第5話 原稿用紙の話……いわし文具店【小説のための原稿用紙】

文字数 15,777文字

 黒いワンピースを着たその女は、店先に置かれてある鉄製の看板に彫られた屋号を指さして確認し、一つ頷いていわし文具店に入った。
「いらっしゃいませ」
 ふみ子が控えめに声をかけた。女はぴたりとふみ子と視線を合わせた。
「……あの……」
 ふみ子は微笑みかける。「何かお探しですか?」
「はい。原稿用紙。小説を書く時に使う原稿用紙を買いに来ました」
 女は少女の面影を残したままの笑顔で答えた。ふみ子は、少しお待ち下さいと言って、ショーケースの下の引き出しから数冊の原稿用紙を取り出した。
「今、当店で取扱いのある原稿用紙はこれだけです。特にこれは当店のオリジナルで……」
「それです。それ」ふみ子の言葉を待たずに、女は一つの原稿用紙を指さした。「それを買いに来たんです」
 その原稿用紙は四百字詰め、百枚の束が天部分でのりとじされていた。表紙には〈いわし文具店謹製/小説のための原稿用紙〉と、細い明朝体で刷られている。
「こちらのお店のオリジナル原稿用紙はこれだけですよね?」
「そうですよ。今はこれだけです」レジの前に座っていた巌志がゆっくりと女の前に歩み出た。「以前はこれと同じ製品がちょっと違う名前で在ったんですけど。今の屋号に変わってから、表紙だけ新しく刷り直したんです。だからかつての製品と、中身はおんなじ物です」
 女は嬉しそうに頷いた。「そうですか。じゃあ、これを」
「おひとつですか」
「いえ。十五冊下さい」
「えっ。十五冊」巌志は面食らった。「今そんなにあったかな。そんなに減るもんじゃないから……」
「無ければ、ある分だけでも全部欲しいんですけど」
「店長。バックヤードの分を入れたらちょうど十五冊あります」
 ふみ子がインディアンのように顔の横に手を上げて言った。
「あ、そう? さぁすがふみ子さん」
 ふみ子は小走りでバックヤードへ向かった。ほどなくして戻ったふみ子の手には大量の原稿用紙の束があった。女はほっと胸を撫で下ろした。
 重みで少しよろけながら、ふみ子は原稿用紙の束を巌志に中継した。巌志はそれをショーケースの上に積んだ。そして引き出しからも残り分を出し、さらに上に積み上げた。
「これでちょうど十五冊ですね」
「ありがとうございます。おいくらですか」
「はい。じゃあ、レジでお願いします」
 ふみ子の呼びかけに女はレジの前に進んだ。
「あ、お客様」巌志は女の背中に声をかけた。「よろしかったら住所を教えて下さい。さすがに重いから、うちで配達しますよ」
「え」女は振り向き、原稿用紙の山を見て、うーん確かに、と呟いた。
「お近くにお住まいですか?」
「ええ、住んでるところは近いですけど……そうですね、もしお願いできるんでしたら」
 ふみ子はロディアのブロックメモとペンを差し出した。女はメモにペンを走らせ、メモを切り離した。
「ここまでお願いできますか? ここから歩いてちょっとです」
 巌志はメモを受け取った。そしてメモを読み、眉根を寄せた。
「お客様。……失礼ですけど」
 女は首を傾げた。
「お客様は、ひょっとして」
「……苗字ですか?」
「はい。あの、作家の」
「そうです」
「やっぱり!」
 巌志は鞄から黒い革カバーの本を出した。そしてカバーを外すと、本を女に見せた。
 表紙には〈遠雷町物語・五 マルハ精肉店〉とあった。
「いつも読んでいます、僕」
 女はにっこり微笑んだ。
「父の本ですね。ありがとうございます」
「え、え。あの、どういう……」ふみ子はうろたえ、素早く女と巌志を見比べた。
「ふみ子さんに前話した、遠雷町出身の作家さん。その作家さんの」
「はい。雷沼さとしは、わたしの父です」
「ええー!」
 遠雷町物語は、この町で生まれ育った作家・雷沼さとしのライフワークとして十年ほど前から執筆が開始された。雷沼自らが奔走し、町に古くから根付く商店や職人、住人に徹底的に取材するというスタイルを崩さず、それら住人の半生を伝記としてまとめたものがこのシリーズである。シリーズは現在五冊まで刊行されている。
「特にこのマルハ精肉店の話は興味深いんです。僕の友達の家ですから。だからこそ読んでいて、すごく綿密に取材されてるなって思います。僕は友達から実際に聞いた話ばっかりなんで」
「そうなんですか……ありがとうございます」
「店長店長。本にサインとかして頂いたら」
「え。娘さんに?」
「あ、そっか。ほんまや」
 女はくすりと笑った。「本、サインさせて頂いて持って来たいくらいですけど。でも無理なんですよ」
「ああ……。そりゃ売れっ子作家さんですもんね。忙しすぎて」
 女は首を振った。
「違うんです。もう父はこの世にいないんです」女は目を細めて悲しげに笑った。「昨日、逝ってしまったんです」


