▲(1~Die Seite der Mondsichel~)

文字数 22,834文字

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第1章~Die Seite der Mondsichel~


〜プロローグ〜

その男は暗闇で息を潜めていた…。耳を澄ますと遠くで屋敷の護衛たちの声が聞こえる。
…そっちにいたか?
いや、いない…!
探せ、まだ近くにいるはずだ…
護衛の声が遠のくと男は駆け出した。
“捕まえるならやってみろ、贅沢に身を沈めた富裕層ども…!”彼にとって護衛の動きなど子供の鬼ごっこの様なものだ。優れた視力で護衛たちの動きを読み、猫のような身のこなしで屋根の上を伝って敷地の出口へと駆け抜けて行く。
ふと、ある寝室の窓の前をよぎった時だった。部屋の中には1組の男女がいた。それは彼の知ってる人物だった。男の方は女性の婚約者で彼が時折、嫉妬を向けている男だった。女性の方は彼にとって特別な存在だった。そして彼にとって“手に入れたい”女性でもあった。
その女性は今、護衛たちから逃げる途中のこの男に憧れを抱いている。しかしその事を知ってるのは彼の方だけだった。なぜなら彼女は今、護衛たちから逃げてるこの男の正体を知らないからだ。しかもそれが彼女の大切な“画家の友人”だと言うことも…部屋の中で何をしてるのか、気を取られては捕まってしまう。だが部屋からただならぬ雰囲気を察した。
男と女は揉み合いになった。力の弱い彼女はあっさりねじ伏せられ、あろう事か婚約者は明らかに“無礼な”振る舞いをし始めた。その瞬間、彼の中で何かが弾け、隣の部屋の窓から屋敷に入ると寝室へ駆け込んだ。逃げる途中で人助けをするなど自分の首を締めるようなものだ。だがその光景は到底彼が無視して見てみぬ振りが出来るものではなかった。
女性に襲い掛かろうとする男を殴り飛ばし、彼女を逃がそうとする。しかし自分は部屋に駆け付けた護衛たちに捕まってしまった…!
“この極悪人…、顔を見せろ!”
婚約者の男が仮面を剥がそうとする。クソッやめろ、彼女にだけは正体を知られたくない…!すると
婚約者の男は仮面を剥がすのはやめた。代わりに女性の方に振り向くと、いつの間にか鋭いナイフを手にしており、彼女の服を乱暴に引き裂いた!
女性は悲鳴をあげて必死にやめる様に泣き叫ぶが男は容赦しなかった。とうとう彼女は婚約者や護衛の男たち、そして“怪盗”の目の前であられもない姿にされた。“お嬢さん”は嗚咽しながら呟いた…。
“私には、もう差し上げられる物がありません…
さあ、どうぞ…お好きになさって…”
何故、そんな事を言う!?怪盗は怒鳴った。貴女は誇り高い女性だった筈だ。だから僕との取引に応じたのだろう!しかしお嬢さんは、虚ろな目で怪盗を見つめるだけだった。婚約者や護衛の男たちのなすがままにされて……。

“やめろ……!!

………そこで目が覚めたのだった…。

土曜の昼食はお嬢さん特製のフライドライスだ。
キッチンでフライパンを叩いてる音が聞こえる。画家の青年は土曜は寝坊している。平日は仕事があるし、日曜の朝はお祈りで集会所に行く為、早起きしなくてはならない。金曜の夜は夜更しをして絵を描きたいからだ。夜の方が静かで絵を描くのに集中して作業出来るからだ。
ゆっくり起き上がり、シャワーを浴びて髭剃りを済ませてから居間の椅子に座った。
“おはよう。大丈夫?明け方にうなされてた様だけど…また“昔”の夢を見たの?”
“いいや、ちょっと昨日は作業を張り切り過ぎかなぁ?ごめん、心配させたね”
まさか朝っぱらからお嬢さんのヌードの夢を見たとは言えない…上手く誤魔化して朝食(昼食?)のフライドライスを2人で食べる。これは一緒に暮らす様になってから始めた習慣だ。お嬢さんは学校で音楽を教えている。土日が休みなのだが、青年は平日の夕方に仕事に出掛けるので大抵2人が一緒にいられるのは土曜のお昼だった。食事をしながら青年はお嬢さんに話し掛けた。
“明日の朝のお祈りの後だけど、少し先生と君と3人で話をしたいんだけど、いいかい?”
“ええ、いいけど。何の話?”
“まあ、それは明日話すよ”
“じゃあ明日の昼食はサンドイッチにするわね。後で買い物に行って来る。貴方もたまには一緒にどう?”
“いや僕は午後ちょっと出掛ける。仕事じゃ無いから夕方には戻るよ”
“あら、それは残念…☆”

食事が終わってからお嬢さんが市場に出かける支度をしていた時だった。青年はお嬢さんに話しかけた。
“あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど…”
そう言うと彼はポケットから指輪を取り出した。指輪は3種類あり、赤、青、緑の小さな硝子玉がはまっていた。それは子どもが“ごっこ遊び”でよく使う様な玩具の指輪だった。
“例えばだけどさ…もし急にお金に余裕が出来て、もし手元に手頃な宝石があって、君に指輪を作りたいなあと思った時に…あー“もしも”の話だよ。今すぐには無理だけど…せめて君の指のサイズ位は知っておきたいなと思って…この中でどれがピッタリ合いそうかな?”
“なあに?急に指輪なんて”ふふっと笑うと1つずつ指にはめて確かめて行く。
“そうね、この赤い宝石の指輪かしら”
ビンゴ!、青年は心の中でガッツポーズを決めた。普段から彼女の指を眺めていたのでサイズは分かっていた。でも指輪を作るチャンスは1回きりだ。失敗は許されない。ばれてサプライズが失敗するリスクはあったがサイズは絶対間違えたくなかった。
“でも、もし指輪を作る時は私、あなたと一緒に選びたいわ。何年かかるか分からないけど…それに、せっかく指輪があってもあまりはめていられないと思う…だってフルートを扱うもの。こう、ネックレスにして首にかけて持ち歩けばいいのかしらね…”
“それじゃあ意味が無いんだよ。君の指に指輪がないと…”
“なあに?それって私があなた以外の人と浮気するって疑っているのかしら”
言葉は不満そうだがお嬢さんの顔はいたずらっ子のように微笑んでる。
“違うよ。女性が外を歩いてる時に、その女性の薬指に指輪がなかったら、下心を持った男が近づいて来ないとも限らないだろう?君はちょっと無防備過ぎるよ”
“そんな人が来てもお断りするわよ。ねえ、それよりもこの指輪、玩具だけど結構可愛いわねー。借りてってもいいかしら?指輪をはめないと、どこかのヤキモチな画家さんがサンドイッチの材料も買い出しに行かせてくれそうにないしね☆”
“どうぞ、ご自由に”
“ふふっありがとう”
そう言うと、お嬢さんは赤い硝子玉のはまった指輪を左手の薬指にはめた。買い物籠を持って、帽子を被るとスカートの裾をひるがえして嬉しそうに出かけて行った。

