▲(2~Die Seite der Diamond Lady~)

文字数 17,954文字

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第2章~Die Seite der Diamond Lady~


14…画家は元怪盗

明け方…まだ日が昇る前の空が白み始めた頃、彼女は隣に寝ている夫のうなされる声で目を覚ました。彼は何やら見苦しい物を見せられてるかの様に両手で目を覆う仕草をしてつぶやいてた…
“…やめろ…にげろ…おじょうさん……”
彼女は、そっと夫の頭に触れた…優しく髪を撫でる…そうしてると、彼は落ち着いて、また穏やかな寝息を立て始めた…
自分たちは夫婦になってから、もう1年経とうとしてる。でも夫は、未だ自分の事を“おじょうさん”と呼ぶ。いい加減、名前で呼んでもいい頃のなのに。その癖がなかなか抜けないのは、きっと彼が今でも自分の事を“高嶺の花”と、心のどこかで思ってるせいだろう。それか、正式な夫婦になってないせいかもしれない。自分たちは世間で言う「夫婦になる為のそれらしい事」例えば、式を挙げたり、神様の前で赦されたり、指輪を作ったり…を1つもせず夫婦になった(男女のアレだけは除いて…けれどそれも、彼の正体がばれてしまったあの一夜だけで、彼が“画家の青年”である時の男女のアレは、お嬢さんはまだした事が無いのだった…)なぜならば、自分は夫が“結婚式から盗んで来た”女だからだ。夫は、元怪盗だったから…。そのせいなのか、彼は時々怪盗だった頃のトラウマを夢に見るのだろう。

こうして時々、夫がうなされてるのを見ると、もしかしたら自分たちは、本当は一緒にいてはいけないのではないか、と考えてしまう。自分のせいで夫に精神的な負担が大きくかかっている様に彼女には思われた。もし、その重荷が原因で、彼の心が私から離れたらどうしよう…自分は温室育ちのお嬢様で世渡り出来る力量はあまり持ち合わせていない。彼に愛想を尽かされたら…そう思うと、不安に駆られるのだった。いつか約束した裸婦のモデルを自分から申し出たのも彼を惹きつけておきたい心の現れだったのかもしれない…。
また時々、仕事に見合わない給料を手渡される時があるのも気がかりだった。彼は、“親方が気前が良い”とか、“偶然絵が売れた”とか言うが、どう見ても嘘っぽく、今も自分には内緒で生活費を稼ぐのに危険な怪盗をしてるのでは無いか、と疑っていた。1度だけ冗談半分で“ねえ、もしかして、今も怪盗をしてるんじゃないの?”と尋ねた事があったが、彼は、優しくこう言うだけだった。

“君は何も心配しなくていいんだよ…”

でもその時、お嬢さんにはこう言われたように感じたのだった。

「君は何も知らなくていい……」
……

…そして、お嬢さんのその不安が的中してたかの様な出来事がついに起きる。彼が大粒のダイヤモンドを2粒も隠し持っていたのだ。彼は昔盗んで返せなくなったと言っていたが、信じられなかった。この町に来るまでに、自分たちの貴金属や宝石類は全て手放したはずなのに(しかも足が付く事を心配した怪盗の彼がそう提案した)どうして今更、宝石が出て来るの?でも何よりも、未だ妻である自分に隠し事をされていたことの方がお嬢さんにはショックだった。遠くの町で知り合いもない彼女は耐えられず、遂には集会所で「告解」してしまったのだった。青年にとってはお嬢さんから裏切られた気分だったに違いない。それでも1度目は、集会所の先生に諭され、奥様からも説得されてお嬢さんはアパートに戻ったのだったが…そこで目の当たりにしたのは浮気現場(?)なのだった。お嬢さんは、もう青年の事が分からなくなった。

“いいえ、もしかしたら最初から分かってなかったのかもしれないわ…”

と思うのだった…。


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15…貴方に平穏を…

……

…気が付くと怪盗は、ベッドの上にいた。質素で清潔な白いシーツがひかれたマットの上で、微かに石けんの香りがした。その香りを嗅いだ時…怪盗はなぜか、いつか晴れた日に、窓辺で洗濯物を干していた、お嬢さんの事を思い出した。ベッドは古い木製で、少し体を動かすとキシ…と、音をたてた。横たわったまま目を走らせて、辺りを伺う。枕元にはランプが置かれ、屋根裏部屋の様な所なのか、斜めの天井が近く、立ち上がれば木の梁に手が届きそうだった。小さな窓からは夜明け前の薄明るい空が見えた。
(…そうだっ絵は!?)
何とか体を起こす。川の中でぶつけたのか背中が少し痛む。見ると足元の近くのドアの横に絵が立て掛けてある。その側の梁には、彼の服が丁寧に吊るして干してあった。
その時、ドアが開いた。
“良かった、気がついたのね…”
それは修道女服を着た、お嬢さんだった。