 巌志が十冊、ふみ子が五冊の原稿用紙を持ち、生美(いくみ)の書いたメモの住所に赴くと、そこには築五十年は優に経過しているであろう瀟洒な洋館が鎮座していた。
 ふみ子は表札を覗き込んだ。
「雷沼、って書いてありますね」
「間違いないね」巌志はインターフォンを押した。「――ところで君はなんで一緒に来たの?」
「だって店長一人やったら重いでしょ? 十五冊も」
「いや……まあ。留守番頼みたかったんやけどな……」
 ほどなくして玄関のドアが開いた。
「お待ちしてました。どうぞ、上がって下さい」
 生美は笑顔だった。しかし巌志には、わずか二時間前に会った時よりほんの少しだけ顔が陰っているようにも見えた。
「……ええと。どちらまでお運びしましょうか」
「ああ、じゃあ応接間にお願いします」
 巌志とふみ子は失礼します、と言いながら靴を脱ぎ、生美が用意したスリッパを履いた。そして生美に次いで応接間に入り、ドアのすぐ横の空きスペースに原稿用紙を積んだ。
「それじゃ、僕達はこれで失礼します」
「あ。お茶だけでも飲んで行って下さいません? ご迷惑じゃなかったら」
「……でも、今ってお忙しいんじゃ……」
 ふみ子が少し上目づかいで生美を見た。
「ううん、大丈夫です。……っていうか、」生美はふみ子を見て、そのあと巌志を見た。「できれば少しお話がしたいな、って思って。お二人と」
「話ですか」
「少しだけ。……やっぱりまずいですか? お店とか」
 今度は生美が上目使いで巌志を見た。
「いえ。じゃあ、ご馳走になります。店は親父に言ってあるんで大丈夫です」
「良かった。じゃあ、すぐに準備しますんで。あ、どうぞかけてお待ち下さい」
 生美が応接間を出た。巌志は勧められたソファに座った。ふみ子は、アップライトピアノに掛けられたビロード製のカバーを指先でいじりつつ、巌志を横目で見た。
「そんな感じでしたっけ? いつも」
「何が?」
「店長」
「僕が、どんな感じって?」
「同い歳くらいですよね、店長と」
「そうかもね」
「美しく生まれる、って書いて生美さん。確かに美人ですもんね」
「君さっきから何言ってるの?」
「……いえ、別に」
 ふみ子は巌志から目を逸らし、ピアノの上に飾られた写真を見た。
 幾枚か並べられた中の一枚が目に留まった。
 (……これは幼い頃の生美さん。じゃあ多分、こっちのお兄さんが雷沼さとしさん……)
 写真を見るふみ子の目が、どんどん大きくなった。
「ちょっと……ちょっと待って下さいよ、店長!」
 巌志は小さくため息をつき、ふみ子を見た。ふみ子は写真立てを持つと、幼い生美と思しき少女の横に立ち、笑みを浮かべる青年を指さした。
「この人が雷沼さとしさんなんですか?」
 巌志はこくりと頷いた。
「これ、あの人ですよ。モレスキンを取り寄せたお客様。あのおじさん。間違いないですよ、この写真は若いけど」
「そうやね」
「そうやねって。え、店長。知ってはったんですか?」
「うん。知ってた」
 ふみ子は写真を指さしたままの姿勢で固まった。
「いや……うん、って……」ややあって、ふみ子は視線を床に落とした。「――信じられへん。なんでそんなに無関心なんですか」
 巌志の目に、少しだけ力が入った。
「無関心なわけじゃないよ」
「わたしには無関心に見えるんですけど。知ってる方やったらなおさら、なんであの時接客しはらへんかったんですか? だって……だってこの人は」ふみ子の目は少し潤んだ。「わたし、心配なんです」
「心配って、何が」
「……言いたくないですよ、そんなん」
 巌志は唇を噛み、逡巡した。そして俯いたままのふみ子を見た。
「……ふみ子さん。僕は無関心で接客しなかったんじゃないよ。君の目にはそう映ることは、たまにはあるかも知れへんけど……でもあの時はほんとにそうじゃなくて――」
「父が雷沼さとしやから余計に、ですよね。多田野さん」
 生美がポットとカップの乗った盆を持って室内に入った。
「生美さん」
「ごめんなさい、廊下まで聞こえてきて。……ふみ子さん、父は徹底的に調べてから書くっていうスタイルを絶対に崩さへん人で。活きた文章を書くために不可欠や、っていうのを合言葉に、けっこうきわどい質問とかもするみたいなんですね。それこそ、インタビューされる側にとって触れられたくないようなナイーブな部分にも、ぐいぐい踏み込んだりとか」
「…………」
「それで、雷沼さとしからは二度とインタビューされたくないって方も結構いるみたいなんです。……多田野さんもインタビューで、あんまり答えたくない質問をいっぱいされたんやと思います。多田野さんは作家としての父を贔屓してくれてはるから、だからこそ余計に、取材とかの形で父と絡むことを少し避けたくなるのもわかります」
「そうかもしれません。でも今は――」巌志がぴしゃりと言った。「後悔してます。あの時、恐れずにもっと話しておけばよかった。……今となっては、ですけどね」
 ふみ子が会話に割って入った。
「え、待って下さい。取材? ……ってことは……」
 生美は盆をテーブルに置き、カップに紅茶を注いだ。深い飴色の紅茶は、陽光を美しく乱反射させながら磁器製のカップに満ちていった。
「父が最後に着手していたのは、いわし文具店の話なんです」
 生美は巌志とふみ子に紅茶を勧め、自分のカップに角砂糖を一つ入れた。それをティースプーンで撹拌すると、生美は巌志の目を正面から捉えた。
「見ていただけますか? 父の書斎」
 巌志は生美の目を受け止め、頷いた。