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01…シスターは元妻

よく晴れた日曜の朝だった。青年はお祈りをする為、彼のアパートから歩いて10分程の所にある集会所に向かった。朝日がキラキラ輝いて空気が心地よく気持ち良い朝だが車道脇の歩道を歩きながら青年は少し溜息をついた。
“この前までは…君とこんなわずかな距離を歩くのも、とても楽しかったのに…”
彼は1人で歩道をゆっくり歩いて行く。集会所の前にやって来ると親子連れやご隠居生活の年配の老夫婦、青年と同世代の連れ合いが見られた。
その集会所は、町で一番大きな塔が有る事で有名だった。高さは60m程だと聞いた事がある。集会所の前はちょっとした広場になっていて石畳を敷き詰めたその一角ではコーヒーやホットドックの屋台が店を広げている。そしてその集会所と建物に沿うように立つ塔の向こうには幅の広い大きな川が流れている。流れは緩やかで水面が朝日を反射し、輝きながらゆったり流れている。
青年は屋台でコーヒーを一杯頼み立ち飲みした。
“おはようございます。良い天気ですね”
その集会所のシスターはお祈りにやって来た人々に爽やかな声で挨拶をしている。最近この集会所で働き始めたと言う彼女はお祈りに来てくれた子ども達に飴玉を配っていた。青年は彼女に近づいた。
“僕にも1つくれないか?”
“あら、駄目よ。これはお子様限定なの。あなたは見たところ分別のある“立派な大人に”見えますけど。違うのかしらね?”シスターはくすっと微笑んだ。
“残念、ばれたか”
塔の鐘が鳴り響いて9時を知らせる。人々は集会所の中に集まった。それからここの館長である先生の話が始まった。彼は長くこの仕事をしていて彼の妻もシスターだ。この集会所の裏の方に自宅があり一緒に暮らしているそうだ。先生の話が終わるとフルートの演奏が始まった。先程、子ども達に飴玉を配っていたあのシスターだった。オルガンもあるのだがそれは先生の奥さんの方が得意だった。最近はお年を召したので時々お休みして、代わりに新米シスターである彼女が音楽の演奏をしているのだ。
音楽の演奏が終わるとお祈りの時間も終わる。人々はそれぞれの家に帰って行った。青年は集会所の建物の中に何列も並べられてる長椅子の端の方に座ったまま高い天井を眺めていた。
“どうかされましたか?”
先程のシスターが声をかけて来た。青年は天井を眺めたまま答えた。
“…胸が苦しいのです…”
“では、こちらへどうぞ”
そう言うと告解室に青年を案内した。狭く頑丈な造りの木製の小部屋だった。格子の向こうでシスターは壁の方を向いて座った。青年も座ると格子の向こうのシスターに話しかけた。
“…君は、まだ“あの事”を怒ってるのかい?”
“申し訳ありませんが、プライベートな事に関してはお答えいたしかねます”シスターは壁の方に向いたまま答えた。
“先週の日曜もそう答えたよね?お陰で僕は2時間も君と同じ言葉を交わし続ける羽目になったよ。なあ、頼むから、そろそろ家に戻って来ておくれよ”
“私は神様にお使えする者です。ですからここが私の家ですわ”
“そんな冗談、やめてくれよ……”
“あら、元はと言えばあなたが悪いのよ!”急に青年の方に振り向くとシスターは尖った調子で話し始めた。
“あなたは私と結婚する時、“もう2度と怪盗にはならない”と約束したじゃない。けれど結局、表向きには私を騙してて結婚してからもずっと盗みをしていたのでしょう!?
“違う、あのダイヤモンドは…!持ち主にはもう返せなくなった物で…!”青年の言葉は無視してシスターは続ける。
“しかも、私が家を出て行った途端に、違う女の人をあのアパートに呼び込んだりして。綺麗な人よねー、しかも画商だなんて。あなたとは本当にとってもお似合いよね!私の事は本当は前から邪魔だって思っていたのでしょう!?
“そんなの言い掛かりだ!。貴婦人の事は仕事のパートナーで僕を高く評価してくれてるんだ。パトロン(=芸術家等を金銭的に援助する人の事)みたいなもので、ないがしろにはできないだろ!?
“……でも、キスしてたわ…!”シスターの目には光る物がちらつく。
“あれは…!!”青年は言葉に詰まった。あの時は、事故みたいなものだ。それに“実際は”キスはしてはいない。彼が言い訳を話そうとするがシスターは素早く立ち上がり、肩越しに振り向くと冷たく言い放った。
“あなたの言い訳なんか聞きたくないわ。どうぞ、あの画商の貴婦人と仲良く暮らして下さいな!”
そう言うと告解室からさっと出て行ってしまい、集会所関係者しか入れない奥のドアの向こうへ行ってしまった。青年はため息をつき、告解室からうなだれて出ると、重い足取りでアパートへと帰って行ったのだった。

一体、どうしてお嬢さんが集会所のシスターとして働く事になったのか。それは、2週間前の“ある出来事”がきっかけだった…。


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02…君に結婚指輪を…

青年には1つの計画があった。お嬢さんとこの町でこうして暮らし始めてから、そろそろ1年経とうとしていた。
彼は昔、ここから遠くの大きな町で泥棒をしていた。その町では有名な怪盗だった。その町は貧富の差が激しく、いつの頃か…彼自身もう忘れてしまったが富裕層から貴金属や宝石類を巻き上げて貧しい人々にばら撒くようになった。ある時、青年の住む地区に富裕層の者である“お嬢さん”(今は彼にとって一番の宝石であり愛妻)が迷い込み、柄の悪い連中に攫われそうになった所を彼が助け、2人は仲良くなった。色々あって怪盗はお嬢さんを文字通り“盗み出して”その町から逃げて来たのだった。
お互い愛し合っていたが、青年がお嬢さんに求婚した際、彼女は1つだけ条件を出した。
“この先、2度と危険な“怪盗”にならないと、どうか約束して頂戴。そうすれば正式に結婚しますわ”
これは容易い事だった。昔の町はお嬢さんの政略結婚が御破算になってからというもの町の体制も徐々に変わりつつあり、自分はもう“怪盗”と言う裏の顔は必要無いのだと悟った。それに自分はお嬢さんの人生を大きく変えてしまったと言う責任も感じていた。自由になったのならば、これからは彼女を愛し、幸せにして行く事に人生を費やしたいと思った。
それから2人でこの小さなアパートで暮らし始めたのだが、日々の生活やお互い仕事も見つけて結構忙しく過ごしていた為、あっという間に1年近く経ってしまった。

ある時、玄関先で隣室に住む年配の女性と会って挨拶をした時の事…
“ねえ、ちょっと聞きたいのだけど…一緒に暮らしてるあの娘さん、貴方とはどういったご関係なのかしら?”
“僕の妻ですよ”
“あらぁそうなの〜、指輪をしてないからてっきり“事情が有る女性”なのかと思って。ふふふ、ごめんなさいね〜。私の知り合いの娘さんに誰か良いお相手いないか聞かれちゃって。あなたが独身だったらと思って声をかけてみたのよ。でもあんな可愛らしいお嫁さんがいるなら他を当たらなくてはね〜”
何気ない会話だったが、青年はふと気付いた…
(もしかして、お嬢さんの薬指に指輪が無い事で他の男たちに誤解を与えているのでは…?)
今まで特に気にしなかったが、彼女は学校で教師をしている。当然、様々な人との交流があるだろう。そんな中、若くて綺麗で独身(と勘違いされて)下心を持った男が近づかないとも限らない…。青年は何だか急に落ち着かなくなって来た。彼女に結婚指輪を与えなくては。しかも出来るだけ早く…!
しかし、今の自分にはとても結婚指輪を買うような余裕はなかった。怪盗の頃ならば、それこそ一晩で指輪100個作れるぐらいの宝石を盗む事も出来ただろうが。しかしそれではお嬢さんとの約束を破る事になってしまう。青年は呟いた…。
“いよいよ、“あれ”を使う時が来たな…”

