第1話 鉛筆の話……Tombow【MONO】

文字数 28,816文字

「……どうぞ、中に入ってご覧下さい」
 入り口から半歩ほど下がった所にぽつんと立ち、ぼんやり店内を見ている紳士に気付いたのは店主の巌志(いわし)ではなく、アルバイトの堀ふみ子だった。
 ふみ子は入り口に近づき、ぺこりと頭を下げた。中年の紳士はあわてて帽子を取り、小さく頭を下げる。
「……あの……」
「お探しの文房具があってもなくても大歓迎です。わいわい賑やかなお店じゃないんです。静か過ぎて困ってるくらいなんです。ゆっくりしていって下さい」
 ふみ子は紳士の目を見て、にっこり笑った。紳士もややぎこちなく微笑み返した。
「ありがとう。……でもね、探してるものはあるんですよ」
「はい。どんな商品ですか?」
 紳士は両手の指先で四角を空中に描いた。
「モレスキンです。モレスキンのノート」
「ああ……モレスキンですか……」
「そうです。わかりますか? モレスキンのノート。阪急百貨店も阪神百貨店も、電車やったら一駅やけどそれも煩わしいし。歩いて行くにはちょっとだけ遠くてね」
 ふみ子は心底申し訳なさそうに言った。
「すみません。モレスキンのノートは今、置いていないんです。以前は取り扱っていたんですけど」
「ああ、そうなんですか。今は取り扱ってへん、か」
「数日お待ち頂ければ、お取り寄せもできます。いえ、お取り寄せさせて下さい」
 ふみ子の熱い目に紳士はほんの少したじろいだ。
「そう? じゃあ……お願いしよっかな」
 ふみ子は濃紺のエプロンからさっとロディアのメモ帳を取り出した。
「モレスキンの……」
「大きい方です」
「ラージサイズ、ですね。カバーの色は?」
「普通の、黒がええね」
 仕様や種類についてふみ子に細かく伝えると、紳士はメモを差し出した。
「いつでもかまいません。入ったら、ここまで連絡をもらえるかな」
 ふみ子は両手でメモを受け取った。
「かしこまりました」
 紳士は軽く微笑むと帽子をかぶり直した。
「君は……」
「はい?」
「なんか、とても気持ちのいい接客をしてくれるね。こう言うと失礼かもしれないけど、すごく若そうに見えるのにね」
「……ありがとうございます」
「私の娘がそろそろ三十歳や。それより十歳くらいは若く見えるけど」
 ふみ子はこっくりと頷いた。
「今年で二十二になります」
「ほうらね。女性の年齢はあまり外さへん。昔っからね」
「素敵な特技ですね」
「図星を突きすぎて嫌がられることもよくあるんよ」
 紳士はにこりと笑うと「じゃあ」と言って店を後にした。
 ふみ子は路地に出てしばらく後姿を見送っていたが、不意にぱっと振り返り、巌志の目を見た。反射的に巌志は目を伏せた。
「店長」
「うん?」
「あのお客さん」
「うん」
「今まで何回もお店の前、歩いてましたよ」
「うん」
「それでちらちら店内も覗いてましたよ」
「そうやね」
 ふみ子は不思議で仕方がない、という顔をした。
「……なんで声かけへんかったんですか?」
「そうやね」
「無理な接客は体質に合わへん、ですか?」
「……そう……やね」
 ふみ子は少しだけ頬を紅潮させ、巌志に歩み寄った。
「あのね、店長」
「……はい」
「中に入ってご覧下さい、って言うのは無理な接客じゃない、と思いますよ、わたし」
「そうかな」
「そうですよ」ふみ子は口をへの字に曲げて腕を組んだ。「もう少し積極的に行動してもらわないと」
「でもね、ふみ子さん。遠雷町の人はシャイやから、こっちから声をかけたら片っ端から逃げてまうんやわ」
「逃げてまう?」
「鰯の群れみたいにね」
「それは店長がこの町の人以上にシャイやからじゃないですか?」ふみ子は突っぱねるように言った。「わたしはこのお店が心配なんです」
「大丈夫やって」
「ほんまに大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫、ちゃうかな……まあ」
「もう」
 ふみ子は実際にいわし文具店の行く末を心配していた。公私ともに。
 地方から大阪市内に出てきて専門学校は卒業したものの就職戦線に惨敗し、とにかく何かアルバイトを探さないと……とりあえず食いつながないと、と思い、リクルートスーツにかかとの磨り減ったヒール、という格好でふらふらと履歴書片手に歩き回っていたふみ子に声をかけたのは巌志の方だ。
「ねえ、もしかしたら」
 巌志にしては珍しく積極的だった。
「仕事、探してるんですか?」
 ふみ子は巌志の声に立ち止まった。そして手に持った〈履歴書在中〉と大書きされたA4の封筒にぼんやりと目をやり、現状況を一瞬ですべて見透かされたと思ったふみ子は顔を朱に染め、あわててそれを逆の手に持ち替えた。
「……はい。探してます」
「あまり高い時給は払えませんけど、うち募集してますよ」
 巌志は手に持った缶コーヒーのプルトップを引き上げながら言った。
「はあ……。文具店、ですか? こちら」
「うん。零細文具店」
 といった様子で気軽に声をかけられ、ふみ子はなんとはなしにアルバイトとしていわし文具店の従業員となった。たった一人の従業員に。
 ペットトリマーになるという夢があるふみ子にとっては、とりあえずのアルバイトならばなんでもよかった。とにかく真面目に働いて少しずつでもお金を貯めてしっかりと自活して……どこかのペットショップなりに正社員として就職するつもりだった。しかし、「仕事を探してるんですか?」という巌志の言い方というか口調に、朴訥とした彼のやわらかい人柄が滲み出ているような気がして、
 (とりあえずはまあ、ここでええかも。一緒に働きやすそうなスタッフさんやし)
 と易請け合いし、のちにちょっとした後悔をすることになる。
 とにかく巌志はぼんやりしている、とふみ子は思う。
 掃除は甲斐甲斐しくするし、帳簿などもしっかりと管理しているのだが、こと接客となると途端に気力が音を立ててしぼむ。
 文具に対する造詣は深い。知識は膨大だ。たまに入ってきた客が、陳列してあるペンのことについて尋ねると、それがマニアックな質問でもすらすらと答える。まるで腕のたつソムリエか、令嬢に紅茶の銘柄を尋ねられた時の老執事のように。
 しかし、積極的に客を店に招き入れることに関して、巌志は一切の興味を持っていない。それは店の態勢にしても然り、普段の彼の接客態度ひとつとっても然りだ。
 (ほんまに、やる気あるんかな?)
 入り口のガラスを拭く手にも自然と力が入る。
 (このお店が潰れでもしたら、またバイト探さんならんやん)
 そうは思うものの、なぜかあっさり辞めて次を探す、という気にはなれない。
 もちろん自分のバイト料も心配だったが、ふみ子は巌志といわし文具店のことも本当に心配だった。
 (……わたしより八つも年上とは思われへんわ)
 上がりがまちに腰掛けて道行く人をぼんやり眺めている巌志を見ているといらいら、というよりもはらはらしてしまう。しかし、
「ラミーの2000シリーズの四色ボールペンを使っているんだが、どうもインクがねばっこくてね。発色もあまり好きじゃなくて……」
 といった突然の客の質問に対し、
「それやったら本来はタブーなんですけど、他メーカーの換えリフィルを使うことをお勧めします。ラミーのLM21リフィルは、まあ好みはあると思いますが、確かにねっとりとしてますね。発色も、特に緑と赤がやや暗めです。基本的にリフィルのサイズは4Cという定型のものやから、どのメーカーのものを使っても2000シリーズやったら対応できます。……そうですね、発色が良くてさらさらとした感じがお好きなら、赤の芯はペリカンのもの、青はロットリングのもの、黒と緑は、国産ですけどゼブラのものがお勧めです……」
 などと答えている巌志を見ると「これがさっきのぼんやりしていた人物か」と目を疑い、ふみ子は改めて巌志のことを尊敬し、そのギャップにほんの少し感動する。
「ふみ子さん。4Cの在庫って、今どこのやつがあるんやろ?」
 突然の巌志の声に、ふみ子は我に返った。
「はい。すぐ調べます」
 ふみ子はあわててあちこちの引き出しをごたごたと開けはじめた。
 (朴訥。時にシャープ)
 そこに何か魅かれるものがあるのかもしれない。だからこの店を離れられないのかもしれない。
 (シャープが本当の店長? じゃあ朴訥は句読点みたいなもの? それとも逆?)
 考え事をしているせいか、4Cの換えリフィルが入った箱はなかなか見つからない。ふみ子は慌てた。
 (朴訥と、何か他の鋭いものとのギャップ? やわらかいものと硬いもののギャップ?)
 引き出しの奥にある箱に手が触れた。
 (そもそもあの人はなんでこの店をやることになったんやろ?)
 箱を引っ張り出した。そして、思い当たった。ふみ子は動きを止めた。
 いつの間にか、巌志はふみ子のそばにかがんでいた。
「ふみ子さん」
「……はい……」
 巌志はにっこりと笑った。
「それ、トンボ鉛筆の箱」