 生美は深紅のビロードでできたカーテンを一気に開け、陽光を室内に取り込んだ。
 書斎に足を踏み入れた巌志は、真剣な面持ちでつぶさに辺りを見回した。
 (すごく片付いてる)
 それが巌志の印象だった。十二帖ほどの室内の四方の壁は、床から天井まで一面に本棚が設(しつら)えられており、びっしりと本で埋め尽くされている。しかしそれ以外の場所には、大きな窓の下にある机の上も、部屋の中央に設置されているテーブルの上にもあまり物も本もない。
 ただ、机の真ん中には原稿用紙の束があり、その上にはかまぼこ板のような真鍮製のペーパーウェイトが乗せられていた。原稿用紙の右隣りにはペントレイが置かれていて、ペリカンの物と思しき万年筆が何本も乗っていた。
「雷沼さんは今も原稿用紙に万年筆で書かれるスタイルやったんですよね、パソコンじゃなくて。最近じゃ珍しいですよね」
「何度かパソコンは試したみたいですけど。結局、何日かしたらすぐに原稿用紙に手書きっていうスタイルに戻るんです。それじゃないと、父は書けないみたい」
「文具屋としては嬉しい限りです」巌志は微笑んだ。
 窓の下には、いかにも手製といった風情の小さな本立てがあった。
 巌志が側面を覗き込んだ。〈二ねん三くみ らいぬまいくみ〉とマジックで小さく書かれてある。
「わたしが父の日に贈った、最初の手作りプレゼントです。何度も修繕して、ずっと使ってくれてました」
 幅五十センチほどの本立てには、同じモレスキンが何十冊も並んでいた。
 右端の十冊ほどは著書だった。すっかり陽に焼け、紙は茶色くなっている。
「これ珍しい。雷沼さんの、昔のペンネームの頃の作品ですね、この辺り。最近じゃ手に入りにくいんですよ、プレミアがついて」
「そうみたいですね。だから手元に置いてたみたいです。……まあペンネームって言っても、そっちが父の本名ですから」
 ふみ子は、生美手製の本立てにずらりと並んだモレスキンに、特徴的な水色の帯が巻き付いていることに気付いた。
「店長、これ」ふみ子が帯を指さした。「……ミュージックです。全部」
「そうやね。モレスキンは、買った時についてるこのカラフルな帯を着けたままの方がデザイン的に好きだ、ってユーザーも多いみたい。それがないと、黒い革だけのデザインになってしまって味気ないからね」
「作家さんやのにミュージックを愛用してはるんですね」
「君が雷沼さんから取り寄せの依頼を受けた時も、ミュージックやったやろ?」
「あ」
 (そうやった。あの時オーダー受けたのは、普通の横罫ノートじゃなくて)
「……そこにあるノートには、父の人生が記されています。日記とか、作品のアイデアとか、日々のさりげない気付きとか。内容はすごく雑多です」
 ふみ子には、生美の声が先ほどより幾分震えているように感ぜられた。
 ふみ子は生美を見た。
 生美はいつの間にか、写真立てを手にしていた。
「生美さん。……その写真って」
 ふみ子を見てうっすらと微笑み、生美は写真に視線を落とした。
「……これ、わたしの母なんです」
 巌志とふみ子は、生美の手にある写真を見た。
「父はどうやらこのツーショット写真が一番お気に入りやったようで、わたしが作った本立ての横にずっと置いてました」
 生美が母という写真の人物は、巌志とふみ子にはあまりにも幼く見えた。色白で目鼻立ちのくっきりした、少女そのものだった。
 少女は満面の笑みで、両手で大きくピースサインをしている。
 その右腕は、横に立つ少年の左腕に回されている。少女の自信に溢れた表情とポーズと比べ、少年の姿は何とも頼りなく、ピースサインも弱々しく、表情も曖昧だった。
「雷沼美由希、旧姓は(もり)です。母はわたしを産んだ直後に亡くなったんです。重い病気に罹っていたそうで。自分の命と引き換えにわたしを産んで、それで、すぐに」
 巌志は黙って、話の先を促した。
「……そのノートは、母が学生の頃に父にプレゼントしたものらしいです。父が教えてくれました。その頃、父と母は一緒にフォークデュオを組んでて、それでその楽譜のノートをプレゼントしてくれたって。母にプレゼントされて以来、ずっと父はその型のノートを使い続けました」
 生美は本立ての一番左端にあるモレスキンを引き出した。
「これが初代(しょだい)のノート。母が父にプレゼントしたノートがこれです。……このノートは」
「――二十七年前、僕の親父から買ってくれたものですよね。親父から聞きました」
 巌志は微笑み、ゆっくり頷いた。
 応えるように生美も頷いた。
「このノートの……」自身の声の震えに気付き、生美は大きく深呼吸した。「このノートの、最後の……つまり一番新しいページに、父が多田野さんの文具店の話を遠雷町シリーズに組み入れようと計画してることが書いてありました。それで、わたし……ひょっとしたら負担になるかも、とは思ったんですけど。でも、書くって決めたことは絶対に書く人やったから」
 原稿用紙を棺に入れようと、という言葉は震え、かすれた。
 生美は俯いた。ふみ子の目に光るものがあった。
「……大丈夫ですよ」巌志は笑顔で言った。「千五百枚もあれば十分ですよ、あんな小さな文具店の話なんて。書き仕損じて足りなくなったら、雷沼さんやったら幽霊の姿で来られても売りますから。僕達」
 ふみ子がこくこく、と何度も頷いた。
 生美は顔を上げ、笑顔を作った。そして両手のひらで顔をごしごし擦ると、本立てからモレスキンを何冊も抜き出し、巌志とふみ子に渡した。
「どうぞ見て下さい、これ。これによると、わたしが産まれた日、つまり母の命日に、父は作家になることを決意したようです。……そういうことが全部、ここに書かれてます。もちろん雑多な内容やから、ただのノロケみたいな、ラブレターみたいなやつもいっぱいありますけどね」
 出版の予定もあるんですけど、こんなノート絶対に出版社の編集さんに見せられませんよ、と生美は言った。