運んで来た温かいスープを脇の台に乗せるとお嬢さんはベッドのふちに腰を下ろした。
“昨日の夜、外が騒がしいから様子を見に来たの。そうしたら、あなたがあの子息と警備の人たちに追いかけられてて…あなたが川に飛び込んで、溺れたのを見て、先生とまだ集会所に残ってた兄2人(集会所の弟子たちの事)に応援を求めたの。あなたの事は兄2人が引き揚げてくれたのよ。大丈夫、兄たちはあなたの事を密告したりしないから…”
“そして君が僕の息を吹き返してくれたのかい?”
“ど、どうしてそれを!?”お嬢さんはみるみる顔が真っ赤になった。
“僕の口に口紅が付いてたから…ありがとう。また君に助けられたね”
“この絵を取り戻すためだったの?どうして、こんな無茶を…!”お嬢さんは微かに震え涙声になった。
“この絵を売ったり譲ったりしない約束だっただろう?ごめん、こうなったのは僕の落ち度なんだ。危うく君の事まで危険に晒すところだった”
“死んじゃたらどうするの…!”お嬢さんの目から涙が溢れた。
“ごめん、本当にごめん…”
ベッドのふちに座ってたお嬢さんに近づくと怪盗はそっと抱き締めた。お嬢さんは彼の腕の中で肩を小刻みに震わせ、嗚咽を漏らし泣いていた。
“…寒いな…”彼は呟いた。
“そうよ”顔をあげて涙を拭きながらお嬢さんは言った。“秋とはいえ川に飛び込んだんだもの。さあ、そのスープを冷めないうちに召し上がって”
“こっちの方が温まる…”
そう言うと怪盗はお嬢さんを抱き締めたままベッドに寝そべった。古いベッドがギシ…と音を立てた。
“ちょ、ちょっと!?ここは神様へのお祈りの場所よ!駄目よ、こんな事したら…!”お嬢さんは慌てて怪盗を押し退けようとする。
“でもここは屋根裏部屋だ。ここまでは神様の目も届かないさ…”そう言うと彼女をベッドに抑え込んだ。優しく…ゆっくり…腕を腰に回して抱き締めて行く…。
“駄目よ…だめったら…”


抗う彼女を他所に彼はゆっくり服を脱がしていく。頭のベールを取り去り…お祈りの為のアクセサリー類を外し…修道服の背中のファスナーを降ろす…下着の細い紐に指をかける頃には彼女も、もう抗うのを止めて彼に身を任せていた。彼の掌が彼女の髪を…バストを…腰を…脚を…滑っていく…お互いにもう触れ合ってない部分がどこにも無くなるくらい肌を重ね合い…唇を重ね合い…やがてお嬢さんは怪盗の三日月が自分の脚の間に忍び込んで来た事を感じていた……
“…あぁ…私は、またあなたに盗まれてしまったのね……ねえ?一体いつになったら私は画家のあなたと結ばれる事が出来るのかしら?”
“君は僕の正体を知ってるし、同じだろう?”彼は彼女のバストにうずめていた顔を上げると苦笑しながらたずねた。“やっぱり“怪盗”の僕は嫌いかい?”
“いいえ、好きよ。どっちもあなたの姿だもの。ただ、私この頃あなたの事が分からなくなるの…あなたはまだ私に隠し事をしてない?お願い。もう私に隠し事や嘘はしないで。楽しい時も…もちろん辛い事や悲しい事も、1人で背負い込もうとしないで…私たちは夫婦でしょう?”そう言うと、お嬢さんの細い人差し指が怪盗の唇に触れて、それは顎を伝って首筋へ流れて、優しく撫でた。
“何も隠してないし、嘘だってついてないよ”
“信じていいのね…?”
“もちろんさ”
そう言うと、安心したお嬢さんは怪盗の顔を優しく手で包み込み、頬に唇を寄せて来た。心を込めて…何度も口づけして…。
“ど、どうしたのさ!?”急にお嬢さんの情熱的なキスを浴びて怪盗はドギマギした。
“ごめんなさい…痛かったでしょう?頬…”
それから再び口づけをし始め、お嬢さんの熱烈なキスを浴びて怪盗はすっかりのぼせてしまった。
“大丈夫、もう充分温まったよ…!”
と言ったのだが
“だめよ。まだ買い物に付き合ってくれなかった分と、ダイヤモンドを隠してた事と、それからサンドイッチを一緒に食べれなかった事と…それから…”


こうして結局、朝日が昇って、雀たちがさえずり出す頃までこんな感じで……


2人は愛し合った…



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[16…“何も知らなくていい…”]

怪盗が『微睡む裸婦』を盗み出し、川で溺れていたのを助け出されてる頃、子息と警備の者たちはギャラリーへと戻っていた。招待客たちは皆、驚いたり絵を見る事が出来ず、がっかりしながら帰った後だった。貴婦人は、居間のソファーに腰を降ろし、頭を抱えていた。子息は励ます様に言った。
“直ぐに警察へ届けを。大丈夫、きっと絵も取り戻せるし、怪盗も捕まるさ”
“あの絵を盗んで行ったのは、やっぱり昔のあの町の怪盗だったのね。いいのよ、もう…あの怪盗が関わる時、私に良い事なんか起きないもの…しかも決まってあなたとの間柄に響くの。もう沢山よ…”
“そんな事無いさ。今度こそあの怪盗を俺が捕まえてやる!怪盗には心当たりがあるんだ。君は警察に届けて、待ってさえいれば良いんだよ”
すると貴婦人はさっと顔を上げて子息にすがった。
“お願い…!どうかまだ警察には知らせないで頂戴。絵の事は、いいの。詳しくは話せないけど…何とかなるから。ありがとう心配してくれて。でも本当に…大丈夫だから…!”
“しかし…”と子息は言いかけたが貴婦人にあまりに切ない目でお願いするので、子息もそれ以上追求は出来なかった。

今夜はこれでパーティーもお開きだった。歩いて近くのホテルに戻りながら子息は考えた。
(一体どう言う事だ…?あの怪盗は間違い無く画家のアイツだろう。自分の絵とは言え、契約書を交わしてる間は一時的にも今の所有権は貴婦人のはず。そもそもなぜアイツは自分の絵を盗んだりする真似を?公開されたらまずいことでもあったのか?モデルがお嬢さんだから、自分の正体に足が付くのを恐れたか…でもあの絵だけでは怪盗だと言うの証拠にはならない…あるいは自分の絵を出し惜しみして…)
子息は1人呟いた。
“ひょっとして、画家のアイツが貴婦人の気を惹こうとしてる…?でもまさか彼女に限って…”
しかし昔、貴婦人が自分の家に素晴らしい腕を持つ画家がいるのだ、と誇らしげに話してるのを聞いた事があった。その画家がアイツで…貴婦人は彼を気に入っていて…。その考えに至った時、フッと子息は鼻で笑った。
“…アイツはこの俺から貴婦人も盗み出そうって事か?いいだろう、ならば俺もお前から、大事な妻であるお嬢さんを奪ってやる…力尽くでもな…!”