 ふみ子には、五歳年上の兄がいた。
 今でこそ長身で健康体、ハキハキとした勝気な性格のふみ子だが、幼い頃は背も低く、体も頑丈な方ではなかったので、小学校に入学してからも友達と外で元気に遊ぶことができなかった。引っ込み思案で、どうしても家にこもりがちだった。幼稚園の頃も軽いいじめや仲間はずれにあっていた。友達も少なく、家で一人遊びをすることも多かった。
 そんなふみ子を一番心配したのは、兄の健太だった。その名が示すように、健太は体が並外れて大きく、力も強かった。喧嘩では無敵だった。六年生の時に、不良中学生三人相手に一歩も退かず殴りあったこともあった。もちろん近所ではガキ大将的な存在で、小学校内で健太のことを知らない人間は一人もいなかった。いつも生傷をいくつもこしらえて帰ってきて、母に赤チンを塗られていた。
「すぐ赤チンがなくなってまう」
 母親はぶつぶつ言いながら、時に赤チンではなくヨーチンを塗ることがあった。すると健太は「痛い。痛いて母ちゃん。ヨーチンは染みるて」と大げさに身悶えた。
「あほか。こんな傷いっぱいこさえて、そっちの方がよっぽど痛いやろ」
 母親の言葉もいつも同じだった。そのあと、こう付け加える。
「この元気がもうちょっとふみ子の方に行ってればなあ」
 何気なくそう言われる度、ふみ子の胸は針で突かれるようにちくりと痛んだ。
 しかし、赤チンまみれになって朗らかに笑う兄は、ふみ子にとってヒーローだった。上級生なり同級生なりがふみ子をいじめた、という話を誰かから聞く度、健太は疾風のようにいじめっ子の教室に飛び込み、容赦なく相手を殴った。
「ふみ子は体が弱いんや。おまえ、それわかってていじめたんか」
 そう言いながら健太は馬乗りになり、殴り続けた。相手が泣くまで。
 それが兄なりに妹を思っての行動であることはわかっていたのだが、そんなことが続く度にふみ子は教室でますます浮く存在となった。
「あいつに関わったら、チンピラみたいな兄ちゃんが殴りに来るぞ」
「関わらん方がええよ」
 そんなクラスメイト達のひそひそ話が聞こえてくる度、ふみ子は誰にも気付かれないようにひっそりとため息をついた。
「なあ、お兄ちゃん」
 ある日の夕方、健太のこぐ自転車の後ろに乗りながら、ふみ子は言ったことがある。
「そんなに一生懸命、ふみ子のためにけんかとかせんでええよ」
 すると健太は怒ったような口調で言った。
「何ゆってんねん。妹いじめられて黙ってられるか」健太はペダルを踏む足に力を込めた。「ふみ子。俺な、おまえのことずっと守ったるぞ」
  そう言って振り返った時の健太の顔を、ふみ子は今も鮮明に思い出せる。自分にしか見せない顔だった。オレンジ色の夕日にうっすらと照らされた小さな勇者のそれは、ふみ子にとっては美術室にある中世ヨーロッパに描かれたという宗教画などよりもはるかに神々しかった。
 自分をいじめた相手に向けられる鬼の形相。自分に向けられる菩薩の微笑み。
 幼いふみ子は思った。強い人間とは、厳しさと優しさを併せ持った者を指すのだと。弱い者のために盾となって立ち向かえる強さこそ優しさと呼べるものなのだと。強さと優しさは表裏一体のカードなのだと。もちろんふみ子はこの兄を心から愛していた。
 三年後の春、ふみ子があたりまえのように大切にしていた生活は急変した。
 中学三年生になった健太が、学校までの道を全力疾走している最中、校門の前で膝から崩れ落ちるように倒れたのだ。そばで見ていた友人が教師を呼び、健太は救急車で病院へ搬送された。意識不明の状態だった。
 ふみ子も含めた家族三人が病院に呼ばれ、中年の医師は健太の脳の血管造影画像を家族に見せた。細かな蜘蛛の巣のように張り巡らされた白い血管の中の一本を、医師はボールペンの先で指し示した。
 そこには、じわりと白い染みのようなものが広がっていた。
「動脈瘤が破裂しています」
 三文役者が台本を読むように、医師は淡々と告げた。
 健太は先天的に動脈瘤を持って生まれていた。それが十四年目の朝に開花し、健太は倒れたのだ。
「幸い最悪の事態は回避できましたが……」家族は医師の言葉を待った。「障害が出てしまうことはまぬがれないでしょう。運が悪ければ、このまま植物状態になってしまうことも考えられます」
 それなりのお覚悟をお願いします、と医師は付け加えた。
 父親は映画のエンドロールを見るような表情で、ただ呆然と血管造影画像を見つめていた。母親がハンカチに顔を押し付け、声を殺して嗚咽した。
 ふみ子は、ことがリアルに受け入れられないでいた。
 鬼のような兄。菩薩のような兄。自分にとってヒーローのような、絶対的な兄。その兄が、植物状態? ありえない。
 様々な思いがふみ子の頭をよぎり、ふみ子はパニックに陥っているような、また静謐(せいひつ)な闇に包まれているような不思議な安堵感にも似た感情に支配されていた。
 それから健太のこん睡状態は一週間続いた。八日目の朝に突然ぱちりと目を開いた時、聞き取れないほどの早口で、たまたまそばにいた母親に健太は言った。
「ふみ子は大丈夫?」
 そしてまたすぐ目を閉じ、眠りはじめた。


 健太はその後しっかりと意識を取り戻し、植物状態にはならなかった。しかし、この先の人生を普通に生きることはできなくなった。たどたどしくも普通のことを話していたかと思うと、次の瞬間猛烈な勢いでベッドの上を海老のように跳ね回ったり、目の焦点が合わなくなる時は決まって意味不明の言葉を羅列した。夜の病院をよたよたと徘徊しては、そこら中に放尿した。夜通し号泣する時もあった。
 そしてある夜、健太は病室のベランダから身を投げた。病室は四階だった。しっかりと施錠してあったはずのベランダの鍵は、点滴の道具を使って強引に捻じ切られていた。健太は首の骨を折っており、即死に近い状態だった。
 異変に気付いたナースが健太の病室に駆け込んだ時、窓から吹き込む強い風がベージュのカーテンを大きく揺らしていた。
 ベッドの上には健太がよく読んでいた文庫本があり、その表紙には殴り書きのような乱暴な文字で、
 『おれはもう生きとったらあかんから』
 と書かれていた。覚悟の自殺だった。
 その文庫本は、今もふみ子の手元にある。他愛もない児童向けの冒険小説だった。
 健太の死後、ふみ子は一度だけその冒険小説を読んだ。本が好きなふみ子にとってはいささか退屈な内容だった。
 しかし最後の一ページ。主人公の「まあ色々あったけどさ、俺はおまえと一緒にいれて楽しかったよ」という旅の相棒に向けられた科白の上にふせんが一枚、張られていた。
 そのふせんには鉛筆で、
 『ふみ子。ばいばい。元気で』
 と書かれていた。
 十歳のふみ子は理解に苦しんだ。
 その主人公の科白と、ふせんに健太が書いた自分へのメッセージ。その二つは何か関係しているのだろうか? どういう意図を持って健太はこのメッセージを書き、このページの、この科白の上に貼ったのか? わからなかった。
「ふみ子。ばいばい。元気で」
 ふみ子は小さく声に出してメッセージを読んでみた。
 その鉛筆で書かれた文字は、消しゴムで何度か消して書き直されたような痕跡があった。
 たったそれだけの短い言葉を、なぜ何度も書き直したのだろう。ふみ子には理解できなかった。
「ふみ子。ばいばい。元気で」
 もう一度読んだ。今度はもう少しだけ大きな声で。
 ふみ子の脳裏に、羅刹のような表情でいじめっ子を殴る健太の姿が浮かんだ。
 突如、刺すような鋭い痛みを胸に感じ、ふみ子は文庫本をしっかりと抱くと声を殺して泣いた。
 涙は二時間も止まらなかった。突如、恐慌をきたしてトイレに駆け込み、胃の内容物をすべて吐き戻した。三十分間断続的に吐き続け、やがて胃の調子が落ち着いてトイレを出た。
 そのあとトイレのドアにもたれたまま、さらに二時間泣いた。


 それからほんの数週間後のことだった。
 台所で冷蔵庫の中を物色しているふみ子を見て母親が驚いた。
「ふみ子。帰っとったんかいな。ああびっくりした」
 ふみ子は玄関で必ずただいまと言う。大きな声で。だから帰ったことを認識されていないことが不服だった。
 その後ふみ子は、何度も母親から不在を訴えられた。
 さっきまではいなかった。さっき突然姿が見えなくなった。いつ帰ったのか。いつ出て行ったのか。姿が見えない。声が聞こえない。目の前にいても、突然姿がぼやけることがある、と。母親は病みはじめていた。
 そう言われ続けたふみ子もまた、急速に精神のバランスを崩した。
 自分が本当に存在しているのか。鏡に映る時、鏡の中の自分がほんのわずか遅れて見えることがある。
 すべては作り事なのではないか。誰かによって書かれた巧妙なシナリオの、自分は登場人物の一人にすぎないのではないか。そんな妄想に囚われた。
 その数日後、ふみ子はバスの中で卒倒した。
 その日は雨が降っており、バスは乗車率百パーセントを超えていた。朝起きた時から少し熱っぽさを感じていたが、中間試験の日だったのもあり体調不良をおして登校した。
 中年のサラリーマンが眼鏡越しに、ふみ子を見てにやにや笑っていた。唇を尖らせ、キスをせがむようなそぶりをした。ふみ子は目を逸らした時にパスケースを二回取り落し、バスの中でふみ子は二度屈んだ。
 立ち上がった時、周囲の色から彩度がほとんど失われた。雨が降っているということを差し引いたとしても、あらゆるものの色がくすんで見えた。あれ、おかしいなと思った瞬間、意識が遠くなった。
 薄れゆく意識の中、ふみ子は思った。
 やっぱり。作り物の世界のメッキが剥がれはじめたよ。
 そうでしょ? そういうことなんでしょ?