 ………………

 某年某月某日(晴れ)
 今日もみいちゃんと登下校。
 みいちゃんはずっと笑ってた。昨日見た番組の話。
 話してる最中にも可笑しくて我慢ならん、というふうに笑いだすので、ほとんど内容がわからない。
 まあでもいいか。僕もそれが好きやしね。

 みいちゃんと話すとほころぶ。
 みいちゃんと話すと、たまに腹がたつ。
 みいちゃんといると嬉しくてたまらなくなる。
 みいちゃんといると、たまに悲しくてたまらなくなる。
 みいちゃんの前では男っぽくあろうと意識する。
 でも結局、みいちゃんの前ではどうしようもなく子どもになってしまう。
 みいちゃんは俺をむき出しにするのがすごく上手。
 みいちゃんは可愛い。みいちゃんは美人。わがまま。優しい。
 気まぐれ。ずるいとこもある。素直。すぐ泣く。すぐ笑う。
 その笑顔が見たくてたまらない。でも写真は撮らせてくれない。
 みいちゃんは俺にないものをいくつも、いくつも持ってる。
 だから好きや。五歳の頃からずっと好きや。
 ありがとう、みいちゃん。

 ………………

 某年某月某日(晴れ)
 みいちゃん、今日はマジモード。
 帰りもずっとぶつぶつ言ってた。
 どうしたん? って聞くと、うーん、ちょっと。って。
 しばらく歩いてると、急に怒ってるみたいな感じで話し出した。
「やっぱりな、怜ちゃん。ロックはロックらしい仕事をせなあかんと思う。だってな怜ちゃん、フォークってロック以上にロックがやるべきことをやってるやろ? 昔からずっと。フォークってロック以上にロックしてるやん。それではロック、形無しやん。ロックはもっとロックな仕事しないとロクなもんじゃなくなる。怜ちゃんはどう思う?」
 こんな早口言葉みたいなことを言ってた。変なやつ。
 でもどう思う? って聞かれたから、何か答えないとみいちゃんは怒るから、すぐ。
 あたしはこんなに真剣やのになんで怜ちゃんは真剣じゃないん、って感じで。
 そういうところ、めっちゃ自分勝手。
 だから答えた。
「ロックっていうからには真面目に仕事したらあかんのとちゃう?」って。
 そしたらみいちゃんはでかい声で、あ、って言った。
 そして、そーかそーか、ってつぶやきはじめた。
 で、それっきり、って感じ。
 これはこれで正解やったんかな。まあええか。こんな日もある。