子息が帰って行った後、1人きりになったギャラリーの屋敷で彼女は2階の寝室に向かった。ベッドの脇には特大サイズのピザの箱が拡げられていた。そのピザの箱は貴婦人が1階のパーティーを少し抜けて、休憩した際に、寝室前の廊下に立て掛けられていた物だった。何かしら、と寝室に持ち込み開けた時は驚いた。それはまさしく『微睡む裸婦』とそっくりな油絵だった。ただ1つ違うとすれば額が付いてない剥き出しの絵で怪盗が盗んで行った方が本物であるのは明確だった。偽の油絵にはメモが添えられていた。

“この絵は私が、ある画家から依頼を受けてあなたの元へ届けた次第である。本物は私が頂いた。
私腹を肥やす者には、偽物芸術が相応しい…”

このメモを読んだ貴婦人は震えた。メモは恐ろしくて、思わずマッチを擦ると大きな硝子の灰皿の上で燃やしてしまった。ピザの箱の油絵は見た感じでは本物と同じだが、色の深みや人を惹きつけるような魅力はその絵からは全く感じられなかった。画家の青年が言った通り、この偽物は市販の油彩絵具を使用してるせいで色がくすんでいるのだろう。本物を目にした事がある貴婦人にはその違いが明らかだった。でもまだ『微睡む裸婦』の本物を見たことが無ければおそらく騙されるだろう。しかし貴婦人はもう偽物を売りたいとは微塵も思わなかった。もしこの絵が売られた後で怪盗に本物の『微睡む裸婦』を公開されたら自分は本当に贋作売買をする事になってしまう。そう考えると恐ろしく、もうこの絵を売りたいとは思わなかった。
(この偽物を隠さなくては…!でもどこへ…?)
すると貴婦人は、ある場所を思い付いた。ピザの箱は処分して、絵はギャラリーにあった搬送用の別の段ボール箱に詰めると、明日の朝1番にそこに行こうと決心したのだった。


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[17…お嬢さん、囲われる!!!]

女心と秋の空、とはよく言ったもので今の状況はまさにその言葉がぴったりだと画家の青年は思っていた。
今日は日曜日だった。先週の火曜からギャラリーで絵の展示が始まり、青年は朝からわくわくしながら集会所に向かった。あの夜、絵を取り戻し、集会所の屋根裏部屋で自分とお嬢さんはお互いの気持ちを確かめ合って…その後、忙しくて会えなかったが、展覧会は無事開催に至った(『微睡む裸婦』は不在のまま。しかし青年は一向に構わなかった。むしろせいせいした)今日こそギャラリーへお嬢さんをデートに誘うのだ…2人で絵を見て回り…楽しくお喋りして…そして仲直りして…また前の様に楽しく暮らせるのだ…と想像しながら…しかし、その日彼に待ち受けていたのは、想像してたそれとはかけ離れた状況なのだった…。

“一体、どう言う事だ!?きちんと説明してくれ!”
狼狽える青年にお嬢さんはきっぱり言った。
“だから何度も言ってるでしょ。私は“彼の元に”行く事にしたの”
3人しかいない集会所の建物の中でお嬢さんの硬い意志が感じられる声が響いた。彼女は借りていたシスター服と小旅行用鞄1つを脇に抱えながら隣の彼に寄り添うように言った。小旅行用鞄はもちろん“子息が”用意したものだった。(青年の稼ぎでは鞄を買うどころか旅行すら行けない)
“お嬢さんは自分の意志で決めた。もう貴様が口を出せる事じゃない”
“こんな事納得できるか!そうか、お前がお嬢さんを脅し付けたんだな、大方、僕が怪盗だと言う証拠を掴んだ。バラされたく無ければ俺の言うことを聞け、とな!お前、卑怯だぞ!!
すると子息は声高らかに笑うと“俺はそんな事一言も行った覚えはないよ”と嘲り手を振った。
“そうよ、私が彼に頭を下げてお願いしたのよ”
青年はもう悪い夢を見てるとしか思えなかった。いつかの夢の時のようにそろそろ覚めないだろうかと期待した。だが何も起きなかった。これは現実だった。お嬢さんは言った。
“私、もうあなたにはうんざりなの…妻に隠し事をするし…貧乏生活だし…このまま一生あなたの妻として暮らすなんて、考えただけで疲れるわ…もう沢山よ…”ゆっくりと人差し指で頬を突つきながらお嬢さんは、ため息をついた。
そう言うとお嬢さんは、手を胸の辺りに近づけると親指を折り、滑らかに手を閉じて親指を包む仕草をした。
“じゃあね、さよなら、あなた”
“そう言う事だ。最後に何か言いたい事はあるかな、怪盗君?”
子息は馴れ馴れしくお嬢さんの肩に手をかけて寄り添った。お嬢さんは無表情で顔が石のように強張っていたが、かと言って嫌がりもせず、青年とは目も合わせず、遥か遠くを眺めてる様なぼんやりした目をしていた。胸の前で拳を作ったまま…。
“………”
(“その手をどけろ!!”)青年は叫びたかったが黙っていた。
“やれやれ君の彼女への愛情はその程度だったのか。それじゃあ行こうか”
そう言うと肩を組んだまま2人は集会所を出て行った。

臙脂色の絨毯を歩いて扉を出て行く姿を見ていた青年は、拳を握り締め、“今だけは”2人を追いかけない様に自分を抑えるのが精一杯だった…。


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[18…ひょっとして心変わり!?]