 帳面をつけ終えた巌志は大袈裟にふうっ、とため息をつき、正面のガラス戸をくぐると軒先へ出た。陳列を整えていたふみ子もまたか、とため息をつく。
「店長」
「うん?」
 ジッポーライターを取り出して、咥えた煙草に火を点けるまでのスピードがやけに速い。ふみ子はそれを見て苦笑した。
「あーあ点けちゃった」
「え?」
「何とぼけてるんですか。一日五本。自分で言っといて」
「あ、ほんまや」巌志は赤く燃える煙草の先を見つめた。「うん、まあ、もう点けてしまったからね。これは吸ってしまおう」
「昨日の科白と一言一句変わらないですよ」
「ふみ子さんは厳しいなあ」
 巌志は大きく煙を吸い込んだ。歯の間からすーっ、と音を出しながら吐く。それも特徴的だが、煙草の持ち方も独特だ。巌志は煙草を、第二関節と指の付け根の関節の間、それもかなり付け根のそばに挟んで持つ。だから吸う時、手のひらで口を覆い隠すように見える。ふみ子が一度その様を指摘したら「へー」と言いながら巌志は、よくある持ち方に変えた。しかし次の一本に火を着ける時、もう持ち方は元に戻っていた。癖なんかそうそう治るもんじゃないな、とふみ子は改めて思った。
 煙草を消した巌志は踵を返すと、カウンターに引っ込んだ。巌志の定位置だ。
 椅子に掛けると、缶コーヒーを片手で開け、もう一方の手で黒い革カバーの本を引っ張り出してカウンターに置いた。
 ふみ子は少し離れた場所からひょいと覗く。
 (今日はどっちやろか)
 表紙がくにゃり、と曲がったところを見ると、モレスキンではなく、普通の本のようだ。
 巌志が、黒い革カバーのついた本をいつも二つ持っているのをふみ子は知っている。一つは、あの中年の紳士も注文したモレスキンのノート。これは表紙がそのまま黒い皮革状になっていて、ぱっと見は革製カバーを付けた本に見える。巌志がこれをカウンターに引っ張り出したら、短く見積もっても三十分は顔を上げず、愛用の万年筆でこりこりと何かを書き記し続ける。そこに何が書かれているかはふみ子も知らない。
 もう一つはモレスキンとほぼ同寸の、しっかりしたブックカバーがつけられた本だ。巌志はいつもこれを手放さない。これも何の本なのかはふみ子から訊ねたことはないし、中の本がどんどん入れ替わっていたとしてもふみ子は気づかないが、本の判型はいつも同寸である。まるでこのカバーを使用するために本を選んでいるかのようだ。
 とにかく、その日巌志が選んだのはモレスキンのノートではなく、本の方だった。巌志が集中モードに入る前に、ふみ子は声をかけた。
「また新しい本ですか」
「ん? うん」
 それだけ答えるとすぐに栞のページを開き、本の世界に没入しようとしたので、ふみ子は慌てて言葉を繋いだ。
「いつも同じ作家さんを読んでるんですか?」
「ん? うん」巌志はちらりと外の通りに目を走らせると、ふみ子の顔を見た。「遠雷町(えんらいちょう)出身の作家さんやから」
「へー。この町の出身者で、メジャーな作家さんがいはるんですね」
「そこまでメジャーってほどでもないけどね。ドラマにはなったことがある」
「地元のことを書いてるんですか?」
「めっちゃ地元の人間しかわからへんようなこと書いた本と、そうでないものもあるよ」
「ふーん。また読んだら貸してもらえますか?」
「ええよ」
 巌志が一刻も早く本の世界に入りたがっているように見えたので、ふみ子は話を切り上げた。そしてラックに刺さったペンをきれいに分類し直す作業に入った。作業を続けながら時々、眉間にしわを寄せて読み続ける巌志の姿を盗み見た。
 (指が長いんよな)
 ふみ子は先刻の、特徴のある煙草の吸い方を反芻した。
 (指が細くて長いから、あの吸い方がまた様になってるんかもしれん)
 ふみ子もまた思想の旅へ出発した。深く考え込んでいても手元の作業は慣れたもので、頭とは別のストイックな誰かが淡々と進めた。
 ペンはみるみるうちに整頓されていった。


 いわし文具店の周りには長屋が並ぶ。
 店から徒歩ほんの十数分で、一般にキタと呼ばれるJR大阪駅を中心としたビジネス街・繁華街へ出ることができるが、そこからほど近いこの遠雷町は古くからの風情を残したまま時を刻み続けていた。
 そして昨今はそんな長屋を、その古き良き雰囲気を活かしつつ、現代的なセンスを織り交ぜたカフェや雑貨店に改築した店が増えている。
 ふみ子の行きつけもその一つだ。
 入り口の上に掛かった看板には〈墨黒〉とくすんだ色の一枚板に達筆で書かれており、その上には〈すみくろ〉と平仮名でルビが打たれていた。これを見る度ふみ子は、漢字の厳つさと読み方である平仮名の可愛さにすごくギャップがある、と思う。いつも一度そう思ってから、店内に入る。
 いらっしゃいませ、と言いかけた黒シャツの男はふみ子を見て相好を崩し、カウンターから歩み出た。
「ふみ子さん。こんにちは」
「こんにちは。マスター、また来ちゃいました」
「またマスターって呼ぶ。それちょっとこそばいんですよ」
 男は少しだけ髭を残したあごを触り、苦笑した。
「あ、そうやった。ごめんなさい、黒田さん」
「いえいえ。毎日でも来て下さいよ」
「仕事があるから毎日は無理ですよー」ふみ子は笑いながら、窓際の指定席に座った。「ええーと」
「いつものソイラテですか」
「え。はい。じゃーそれで」
 かしこまりました、と言いながら男は踵を返し、再びカウンターへ入った。
 瞬間、ふわりと空気が薫った。
 (香水をつけてるわけじゃないと思うけど。匂いまで似てるってすごい)
 ふみ子は店内を見渡した。
 店内は柱や梁といった建材を除き、インテリアもすべてチャコールグレーで統一されていた。椅子も、テーブルも同色。ふみ子が座っている対面の壁の席には、たまに見かける常連客の姿があった。
 (お洒落なお店だけにお客さんもお洒落。あの美人さんも、黒田さん目当てで来てはるんかな?)
 ふみ子は椅子に座り直し、うーむと唸った。
 四方の壁には、これもモノトーンの絵が額装され、飾られていた。
 (あれも気になるなあ。お洒落やとは思うけど)
 B0サイズの巨大な絵はすべて裸婦だった。
 描かれている女性は同一だった。肌が白くて豊満なスタイルだったが、目の少し離れた個性的な顔で、ふみ子の目には美人とは映らなかった。そして、だからこそ気になった。
「お待たせしました」急に声をかけられ、ふみ子の体は跳ね上がった。「ソイラテです」
「あ。ありがとうございます」
 グラスを黒いコースターの上に置き、黒田はトレーを小脇に抱えた。
「きれいな色のシャツですね」
「あ、これ」ふみ子は紺色のシャツの襟もとを引っ張った。「めっちゃ安物なんですよ」
「ふみ子さんはスタイルいいから。ぱりっとしたシャツとか似あいますよね」
「いやーそんなそんな。わたしなんて全然」
 ふみ子は口元だけで笑い、ソイラテにシロップをどぼどぼと注いだ。そしてストローを差してがらがらとかき混ぜた。
「ふみ子さんはどうしてご贔屓してくださるんですか?」
「え」
「いや。最近特によく来て頂いているから」
「あー……。それは」
 ふみ子は顔が熱くなるのを感じた。ソイラテを一口飲み、常連客の方をちらりと伺った。
「えーと。深い理由、とかはないんですけど」必要以上に小声になった。「あのですね」
「はい」
 黒田が顔を寄せた。
「黒田さんが似てるんです。死んだ兄に」
「……お兄さん?」
「はい。話し方とかは違うんですけど。顔の雰囲気とか、ちょっとした仕草とか。あと……」
 匂いも似てるんです、と言いかけてふみ子は、言葉とともにこみ上げかけた熱いものを飲み込み、ソイラテで流し込んだ。
「そうだったんですか」
「はい」
「お兄さんとは仲良しだったんですか」
「……はい。わたしにとってはヒーローみたいな、すごくかっこいい兄でした。大好きでした」
「なるほど」
 座ってもよろしいですか、とふみ子にことわり、黒田は対面の席に座った。
「嬉しいです、すごく。そんな人と似てるなんて」
「似てます。でも顔は黒田さんの方がかっこいいですけど」
「ありがとうございます」
 黒田は顔をくしゃりと崩して笑った。ふみ子も笑った。聞くなら今しかないかもしれない、と思った。
「……黒田さん、あの」
「はい」
「あのですね」
「さっき見てらっしゃいましたよね、絵」
 ふみ子は後ろめたさを感じ、また常連客の方をちらりと見た。
「変ですよね。あんな大きな裸の絵が、店に何枚も」
「いや、変っていうか。ちょっと変わってるな、って思って。でもお洒落やな、とは思います」
「お洒落?」
「はい。なんか、いかにもカフェっぽいというか、わざとらしい絵が飾られてるんじゃないから。どーんと裸の絵なんて、本当に好みで飾ってはるんやろな、って感じで。そういうところがセンスいいって思います」
 本当に好みで、というところに少々力を入れてふみ子は喋った。
「へー。そういうふうに感じられるんですね」
「少なくともわたしは、そう感じました」
「なるほど。わからないもんだなあ」
 黒田は入り口すぐ横に飾られた絵に視線をやった。その絵の中のモデルは全裸で横座りし、左手に体重を預け、右手で少し恥ずかしそうに腹を隠していた。
「僕はあの絵が一番好きなんですよ。よく知っているポーズだから」
「……え?」
 ふみ子は伏せていた顔を上げた。
「あの絵のモデルの子がね、よくあの座り方をするんです。普段から」
「……あー……そうなんですか。へー」
 ふみ子は黒田から目が離せなくなっていた。
「彼女なんですよ、僕の」黒田はくったくのない笑顔で言った。「同棲してるんです」