 ………………

 某年某月某日(晴れ)
 僕はみいちゃんが好きや。
 でも長い付き合いやから、みいちゃんのこと、どこが好きなんかわからんくなってきた。
 だから一回、このあたりで整理してみようと思う。
 みいちゃんの鼻歌が好き。バリエーションが色々ある。「ふんふん」と「うーうー」が特に好き。ちゃんと歌ってる時よりも、こっちの方が好きかな。
 みいちゃんの声が好き。寝起きは低血圧なんやろうけど、でも寝起きの声も好き。もちろん甘えてくる時の声も好き。ちょっと憎たらしいけど、すごく声が高くなってかわいい。
 みいちゃんの歩き方が好き。だく足で歩く。力がゆるんで、油断してる感じがいい。みいちゃんはいろいろ考えてるから、歩き方にまで配慮が行ってないんやろうな。
 みいちゃんの安直さが好き。シンプルに物事と考えを直結させる。そのシンプルさと、たまに見せる圧倒的な複雑さのギャップに不安定さを感じるし、一心に物事を考えてるみいちゃんのことを想うと胸が締め付けられるみたいに苦しくなる。
 みいちゃんの寝方が好き。枕とかであごを隠すのがかわいい。隠さんでええのに。口をぱかっ、って開けるのも子どもみたいでかわいい。
 みいちゃんの負けず嫌いなとこが好き。譲れないものに関しては、俄然プライドが発動し、負けず嫌いが立ち上がる。ええなあ、そういうの。
 みいちゃんの走り方が好き。ぱたぱた走る。走り方が不器用。みいちゃんは走り慣れてない感じがすごく出てる。かわいい。でもあんまり走らないけど。
 みいちゃんの手が好き。めっちゃ小さい。こんなにかわいい手を持つ女性っているんやろか。
 みいちゃんのキョトンとした表情が好き。何をびっくりしてるんやろ。
 みいちゃんの雑なところが好き。かばんの中はぐちゃぐちゃ。でもスイッチ入ったら、めっちゃちゃんとする。でたらめなのかルールがあるのかわからない。きっとそこは測り兼ねるところ。
 みいちゃんの肌の白さが好き。子どもの頃から変わっていないところ。肌の白さ。みいちゃんは肌もきれいやし、白い。僕の女性への憧れが具現化されたような存在。「昔はもっと白かったやん」って言ってた。でも今も十分白い。
 みいちゃんのよく寝るところが好き。三大欲求に忠実なみいちゃんがすごくかわいい。本当によく寝る。あの寝顔や寝姿を見ていると、けんかなんかしてもアッという間に許してしまう。
 みいちゃんのよく食べるところが好き。ニコニコしながらいっぱい食べる。おいしくて足をぱたぱた動かしている時とかもう。
 みいちゃんのよく笑うところが好き。泣いてる顔も捨てがたいほどかわいいけど、やっぱりみいちゃんは笑顔の魅力がすごい。静かな場所でも「わはははははっ!」って遠慮なく笑い声を上げるところもかわいい。僕にはできへんなあ。
 みいちゃんの熱いところが好き。みいちゃんは僕より圧倒的に熱い。熱く生きてる気がする。人生に真面目に向き合ってる。作曲からつい距離を取ってしまう僕に、無言で無意識に迫ってきてるように思える。「やらんとな、やるべきや」って思わせてくれる。
 みいちゃんの「いただきまーす」を何度も言うところが好き。一回目にきちんと言うのはわりと当たり前だけど、牛丼食べてる時とかさ。七味を一袋かけるたんびにリセットされて「いただきまーす」って言う。かわいい。
 みいちゃんの「ごちそうさま」が好き。言う時と言わない時がある。言うバージョンの時は、食べ終わってすぐごちそうさま、はしを置いてもう一回ごちそうさま、テーブルから離れる時にもう一回ごちそうさま。言わないバージョンは、あの小さな手をぱちんと合わせて、口の形だけ(ゴチソウサマ)ってなっている。かわいい。
 みいちゃんの頭の回転の速さが好き。難しい会話になってくると、頭の回転がおっつかなくなる。みいちゃんは回転が速い。頭ええなあ、っていっつも思う。
 みいちゃんの穏やかさが好き。いろいろ考えているし、激高することもあるけど、基本的にすごく穏やかな人間であると思ってる。ひっそりと生きていきたいんかな、と。そこは僕と似てる。どうしようもなく熱くなってしまったり、仕方がなく頭を回転させて生きてるけど、僕もすごく穏やかが好きな人間だから。近いのかな。
 みいちゃんのにやにやした顔が好き。ちょっとずるいことを考えている時。「まあいいじゃないですか、そんなことは適当で」みたいな、にやにや。「いやーお互い悪いですなあ」みたいな、にやにや。
 みいちゃんの従順さが好き。まず、男には従順であるべきだ、と思ってるところが好き。だから従順である自分のことも好きなんだろうな、と思う。
 みいちゃんの陽気さが好き。たまに泣きそうになる。僕の人生に現れてくれてよかった、って心から思う瞬間。救われる。
 まだまだある。書ききれない。僕はやっぱりみいちゃんが好きや。あんまり好きじゃないところもあるけど、そこはまあ書かなくてもええか。
 また思いついたら書くことにしよう。みいちゃんの好きなところ。

 ………………

 某年某月某日(晴れ)
 美由希。
 生美は二七〇〇グラムだったよ。
 最初はちょっと泣かなかったけど、すぐに元気に泣き出した。
 ありがとう。本当にお疲れさまでした。
 二人で決めていた通り、名前は生美にしたよ。君の名前から一文字貰って、生美。
 本当にいい名前だと思う。
 あとね。
 整理したい考えが頭の中にたくさんあるんだよ。
 例えば君のこともそう。歌詞だけじゃ伝えきれなかった言葉がまだまだある。
 だから僕はこの日記のような雑文以外に、きちんとした文章を書いてみようと思う。
 そういえばこの遠雷町にも、小さいけど雰囲気のいい文具屋があった。
 美由希も確かそう言っていたよね?
 明日さっそく行ってみよう。
 ずっと使える原稿用紙と万年筆を買ってみるよ。
 じゃあ美由希、おやすみ。