それはまるで、チタンのアイスピックでダイヤモンドを粉々に砕かれる事の様な、恐ろしい想像だった。ダイヤモンドは世界一硬いと言われているが、集中的な打撃にはとても弱く、あっさりと砕けてしまう物なのだ。お嬢さんのダイヤモンドの貞操は今まさに最大の危機を迎えていた…!

青年と集会所で別れてから子息とお嬢さんは夕食を共にする為、予約してあったレストランへ行った。その店はこの町で1番美味しくて高価な料理で有名な店だった。子息と今日その店に入るまでお嬢さんは、この店が町の通りにあった事さえ知らなかった。あの小さなアパートで画家の青年と食べる食事だけで彼女は満足で幸せだった。その店の料理は美しい盛り付けで、美味しかったが、夕食後、子息が滞在するホテルにこれから一緒行き、一夜を共にしなければならないと思うと急に料理の味がしなくなってしまったのだった。

夕食後に2人はホテルに行った。それでも子息は久しぶりに再開したお嬢さんに気を使ってか、バスルームに入ろうとした時“ちょっと地下のバーに行って来る”と言うと部屋を出て行ってしまった。その間にお嬢さんは入浴を済ませた。

1時間後、子息は戻って来た。本当にお酒を飲んだらしくほんのり顔がピンク色をしていた。彼は自分も入浴すると言い、“あなたはバーに行かなくてもいいのさ”と、いらない台詞を言って立ち上がろうとするが、足はふらつき、ふざけてるのではないかと思うほど酔っているらしかった。
“駄目よ!それでバスルームに入ったら危ないわ!”
お嬢さんは子息を肩をかして、引きずるようにベッドに運び、子息を寝かせた。サイドテーブルのサーバーからミネラルウォーターを取り出し、栓を開けるとコップに注ぎ、子息に差し出した。彼はそれをくっと、一気に飲み干した。

“…俺は昔、君にひどい事をしようとしたのに、君は優しいな…あの怪盗が君を攫いたくなるのも分かる気がする。あいつとは、俺と会うよりも、もっとたくさん会っていたのだろう?判るよ…君は俺に全く関心がなかったからな…でも君も気づいてたんだろ?俺にも恋人がいたって事に。そうさ、俺にも想い人はいた…町のギャラリーの女性画商を知ってるか?彼女がそうなのさ…本当なら俺たちは結婚するはずだったんだ…でも出来なかった…怪盗がダイヤモンドを盗んでしまったからさ…俺にはもう君しかいないんだ…なあ、もう1度やり直してくれるか…?”
そう言うと子息は眠り込んでしまったのだった…。


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[19…騙し討ち!]

……

どれ位経っただろうか。真夜中だった。お嬢さんがベッドで寝ていると突然、誰かが体の上に馬乗りになった…!それが子息なのだと気づくのに数秒かかった。彼はベッドの上のお嬢さんを仰向けに
するとネグリジェの胸元の裾を掴み、乱暴に引き裂いた!
“何をなさるの!!酔ってるの!?
“俺はお酒が強いのさ。軽く飲んだだけで、さっきのは演技だ!俺はまだ、君の事を信用してる訳じゃない…!婚前交渉は怪盗に邪魔されたし、結婚式まで“契り”はお預けだったが…君は俺とそうなる前に怪盗に攫われてしまった。屋敷に帰ってから、君の事を“モノにしようと”思ってたが…君が心変わりされても困るんでね…!!
子息はネグリジェを毟る様に脱がし、ベッドから逃げようとするお嬢さんを力尽くで引き戻した。ナイトブラの肩ひもを引きずり下ろされ、ショーツも脱がされ、裸にされたお嬢さんは叫んだ!
“やめて!!あなたが愛してるのは今も貴婦人のはずでしょう!!
“そうだ…でも、もうその未来は手に入らない…ならば俺も…あの怪盗から1番大事な物…君の事を奪ってやる…!そして君はこれから表向きは俺の妻として…でも実際は妾としての人生を送れ…!”
子息はお嬢さんを逃さない様、馬乗りになったまま服を脱ぐと素肌を密着させて来た。
お嬢さんはゾッと心が凍りついた!

“嫌っやめて!!助けて…!!あなたー!!

……!!


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[20…お門違い]

“……ま、間に合わなかったか…!?

ホテルの寝室でランプに顔を照らされてる男女。ベッドの上で子息は、全裸のままで寝息を立てていた。怪盗は微かな明かりを頼りにお嬢さんの顔を覗き込んだ。お嬢さんは、ベッドの上で子息の脇に座り込み、魂が抜けたようにぼんやりしていた。腕や脚には子息に力強く押さえられたせいで数か所に痣が出来ていた。

“…ええ…”

次の瞬間、怪盗は素早くベッド脇のランプを掴むと子息の頭めがけて振り下ろそうとする!!

“何してるの!?私は無事って意味よ!!
お嬢さんはなりふり構わず裸で怪盗に飛びついた!!
“僕は“間に合わなかったか?”って聞いたんだ!紛らわしい返事しないでくれよ。危うく、殺人まで犯すところだったじゃないか!!
“ごめんなさい、心配させて。でも私もびっくりして混乱してるの。でもありがとう。私の“ハンドサイン”に気付いてくれて”
お嬢さんは昼間、集会所でやって見せた、親指を包み込む仕草を再現した。
怪盗は先程、ホテルの窓から侵入して来た。レースのカーテンの向こうで目の前に飛び込んで来たのは、今まさに子息とお嬢さんが“している”最中だった。怪盗は気持ち悪くなった!しかしよく見ると子息は、寝ているらしくお嬢さんは、彼の重たい体を退けようとしていた。怪盗が手伝ってお嬢さんは解放された。その愛する妻の第一声が“…やられた…”ではどんな旦那様も理性が吹っ飛び相手を許さないだろう。
“最初は驚いた…と言うよりショックだったよ。でも途中から君は話ながら頬に指を突付いてたし、“さよなら”を言った時の仕草で確信したんだ。君は音楽の先生だし、聾唖(ろうあ)の子の為に手話を勉強してたしね”
“あなたなら気付いてくれると思ってたわ。頬を付くのは「嘘です」、親指をくるむ仕草は「私を助けて」って意味よ。良く出来ました。”
“さあ、急いで帰ろう。君としてはすぐにでもシャワーぐらい浴びたいだろうけどね。子息がいつ目を覚ますかは分からないから”
子息は、穏やかな顔で眠りこけていた。ミネラルウォーターを差し出した際の睡眠薬が効いてるようだった。