怪盗をしていた頃の事。ある晩、彼は黒いヴェルヴェットの小袋を1つ盗み出した。そこには2粒のダイヤモンドが入っていて、中には一緒に小さな紙片が入っていた。メモにはイニシャルと指輪のサイズが書かれていた。おそらく富裕層の夫婦が結婚指輪を注文する予定だったのだろう。
いつものように怪盗は盗んだ宝石、貴金属類を裏ルートで換金した。しかしあの2粒のダイヤモンドだけはなぜかその気が起きなかった。心の何処かで返すべきだ、と思っていたせいかもしれない。けれど一方で、彼らだけが幸せになって行くのを受け入れられない気持ちもあった。怪盗は何ヶ月もあのダイヤを手元に持っていた。それからお嬢さんと出会って、彼女を子息の元から奪い取り逃亡する少し前、1度だけ元の持ち主にダイヤを返しに行った事があった。しかし屋敷は既に住人たちが引っ越してしまった後だった為、結局、返せなかった。捨てるのも惜しく、何かの役に立つだろうとお嬢さんをデッサンしたスケッチブックと共に持ち逃げして来たのだった。しばらくは、あのダイヤの事はすっかり忘れていたが、指輪の事を考えた時、思い出したのだった。
(考えて見れば、もうあの町に戻ることはないし、あのダイヤの持ち主の夫婦も、盗まれた宝石の事なんかさっさと諦めて、別の指輪を作って今頃は幸せに暮らしてるのだろうな…)
そう考えると、あのダイヤモンドでお嬢さんとの結婚指輪を作ろうと言う考えに至ったのだった。


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03…“私と宝石、どちらが大切?”

土曜日の午後。お嬢さんが市場に買い物へ出かけて行ってしまうと、青年は部屋の隅に向かった。ダクト穴の蓋を開けると、中から黒い小袋を取り出した。怪盗の頃の癖で貴重品を隠す癖が未だ抜けてなかった。最も、お嬢さんにダイヤを見られたくないのが一番の理由だった。生活するのに手一杯な筈なのに、もしこんな宝石を青年が持っているのを見たら、盗んだ物だと誤解されてしまうだろう。
そのダイヤを懐にしまうと青年は出かけた。アパートを出て、レンガを敷き詰めた通りを歩いて行くと、一軒の店にやって来た。小さな宝石店で貴金属細工の職人が営む店だった。しかし土曜は休みで店は閉まっていた。仕方なく青年は諦め、月曜にまた来ようと思い、店を後にした。
用事が済んでないので少し間が出来た。青年は帰り道に、通りから一本奥に入った所にある一軒の屋敷に向かった。樹木が敷地に沿って植えられて、木製の仕切り壁が道端に沿って向こうまで続いている。中庭もかなり広いだろう。屋敷は2階建てで広い屋根と寝室が幾つも在りそうな大きな建物だった。そこはこの町にある絵画のギャラリーだった。高額な入場料を取られるのでまだ中に入ったことはないが…名のある巨匠の絵画を数多く所有しており、コレクションはかなり充実してる様だ。
自分の作品も、いつかあのコレクションの中に入れたら…等と考えながら彼が道端を歩いていると、何やら猫の鳴き声が…?見ると敷地の樹木の上に子猫がいて鳴いているのだった。
“まあ、どうしましょう…いい子だから降りて来てちょうだい”
飼い主らしい、品の良い雰囲気の女性が上を見上げながら困っていた。どうやら屋敷の飼い猫が木に登ったまま降りて来ないらしい。子猫も登った木が思ったより高く、怖くて降りられないらしい。
“あのー、良ければお手伝い致しましょうか?”
青年は女性に声をかけた。
“まあ…どなたか存じませんが、子猫を降ろしていただけますか?”
すると青年は木製の仕切り板に近づくと軽々と上に乗り、そこから木に移ると、あっという間に子猫の元まで辿り着いた。子猫は怖がって鳴いてたが青年が胸に抱えると大人しくなって、そのまま地上に降りてきた。
“まあ、ありがとうございました。あなたのその身のこなし、素晴らしいわね。ひょっとして…サーカスの方?”
“いいえ、しがない、駆け出しの画家です”
“まあそうなの。あら大変、手が擦れて怪我をなさってるわ。手当てしなくては”
青年は、大した怪我じゃないと断ったが、女性がお礼にお茶もご馳走したいと言ってくれたので、お言葉に甘えて屋敷に入れさせてもらった。

広々とした玄関のポーチを通り、屋敷のホールから奥の客間へ進む。女性は子猫をソファーに預けると救急箱を持って来て手当てしてくれた。青年は昔、真夜中の地下室でお嬢さんが手当てしてくれた事を思い出した。
(少しお嬢さんと似てるな。彼女がもう少し年上になったらこんな風だろうな…)
それから2人でお茶を飲み、話題は青年の絵の話になった。
“まあ、では今度、是非あなたを絵を拝見させて下さい”
ここのギャラリーの画商であると言う、その“貴婦人”に青年は今度、絵を見せると約束し、アパート先を教えて帰った。

アパートに帰るとお嬢さんが先に帰宅していた。
“お帰りなさい、遅かったけど…急に仕事にでもなったの?”
“まあ、そんな所かな。聞いてくれよ!今日、ギャラリーの前へ行ったんだけど偶然、画商の人に会ってさー、今度僕の絵を見てくれるって!”
“えっギャラリーって、通りの奥の、あの屋敷の事?”
“そうさ、上手く行けば僕の画家の記念すべきデビューになるかもしれないぞ。多くの人の目にとまる様になれば絵も売れて、そうすれば君の事をもっと楽させてあげられるし!”
“はいはい、期待せずに待ってるわ〜”

お嬢さんの前で上着を脱いだ時、あの黒い小袋が床に落ちた。青年は気が付かず、お嬢さんは気付いて拾い上げた。彼女が袋を開けて中身を見るのと、落とした事に気付いた青年が“あ…!!”と、声を上げたのは、ほぼ同時だった。

“何これ…どう言う事…!?
“違うんだ…それは…!!