 ………………

 某年某月某日(晴れ)
 今日、生美が初めて手作りのプレゼントをくれた。
 工作の授業での課題だったようだ。
 父の日のプレゼントを作ってみましょう、という。
 机上用の本立てとフォトフレームだった。
 七歳の作品にしては、意外としっかりと作られている。
 本立ては、お父さんは本が多いから片付けに使ってください、と。
 フォトフレームは、お父さんが一番好きなお母さんの写真を入れて、
 本立てのすぐ近くに置いてください、と。
 水色の包装紙できっちりとラッピングされていた。
 左端の上部に青いリボンが飾られていた。
 美由希。君から初めてプレゼントを貰った時のことを思い出したよ。
 水色の包装紙。青いリボン。
 偶然の一致だろうが、不覚にも落涙してしまった。
 思えば、泣いたのなんて久しぶりだ。
 君があの夜、思いがけず僕に逢いに来てくれたとき以来か。
 あの奇跡。あの奇跡の夜がなかったら、あのとき僕の弱気を君がぶん殴ってくれていなかったら、僕は今ここにこうしていられたかどうか。

 あの子の名前を決める時に、二人で話し合ったことをふと思い出したよ。
 もし君に似たのなら、美しく生まれることはもう間違いない。
 でも、美しく生まれる、というよりもっと大切なことがある。
 美しく生きてほしい。そう話していたね。
 だから美しく生きると書いて、生美。
 美由希、ありがとう。
 君の娘は名前の通りの子に育っているよ。

 ………………

 某年某月某日(晴れ)
 胃が痛い。大きなざらざらした手で、
 外側から握り締められているんじゃないか、と思うくらい胃が痛い。
 僕はどうやら胃癌だ。間違いないと思う。
 家系的にも、年齢的にも、該当する要素は十分ある。
 僕には生美がいるし、大切な仕事も生活もたくさん持っている。
 まだ死にたくはない。当然だ。すごく怖いし、哀しい。
 でもどこか、変に清清しい気持ちもある。
 何か妙に潔くて、孤独感が弱いというか……、不思議な気持ち良さがあるのだ。
 理由はわかっている。美由希、君がそちらにいるからだ。
 やっと会える。永いこと待った。
 そういえば随分昔に、君と話した。あの世について。
 僕達は一緒にテレビを見ていた。
 確かイギリスのドキュメンタリー番組だ。
 奥さんを殺された男が貯金をはたいて殺し屋を雇い、犯人に復讐をする……そんな話。
 見終えてから、君は僕に質問した。
 もしわたしが殺されたら、あなたは貯金をはたいて殺し屋を雇う? 復讐をする? と。
 僕は、もし法で裁けないのなら絶対に個人的復讐はする、と答えた。
 君はそれを聞いて、満足そうだった。
 しかし少ししてから君は、やっぱり復讐はやめて、と言った。
 復讐で人を殺すと、僕が地獄に堕ちることになるからだ、と。
 わたしは病気で死ぬから、たぶん天国へ行ける。
 あなたが地獄へ堕ちてしまったら、あの世で一緒になれない、と。
 君は覚えているかな? この話。
 もう忘れてしまっているだろうか。
 僕の中にある清清しさの理由は、たぶんこれだ。
 僕も美由希と同じく、病気で死ぬだろう。
 でも……病名が違うと、向こうで窓口をたらい回しにされるかもしれない。
 申請にはレントゲン写真とカルテの控えと戸籍謄本が必要です、とか何とか。
 ありうる。
 だから美由希。
 みいちゃん。
 もうちょっとだけ待っててな。
 ずっと愛してるよ。これからもずっと。

 ………………


 かいつまんで読んでいたが、堪えきれず、巌志はノートから目を離した。
 ふみ子は別のノートを読み込み、派手にしゃくりあげていた。
「ね。ちょっとひどくないですか? 生きてる可愛い娘のことよりも、死んでる母の話の方が圧倒的に多いんですよ、そのノート。……ねえ、ひどいですよね?」
 冗談めかした口調で皮肉る生美の頬は濡れていた。
 生美は小刻みに震えながら、大きく息を吐き、そして吸い込んだ。
「父の――初恋の相手は母。父が生涯想い続けたのも母一人だけ。……それはたぶん今も。……五歳の時に二人が出会ってから父が死ぬまで四十年間続いた初恋は、今も続いているんです」
 ふみ子は大粒の涙をぼろっ、と零した。涙は顎を伝い、陽光を浴びて水晶のように煌めきながら何粒も床に落ちた。
 巌志は咄嗟に生美から目を逸らし、ぼやけた視線を机上に向けた。
 中央に置かれてある、原稿用紙の束が目に入った。
 ペーパーウェイトの横に、文字が書かれてある。
 巌志はハンカチで瞼をぎゅっと抑えると一旦水分を拭き取り、原稿用紙に目を凝らした。
「――そうそう。最後にすごいプレゼントをくれたんですよ、父は」
 そこには、作品すべての著作権を生美に贈る旨の一文があった。
 そして横にはひっそりと、〈雷沼怜(らいぬまさとし)〉というルビ付きの署名が添えられていた。