「随分久しぶりやね」
「そう……ですね。前に来たのがいつか思い出せないから」
 ふみ子はぼんやりと向田医師の顔を見、それから七三にわけられた髪を見た。向田はカルテをめくり、ふみ子が以前に来院した記録を見た。
「まあ病院なんて来ないにこしたことないからね」
 向田の言葉にふみ子は曖昧に頷いた。
「どうしたん? ちょっと心ここにあらずって感じやけど。なんかあった?」
「いや、これは。最近ちょっとだけプライベートでショックなことがあって」
 向田はカルテにペンを走らせた。
「いや、書くほどのことじゃ」
「それは医者が決めることやから」向田は苦笑した。「みんなここには、心の重荷について話しに来てるわけやからね。で、何があったの? 言いにくい?」
「うーん……ほんまに大したことじゃ……」
「失恋?」
 ふみ子の体がぴたりと止まった。向田はまたペンを走らせる。
「え、先生。失恋って書いたんですか今」
「書かないよ」
「ですよね」
「でも恋の悩み?」
「まあ、そんなとこです」
「ふーん」
 机に向かっていた向田はペンを置き、ふみ子に向き合った。
「話してると、思ったより元気そうでよかったけど。で、前の症状についてはどんな感じ?」
「それは、」ふみ子はこくりと頷いた。「ほとんどなくなりました」
「色も香りも、しっかり感じるようになってる?」
「はい」
「厭世観の方はどう」
「はい。……それも」
 向田は頷き、再びカルテに書き込んだ。
「職場はどう? ええと、文具屋さんやったっけ」
「すごく楽しいです。大変なこともありますけど」
「あ、ひょっとして」向田は顔だけをふみ子に向けた。「その恋は、職場で?」
 ふみ子は大きく手を振った。
「いやいや。違います。まったく別の場所で」
「ふうん。そうか」
「……先生、あの」向田は目で相槌を打った。「先生は絵に興味がありますか」
「いや、興味はあんまり。大学院では勉強してたけどね。もちろん心理学の側面から」
「心理学?」
「こういう絵を描く人はこういう心理状態だ、っていう勉強」
「あー。そっか」
「なんで?」
「えっと」ふみ子は唾を飲もうとした。が、口の中が乾きすぎていてうまくいかなかった。「自画像を描く人ってどんな気持ちなんやろ、って思って」
「自画像は心の鏡や、って言われてるね」
「心の鏡?」
「うん。ダイレクトにわかりやすく、その時の気持ちが自画像には表れる。不安な時に描いた自画像は不安そうな顔に。幸せなら、自画像はおのずとそういう顔になるみたい」
「そうなんですか」
 ふみ子は墨黒の裸婦画を頭に描いた。絵の中の女性はどれも、ふみ子には無表情に見えた。
 あれは全部自画像なんですよ、と黒田は言った。
「ともみという子なんです。絵の勉強をしているんです。あれは全部ともみが、自分で自分を描いたんですよ。Bの鉛筆を一本だけ。それしか使わないんです。すごくないですか? 普通は2Hくらいから4Bくらいまで、色んな鉛筆を使って筆致をわけるのに。トンボというメーカーの、モノって鉛筆です。文具のプロのふみ子さんならご存知ですよね? どこにでも売られている、ありふれた鉛筆一本だけを使って、ともみはボードに自分を刻み込んでいるんです。あれらの絵は、ともみの命そのものです。燦然と生きているともみの、命がほとばしっているんです」
 自分の言葉に興奮して目を輝かせてゆく黒田の姿を思い出し、ふみ子は暗い気持ちになった。そして黒田の科白に、どこか釈然としないものを感じた。
 診察を終え、受付で財布を出したふみ子は、次回の予約について尋ねられた。気持ちは依然沈んでいるものの、向田と話して少し楽になったふみ子は、とりあえず予約を断った。
 病院を出てエレベーターに乗り、一階で降りたふみ子は、病院のある雑居ビルのすぐ隣のコンビニに入った。コンビニ内をぷらぷら歩き、雑誌を物色し、やっぱり二週間後くらいにもう一回来よう、と思った。そして予約を入れるためにコンビニを出た。
 雑居ビルに入ろうとしたふみ子はエレベーターに乗り込もうとする男を見て、思わず荷物を取り落しそうになった。後ろ姿だが、見間違いようもなかった。
 男を乗せたエレベーターは十階で止まった。ほんの十分ほど前までふみ子がいたフロアだ。
 その日も黒田は、いつもと同じ黒いシャツを着ていた。


 カフェ墨黒のいつもの席に座ったふみ子は、結局またここへ来てしまったことを少し悔いていた。
 (もう彼女おるしなー黒田さん)
 でも、やっぱり顔が見たくなる。それもあるし、とふみ子は思う。
 (黒田さんも、ストレスやろか? あの心療内科、かかりつけなんかな)
 知りたくても、まさか病院へ行く理由を尋ねるわけにはいかない。ふみ子はソイラテにささったストローを噛んだ。
「ふみ子さん。いらっしゃい」
 厨房の奥から出てきた黒田が微笑みかけた。ふみ子もつられて笑顔になったが、自然な笑顔にはならなかった。
 この優しい微笑みを、あの絵の中のひとは独占している。この微笑みの本当の魅力を、一番知っているひとは決してわたしじゃない。というか、黒田さんが営業用スマイルなんかする必要のない場所に、あのひとはいるんだ。そんな思いばかりが脳内に湧いて出て、ふみ子はまた暗い気持ちになった。
「あれ、何かありました?」
 ふみ子は顔を上げた。
「どうしてですか」
「何だか元気がないから。ふみ子さん、いっつも元気なのに」
 ふみ子は力なく微笑んだ。
「わたしだってしんどい日もありますよ」
 声色はふみ子が思っていた以上に重く、尖っていた。慌ててふみ子はソイラテを、滑稽なほど力強く吸い上げた。
「……そりゃそうですよね。すみません。僕、思い込みが強くて、たまに失礼なこと言っちゃって。ごめんなさい」
 黒田は丁寧に頭を下げた。
「いや、そんな。違うんです。わたしの方こそごめんなさい」
「ううん、僕がぶしつけだったんです。ふみ子さん、あの絵に興味持ってくれてたから。ちょっと甘えちゃってました」
「あ、いや。それはいいんですけど。いや、でも。絵には興味あります。すごく」
 黒田はふみ子の顔を伺うように見た。
「……本当ですか?」
「ほんまに。ほんまです」
 ふみ子は何度も頷いた。
 厨房から、黒田を呼ぶ声がした。
「すみません、ちょっと待ってて下さいね」
 黒田が足早に厨房に入ると、ふみ子は大きくため息をついて椅子に深く腰かけた。
 (あー。下手くそやなあ。ほんまに下手くそ、わたし)
 ふみ子は憮然とした表情で、黒田が一番好きだという〈横座りする女〉の絵を見た。
 依然、そこには感情の起伏が感ぜられなかった。
「ふみ子さん」
 黒田はいつの間にか厨房から出てきていた。そしてまたふみ子の前に座ると、持っていた乳白色のクリアファイルをふみ子の前に置いた。
「これを見てもらえませんか」
「なんですか、これ」
 中をあらためようとしたふみ子を、黒田は手で制した。
「ごめんなさい。中は、一人の時に見てほしいんです」
「え」
 ふみ子はファイルを、両手で挟むように持ってみた。触った感触から、中には数十枚の用紙が入っていることがわかった。
「ここに飾っているもの以外の、ともみの描いた裸婦画の写真が入っています。三十枚くらい入っています。興味を持って頂いてるようだから、ふみ子さんにはこれを見てほしいなって思って。これには、彼女の才能が詰まっています。近い将来、必ずともみの名は画壇に現れるでしょう。ともみの芸術は、埋もれるものでもくすぶるものでもないんです。人の目に晒され、人の心に刺さってゆくべきものなんです。……ふみ子さんにも僕同様、彼女が羽ばたいてゆくのを見ていてほしいと思うんです」
 それまでに見たことのない、強い光を放つ黒田の目にふみ子は捕縛されていた。まくしたてるように一気に話した黒田は、力を抜いて背もたれに体を預けた。
「驚かせてごめんなさい。厚かましいことを言っているのは自覚しています。でも、ふみ子さんならわかってくれると思って」
「わかるって……何をですか」
「ともみの才能を、です」
 ふみ子は黒田から目を逸らした。もう見ていられなかった。
 そして気づいた。
 (……ほんのわずかな間やのに……)
 前に会った時とは比べものにならないほど、黒田に惹かれていることに。