2人の間に沈黙があった。

青年は、部屋の空気が、一気に険悪になって行くのを、感じた……。

次の日の朝。起きるとお嬢さんはもうアパートには、いなかった。昨日の夜は結局、一言も口を利いてもらえなかった。どんなに話しかけても駄目で、“あの宝石は、まだ怪盗だった頃に…したもので…”(ここで言葉を濁したのが、まずかったかもしれない。お嬢さんに“やっぱり盗んだ物じゃない!”と、ぴしゃりと言われた)
取りあえず今日は日曜だ。きっとお嬢さんは先に集会所に行ったのだろう。青年はシャワーを浴び、髭を剃り、支度をしてアパートを出た。
お嬢さんは集会所にいた。しかし彼女は、いつもの長椅子の席側の人ではなく、先生の隣で灰色の尼さんの服を着て座っていたのだった。お祈りの時間が終わると青年はお嬢さんの元に駆け寄った。
“一体、何をしてるんだい!君の職業はシスターじゃなくて音楽の教師だろう?”
“私は、神様に赦しを乞うことにしたのです。私の夫が昔の“悪業”に再び手を染めてしまったから…
あなたにとって、私と、宝石と、どちらが大事だったのか、私は、今更気付いたから”
青年は、顔から血の気が引いていった。お嬢さんは「告解」をしてしまったのだ。自分が昔、怪盗で数え切れないくらいの盗みを働いた事も。お嬢さんが望んだ事とはいえ、婚約者だった男から彼女を奪ったことも。そのお嬢さんを娶った事も。
傍らに先生が来た。どんな顔をしているのだろうか…?そっと顔色を窺う。僕の事を睨むでも無く、軽蔑するでも無く、ただ、ただ、憐れみの眼差しを向けていた。
(やめてくれっ…そんな目で僕を見るな…!)
青年は、先生から顔を背けた。

…それから2時間、告解室で青年はお嬢さんに、あのダイヤの事を説明し、アパートに戻って来る様に説得したが、聞き入れてもらえなかった。仕方なく1度お互いの距離を置こうと帰って行った。

アパートに帰ると、お昼近くだった。昨日お嬢さんが買ったサンドイッチの材料がそのまま残っていた。その具材をパンに挟み1人で頬張る…レタスもベーコンも新鮮だったのに青年は、少しも美味しいとは、思わなかった…。


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04…怪盗、ハートを盗まれる???

月曜になった。仕事は、夕方からだから、それまで間があった。(一応、読者様の為に、補足しておくと、青年は現在“怪盗”では無く、真面目に普通の仕事をしてます。但、今回の小説の話と彼の仕事の話には全く接点が無く、関係も無いので具体的な描写は省略してます。彼も生活して行かなければならないのです…)
土曜はお休みだった宝石店には、もはや行く気が起きず、かと言って絵を描こうかと筆を持って見ても、お嬢さんが家出してしまった事がショックでそんな気持ちすら当分、起きそうになかった。取りあえず起きて、シャワーを浴びて、髭を剃って、キッチンの椅子に座って、ぼんやりしていた。こんなに孤独なのは何ヶ月振りだろうか。お嬢さんがいた頃は、毎日が活き活きしていた。描きたくもない富裕層達からの絵の注文を描いてた頃だって、今の、この状況と比べたら遥かにマシだった。空間の中の輝きは失われてしまった。真に、絵を描いていたのは自分じゃない。灰色の生活に色彩と輝きを与えてくれていたのはお嬢さんだったのだ…青年は、改めて気付かされたのだった……。

ふと、アパートの部屋のドアをノックする音が聞こえた。最初、隣の部屋かと思ったが青年の部屋をノックしていた。彼はドアを開けた。
そこには、土曜に出会った貴婦人が立っていた。

“突然でご迷惑だったかしら?近くを通ったもので、お声掛けさせて頂きましたの”
“いえ、どうぞ。狭いですが”
玄関とキッチンの間には段差が有り、青年は、注意を促した。ここに引っ越してきたばかりの頃、お嬢さんはよくつまずきそうになり、その度に青年が抱き止めるという事が何度もあった。(このアパートの設計者は“わざと”そう言う造りにしたのではないか?と思ったほどだ)
キッチンのテーブルに向かい合って座った。
“先週、絵を見せて頂けるとお聞きしてから私、気になってしまって、早く見てみたくて本当はお伺いしましたの”
“そうですか。では今よろしいですか?僕は駆け出しですし点数は多くないです”
“ええ、是非!”
青年は部屋の隅に立て掛けた絵を何枚か持ってきて見せた。その時、貴婦人はハッとした様だったが、絵を見てそう思ったのかは、青年には分からなかった。
“これで全部です”
“あの絵は?”
貴婦人は1枚だけ、裏返して立て掛けたままの絵を指差した。
“申し訳ありませんが、あの絵だけは特別で…。手放す事は、出来ないんです”
“見るだけと約束するわ。見せて下さらない?”
“ええ、そういう事なら良いですよ”

彼が持って来たのは裸婦の絵だった。
題名は…『微睡(まどろ)む裸婦』

モデルはお嬢さんで、このアパートに引っ越して来て、最初に描いた絵だった。お嬢さんが、もし自分の事をあの子息の元から“盗んで”見せた時は、一糸まとわぬ姿でモデルになる、と約束していた。青年は、自分からはその事は言い出さなかったが、ある日お嬢さんが、「あの時の約束を守りたい」と、モデルを申し出てくれたのだった。
“でも…あなたは写実が得意だから、決してこの絵だけは、売ったり、譲ったりしないと約束して頂戴ね”
そう言うと彼女は自分から服を脱いだのだった。

“まあ素敵な方…ひょっとして奥様?”
“ええ、そうです”
“あの、奥様は…?”
“………”
“…ごめんなさい。私ってば、辛い事を…!”
“い、いえっ違います。彼女は生きてます!ちょっと色々有って…今ここには、いないんです”
“そうなの、ありがとう。そんな大変な時に私のわがままを聞いて下さって。あなたの絵はかなり見所があると、私は感じました。1度私のギャラリーで展示会を開いてみませんか?”
思ってもなかった申し出に青年は、喜んだ。
“はい、是非お願い致します!”

貴婦人が帰ろうとした時だった。青年は、嬉しさで気が緩んでいたのか、貴婦人に床の段差に注意する様、促さなかった。慣れない他人の家で貴婦人はバランスを崩し、倒れそうになる瞬間、青年は、思わず抱き留めた!
貴婦人の唇が青年にかすめ……

丁度その時、突然、玄関のドアが開いた。

ドアの外には、お嬢さんが立っていた。

お嬢さんは、玄関で抱き合った青年と貴婦人を見下ろしていた…

…青年は、思った。

(神様、これは…散々、盗みを働いた
僕への罰なのですか?

何で、よりによって、
今、このタイミング
今、この瞬間に
1番見られたくない場面を
1番愛する人に
見られなければ
ならないのでしょうか……?)
……


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05…もしかして浮気!?

貴婦人は、ゆっくり立ち上がった。
“大変、お恥ずかしい所をお見せしました。では、近い内に展示についての打ち合わせに来ますので”
そう言うと、まるで今さっきなにも無かったかのように上品な足取りで帰って行ったのだった。

青年とお嬢さんは、玄関先で立ちすくんでいた。
“お帰り、入りなよ…”
やっと青年から声をかけた。
“……”
お嬢さんは、無表情だった。
2人は、アパートに入った。

青年は、お嬢さんが段差でつまづきそうにならないだろうか、と期待したが、彼女は段差にまるで、地縛霊でも居るかのように、さっとまたいで通過してしまった。
“あ、あのさ…ありがとう、戻ってきてくれ…”
しかし次の瞬間、お嬢さんは振り抜くと青年を思い切り突き飛ばした!寸前で踏み留まる。
“危ないじゃないか、いきなり何する!”
お嬢さんは、目に涙を溜めて叫んだ!
“信じてたのに!ひどいわ!!わたし、先生の奥様に説得されて、頭を冷やして、あなたが赦してくれるように祈りながらやっとの思いでここに来たのよ!それなのに…あんまりだわ!”
一体何が…と言い掛けて、青年は気付いた。お嬢さんは、自分と貴婦人の間柄を完全に誤解しているのだった。
“違うよ、あの人には先週、絵を見せる約束をしていたんだ。土曜日に話しただろ?あの人が画商なんだよ。あーそうだ、良い知らせがもう1つ。僕の絵の展示会を検討してくれるって!”
“ふーん、一体どんな手段を使ったのかしらね?あなたは騙しの天才だもの。女性を手玉に取るぐらい訳ないでしょうから。甘い言葉でも、囁いたのかしら?私にそうした様に…!”
“何言ってんだよ、そんなわけ…”
“…してたでしょ…!”
“え、何を?”
“私に言わせるの!?イヤらしい!してたでしょ!…キス…!”