お嬢さんは、急いで支度して荷物をまとめた。(鞄は置いていくつもりなので怪盗の持って来たリュックに荷物を詰めた)
怪盗はベッドのサイドテーブルの上に、ある物を置いて2人はホテルの部屋を後にした。

サイドテーブルの上には黒いヴェルヴェットの小袋。その中にはあの2粒のダイヤモンドが入っていた…。


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[21…不協和音]

お嬢さんが急に何故こんな茶番をする事になったのか。それは先週、青年の展覧会が始まる火曜の事だった。
朝、お嬢さんが集会所の周囲を掃除してるとやけに大きな荷物を持った女性がやって来た。お嬢さんはそれが画商の貴婦人だと気付いたが、貴婦人はシスターが絵のモデルのお嬢さんだとは気付かなかった。ベールで顔と髪型が隠れていたせいだ。貴婦人は、話しかけて来た。
“あの…“告解”をしたいのですが…”
“分かりました、どうぞこちらへ…”

お嬢さんは貴婦人を告解室に案内すると貴婦人はゆっくりと話し出した。
“どこからお話すればいいのかしら?そう…私は町のギャラリーで画商の仕事をしてますの。先日、今まで見たことの無い美しい絵に出会いまして、その画家の方に昔、お会いしたことがあって…でもその画家は私の遠い親戚の依頼で“贋作画家”をしていましたの”
それを聞いた時、お嬢さんはその画家が自分の夫の事だとすぐに気が付いた。昔、遠い町に住んでた頃、まだ青年の正体を怪盗だと知らず、駆け落ちする前、彼から“ある富裕層からの注文で大量の絵画を描かされている”と聞いた事があった。その頃、偽の絵画が出回る事件が多く、出処がはっきりせず首謀者は分からないままだったが、お嬢さんは、それはもしかしてあの青年が描いた絵が贋作なのではないかと推察していた。しばらくして彼のその仕事は急になくなった。首謀者が捕まったのはその直後だった。
“最初は画家の方から“絵を貸して頂く”だけでした。ですが私はきっとあの絵の魅惑に酔ってしまったんですわ。この絵を手に入れたい、売ればきっとギャラリーで過去最高額の絵画になるという確信がありました。私はその画家の方に借りた絵の贋作を描くよう言いました。(作者は同じなので複製と言うべきでしょうけど)その画家は同一の物は描けない事と、モデルの奥様と絵を決して売らないと約束してる、だから描けないのだ、とはっきりお断りされましたわ。けれどその画家が昔、贋作画家と言う事を知っていた私は彼に無理に描かせました。正確には脅した、と言っても過言ではありません。それがこの絵なのです。勿論、絵だけがきっかけではありません。先日私、久しぶりに婚約者の彼と再会しましたの。それで考えてしまったんです…もしあの時、ダイヤモンドが盗まれてなかったら今頃は彼と結婚出来てたでしょうね、と。…シスターはご存知ないと思いますが…昔、私が住んでた町には“怪盗”がいましたのよ!そう、小説にしか出てこないあの泥棒。実際に人様の屋敷に忍び込んで物を盗むんですのよ。信じられないかもしれませんが…。その怪盗はある時、私と婚約者の2粒のダイヤモンドを盗みました。でも時期が悪過ぎました。その後、遠い親戚の者が贋作売買をしていた事が発覚して…私の家は信用を失って…婚約まで破棄になって…婚約者の彼とは引き離された上に、彼は別の女性を婚約者としてあてがわれましたわ。挙句の果てにその女性はどうなったと思います…?”

「怪盗に、攫われてしまいましたのよ…!」

それを聞いたお嬢さんは全てを悟った。画商の貴婦人の婚約者は、昔の自分の婚約者、子息だと言う事、怪盗が盗んだダイヤモンドが2人を引き離し、画家の青年と自分はそのダイヤで結婚指輪を作ろうとしてしまった事…。
何とか2人にダイヤモンドを返さなくては…。そう思ったものの、ダイヤモンドは青年が持ってるし、相談したところで彼がすんなり返すと思えなかった。怪盗は子息を嫌っていた。昔の彼の態度、お嬢さんに対して“無礼な振る舞いをした事”を根に持っていて、今でも時々“許せない”と言ってる。お嬢さんは一計を案じた。自分は敢えて子息の元に行き、怪盗に自分を取り戻すように仕向けてダイヤモンドを返すきっかけにしようとしたのだった。お嬢さんは、青年のアパートのポストに手紙を残した。
「私の事を取り戻したいなら、ダイヤモンドを貴婦人に返して。あれは彼女の物よ」
それから数日後、お嬢さんは思い切って子息の元へ行く事に。子息は驚いたが、この町の滞在が終わる月曜日に昔の町に一緒に帰ろう、と言う約束となった。お嬢さんが子息の元に行ったのはこんな経緯なのだった。