 僧侶の読経と、参列者の焼香が終わった。
 巌志とふみ子は、喪主を務めた生美の挨拶を聞き届けたあと、棺の周りに集まった親族を避けて小さな葬儀場を後にした。
 葬儀場と火葬場は近く、巌志とふみ子は店へ向かって歩きながら煙突を見上げた。
「生美さん、立派でしたね」
「あんないい喪主の挨拶は聞いたことない。涙も見せずに立派やった」
「……そう言えばね、店長。わたし気になってることがあって」
 巌志は煙草を咥えながらふみ子の顔を見た。
「美由希さんと雷沼さん、天国で会えたとしても、美由希さんの耳が不自由なままやったら辛いなって思って」
 巌志は薄く微笑んで、ジッポライターで煙草に火を点けた。「本で読んだことあるんやけどね」
「はい」
「天国ではね、自分が一番きれいやった頃、健康やった頃の姿に戻るらしいよ。僕、美由希さんと雷沼さんは高校生くらいになってると思う。二人がフォークデュオを組んでた頃くらいにね。だから美由希さんはきっと、自分の耳でまた雷沼さんのオリジナルソングを聴いてると思う。天国で」
 ふみ子は目をぱちくりさせて巌志を見た。
「へー。知らなかったです」
 空は晴れ渡っていた。巌志が吐いた白い煙は、真っ青な空に雲のように映えた。
 ふみ子は煙を見ながら不意に、棺に十五束の原稿用紙を入れ、胸の上に組まれた指をほどいてペリカンの万年筆を握らせた生美の姿を思い出した。
「店長。わたし、あのオリジナル原稿用紙についてのことはあんまり知りませんでした」
「ああ、あれ? 滅多に売れないからね。――正式名は〈いわし文具店謹製/小説のための原稿用紙〉。親父はペリカン万年筆の信者やから、ペリカンのペン先との相性を考えて作られたものらしい。僕が小さい頃にはもう存在してたから、実は僕もあんまり詳しくは知らないけどね。机上灯は白熱電球が使われてることが多いから、小説を長時間書く人の目に負担をかけないように紙の色も罫線の色も考慮されてるんやって。でも小説家だけじゃなくて、文章を書きたい人みんなに使ってほしいから、小説家のための、じゃなく、小説のための原稿用紙っていう名前やとか」
 ふみ子は無言で何度も頷き、熱い目で巌志を見た。
「あの原稿用紙を雷沼さんに薦めたのはもちろん親父。ペリカンの万年筆を薦めたのも親父やろうね。インタビューされた時に雷沼さんが話してくれたよ。インタビューされてたのは僕やのに、雷沼さんも親父のこととかいろいろ話してくれた」
「他にどんなことを話してくれたんですか」
「んー他には……息子が、友達が自分のせいで自殺未遂した、とか腰の抜けたことで悩んでたから、気合入れるためにでかい責任背負わせてやろうと思った、とか」
「それってお店を譲るって話ですか?」
「そうやろうね」
 ふみ子は俯き、沈黙した。沈黙し、言葉を選んだ。
 そしてすぐにそれを諦め、巌志の顔を見た。
「わたし――好きです」
 巌志はふみ子を見た。
「いわし文具店のこと。この仕事も。すごく好きです」
「……うん」
「店長はどうですか」
 見慣れた看板が目に入った。看板には〈いわし文具店〉とあった。
 二人は正面玄関のガラス戸の前で足を止めた。
「ふみ子さん。僕はね」
 ふみ子は沈黙し、巌志を見つめた。
「逃げ場として文具店を継ごう、なんて思ったこともあった。知識もそれなりにあるし、やってけるかな、って思った。……でもすぐにわかったよ。逃げ道の一つとして選択できるほど、文具は誰かの人生に軽々しく寄り添っているものじゃない」
 ふみ子は瞬きさえ忘れ、巌志の話に集中した。
「書くだけやったら百円のペンでもいいよ。ミスコピーの裏紙でもいい。でも、十万円の万年筆を愛用する人にはそれだけの理由がある。理由なんてこじつけでもいい。思い込めば、それがその文具の価値になるから。……このノートじゃないとだめっていう人が一人でもいるなら。ペン先が割れただけでこの世の終わりみたいに悲しむ人が一人でもいるなら。僕は文具屋として、それを手伝える人間でいたい、と思うよ」
 ふみ子は沈黙した。ふとふみ子の視線が、巌志の頭上をさまよった。
 兄の健太のことを思い、黒田のことを思った。そしてまた巌志の目を見つめると、ふみ子は微笑んで頷いた。
 不意にやわらかな風が吹いた。風は店のすぐそばに何本も立つ街路樹の梢という梢を揺らした。梢を揺らした風は中空をしばらくさまよったあと、巌志とふみ子の髪を揺らした。
 思わずふみ子は目を細めた。そして開いた。
 午後の陽光を背に受けた巌志の姿が、ふみ子にはいつもと少し違って見えた。
「じゃー、ふみ子さん」
「……はい」
「いっちょ開店するかね」
「はい。いっちょ開店しましょう」
 ふみ子は微笑んだ。巌志もほんの少し笑った。
 ふみ子は開錠し、正面のガラス戸を大きく開け放った。
 巌志とふみ子の髪を揺らした風が名残を惜しむように、いわし文具店に吹き込んだ。
 