 深夜。自室でふみ子は一人、写真を見ていた。
 部屋の電気は消し、机のスタンドだけを点けていた。
 六十ワットの光量が、その絵が持つ特異な世界を引き立てているように見えた。
 (……これは確かに、あの店には飾られへんわ……)
 写真はB5サイズでプリントされていた。プリントの裏面には、走り書きのような文字でそれぞれの絵に対するコメントのような、詩のようなものが添えられていた。
「乳房を揉みしだく女。神の不在は、女の痴態によって補完される」
「白い腿。黒い茂み。はじまりと終り。阿形と吽形」
「どくどくと流れる粘液。女の背を濡らす汗」
「シーツに染み入った経血は、もはやどす黒く乾いている」
 それらの文章は、表面の裸婦画と自然に一致していた。文章が絵より先にできたのか後にできたのか、そしてその文章を書いたのが黒田なのかともみなのかはふみ子にはわからなかった。
 ただ、ひどく淫らだった。
 (こんなものが芸術? この、やらしい絵が?)
 理解できなかった。
 女の背中に粘り気を帯びた液体が飛び散っている絵を見ていて、ふみ子は気分が悪くなってきた。
 (……まさか。この飛び散ってるやつって)
 想像したくなかった。ともみなる人物が、どういうシチュエーションでこれらの絵を描いているかは黒田から聞かされていなかった。あえて聞かないようにしていた。
 (これって……黒田さんの)
 これ以上は見られない。そう判断したふみ子はプリントを乱暴にかき集め、クリアファイルに仕舞った。そしてスタンドの灯りを消し、ベッドにもぐりこんだ。
 それから三時間以上、ふみ子は眠れなかった。物音ひとつしない部屋の中、自分の鼓動がやかましく感ぜられた。
 黒田のことを考え、胸が締め付けられた。
 絵のことを考え、下腹部に蝋燭のような小さな火が灯っていることに気付いた。
 (嫌い。大っ嫌い)
 ふみ子が泥のような眠りに落ちたのは、出勤の一時間前だった。


「……店長。確認お願いします」
 ふみ子は完成したばかりの発注リストを巌志に渡した。
「うん。ありがとう」
 立ったままで巌志はリストに目を通した。目を通しつつ指定席まで歩きかけ、立ち止まってふみ子に声をかけた。
「間違ってるよ」
「え」
「ほら、ここ」
 ふみ子は巌志のそばに駆け寄った。
「最後だけ違うと思う。これ、君がとったモレスキンのお客さん」
「はい」
「あのお客さんが言ってるモレスキンの仕様、合ってる?」
「……あ……」
 ふみ子は唇を噛んだ。
「ね」
「はい。……すみません、店長」
 巌志は、頭を下げるふみ子にプリントを渡した。
「うん。まあ、いいけど。出し直して」
「はい。すぐに」
「ふみ子さん」
「……はい」
 パソコンのあるレジ横に走ろうとして、ふみ子は振り向いた。
「最近寝れてる?」
「え」
「いや。夜、よく寝れてるのかな、って。今日だけじゃなくて、最近なんか眠そうやからさ。プライベートに踏み込むのもあれやけど」
 ふみ子は両手おまえで組んで姿勢を正し、巌志にきちんと向き直った。
「ぼーっとしてますよね。……はい、自覚してます」
「心配事でもあるの?」
「いえ、心配事っていうか……。なんでもないんです。以後、気を付けます」
 巌志はしばらく無言でふみ子を見ていた。ふみ子は目を逸らしたり、また巌志の目を見たり、を繰り返した。やがて巌志がふうっ、と息を吐いた。
「……ふみ子さんは正直やな」
「……え」
「ごまかしたりしないね」
「…………」
「失敗はね、ふみ子さん。失敗することはふみ子さんの給料に入ってるから。別にええよ。嘘だけつかんといてくれたら。ふみ子さんはそうやって正直に、真面目でいてくれたら、それで」
 ふみ子は巌志の顔を見た。
 ふみ子には巌志の顔が、泣き出す寸前の子どものそれに見えた。
「そんなんいやです店長、わたし。正直なんかじゃありません。嘘だってつきます」
 巌志は沈黙した。
「正直じゃないし……真面目でもないんです、わたし」
「ふみ子さん。何かあった?」
「店長こそ――」
 思っていることを勢いに乗って吐き出しそうになり、あわててふみ子は口をつぐんだ。
 もう一度、巌志は深く息を吐いた。
「もうそろそろ来る時間やと思う」
「……あ」
 ふみ子は腕時計を見た。午後三時を指している。
「時間にはきちんとした奴やったから、昔っから」
「店長の同級生さん」
「そう」
「この辺りにお住いの方でしたよね」
「うん、まあ……この辺りっちゃあこの辺りかな。もうちょっとミナミ寄りやけど」
 ふみ子は頷き、しおしおとパソコンの前に座ってファイルを開いた。
「今、カフェやってるんやて。そいつ」
「へえ。すごいですね。オーナーさんですか」
「そう。で、僕が文房具店をやってること言ったら、鉛筆を買いに行くわ、って」
「鉛筆ですか」
「うん。トンボのモノをね」
「え」
 ふみ子は顔を上げた。
 と、入り口の前に立つ男と目が合った。男は黒いシャツを着ていた。
「……え」
 男とふみ子は同時に、目を大きく見開いた。
「黒田さん」
「ふみ子さん。……いやあ、すごい。すごい偶然」
「え。何、ふみ子さん。二人はすでに知り合い?」
「あー、はい。えーと知り合いというか」
「多田野。ふみ子さんは、俺の店にね」
 黒田は言葉少なく、しかし丁寧に、ふみ子が自分のカフェに足繁く通ってくれている常連客であることを巌志に説明した。
「狭いな、世間って」
「ほんとだな」
 ふみ子が良く冷えた缶コーヒーを黒田に手渡した。
「黒田さんのお店みたいなコーヒーじゃなくてすみません」
 黒田は苦笑した。
「うちはカフェですよ。文具店から美味しいコーヒーが出てきたら僕がへこみますよ」
「店はこの辺なんやろ」
「そう。こっから歩いて近いよ」
「そっか。いや、黒田が店をなあ」
「おまえもだよ。いい店だな、味があって。いや、多田野らしい店だよ」
「黒田の店も凄そうやな。なんせ変わり者のヘンコやったからな、昔から。どう、ふみ子さん。こいつの店、内装とか変じゃない?」
 内装。ふみ子の心臓が大きく一つ鳴った。
「ほれ、黒田」
 巌志は黒田に、プラスチック製のペンケースに入った新品のモノを渡した。
「いつも思うけどこの鉛筆、立派なケースに入ってるよな」
「うん。昭和三十八年に発売された当初から、一本六十円もする最高級鉛筆としてプラスチックのケースに入って売られてた。当時から製図とかデッサンとかに最適な、完全プロユースとして作られてた鉛筆やな。様々な業種の職人さんとかに、この鉛筆じゃないとあかん、って人は多いよ」
「ふーん。モノってのはどういう意味なの?」
「唯一、無類、そんな意味。確かギリシャ語やったかな」
「そうか。唯一、無類か。ともみの芸術のために存在するような鉛筆だな」黒田は満足そうにため息をついた。「そうだ。ふみ子さん」
 黒田は組んでいた足を解き、椅子にきちんと座りなおした。
「あの写真。絵、見てくれました?」
 どきん。さっきより大きく心臓が鳴った。
「……はい。見ました」
 黒田が安心したように笑った。
「どうでしたか? 感想が聞きたいんですけど」
「あ。でも、ここじゃ」
 ふみ子は巌志の顔をちらりと見た。黒田も巌志の顔を見た。
「大丈夫、多田野なら」
「え、何。席外そうか?」
 黒田は巌志に手で制した。
「ふみ子さん、ここで言ってほしいんです。あの芸術家の素晴らしさを。ともみの鉛筆画のすごさを。あれを見たふみ子さんならわかりますよね。お店に飾ってるのは、ほんの一部なんです。ともみの芸術の本当の凄さは、ふみ子さんに渡した方にこそあるんですよ」
 ふみ子は言葉に詰まった。立ち尽くしたまま、目だけがせわしなくきょろきょろと動いた。
「ふみ子さんの言葉でいいんです。等身大の、ありのままの言葉でいいから。お願いします。淫靡(いんび)さの中から溢れ出るともみの美しさとか荘厳さ、可憐さとか」
 ふみ子の中で何かが、音を立てて弾けた。
「……わたしには……美しさとか、荘厳とか、可憐とかはまったく感じられませんでした」
 身振りを交えて話していた黒田の動きが止まった。
 それを見て、ふみ子の中で弾けた何かに火が点き、燃え上がった。
「っていうか、淫靡さだけしか。もっと言うと、エロさしか感じられませんでした。黒田さんはあの人、ともみさんのことを一体どんなふうに見てはるんですか? 少なくともわたしには……とにかく芸術とか命とか、そんなものは少しも感じ取れませんでした」
 黒田の顔からは完全に笑顔が消えていた。両手は膝の上に置かれたまま、ぴくりとも動かなかった。
「黒田さんは命そのものっておっしゃいましたよね? あの絵には、燦然と生きてるともみさんの命がほとばしってる、って。わたし、命やのに白黒なのはおかしいって思うんです。なんか暗いっていうか……だって世界にはこんなに色彩が溢れてて。赤からは情熱とか、青からは冷静とか、黄色からはエネルギーとか、恋のピンクとか。わたしの言葉でいいって黒田さんがおっしゃったから言いますけど。生きるって、命ってもっとパワフルでカラフルなものやと思います。……だからあの絵は……わたしは好きじゃないです」
 一瞬、ふみ子の意識は遠のいた。
 ほんのわずか、いつかのバスの時のように、世界から彩度が損なわれた。
 ふみ子は吸いすぎていた空気を大きく吐き出した。それでも呼吸は乱れた。
「……ふみ子さん」黒田の口は動かなかった。声をかけたのは巌志だった。「ふみ子さん。ふみ子さんは、」
「いいよ、多田野」
 今度は黒田の口が動いた。
「ふみ子さんは間違ってる。間違ってると、俺は思う。命についての考え方が」
「……一体何が、」ふみ子ははあはあと息をついた。「一体何が間違ってるんですか」
「命っていうのは、……」
 黒田は話した。
 しかし、怒りをあらわにした黒田の目がふみ子には強すぎて、理解が追い付かなかった。
 気づけば、黒田はふみ子から目を逸らし、黙り込んでいた。
「……黒田さん。あの……」
「写真」冷たい口調だった。「返してもらえますか」
 ふみ子は口を開きかけ、閉じた。そしてのろのろとカウンターの下に置いてある自分のバッグから乳白色のクリアファイルを取り出し、黒田に渡した。
 黒田はファイルを受け取るとふみ子と目も合わさず、巌志が用意しておいた商品と一緒に鞄に仕舞いこんだ。
「じゃあ、ありがとう多田野。また来るよ」
「……ああ。今度はゆっくりな。また酒でも」
「そうだな」
 黒田は軽く手を上げると固い表情のまま、いわし文具店を出た。
 (……思い出した。発注リストの修正)
 一刻も早くパソコンのある場所へ行かなければならなかった。
 しかしふみ子の足は動かなかった。
 靴と地面が針で縫い留められたかのように、ふみ子の意志では動かすことができなかった。