前日は、さほど飲んでもいないし、そもそも自分は酒に強い方だと思ってた子息だったが、彼が起きたのはホテルのチェックアウトの2時間程前だった。彼は昨夜の事を思い出し、あと一歩でお嬢さんと“事を済ませられる”と思ったが、体が徐々に言う事を利かなくなり眠り込んでしまった。きっと自分は睡眠薬を盛られたのだろう…そしてサイドテーブルのヴェルヴェットの小袋を見た時、全てを悟った。
“そうか…あの2人、最初からグルだったのか…”
彼は、小袋の中を開けて見た。中から出てきたのは朝日を浴びてキラキラと輝く2粒のダイヤモンドだった。小袋の中には、小さな紙片も入っていた。その昔、自分と婚約者である貴婦人と宝石店で指輪のデザインを選んだ日、2人の指輪のサイズを書いたメモ…。
“こんな事で…借りを返したつもりなのか?あの盗人は…こんな…小さな宝石で…!”
…しかし言葉とは裏腹に彼の目の前の景色は涙で歪んでいたのだった…。


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[22…演奏依頼]

ホテルをチェックアウトし、子息が向かったのは貴婦人のギャラリーだった。ギャラリーでは画家の青年の展示会の期間だった。『微睡む裸婦』は結局、公開はおろか展示も中止となってしまったが展示会にはポツポツと人がやって来ていて上々だった。新米画家だが彼の絵は好評で、子息は初めて怪盗である彼の別の側面を見た様に思った。
貴婦人は子息を歓迎した。客間へ案内し、一緒にお茶を飲んだ。子息は今日でまた元の遠い町へ帰るのだと聞くと貴婦人は寂しそうに惜しむのだった。
“それと帰ったら…怪盗に拉致されたあのお嬢さんとの婚約は…正式に破棄するつもりだ。俺もいつまでも過去にこだわってる訳には行かないしな”
“あら、あなたにもいよいよ“良い人”が見付かったのかしらね…?”微笑みながら応じた貴婦人だったが心の中は背負ってしまった罪と、もう子息は過去を振り返らず、自分の元から去って行ってしまう寂しさで、胸が張り裂けそうだった…。
“そう言う事になるんだろうな。実はさ…昨日の夜、俺の元に怪盗が来たんだ。あいつは昔と変わらず俺の“貴重品”を性懲りもなく盗んでいきやがったんだ…!(貴婦人の手前“何を盗まれたか”は、彼は言わなかった)けれど今回はアイツは“お土産”を残していったよ”
“お土産?”
“これで罪滅ぼしをしたつもりか?、と俺は思ったけどな。でもこの宝石は俺の物だけじゃない、君の物でもある。だから正直に言おうと思ったんだ”
そう言うと子息は、あの2粒のダイヤモンドを取り出して貴婦人に見せた。貴婦人は驚いた…!
“これは…!怪盗はこれをあなたに…?”
“そうさ、アイツは俺に正体を知られたから、その口止め料といったところか?しかしアイツが盗んだ物の数を考えれば、これだけじゃ到底罪は償えないだろうけど…。けれど少なくともこの宝石は、君の信用を取り戻す位の価値はある。どうかな?これから俺と一緒にあの町へ帰ってみないか?”
思ってもない申し出に貴婦人は驚いたが、しかし自分はあの画家の青年に“複製”を描かせてしまった罪で悩んでいた。子息は、黙っていれば独り占めすることもできたあの2粒のダイヤモンドの事を正直に自分に話してくれたのだ。貴婦人も自分の罪を正直に話すことにした。
“ありがとう。でも私はあなたに相応しい女性か自信が無いわ…実は私は、あの画家の青年に“複製”を描かせてそれを売ろうとしたのよ。彼は見所があるから私はそれを利用して宝石を…そう、あなたとの婚約指輪を作るはずだったあのダイヤモンドと同程度の価値のあるものを手に入れたかったの…あなたともう1度やり直したいと思って…私ったら、なんて愚かだったのかしら。ねえ、こんな私にはあなたの隣にいられる資格はあるのかしら…あなたはどう思う…?”
子息はそれを聞いて正直、心からほっとしたのだった。彼女は、青年に入れ込んでた訳ではない、彼の絵に魅了されてただけなのだ。それに未だ自分への思いを大切にしてくれていた事を嬉しく思った。子息は答えた。
“勿論だ、今まで君以上にの素敵なパートナーはいなかったさ。これからだって、きっとそうさ…どうだろう?これからは俺と一緒に人生を歩いてみないか?”
“ええ、私で良ければ喜んで…!”
2人はほぼ同時にソファーから立ち上がった。お互いに歩み寄って、寄り添うと今まで埋められなかった時間を両腕に包み込む様に…

抱きしめ合った…。
……


それから数日後。画家の青年の展示会の最終日になった。貴婦人は、けじめをつけたいからこの展示会を終わらせてから町に帰っても良いか子息に聞いた。子息も承諾してもう少し滞在を延ばした。
夕方、片付けも終わりギャラリーは少しの間、閉館する案内を掲げると、2人は集会所へ歩いて行った。長椅子が並べられてる建物の中には、画家の青年とシスター(お嬢さん)、それと先生がいた。外からは秋の夕陽の優しいオレンジ色の光が差し込み、ステンドグラスとの色と調和して集会所の中を優しく包んでいた。貴婦人は話しかけた。
“展示会お疲れ様でした。あとの事はスタッフに任せてます。お借りした絵も明日にはアパートに届けさせますわ。それと…今回は不躾なお願いをしてしまって…言葉が出ませんわ。なんとお詫びしたら…”貴婦人が言葉に詰まると青年は話した。
“貴重な機会を頂き感謝してます。次もよろしくお願い致します。ただ、あの絵だけはもう表には出しませんよ。貸すこともしません。もうあの絵は僕だけの絵ではありませんから…”
子息はお嬢さんの方に1歩近づいたが、青年はすかさずお嬢さんの前に立ち塞がった。
“何ですか?要件なら僕が伺います。申し訳ありませんが彼女は今、“ある出来事のせい”で“男性恐怖症”なんです。話なら僕が聞きます”
(男性恐怖症ですって!?大袈裟だわ!)あまりに青年が格好つけるのでお嬢さんは可笑しくて、思わず吹き出しそうになった。しかし、ここは夫の行為に甘えて演技を合わせることにした。ちらりと子息を見ると、そっと目をそらす仕草をした。
“あなたには迷惑をかけた…本当にすまなかった!それだけは最後に伝えたくて…!!
お嬢さんは顔を上げづらそうだったが、小さくコクコクと頷いたのだった。