〈遠雷町物語・六 いわし文具店〉


 ただのいわし。
 平仮名で書くとナイフのようにぎらりと光る、あの小魚の鰯を指しているように見える。只の鰯、タダのイワシ、と。シーズンに堤防などでサビキ釣りをすれば、どんどん釣れてしまう魚だ。
 しかしそうではなく、漢字でこう書く。多田野巌志(ただのいわし)。多田野家の長男で、一人息子だ。三十年前、誕生した時の体重が三千グラムをわっていたため、心配した両親が「厳格な志を持って強く逞しく成長してほしい」という願いを込めてつけた名前である。
 そしてここ、遠雷町三丁目に〈いわし文具店〉はひっそりとある。
 ただのいわし。いや、多田野巌志。多田野家の長男で、一人息子。そしてこの、いわし文具店の店主である。
 毎日色々なおばさんが来ては不思議そうな顔で、〈いわし文具店〉と書かれた看板を見る。そして表から店の中を興味津々、といった感じで眺めて、首をかしげながら帰る。店内には入ってこようとしない。
「ここは以前、おじさんが切り盛りしてたけど」
「いつの間に息子さんが店をやるようになったんやろか」
「こんな下町には似合わない、変な文房具屋を」
「息子さんはサラリーマンやったはずよ」
「クビになったんかな」
 そんな声が聞こえてきそうだ。
 巌志はそんなおばさん達をぼんやり眺めたり、たまににっこり微笑みかけたりしたけれど、無理な接客はしなかった。自分がこしらえたこの店が、町の雰囲気に合っていないことはよくわかっていたからだ。
 中は薄暗い。ガラスは表に面している扉にしかないので、採光に乏しいのだ。しかも壁の色は光を吸い取ってしまいそうな深いグリーン。こげ茶色のフローリング。そしてフローリングの色に合うように、苦労して集めてきた同系色の古いショーケース。イタリアやフランスといったヨーロッパの、古い歴史地区にある雑貨屋といった佇まいだ。
 そんないわし文具店は、遠雷町三丁目に住む人達の間でちょっとしたミステリースポットになっていた。皆が異彩を放つこの店のことを気にかけてはいたが、シャイなこの町の人々はただ遠巻きに眺めているだけだった。そして前を通りかかった誰かが皆に報告するのである。
「今日も客は一人もおらへんかったわ」
「経営は成り立ってるんかな。バイトの女の子も一人雇ってるみたいやけど」
「ほんまにね」
「親御さんはどうしてるんかしら」
「心配やね」
「ほんまにね」
 と言いつつ、店内に足を踏み入れようとはしない。
 巌志はそんな噂話などどこ吹く風、とばかりに、毎日ひっそりと床を掃いたりショーケースを磨いたり商品にハタキをかけたりしていた。店内はどんどん綺麗になっていったが客は一人も来なかった。
 〈まあええよ。それもまあええ〉
 巌志は自分を納得させ、また掃除に精出した。
 客をひくために然るべき雑誌などに広告を出したり、ウェブサイトを作ったりという宣伝活動に巌志は興味がなかった。
 〈のんびりやっていても、いつかこの店の魅力を皆わかってくれるさ〉
 巌志は合言葉のようにこのフレーズを心中に語りかけ続けた。
 いわし文具店。一階は店舗スペースと、ガラス戸で仕切られた六畳の和室、台所に風呂場に便所。二階は六畳と四畳半の和室に物干し台という造りなのだが、古い木造家屋なのでとにかく至る所に細かな隙間があり、冷暖房が効かない。天井が低く、身長が高い巌志は鴨居に頭をぶつける。窓枠などもすべて木で出来ており、湿気を吸って膨張すると唐突にぴくりとも開かなくなる。便所が和式で異常に狭い。などなど。
 巌志の両親はこの家で長く営んでいた。顧客も多くついていて、裕福とは言えなかったが貧しさに辛い思いをした記憶も巌志にはなかった。軌道には乗っていたはずなのだ。
 しかし、オーナーであった父親の信範が突発的にリタイアし、巌志が店を継ぐことになった。
 いささか急ではあったが、「まあ長く働いてきたわけやからな」とすぐに諦めた。そして店名を〈いわし文具店〉に改めた。


「……どうぞ、中に入ってご覧下さい」
 入り口から半歩ほど下がった所にぽつんと立ち、ぼんやり店内を見ている私に気付いたのは店主ではなく、アルバイトと思しき女の子だった。
 女の子は入り口に近づき、ぺこりと頭を下げた。私はあわてて帽子を取り、小さく頭を下げる。
「……あの……」
「お探しの文房具があってもなくても大歓迎です。わいわい賑やかなお店じゃないんです。静か過ぎて困ってるくらいなんです。ゆっくりしていって下さい」
 女の子は私の目を見て、にっこり笑った。私もややぎこちなく笑い返した。
「ありがとう。……でもね、探してるものはあるんですよ」
「はい。どんな商品ですか?」
 私は両手の指先で四角を空中に描いた。
「――モレスキンです。モレスキンのノート」

―了―
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