 最近の中で、とふみ子は思った。
 (今日はトップかな。いや、ワーストか)
 足は鉛のように重かった。今日のふみ子には、自宅までの距離が果てしなく感ぜられた。
 (なんであんなこと言ってもうたんやろ)
 すれ違う恋人たちの楽しげな姿は正視に堪えなかった。
 (あ、予約いつやったっけ、病院。また行かんと)
 視線を落とすと、自分のシャツが目に入った。黒田が褒めた、紺色のシャツだった。
 (もうこれ着るのもやめよう……)
「あの……」
 進行方向に自分以外の人間がいなかったため、かろうじてふみ子は声をかけられているのが自分だとわかった。
 力なく振り返ると、ふみ子にとって実に意外な人物が立っていた。
「堀ふみ子さんですよね」
「……そうですけど」
「突然ごめんなさい。あの、わかります? わたしのこと。ほらカフェで」
「わかります。墨黒の、常連さんの」
「あー! 覚えててくれた。良かった」
 女は大きな口を開けて笑った。
 (わあ。こんな顔してもやっぱり美人や、このひと)
 ふみ子は黒田と話す時、ちらりと女の顔を盗み見ていたことを思い出した。もう遠い過去のことのように思えた。
「ほんとに突然でごめんなさい、堀さん。ちょっとだけ付き合ってもらえません?」
「え? 付き合うって……」
「話があるの。弟のことで」
 ふみ子は思わず、まじまじと女の顔を見た。
「あ、ごめんなさい。黒田のことで。彼、わたしの弟なの」


 十分後、ふみ子と女は喫茶店で向い合せに座っていた。
 墨黒とは違い、いかにも純喫茶、といった風情の店だった。ふみ子はアイスカフェオレを頼んだ。
「カフェオレが好きなんだ」
「え? あ、はい」
「墨黒でもずっとオレを飲まれてたから」
「あそこではいつもソイラテを飲んでました。アイスコーヒーだと、ちょっと胃が荒れちゃうんです。えっと……」
「……ああ、ほんとにごめんなさい。わたしうっかり者で。辻井七瀬と言います。旧姓は黒田です。よろしくね」
「あ、はい。辻井さん。よろしくお願いします」
 ふみ子はぺこんと頭を下げた。
 (ほんま、そう言われてみれば。全然気づかへんかった)
 目鼻立ちがそっくりだ、とふみ子は思った。
「似てるってよく言われるの」
 ふみ子の言葉に先回りして七瀬は言った。
「弟とよく話してたから、ふみ子さん。気づかれちゃうんじゃないかなって思った」
「あー……いや。そうですね。……よくお話ししてました。すみません」
 小さく頭を下げるふみ子に、七瀬は大きく両手を振った。
「違う違う。そうじゃないの。謝ることじゃないの。むしろわたしとしてはありがたい感じ。今のあの子には、そういうの必要だと思うから」
 ふみ子は顔を上げた。
「今の、あの子?」
「そう」
 七瀬はカップを取り、コーヒーをすすった。そしてバッグから煙草を取り出し、いいですか? とふみ子に聞いてから一本咥えて火を点けた。
「辻井さんはあのカフェの近くにお住まいなんですか?」
「ううん。近いというわけじゃないの。電車を乗り継いで、三十分くらい」
「でも、わたしが墨黒に行った時は大体いらっしゃいましたよね」
「そうだね。いたと思う」
「弟さん想いなんですね。お店が繁盛してるか心配になって」
 つい試すような言い方になってしまう、とふみ子は思った。
「……気になってると思うから、もうはっきり言っちゃうね? わたしはあの子を監視してたの。妙な行動をとらないか」
 ふみ子は黙って、話の先を促した。
「絵の話、したでしょ? あの子と。あれを見て、ふみ子さんはどう思った?」
「どうって……」
「いいよ全然、遠慮しなくても。本当にちゃんとした他人の意見が聞きたいの」
 ふみ子は俯き、軽く唇を噛んだ。そして心を決めて七瀬の目を正面から見た。
「……カフェの中に飾られてる絵は、なんかちょっといいな、って思ったんですけど。その後に黒田さんが見せてくれたプリントアウトされたやつが、ちょっと。わたしには、なんかやらしいだけの絵に見えました。黒田さんは、あれが彼女さんの芸術やとか命がほとばしってるとかおっしゃいましたけど。わたしにはそういうの、感じられなくて。白黒やし、暗いし……鉛筆だけで描いてはるようですけど、技法とかもよくわからないわたしには、あの絵はなんか……好きにはなれないです」
 七瀬は黙ってふみ子の話を聞いていた。その沈黙が怒りに感ぜられ、ふみ子は思わず七瀬から目を逸らした。
「技法とかは、わたしもそんなにはよくわからないんだけどね……基本的にあの絵は全部ファレロだから」
「え? 何ですか?」
「ルイス・リカルド・ファレロっていう、スペインの画家。十九世紀の人で、神話とか悪魔とかに絡めた裸婦を描き続けたの。あの絵は全部、ファレロの模写なの」
 ふみ子は肌が粟立つのを感じた。
 慌てて七瀬の目を見たが、その瞳からは何の感情も掴み取れなかった。
「……模写?」
「うん。少なくとも、あの店に飾られているのは一つ残らず、ね。わたしもあの子の絵を全部見たわけじゃないけど……あ、わたしは仕事で絵画も取り扱ってるから間違いないよ。構図とかポーズとか、体のラインの描き方とか。あれは完全にファレロ」
 七瀬はこともなげに言った。そして灰皿に放置され、短くなった煙草を少しだけ吸ってからもみ消した。
「そこまでわかってるんやったら……言ってあげないと」
「何を?」
「決まってるやないですか。 黒田さんに、彼女さんの描いてるのはオリジナルじゃないって。黒田さん、彼女さんの才能を信じ切ってますよ」
 七瀬は渋面を作り、髪をくしゃくしゃと掻いた。
「できないのよ、それが」
「なんでですか。嘘ついてるわけじゃないですか、彼女さん。いつ、どんなタイミングで描いてはるかは知らないですけど。その、有名な芸術家の絵を真似して、それを黒田さんに自分の絵や、って言ってるわけでしょ。黒田さん騙されてるんじゃないですか」
「騙されてるとか、そういうわけじゃなくてね……ふみ子さん。あなたには言ってしまったけど……いや、言わないといけないと思ったから呼び止めたんだけど。できないの、それ。そっとしておいてほしいの」
「なんでですか。なんで言ったらあかんのですか」
 七瀬はため息をつき、新しい煙草に火を点けた。
「いないのよ」
「……いない?」
「うん。いないの。彼女なんてどこにも」
「どういうことですか」
「ともみなんて女、この世に存在しないの。黒田の脳が作った、ただの妄想ってこと」
 ふみ子は混乱の極みにいた。
 とりあえず、目の前にあるカフェオレをごくごく飲んだ。そして深く息をつき、数秒間外の景色を見たのち、また七瀬の眉間の辺りに目をやった。
「じゃああの絵を、あのヌードを描いてるのは……」
「そう。黒田自身なの。自分で描いて、それを彼の脳内だけにいる理想の彼女が描いたことにしてるの。もちろんわたしは彼じゃないから、どういう意識が働いてそんな行動を取っているのかは皆目見当がつかないけどね。……昔ね、あの子がまだ幼い頃に家庭内でトラブルがあって……とても人様に言えるようなトラブルじゃないんだけど、それ以来あの子はあらゆる女性に対して心を開けなくなったの。肉親であるわたしを除いてね。急に発作を起こしたり、いろんな感覚が退行したりもしたの。今もずっと心療内科に通ってる。でもどんな医者にかかっても、当然あの子の根本的な傷を跡形もなく消すことなんてできないし、脳内の理想の女を追い出すことなんてできないの。たぶん、ずっと」
 七瀬は煙草を吸い、点けたはずの火が消えてしまっていることに気付き、もう一度ライターで火を点けた。
 七瀬は大きく吸い込んだ煙を歯の間から音を立てながら吐いた。
 この人も店長と同じ吸い方をする、とふみ子は思った。
「……でも言ってあげないと」
「どうして?」
「だって。妄想の彼女と恋しているなんて。不健全ですよ。体温も匂いもない、触れることもできないひとのことがずっと好きやなんて。黒田さんかわいそうですよ」
「わからない。どうして黒田がかわいそうなの?」
「……どうしてって……」
「ふみ子さん。あなたの周りにいる大切な人のこと、あなたは全部実際に存在しているって証明できる? あなたが体温を、色を、匂いを感じてるって、一体誰にどうやって証明できるの? わたしは? 今あなたの目の前にいるわたしがあなたの妄想じゃないって、どうやって証明する? 存在って曖昧なものよ。感覚って相対的なものよ。あの子の中に、その彼女は確かにいるの。それであの子は心のバランスを取ってるのよ。じゃあ、それで良くない?」
 ふみ子は沈黙した。頭がこんがらがって言葉が見つからなかった。照明の加減か、七瀬の目が少し潤んでいるように見えた。
「あの子ね、今すごくバランス取れてるの。そこには、ふみ子さんの影響もあると思う」
「わたしの?」
 ほんの少し、ふみ子は七瀬の言葉に期待した。
「うん。あなたが現れて、あなたと絵の話をするようになって。あの子、ちょっと変わったのよ。すごく笑うようになったし……。わたしと二人でいる時も、あなたの話をするし。目がきらきらしてきた気がする。だからお願い。彼の家族としてお願いします。あの子と話してくれるのはすごく嬉しいんだけど……あの子をあんまり刺激するようなことはやめてほしいの。すごく一方的な話だとは思う。大人なんだから、そんなこと自分で判断するべきことだとも思う。でも……あの子にはそれが判断できないのよ。普通の大人がするべき判断を、あの子はできないの」
 七瀬は俯き、手を伸ばした。そしてテーブルの縁に置かれたふみ子の両手の上に、自分のそれを重ねた。
「ごめんなさい。お願いします」
 絞るような声で七瀬は言った。
 ふみ子はただぼんやりと、俯いた七瀬のつむじの辺りにある何本かの白髪を見ていた。