青年は、いよいよこれは、お嬢さんが告解をした事で、神様が自分に与えた天罰の様に感じられてきた。あの時、貴婦人の唇は、“彼の頬”をかすめただけだったのに。立ち姿勢のお嬢さんから見たら、まるで熱烈な口付けをしてる様に見えただろう。
“だから誤解だって。僕はさ、君がこの2日間、いなくなって気付いたんだよ。この部屋で真に絵を描いてたのが、誰だったのか。それは僕じゃなくて君だったのさ。このアパートに輝きと潤いを与えてくれてたのは君だったんだ。その君が戻って来てくれて、本当に、僕は、心から嬉しいんだ!
君を…君の事を…愛してるから…!!

お嬢さんを素早く抱き寄せ、唇を重ねようとした時だった。

パァン!

突然、クラッカーが弾けた様な音が部屋に響いた!


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06…平手打ち!

…彼は昔、遠くの町で有名な怪盗だった。

今まで彼はどんな警備だろうと、どんな罠だろうと、潜り抜けて見せた。“優れた視力”を持つ彼にとっては、あんな物はどれも、暇潰しの遊具でしかなかった。

でも、それだけは、避けようがなかった。

いくら視力が優れていようとも、そんな事は、起こりうるはずがないと、彼は思い込んでいたのだから。
でもそれは、“起きて”しまった
避けようがなかった。
当然だ。それは、突然の、予想しない出来事だったのだから。

お嬢さんの手のひらが、
青年の頬を、
思いっきり、打った!
………


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07…すれ違い

お嬢さんが家出してしまった日から、2回目の月曜の事。貴婦人が再び青年のアパートに訪れた。
あれから展示会の話はトントン拍子で進み、来週の火曜から10日間、絵が公開される事となった。
今日は、絵を搬入する日だった。
“…ところで、折り入ってご相談が…”
“何でしょう?”
“あなたが非売品と言っていたあの『微睡む裸婦』を、私の所で貸して頂けないでしょうか?勿論、お売り出来ないと、きちんと明記した上で展示させて頂きます。私あの絵の虜になってしまって。あんな美しい色合いの絵画は、今まで見たことがありませんわ!”
青年はためらった。もし誰かの目に留まり、売買の話が出てしまった時は、かなり厄介な事になる。あれは只の絵では無いのだ。お嬢さんがモデルと言うのもあるが、あの絵にはもう1つ、秘密があった…。
しかし今、完全にお嬢さんと仲違いしてしまった彼は、何とか彼女をもう1度振り向かせたいと思っていた。あの絵を展示会の目玉にすれば、評判になって、お嬢さんも自分の事をもう1度見直してくれるかもしれない…そんな期待もあった。青年は貸し出す事にした。
“分かりました。売らないとお約束して下さるなら、貸しても構いません。正式な契約書を用意して下さい。それから、この絵を展示する時は……”
そう言うと青年は『微睡む裸婦』を展示する時の“ある条件”をお願いした。

町のギャラリーに到着して、青年の絵を運び出す作業を貴婦人が指示していた時だった。
“こんにちは”
1人の男性に呼びかけられて貴婦人は振り向いた。
“あら、あなた。久しぶりね。ここ最近見かけなかったけど、元気にしていた?”
“お陰様でね。ちょっと俺の周りでゴタゴタがあって…最近やっと落ち着いたのさ。君は元気そうだな。ギャラリーも上手く言ってる様だし”
“ええ、お陰様でね。そうそう、最近私ね、駆け出しの若い画家さんに会ったのよ。これ彼の絵なんだけれどセンスが良いのよ。その中で特に気にいった油絵があったのだけど、でも非売品で…無理を言って貸して頂いたのよ。あ、これよ。ちょっと見てみない?”
貴婦人と男性は、客間に行き、彼女は丁寧に梱包をほどく。
“そうだわ、彼に注意されたの。この絵は日光が当たる部屋では決して開けないで欲しいって”
“暗闇で絵を見ろって事か?”
“今はね。おそらく、少しでも酸化させると変色を起こすのね。大丈夫、展示する時はギャラリー特製の額縁で完全密封して展示するわ”
遮光カーテンを閉めて絵の入ってる箱を開ける。
中には裸婦の油絵が入っていた。
しかし、カーテンの隙間の微かな光でその絵のモデルの顔を見た時、その男性は驚いた。
“お嬢さん…!?
彼は、有力者の子息で昔のお嬢さんの政略結婚相手だった…。

青年は自宅であるアパート近所の公園にいた。彼は立ったまま腕を組み、鋭い目つきで目の前のベンチに悠々腰を下ろしいる男を睨みつけていた。それは向かい合った男も同様だった。昼間だと言うのに、大の男が2人で睨み合ってる状況は、ただならぬ雰囲気があり、散歩したり、通りすがる人々は2人を迂回してその場を後にして行く。遠くからその様子を見てる人々は取っくみあいのケンカでも始まるのではないかと野次馬根性で成り行きを見ていた。
“久し振りだな悪党、こんな町で再び会うとはな”
“今更、お嬢さんの目の前に現れて、一体どういうつもりだ!?
しかし子息は青年の言葉に答えず続ける。
“情けない話だな。花嫁を盗み出すことに成功した泥棒が、花嫁に逃げられるとは。画商の貴婦人から聞いたよ。愛想を尽かされて、彼女は今、修道女生活らしいな”
“僕らはまだ、別れたわけじゃない。今は、距離が必要なだけさ。お嬢さんは分かってくれる。必ず戻って来るさ”
“君たちは勝手に“夫婦ごっこ”でもしてるんだろうが、周りはそうは見ないだろ。彼女はまだ指輪をして無いそうじゃないか。君のアパートの隣のご婦人が教えてくれたよ。生活は楽じゃないようだな。彼女も、俺と結婚していれば、今頃はこんな苦労も知らない優雅な生活の奥方だったのに。気の毒だな”
すると子息は、声をひそめて囁いた…
“……その様子だと大方、式を挙げて神様の前で赦されてもなければ、市庁舎に届けも出してないのだろう…?”
痛いところを突かれて、青年は悔しそうに顔をしかめた。確かにその通りだった。婚姻届も出してないし、それ以前に、神の赦しも得ては無かった。もし土曜のあの日、指輪が用意できてさえいれば…翌日の日曜に式を挙げて、今頃はお嬢さんと正式な夫婦になれていたのだが…。人生は、なかなか上手く行かない。
“だからといって、もうお嬢さんは、あんたの元に戻りはしない。生憎だが、お嬢さんと僕は既に夫婦の契りは“交わしてる”。気位の高いあんたは、お嬢さんの事を「傷物」とでも言いたいのだろう。お嬢さんに何をする気だ!?
“お嬢さんはな、本来ならば君のような貧相な者とは、かけ離れた世界の人なんだ。指輪が無いのは都合が良い。これはきっと、神様の思し召しなのさ。君とお嬢さんは潮時なのだよ。今からでも遅くは無い、彼女を返してもらおうか?お前のせいで以前より落ちぶれたとはいえ、俺にはまだ、お前の元にいるよりは彼女に苦労をかけたりしない余力はあるさ。返した暁には、2度とお前の前には現れないし、俺が一生“彼女のお世話”をしてやるよ…!”
“お嬢さんを…囲うのか!?そんな事して見ろ!お前の全財産を奪って破産させてやる!僕にできないと思うか!?お前がケンカを売ってるのは、富裕層の連中を散々恐れさせた盗賊だ!敵に回すもんじゃないぜ…!!
すると子息は立ち上がり、すれ違いざまに吐き捨てるように言った。
“おっと、言葉に気をつけろ。俺も貴様の“正体”を知っている。その気になれば、今度こそ貴様を牢屋行きに出来ると言う事を忘れんな…!”
そう言うと、子息は公園を後にした…。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
08…禁忌色