子息と貴婦人は、結婚する約束をした事を先生に伝えた。町に帰る前に内々の式を挙げたいので週末の集会所の予約に来たのだった。子息は青年に聞いてみた。
“お嬢さんが吹くフルートは集会所でも評判の様だな。もし良かったら俺たちの式の時に演奏してくれないか…?”
“…君は、どうだい?”青年はお嬢さんに聞いた。
“ええ、祝福を込めて演奏しますわ”

子息と貴婦人は帰って行った。青年とお嬢さんもアパートに帰ろうとした時だった。2人は先生に呼び止められた。
“待ちなさい。君たちに、ちょっと見せたいものがあるから”
そう言うと2人を集会所の地下の方へ案内した…。


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23…知らされた塔の秘密

ランプを持った先生の後ろに2人は付いていった。地下への階段は、関係者用のドアと食堂の部屋までの廊下にあるドアから入った。普段は鍵がかかっているので、お嬢さんもそのドアをくぐるのは初めてだった。
地下への石段を降りると、少し広くなっていて石が敷き詰められた床と煉瓦の壁の薄暗い部屋だった。目の前の壁には、右に小さな戸棚と、真ん中に頑丈そうな仕掛けの鍵がついたドアと、その左には人が1人分立ったままで入れそうなくぼみ、その中の上の方には8本の長さの異なる管があり、まるで鉄琴が吊るされているかの様だった。上の階に、丁度オルガンが設置されているのでオルガンと何か関係があるのだろうか…と青年は思った。
すると先生は、傍らの戸棚からフルートを取り出し、それをお嬢さんへ手渡した。
“さあ、そのくぼみの中に立ってこのフルートで曲を吹いてご覧なさい。曲名は、△△△△△△だ。但し、この先ここで演奏した曲名を他の者に漏らしてはならないよ。このドアは“音で開ける鍵”なんだよ。まあ、実際吹いてみればわかるよ”
“音で開ける鍵…?!
曲名は小さな声だったので青年には分からなかった。知っても音楽には詳しくないので彼には分からなかったがお嬢さんは曲を知ってる様だった。彼女は、くぼみの中に立ってフルートを吹いてみた。
薄暗い地下の部屋にフルートの柔らかな音色が響いた。すると隣のドアの仲が何やらガチャガチャ…小さな音を立て始めた。驚いたお嬢さんがフルートを止めると、鍵も音を止めた。
“気にせずそのまま続けなさい”
先生に促されてお嬢さんはさらにフルートを吹き続けた。やがてドアが“ガシャン”と音が立ててガチャガチャという音も止んだ。
先生はドアを開けて2人を中へ招き入れた。

ドアの向こうを見た2人は驚いた。そこは小さな部屋で、外の明かりを取り込む窓が1つあり、夕陽のオレンジ色が微かに差し込んでいた。そのせいもあるだろうが部屋の中にはあちこちに貴金属や宝石が溢れていた。
“これらはその昔、裁判で証拠品となったり、町の役人たちが没収した物だ。残念ながらここにあるのは、ほとんど偽物だがね。町に犯罪の博物館があるだろう。あそこは歴史上、有名な裁判所だったんだ。この集会所の地下は当時の犯罪の証拠品保管用の倉庫として使われていたんだよ”
ふと、傍らを見るとこの前、青年が描いた『(複製品の)微睡む裸婦』が立てかけてあった。青年が盗みをする時に使った鳥のマスクもあった。
“これは貴婦人が告解の時に持ち込んだものよ。ここに保管してあったのね”お嬢さんは言った。
“なるほど町の秩序を守る為に誰にも見つからない場所に隠す必要があったのか”青年も納得した。
“そのマスクはここで保管する物じゃない。持ち帰りなさい。これは“ただの土産物”なのだから”先生は言った。
青年がマスクを被って手持ち無沙汰にしてると、
部屋の奥に螺旋階段が見えた。そういえばこの集会所は、塔の上に行く為の階段を見たことが無かった。ここから昇るのか…。
“せっかくだから2人で塔の上を見学して来なさい。なかなか絶景ですぞ。たまには風通しも必要なのだが、私はもうこの様に年なのでな。若い2人にお願いしても良いかな?”
2人は螺旋階段から塔に上がって行った。


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24…大きな塔の屋根の上で

どこまでも同じ彫刻の続く螺旋階段でこのまま辿り着けないのでは、と心配になる頃ようやく屋上に着いた。
小さな出入り口から外に出て見ると見張り場として石を敷き詰めた場所が少しあり、そこから塔の周りを1周出来るように小さな通路が設けられていた。手摺りは細めの鉄の棒で出来た物が、壁と通路に沿って添えられていたが、所々で錆びていたり、割れたりしてる部分もあって頼りない感じだった。
景色がとても良く、夕陽が向こうの丘へ沈んで行く綺麗な時間だった。時折、塔の上を突風が吹き付けるので2人は見張り場の石の床に並んで座った。狭かったのでお互いの肩が軽く触れ合った。
“あ、ごめん…”
“え、何が?”
“肩がぶつかったから”
“別に、いいのよ”
しばらくは2人は黙って景色を見ていたがやがて…
“あの…!”と同時に声をかけた。
“え、なあに?”
“君こそどうぞ”
“私は、大した事じゃ…あなたは?”
“僕も特には。景色…きれいだなって…”
“私も。あのね、私…あなたにちゃんと謝らなきゃと思って”
“君が?どうして!?
“私、あなたの事をよく分かってあげて無かったわ。あなたの事を誤解してたし。今回の事であなたが私をどのくらい大切に思っていたか良くわかったの。本当にごめんなさい…”
“謝らないでくれ!君は何も悪くない。元はと言えば僕が悪かったんだ。昔、盗んだ宝石で君へ結婚指輪を作ろうとしたりして。そんな事したって君が喜ぶわけ無いのに。でも早く君に結婚指輪を渡したかったんだ。君が他の奴に取られてしまいそうで怖かったんだ…僕は、本当は臆病者なのさ”
“そんな事はないわ。あなたは優しくて、思いやりがあって、いざとなれば自分の事は顧みず、私を守ってくれる勇気ある人よ…でも、もう無茶な事はしないでね…”
お嬢さんは、青年の肩にそっと頭をのせた。青年はお嬢さんの肩をそっと抱き寄せた。ふと…2人は目が合った。お嬢さんの瞳は深く、もっと覗き込もうと顔を寄せたが、自分は鳥のマスクを被ったままだった事に気付いた。あと少しでお嬢さんの顔を突きそうになった。マスクを外し、見つめ合った時、青年は何だか目眩がした…何も考えられなくなった…。