 その日、ふみ子はハンチングを被り、えんじ色のパーカーを着ていた。どちらも黒田に見せたことのないアイテムだった。
 ふみ子の前、三十メートル辺りを黒田が歩いていた。この距離をキープすると決め、足音を立てないようにふみ子は黒田の後ろを歩いた。
 こんな探偵のような真似は絶対にしたくなかった。しかし、そっとしておいてと言われてあっさり納得できるほど、ふみ子は大人ではなかった。どろどろした嫉妬心がふみ子を突き動かしていた。
 時折、黒田は左横を向いて誰かに話しかけているようなそぶりを見せた。しかし、そこには誰もいない。少なくともふみ子の目には、黒田が誰もいない空間に向かって一人で話しているようにしか見えなかった。
 黒田がそういう様子を見せる度、ふみ子は携帯で写真を撮った。
 黒田の横顔は優しかった。ふみ子は黒田のそんな表情を見たことはなかった。自分に向けられていた優しい笑顔とはまるで質が違うと思った。何度となく見ているうちにふみ子の胸は詰まり、涙が出そうになった。
 黒田は西本町からそのまま堀江辺りまで店を覗きながら下った。そしてメインストリートから外れ、細い横道を抜け、一軒の木造アパートの一室に入った。
「ここが……黒田さんの」
 古い建物だった。ふみ子の中にある黒田のイメージとそのアパートは、ビジュアルにおいて大きく乖離していた。
 ふみ子は三十分ほどもアパートの周辺をうろうろし、思い切って裏に回った。裏は空き地だった。スクラップと思しきぼろぼろの車が一台、アパートと空き地を隔てる塀のすぐそばに停まっていた。
 (ごめんなさい。ちょっと上がらせてもらいます)
 心の中で詫び、ふみ子はボンネットの上に乗った。
 塀から顔を恐る恐る出すと、一階の角にある黒田の部屋の中がはっきり見えた。
 部屋のすべての壁には、隙間なく絵が飾られていた。ふみ子が自室で見た、プリントアウトされた絵の原画のようだった。
 飾られているもの以外にも、巨大なキャンヴァスやイラストボードがあちらこちらに立てかけられていた。それら膨大な絵に包まれるようにして、部屋の真ん中に黒田が胎児のように体を屈(こご)めて寝そべっていた。
 ふみ子には黒田を取り囲む絵があたかも鳥の巣のように、そしてその中でまどろむ黒田がまだ孵る前の卵のように見えた。
 黒田と、絵と絵の道具と本棚以外、その部屋には何もなかった。カーテンすらなかった。
 ふみ子はボンネットから降り、アパートの正面に周った。そして黒田の部屋の前に立った。
 ドアノブに触れた。一瞬躊躇し、ゆっくりと左に回してみた。案の定、鍵はかかっていなかった。
 ふみ子はスニーカーを脱ぎ、高い框を上がって家の中に入った。台所と兼用になった四畳半を抜けると、隣はもう黒田が横になっている六畳間だった。
 ふみ子は息をつめ、耳を澄ませた。
 規則正しい、深い寝息が聞こえた。
 陽はすでに傾いている。淡いオレンジの西陽が部屋に差し込んでいた。
 時計のかちこち、という駆動音と黒田の寝息以外、ふみ子には何も聞こえなかった。
 (黒田さん)
 ふみ子は心の中で呼びかけてみた。黒田は目を覚まさなかった。
「黒田さん」
 今度は微かな声で呼んだ。黒田はまだ目を覚まさない。
 ふみ子は黒田のそばに座り、髪に触れてみた。やわらかい、くせのある髪だ。そしておずおずと、頬にも触れてみた。
「黒田さん」
 二度目の呼びかけに、黒田はうっすらと目を開けた。
「…………」
 口が小さく動いたが、何を言っているかはふみ子にはわからなかった。
 黒田の手がゆるゆると伸び、ふみ子の髪に触れた。
「……黒田さん……」
 黒田はゆっくりと半身を起こし、ふみ子をそっと抱きしめた。
「……黒田さんなんて呼び方やめてくれ」
「……え。……でも……」
 ふみ子も黒田の背に手を回した。
 黒田は抱きしめる腕に力を入れ、ふみ子の頬に口づけた。そのまま髪の匂いを嗅ぎ、耳元に口を寄せた。
 ふみ子の口から熱い息が洩れた。体の力が抜けた。
「いつもみたいに名前で呼んでくれ。ともみ」
 ふみ子の意識は凄まじいスピードで、力いっぱい後方に引き戻された。黒田の腕を振り払い、突き飛ばした。
「黒田さん。わたしです。堀です。ともみさんじゃありません」
 黒田は半覚醒状態で、ぼんやりとふみ子を見た。
「わかりますか? ともみさんじゃないんです。っていうか、ともみさんなんて人、この世に存在しないんです。黒田さん、目ぇ覚まして下さい」
 次第に、黒田の目に光が戻った。瞬きを繰り返し、眉根を寄せた。
「……ふみ子さん……ふみ子さんが、なんでここに」
「ごめんなさい、それは」
「出てってくれないか。ここは俺とともみの部屋で、君が来るところじゃない」
「だから黒田さん。ともみさんなんかいないんです。黒田さんが作った幻なんです」
 心底信じられない、という顔で黒田はふみ子を凝視した。
「何を言ってるんだ? ともみがいないって? 今ともみは出かけてるだけなんだ。じきに戻ってくる。君はともみに会ったこともないから顔もわからないはずだ。一体誰がこの世にいないって? なんでいないなんて君に言える?」
 そう。なんでわたしに、ともみさんがこの世に存在しないなんて言える?
 危うく、ふみ子の脳はまた七瀬と話した時のように混乱しかけた。しかし頭を一回大きく振り、バッグから携帯を取り出した。
「黒田さん。今日黒田さんはともみさんと一日デートしてたんですよね」
「そうだ。してたよ」
「堀江の街を、ともみさんと二人だけで歩いてた。間違いないですね」
「ああ。間違いないよ。なんで知ってんだ?」
 ふみ子は携帯を開き、突きつけるようにして写真を見せた。
「見て下さい。黒田さんが今日、堀江の街を歩いてる時の写真です」ふみ子は画像を次々に送っていった。「ギャラリー。覚えてますよね? その後に覗いた雑貨屋。ショーウインドーだけを見てました。古着屋。ワゴンを物色してます。どうですか? 全部、ぜぇんぶ黒田さん一人しか写ってませんよ写真には。横にともみさん、写ってますか?」
 黒田は絶句し、写真を見入った。
「どうなんですか黒田さん!」
「……こんなもの、でっちあげでしかない」
「……でっちあげ……?」
 黒田はふみ子の目を正面から捉えた。
「嘘だ。こんなもの、たまたまともみが見切れて、俺が一人になった瞬間ばっかりを狙って撮影してるだけだ。二人でいても、ちょっと一人になる瞬間くらいいくらでもあるだろ。なんでだ? なんでこんなものでっちあげる? 君の目的は何なんだ」
 ふみ子は呆然と黒田を見た。
「わたしがそんなことして……何になるんですか……」
「それを聞いてんだよ俺は!」
 不意にふみ子の視界がぼやけた。唐突だった。今起こっていることを飲み込むのに忙しすぎて、泣いていることに気づけなかった。絞り出した声が大きく震えているのを聞いて、ふみ子はようやく自分が泣いていることを知った。
「……ともみさんなんて、いないんですよ……」
「もし俺の中にともみがいないんだったら俺の前に君はいるのか。俺は、君の世界にいるのか。君はこの世界に存在しているのか」
 黒田はうなだれるように俯いた。
 自分が本当に存在しているのか。
 すべては作り事なのではないか。
 誰かによって書かれた巧妙なシナリオの、自分は登場人物の一人にすぎないのではないか。
 かつてふみ子が囚われていた妄想だ。
 やっぱり。作り物の世界のメッキが剥がれはじめたよ。
 そうでしょ? そういうことなんでしょ?
「……ふみ子さん」
 いつの間にか黒田の表情は変わっていた。ふみ子の良く知る、優しい微笑みに。
 しかし、目の色だけは違っていた。
「今日もきれいな色のシャツですね」
「……え……?」
「きれいな墨色だ」
 ふみ子は自分のシャツに一瞬目を落とした。
「……黒田さん。これはえんじ色……」
 突如、ふみ子の体の中心、脊椎から脳にかけた辺りに雷光が走った。情報が線でつながった。
 モノトーンで統一された墨黒の店内。
 黒い鉛筆だけで描かれた裸婦画。
 七瀬の言葉。それ以来あの子はあらゆる女性に対して心を開けなくなったの。いろんな感覚が退行したりもしたの。あなたが体温を、色を、匂いを感じてるって、一体誰にどうやって証明できるの?
 そして文具店での、黒田との口論。命は色彩に溢れているはずだ、というふみ子の意見に対する、黒田の言葉。
 (あの時、最後に黒田さんは言った)
 命っていうのは。
「……黒田さん。黒田さんは……目が」
 黒田の口元は変わらず笑みの形をとっていたが、ふみ子には黒田の目から感情を拾い上げることはできなかった。
 黒田がドアを指さした。
「ふみ子さん。出てって下さい」
 ふみ子はのろのろと立ち上がり、軽く一礼すると部屋を出た。
 そのまま極力何も考えずに御堂筋まで歩いた。黄昏の街を行く人波に自分の姿が溶け込むと、やっと大粒の涙をこぼした。
 誰一人としてふみ子が泣いていることに気付かなかった。
 そのまま泣きながら南へ向かって歩き続け、道頓堀を渡り、千日前通りを抜け、南海難波駅に着いた頃にはほんの少し涙は乾きはじめていた。