モデルと言うのは骨の折れる仕事だ。寝そべってるだけのお嬢さんだったが、服を着てないから少しだけ肌寒く、デッサンを終えた青年が温かいミルクカップを勧めて自分も飲もうとした時、お嬢さんは緊張がほぐれたのかマットの上で寝息をたてていた。
そっとブランケットをかけて温かい微糖コーヒーをひと口飲むと、彼はキャンバスに向かい今描いたデッサンを写し取っていく。
次に彼は部屋の隅に行くと、しゃがみ込み壁から3枚目の床板を剥いた。中は少し空間になっていて、中から石を取り出した。それは鉱石や宝石の原石だった。これは怪盗だった頃に集めたもので油絵具を作る為に換金しなかった石だった。お嬢さんには内緒だが、生活費で困った時に、ためらわず換金する為の隠し財産でもあった。
…昔、富裕層からの注文で絵を描く際は、当然高価な油絵具は支給されるのだが、視力が優れてる彼には市販の絵の具は色がくすんで見えてしまうのだった。
(※普通、人は色を3原色で視るが彼の目は特殊なので4原色で視てる。霊感がある人というのは普通の人には認識できない、この4番目の紫の色覚を持っている人なのだそうな。幽霊ではなく正確には紫外線を認識してると思われる…)

(富裕層の連中は安っぽい油絵具で満足してればいいさ…)
彼は盗みに入った先で鉱石を見つけては、それを少しずつ集め、いつか自分の絵を描くときに使おうと考えていた。そして今がその時だった。

深海のようなラピスラズリ(瑠璃石-るり)…
新緑のようなマラカイト…(孔雀石-くじゃくいし)…
熟した実のような辰砂(しんしゃ)…
黒ダイヤとも呼ばれ赤黒いヘマタイト(赤鉄鉱-せきてっこう)…
カリブ海のようなトルコ石
お嬢さんの素肌のような象牙…それを焼くと夜の闇のような黒色に…
深い青色アズライト(藍銅鉱-あいどうこう)…これは自分と似てる、と青年は思った。空気に触れるとラピスラズリに変身してしまう石だ。

ゴーグルをかけ、慎重にそれらを砕いて…溶かして…自分の感性で油絵具を生成して行く…鉱石から造る絵具は市販の油絵具では決して醸し出す事は出来無い深みのある色彩を放つ。キャンバスのデッサンを高尚な油絵具で撫で付けて描いて行く。
そしてもう1つ、彼はこの絵に“ある仕掛け”を施した。
それは、万が一、この油絵が意にそぐわない相手に渡ってしまった時に備え、日光に晒すとたちまち絵が真っ黒に変色してしまう“禁忌色”を使用した事だった。自分で生成した油絵具、とりわけ鉱石から生成したものは不安定で変色しやすい。お嬢さんからは絵を売ったり譲ったりしないで欲しいとお願いされてる。見知らぬ誰かの手に渡るぐらいなら破損して2度と見ることができなくなる方がマシだ。

こうして『微睡む裸婦』は、仕上がった。
決して日の目を見る事のない、彼だけの絵……
賢明な画家ならば、決して真似したりしない方法で彼はあの絵を描いたのだった。


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09…贋作依頼

青年から借りた『微睡む裸婦』の額入れがようやく終わり、貴婦人は、ほーっとため息をついた。このギャラリー特製の額縁に入れられた油絵は、完全密封され、酸化防止、UVカット&防火ガラス、防水の4点セットで保護してくれる。絵を改めて眺めながら、貴婦人は昔の事を思い出していた…。

…実は貴婦人は以前、画家の青年に会った事があり、彼の事を知っていた。子猫を助けてもらった際、怪我の手当に留まらず、お茶を用意し絵の話を持ち出したのは、彼の事を確かめたかったからだった。そしてアパートで絵を見せてもらった時、その作風から以前彼女の屋敷に出入りしていた画家だと確信したのだった。彼は身分が違うので貴婦人は家族や侍女たちから話しかけたり、仲良くしてはならないと、きつく注意されていた。彼は親戚の者が次々と注文してくる絵画を、手際良く、鮮やかに仕上げて見せた。貴婦人は彼の潔さ、画家としての力量に憧れを持って見ていた。でも遠くから見ているだけだった…。彼女も、富裕層の淑女のご多分に漏れず婚約者がいたからだ。
ある日、貴婦人の婚約者の家から、指輪を作る予定だった2粒のダイヤモンドの所在を尋ねられた。相手の男性の家は貴婦人の家が所有していると言い、貴婦人の家の者は相手の男性が所有していると言い、お互いの家が“あちらが所有している”と言い張り、決着がつかない為、“怪盗に盗まれた”と言う結論で落ち着いたのだった。
ところがその直後、貴婦人の遠縁の親戚の者が“贋作売買をしてた”と言う事件が起きてしまった。その頃にはもう、画家の青年も行方をくらましてたが、実は彼が依頼を受けていた絵は贋作を描かされていたのだと、後に貴婦人は知った。
貴婦人の家は信用を失い、ダイヤも貴婦人の家の親戚が盗んだに違いないと、濡れ衣を着せられてしまった。結局この事が原因で両家は仲違いし、婚約も破談になり貴婦人とその婚約者は引き離されてしまったのだった…。
しかし、婚約者の男性は貴婦人の事を気にかけ、彼女がこの先、肩身の狭い思いをしないようにと、彼が所有していた遠くの町のギャラリーの管理をお願いした。貴婦人は画商の仕事を得ることができたのだった。しかしそれが精一杯だった。彼は家の者から、もう貴婦人とは関わるなと言われ、その上、別の女性を婚約者に宛行われたのだった。…もっともその女性は後に怪盗に拉致されてしまい、今は行方知れずだとか……。
相手の男性の方はどう思ったかは分からないが貴婦人はその時、怪盗を恨んだ。
(あの泥棒が、私達のダイヤを盗んでさえいなければ、今頃別の結果になっていたでしょうに…優しかったあの人…最後まで私の事を信じてくれたあの人、せめて彼の方だけは家庭を築くささやかな幸せをと願っていたが…それさえも奪って行った酷い怪盗…!もし今、私に財産があったなら…二人の指輪を作るはずだったあのダイヤが、手元にあったなら…私はあの人にプロポーズしたでしょうに……)

……貴婦人の心に魔が差した……

…そうよ……この絵がもう1枚あれば……それを売ったお金でダイヤが買える……彼に、贋作を描かせればいいんだわ…もし拒否されたら?…いいえ、言う事を利かせて見せるわ……彼が贋作画家だったと言う事を、私は知っているのだから……
……