夕陽が丘の向こうに沈んで行った…景色がまた少し薄暗くなった…

景色の色と合わせる様に…
2人の影は…重なり合った…

……


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25…結婚演奏会

日が沈み、町の景色の中に外灯の明かりがあちこちに見え始める頃、2人は塔から降りてきた。集会所の会場には先生の奥さんがいました。
“お帰りなさい。景色はどうでした?あら、修道服が埃で汚れてしまったわね。もう何年も掃除して無いから…あとで着替えなさい。実はね…全然降りて来ないから上で足がすくんで立ち往生してるんじゃないかって心配してたのよ”
“えっと、はい…降りる時はちょっと緊張して。でも戻って来れました”
お嬢さんは塔の上での事を思い出したのか頬を染めてる。青年はまた鳥のマスクを付けてたので先生の奥さんには分からなかったが彼とて同じだった。
今夜は奥さんのオルガンの日だった。調子の良い時はこうしてオルガンを弾いているのだ。ほのかな夜の明かりとオルガンの柔らかな音調が秋の夜を包み込んで行く。そういえば…ここ最近、アパートにも微かにオルガンの音が聞こえていたなぁ…と青年は思った。
その理由を10日後、青年とお嬢さんは知る事になりました。仲直りした彼らも近い内に式を挙げるでしょう。その時は、普段フルートを演奏してくれてるお嬢さんに代わって祝福の音楽を奏でたい…と言う先生の奥さんの密かな計画なのでした。


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26,…赦しの音色

それから数日後、子息と貴婦人は式を挙げたのでした。次の週には青年とお嬢さんも式を挙げて(結婚指輪は用意できてなかったのですが、2人の気持ちがあればしばらく指輪が用意出来なくても良いじゃないの、と言うお嬢さんに青年は説得された)
2人は正式な夫婦になりました。

式が終わって、市庁舎に提出する届けを書き終わった時、その書類をしみじみ眺めると青年はお嬢さんの隣にやって来て言いました。
“これから、よろしく。僕の…○○○○○○”
青年はお嬢さんの耳元に唇を近づけるとまるでフルートを吹くように、そっと耳打ちしました。それは小さく、周りにいる誰もが気づかない程の音だったが、お嬢さんの耳には確かに届いたのでした。
“え…!?ねえ…もしかして…あなた今…!”
照れくさかったのか青年は口元を抑え、頬を染めていた。
お嬢さんは、余りに嬉しくて、胸がいっぱいになって、涙が頬を伝ったのでした……
なぜなら、彼が初めて自分の事を名前で呼んでくれたのだから…!
お嬢さんにはそれはまるで神様から、夫婦になる事を赦された音色のように聞こえたのでした……。


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〜エピローグ〜

結婚式を挙げてから少し経った頃、青年とお嬢さんのアパートに、通りに店を構えているあの貴金属細工店の店主がやって来ました。
“あなた方の結婚指輪を作って欲しいと、仰せつかりました”
“しかし、僕たちは宝石も持っていませんし、そのようなお金もありません。何かの間違いでは?”
すると店主は依頼して来た男の名を言いました。それはあの子息が依頼して来た事でした。青年は彼から預かったと言う手紙と黒い小さな箱を渡されました。
手紙には、貴婦人が青年に対して取った態度(脅して複製を描かせた事)を赦して欲しい事と、そのお詫びとしてダイヤモンドの1粒を青年とお嬢さんに譲る事が書いてありました。
(けれど君はプライドが高いから、俺が結婚指輪の代金を立て替えたとしても断ってしまうだろう。ダイヤモンドは3粒に分けて、2粒を結婚指輪に、あとの1粒を指輪の作成費として充てると良い、とも書いてあったのでした)

“全く!お節介な奴だなあー”
“でも貴婦人と上手く行って良かったわね”
…とはいえ、ダイヤモンドの譲渡は子息からの和解も意味していたので、青年はこの厚意を受ける事にしたのでした。

指輪のデザインは2人で決めたものにしました。…と言っても彼らは結婚指輪ではなく、“結婚イヤーカフス”でした。1組のイヤーカフスを作り、2人で分け合って片方ずつ付けることにしたのです。これはお互いに都合が良かったのです。お嬢さんはフルートを吹く際、楽器を傷付けてしまうと気を使わずに済みますし、画家の青年も油絵具で指輪が汚れるのを気にしなくて済むからです。

それから後に、ギャラリーでは1枚の絵が話題となりました。それは青年の新作の油絵で、あの『微睡む裸婦』以上に、色使いに深みのある、魅力溢れる絵画に仕上ってました。

今度こそ、表に堂々と出せる絵として愛する妻を題材にした作品を画家の青年は仕上げたのでした。

絵の題名は…『微笑む妻』だそうです……。




《 終 》

***
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