息が出た。


 2年に上がってからは課題提出を始め、授業態度が芳しくない。
 学年初めの「懇親研修」と銘打った、テーマパークへの遠足も欠席。
 それとなく見ていれば、弁当を持ってきている様子もない。
(もう、待てないな)
「これ、今日の課題な。次回の授業で提出ー」
「げ」
「またかよ」
 教室中の非難を浴びながら、一人ひとりの机に配っていく。
(わたり)は未提出がかさんでるぞ。放課後、ちょっと俺んとこまで来い」
 指でトントンと机を叩けば、窓を向いていた顔が戻ってきた。
「待ってるからな」
 不本意そうな顔にニッと笑いかけて。
 そして、視線で念押しをしたあとで、くるりと背中を向けた。
 
 何度声をかけても「今度出します」。
 困ってることがあるのかと聞いても「べつに」。
 そのたびに距離を取って、逃げるように(きびす)を返すノラ猫のようなアイツは、来てくれるだろうか。
 猫にはカツブシやマタタビや、液状おやつなどもあるが、高校二年生男子に刺さるものは何だろう。

(打つ手が限られているのなら、作るしかないよな)

 取りあえず来てくれと祈りながら、教室をあとにした。
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