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
10…盗まれた2人の将来

“お断りします!”
貴婦人が複製の話を切り出した時に見せた彼の顔は貴婦人が今まで見た事のない険しい顔だった。
“あの油絵は事情が有って同じ物は描け無いんです。正確には同じ色合いを出せないんです…それに、今は別々に暮らしてますがモデルの妻と絵を売ったり譲ったりしないと約束してます”
すると貴婦人は甘い口調でささやいた…。
“贋作を…あなたは依頼されてたのでしょう…?”
“え…!?”青年は、昔の仕事の話を突然持ち出され、動揺した。でも、後にあの騒動の絵は殆どが回収され処分されたと聞いている。自分の労力が処分されるのは痛かったが、しょせん偽物だし、僕が描いた事が知られる事も無くなるし…一体誰がそんな事…まさかあの子息が僕の過去を調べたのか…?
“私は知ってますよ。私の親戚の者があなたに贋作を描かせてたんですもの。おかげで私は婚約破棄になった上に、恋人で婚約者だった方と引き離されましたわ。ねえ、1枚だけ…あの絵だけでいいのよ。そうすれば、あなたの事もこの先優遇するし、お得意様には率先して紹介致しますわ”
“だからといって、描けないものは描けない!”
すると貴婦人は、急に不機嫌になりこう言った。
“あら、そう…ならばいいわ。あなたの大切な愛妻に“あの絵を売って頂戴”とお願いするから。愛する旦那様の夢と出世がかかってるとなれば彼女もうなずくでしょう”
“生憎、彼女は、か弱いお嬢様の様に見えるが、ああ見えてプライドが高いのさ!しかも今は、仲違いしてる僕に協力するとは思えないけどね”
青年は嘲笑い、呆れた様に言った。
“じゃあ、こう言えばいいのかしら?画家のあなたの旦那様は妻に愛想を尽かして、画商の私と“出来て”ますのよ。その約束としてあの絵を私に譲ってくれましたわ♡、てね!”
この女性は魔性の女か!?青年は怪訝そうな顔で貴婦人を見た。まずい…!確かにお嬢さんの気を引きたくてあの絵を貸したが、でもあくまでも、自分の描いた絵を注目して貰いたいからだった。それは決してこの貴婦人と浮気をする為にじゃない!!
“僕を脅すのか!?
“引き受けて下さいますよね?”
貴婦人は勝ち誇った様に微笑した…

貴婦人が帰ってから青年は考えた。
(このままではお嬢さんとの約束を破る上に、とんでもない誤解をされる事になる。貴婦人の手元に、『微睡む裸婦』を置いといては駄目だ。取り返さなくては……でもどうやって……)
青年は戸惑った。でもお嬢さんに誤解されたくは無い。迷いは無かった。

(もう1度、怪盗に戻る時が来たな……!)


彼の住む町のマルクト広場から西の方に歩いて行くと林が茂った敷地の中に1軒の屋敷がある。ここは町の博物館で国内でも珍しい“犯罪の”博物館だった。こんな博物館がある町に自分が住むようになるなんて…やはり自分の人生は窃盗とは切り離せない運命なのかもしれないと、この町に引っ越した当初、青年は思った。ここに来たのは子息のあの男に話があったからだった。数日前の町の公園では人目があるし、明らかに職業も地位も違う2人がやれ盗みだの不貞だの話をしてれば嫌でも人目を引く。魔女裁判や拷問道具の歴史を紹介してるここならば、窃盗や贋作の話をするのには、打って付けだった。
入場料を払い、薄暗い階段を降りて、石の廊下を進み、また石の階段を昇ると、博物館の中庭に出た。庭の真ん中に人が1人入れるぐらいの金属籠が吊るされてる。その下には大きなたらいがあった。
“これはパン屋が計量をごまかしてパンを売った時の“水攻めの拷問”だそうだ。どうした、こそ泥。自首する気にでもなったか?”手元に鳥のマスクを持て余しながら子息は言う。博物館の入り口で土産物として売ってる物だ。
(彼と貴婦人がどういう関係かは知らないが子息が僕の正体をバラしてないところを見ると、彼も僕が怪盗という確実な証拠はまだ持ってないのだろう…)そう考えた青年は、貴婦人の親戚が手を染めたと言う贋作騒動について尋ねた。
“ああ、あれか…あの騒動では彼女はとんだとばっちりだと俺も思ったよ。何の関係もないのに親戚と言うだけで叩かれたんだからな。でも元はと言えば怪盗、貴様のせいだぞ!お前が彼女の家から“2粒のダイヤモンドを奪ったりしなければ”あそこまで信用が落ちることは無かったし、彼女の婚約にまで響く事は無かったはずだ。贋作の方は保険もあったし大した被害にならなかったが、ダイヤの方がそれを上回る損害だった。贋作騒動のせいで信用を失ってダイヤの保険がおりなかったのさ。ついでに、どうして俺がお前の事を人一倍、目の敵にするか教えてやるよ。貴婦人は昔の俺の恋人だったのさ。以前お嬢さんからこう言われたよ“好きでもない私と結婚しなくて済むでしょう、怪盗のおかげで”とな、冗談じゃない!俺たちは怪盗に将来を盗まれたんだ。俺だってお嬢さんには本当に愛する人と結ばれて欲しいと思ってたさ。けど貴様がそれを引き裂いたんだ!だから怪盗に肩を持つ彼女を許せなかった。処女を奪ってでも結婚しようとしたのはその代償だ。お前が…ダイヤを盗んでなければ……!!
そう言うと子息は、持っていた鳥のマスクを彼に投げ付けた。それはこの博物館で売っている土産物だった。恥辱のマスク…窃盗をした者が被ったと言うマスク……。
“俺は今でも貴婦人を想ってる。取り戻せるならそうしたいさ。でももう戻れない。ダイヤはもはや無いし、家の者から貴婦人とは関わるなと言われてる。この先、俺はお嬢さんを囲いながら、貴婦人と密会する悪い男として生きて行くしかないのさ。貴様も、罪を被って生きて行くがいいさ…!”
子息は、そう言うと立ち去って言った。青年は何も言い返せないまま、庭で1人、立ち尽くしていた……


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11…小さな額の絵の中で

夕方、アパートに戻ると、青年はキッチンのテーブルにふらつく様に座り込んだ…
(…僕のせいだったのか…彼らが引き離されたのは……それだけじゃない、やっと自由を手に入れて、平穏に暮らしていたお嬢さんの事まで、僕は危険に晒してしまった……あの時、『微睡む裸婦』を貸したりなんかしなければ……いや、それよりも…もっとずっと前、もしあの時、盗んだダイヤモンドを、ためらったりせず、すぐに返してさえいれば……こんな事にはならなかったはずだ……!)