「結局、こうなっちゃったのね」
 ふみ子の向かいの席には七瀬が座っていた。いつかと同じ古びた喫茶店で、いつかと同じように七瀬はコーヒー、ふみ子はカフェオレを飲んでいた。
「好きが高じての行動なのもわかってるけど……起きてしまったことだし、しょうがないことなんだけど。それでも身内としては、こんな軽率な行動は取ってほしくなかった。そのためにこないだ話し聞いてもらったんだしね」
 ふみ子は黙ったままうなだれていた。一口も啜られることのないアイスカフェオレのグラスは汗でびっしょりだった。
 七瀬は煙草を咥え、火を点けた。深く吸い込み、大きく吐き出したタイミングを見計らい、ふみ子が口を開いた。
「あの、辻井さん」
 七瀬は黙ったまま、目で相槌を打った。
「あのあと、黒田さんは……」
 五秒間ほど目をつむり、ゆっくり開くと七瀬は話しはじめた。
「今は大丈夫だけど……あのあと何日かは部屋から出てこなかった。三日くらいは、口もきかなかった。四日目くらいにやっと……ちょっと話してくれるようになった。目は死んだようになってて、やつれて、顔色とかも最悪だったけどね。でも、ぽつぽつ話してくれたよ。妄想の恋人のこととか、あなたのこととか」
「……わたしのこと?」
「そう、あなたのこと。やっぱり黒田の中で、あなたの存在はすごく大きくなってたみたいだから。妄想の恋人と、あなたとの狭間で苦しんでた。……一度ね、発作的に目を潰そうとさえした。鉛筆でもってね」
 ふみ子の体がぎゅっと固くなった。
「怪我はなかったんですか」
「うん、大丈夫。そばにわたしがいて良かったけど。……で、そのあともわたしとたっぷり話して、何度もカウンセリングを受けて、一人でも悩んで……多分もう、彼なりに結論は出してるんだと思う」
 ふみ子は唾を飲んだ。
 七瀬は煙草を吸い、また火が点いていないことに気付いて再びライターで点火した。
「ふみ子さん。あなたは彼に選ばれなかったの」
 七瀬は煙を歯の隙間からゆっくり吐き出した。
 まるで墨黒の店内にいるかのように、ふみ子の視界はしばし彩度を失った。
 七瀬のすぐ後ろの壁に風景画が飾られていた。ふみ子にはそれがモノトーンに見えた。黒田の描いた絵のように。
「あの子の、」言いかけて、七瀬はまだ長い煙草をもみ消した。「あの子の生活に張りを与えてくれたことには本当に感謝しています。ありがとう、ふみ子さん。たぶんそれは、あなたにしかできなかったことだから……。でも、もう……」
「……わかりました」
 ふみ子は精一杯の余力で、にっこりと微笑んだ。
「もう黒田さんの前には二度と姿を現しません。絶対に」
 じっとふみ子を見ていた七瀬は、うんうんと小刻みに何度も頷いた。
「わかってくれてありがとう」
 ふみ子は腕時計を見た。つられて七瀬も見る。
「すみません。わたし、もう仕事に行くんで」
「ああ、わたしも。じゃあ、これで」
 七瀬はコーヒーの残りを飲んだ。ふみ子はカフェオレに手を付けなかった。
 喫茶店の前で、七瀬は一瞬躊躇したあと、何かを言いかけた。しかしすぐに口を噤み、二人は別れた。
 ふみ子は歩きながら、今日の仕事の段取りを頭に浮かべた。
 (ええと。……追加発注書の精査と。ポップの貼り替えと。それ終わってから銀行。で、それから……あ、あとトンボ鉛筆の)
 トンボ鉛筆の。トンボ鉛筆の。
 おーい、と呼ぶ声が聞こえた。
 振り返りたかった。
 振り返ることはできなかった。
 黒田の声が呼んでいるのは、自分ではないとふみ子は知っていた。
 ふみ子は立ち止まり、道の端に寄った。そして二人が行き過ぎるのをやりすごした。
 黒田は屈託のない笑顔で、七瀬と話している。七瀬の言葉通り、少しやつれたようだが元気そうだった。
 すれ違う瞬間、七瀬は小さくふみ子に会釈した。
 それを見て、黒田もふみ子に会釈した。
 誰、あの子? 姉さんの知り合い? うん、ちょっとね。という会話が遠のいていった。
 だが、まだ微かに聞こえた。
 背中越しに、黒田の声が。
 ――そしたらふみ子がね、次の絵は裸じゃなくて、服を着たまんまの姿を描きたいって。ほら、彼女は墨色のシャツがすごく似合うし、その姿もすごくきれいだから。それから姉さん、ふみ子がさ、また言ってたよ……
 また、何と言ったのだろう。
 (またわたしが、命は色彩に溢れてる、って言ったんかな?)


 ……命っていうのはね、ふみ子さん。白と黒でしかないんだ。
 色彩に溢れてるってのは嘘だ。
 色ってのは、太陽の光によって生み出される錯覚、まやかしだ。
 血は、赤くなんかない。
 空は、青くなんかない。すべてはまやかしだ。作り物の世界のメッキなんだ。
 世界には形だけが存在し、白と黒だけが存在する。
 すべてはモノクロだ。それが真実だ。
 俺の目は、真実を見ることができるんだ。
 だから俺はこの絵が好きだ。この絵には命が宿っている。
 俺にはそう思えてならないんだよ。


 ふみ子はあの日の黒田の言葉を思い出した。
 そして声を殺し、少しだけ泣いた。


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