いつの間にか日は沈み、小さなアパートの部屋の中は真っ暗になっていた。彼は、夕方からの仕事をさぼってた事に気づいたが、どうでも良かった。窓からは、満月の月明かりが優しく部屋の中を照らしている。この部屋の唯一の家具であるキッチンの真ん中に置かれたテーブルと2脚の椅子。お嬢さんと笑い合いながら暮らしてた、幸せな日々……しかし、向かい合いの椅子にお嬢さんはおらず、今は青年が1脚の椅子に座っているだけだった…テーブルの上には、子息から投げ付けられた鳥のマスクが転がっていた…窃盗の罪人が被るマスク…

彼は自分の過ちを後悔し、自分の情けなさを悔やみ、1人…泣いた……


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12…贋作展示会

青年の絵の展示会前日。その日の夕方、ギャラリーでは新人画家のデビューと言う事もあり貴婦人はその夜、お得意様の方々を招いてパーティーを開いた。青年も勿論、招待されてたが当日は少し遅れると言い、彼は先に始めてもらうよう貴婦人にお願いしておいた。
彼はその数日前から仕事は休んだ(青年はクビを覚悟したが、彼の目が泣き腫らしてただならぬ顔だった為、親方は何かを察し休暇を許してくれた。もっとも青年も普段から急な出勤にも快く応じていて親方にとって彼が貴重な人材であった事も要因だった。人は普段からの心がけが大切だ)
屋敷のホールでは色とりどりの硝子のランプが会場内を灯し、テーブルがいくつか並べられ、立食パーティー形式で行われていた。招待客たちはテーブルのおつまみを食べながら談笑していたが話題は専ら、貴婦人が招待状に記していた「微睡む裸婦」の事だった。当初“非売品”と言われた話題の絵画がこの度、画家本人の意向により売買される事になり(勿論、青年は心からそんな事を承諾してはいない)画商である貴婦人が“今まで見たことの無い色使い”と言うフレーズに招待客たちの期待が高まった。その絵画はホールの一段高くなったステージの上にイーゼルによって立て掛けられていた。大きな厚手の黒い布が被せられていて、招待客たちはその布がめくられるのを待ち侘びていた。但し、青年は自分が行くまで決して公開しないで欲しいとお願いしていた。そのため布はまだめくられてはいなかった。

屋敷の調理場でパーティーの料理を給仕していた1人の男性は、裏口から声をかけられた。
“こんばんわ~、ピザの配達です!”
それは直径60cmはあると思う程の超特大ピザで宅配の男は抱えながら尋ねた。
“すみません〜ここから入ろうとするとピザが曲がっちゃうんです。玄関から入ってもいいですか?”
給仕の男は許可すると宅配員はお礼を言い、玄関へ廻って行った。彼が去った後、給仕の男は呟いた…。
“あれ?ピザなんて品書きにあったかな…?”

パーティーが始まって小1時間ほど経った。青年はまだ会場には現れていなかった。招待客たちは貴婦人と会話する度、そろそろあの絵をお披露目してくれませんか?と声をかけたが、貴婦人は、パーティーの最後にお披露目致しますわ、と言い上手く時間を稼いでいた。それを見ていた子息は見兼ねて、
“画家の彼は社交界の礼儀と言う物を知らない育ちだな。いいよ、俺がアパートまで行って彼の様子を見て来よう”
そう言うと玄関から出かけた。

裏手の庭を抜けて通りへの近道をしようとした時だった。裏庭に、誰かが走り去る影が子息の目に止まった。普段の彼なら気にしないだろう。しかしその走り方に子息は見覚えがあった。嫌な予感がした。彼は、屋敷に引き返した。
玄関まで来るとホールの方から驚く声や悲鳴が聞こえた。子息は駆け出し、ホールに飛び込んだ。招待客たちが驚いたり、騒いでいる。皆、視線はステージの方に注がれていた。ステージの上を黒い影が素早く走り去って行く。子息はあっと声を上げた!
影はイーゼルに立て掛けた絵を抱え上げると、ステージの裾から太い柱の彫刻に跳び付き、あっという間に2階の踊り場に辿り着いた。そこから窓をこじ開けると影は外に飛び出した!

あっという間の出来事だった。一瞬だったが、子息には確かに見えた。

その影は、頭に見覚えのある鳥のマスクを被り、全身黒ずくめのカラスの様な男だった…!!


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
13…復縁の絵画

会場に残された招待客たちは、呆気に取られたり、只々驚くばかりだったが子息だけは叫んだ!
“あいつは怪盗だ、すぐに追いかけろ!”
屋敷にいた警備の2人と子息は玄関を飛び出し、怪盗を追いかけた。

盗んだ絵を抱えながら、通りから1本裏手の薄暗い道を怪盗は走った。思った以上に絵が重いのはギャラリー特製の額縁のせいだ。当初、ギャラリーの裏庭の向こうにある城壁跡から逃げ去るつもりだったが、絵を抱えた瞬間、重すぎて困難だと悟った。パーティーに子息が来てる事は計算済みだったが、裏庭を通過するところを見られたのは予想外だった。騒がれて追手が来るのが早過ぎた。全くあの子息は、僕の人生にことごとく水を差して来る邪魔な奴だ!

しばらく走ると広場の裏の方に出た。建物の隙間から夜の外灯でぼんやり浮かび上がる集会所の塔が見える。脇道に入り、そこから集会所の裏手へ廻り、建物に沿って脇の小道を駆け抜けていく。すぐ側で水の音が聞こえる。川が近いのだ。建物の間を抜けようとした時だった。突然、目の前に壁が立ち塞がる。おそらく昔、町を囲っていた城壁の名残だろう。何も持たなければ問題ないが、絵を抱えたまま超えるには、無理な高さだった。仕方なく川の方へ向かう。少し進むと川のほとりだった。追っ手は、もうそこまで迫っていた。足元の暗闇の中では激しく水が流れる音が響く。怪盗は焦った。
(どうする…!?どうする…!?泳いで向こう岸まで行くか?絵は完全密閉されてるから濡れたりしないだろう。でも絵を抱えたまま飛び込めば溺れるかもしれない…!)
だが迷ってる暇は無かった。もしここで捕まり、絵の回収に失敗すれば、お嬢さんは再び、あの子息の手の中に落ちるのだ。そうなれば、お嬢さんの人生は終わりだ…!!

彼は覚悟を決めた。

怪盗は大きく息を吸うと絵画諸共、川へ飛び込んだ!
………


怪盗は、水量の増した川で必死にもがいた。
(絵だけは絶対に手放すものか!意地でも!!)
だが、意志と裏腹に川下へどんどん流されて行く。視界の隅で川辺で追っ手たちが立ちすくんでいるのが見える。川に飛び込んでまで追ってくる者はいなかった。
(早く…対岸に……!)怪盗は上手く流れに乗りながら向こう岸を目指す。
だが、どうした事だろう。手足は水中に取られ、思う様に進めない。この川は、こんなに流れが荒かったのか?普段遠くから眺めてる感じでは穏やかな川だったと思ったが。そういえば水深も深い様な…その時、数日前に大雨が降ってた事をようやく思い出したのだった。段々、力が入らなくなって来る。追っ手のいた川辺も川のカーブの向こうへと見えなくなった。怪盗はまだ川の真ん中辺りを流されている。
突然、足に痛みが走る。ツリを起こしてしまった。その瞬間、水を飲んでしまい怪盗は溺れた!

(絵だけは…!お嬢さんだけは…!!)

必死に絵を抱えて何とか体勢を戻そうとする。
しかしそれも虚しく、更に呼吸が苦しくなり、自分が絵を抱えてるのかさえ、もはや分からなくなった。怪盗の意識が薄れる……

(……もう1度、あなたの笑う顔が見たかった……)

(神様…お願いです。
どうかお嬢さんをお守り下さい……)

そこで彼の意識は、途切れた………

………


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