第3話 もう一つのノートの話……MOLESKINE【Music】

文字数 21,105文字

 それは怜が、生まれて初めて書いたオリジナルソングだった。


 怜は十七歳の誕生日を迎えたその日、こつこつ貯めたアルバイト代でフォークギターを買った。楽器としては決して高いものではなかったが、それでも「そんなものを自分が楽しみながら扱い切れるかどうかもわからない」怜にとっては高い買い物といえた。
 それまでフォークギターに触れたのは音楽の授業の時のみ。そしてその時に演奏した課題曲も、十個のコードを覚えるのにただもう必死で、楽しく歌えたという記憶はない。
 そんな怜がギターを買った理由は一つだ。幼馴染であり、また初恋の相手であり、フォークデュオでボーカルとして歌ってみたいという美由希がそう望んだからだ。
「あたしな、やっぱりサザンオールスターズが好きやねん」
 下校途中、数歩先を歩いていた美由希が唐突に言った。
「サザン?」
「うん」
「なんでまたサザン?」
「おかしい?」
「おかしいことないけど……」怜は返答に困った。「そんなん初めて聞いたわ、みいちゃんの口から」
「初めて言ったと思う」美由希はわが意を得たり、という表情でにやりと笑った。「桑田佳祐ほど、音を自在に操れるシンガーはそうそうおらへん」
「音を自在に?」
「そう。桑田にとって音は、遊び方を熟知したおもちゃみたいなもんよ。こう、がちゃがちゃ複雑に変形させて合体させるロボットのおもちゃみたいに。知らんかったらめっちゃ時間かかるけど、知ってたらあっという間にロボットになる」
「へー」
「歌めっちゃ上手いんやで」
「そうなんかな」
「怜ちゃんは音痴やからなー。桑田の歌の上手さがわからんのよ」
「音痴て、えらいはっきり言うな」
 怜と美由希は五歳の頃からの幼馴染みだった。
 小学校はもちろん、中学校、高校も同じだった。同じ高校に毎日一緒に登下校していた。皆も周知の幼馴染なので、二人がいつも一緒にいることは見慣れた風景のようなもので、クラスメートから冷やかされるようなこともなかった。
「あたしな、怜ちゃんしか考えられへんねん、デュオの相方は。もうなんか、目に浮かぶんよね。武道館のスポットライトを燦々と浴びたあたしの横で、エレアコ持ってハモってる怜ちゃん」
「うーん」
「どう。ん? 浮かぶ?」
 美由希にそう問われて、浮かばないと言える怜ではない。
「うん。浮かんできたっぽい」
「やろー?」
 嬉しそうに言うと美由希は、右手の人差し指をぴんと立ててリズムを取りながら、サザンオールスターズのヒット曲を口ずさんだ。
 なんちゅう光景や、と怜は思った。眩暈がしそうだった。
 色白で目鼻立ちのくっきりした美由希は一般的に見ても美形の部類に入る少女だったが、怜の中ではそれどころの存在ではなかった。怜にとって美由希は憧れであり、この世の可愛さを煮詰めて固形にしたブイヨンのような存在であり、森羅万象のあらゆる美の中でも不動の一位に君臨し続ける絶対的な女性だった。
 怜は美由希と幼馴染みであるという事実を心から嬉しく思い、また寂しくも感じた。
「組もうか」
「その気になった?」
 相変わらず前を歩いていた美由希はくるりと振り向いた。
「うん。フォークデュオ、やってみよう」
 やったー、と美由希は嬌声を上げた。「ギター練習してな」
「うん。買いに行くわ」
「フォークギター、うちに古ーいやつがあったよ。使えると思うから、取りあえずはそれでどう?」
「いや、買うよ。やるんやったらやっぱり自分のギターが欲しい」
「ふーん。うん、わかった」
「でもさ。みいちゃん、」怜は一つ咳払いをした。「あのことは」
「あのこと?」
「いや……」
 怜は人差し指でとんとん、と自分の耳を叩いた。
「ああ、うん。まあ、大丈夫やけどね、全然」
 美由希は髪をかき上げ、右耳に付けた補聴器を見せながらにんまり笑った。
「これがある限りだいじょーぶ」
 怜もつられて少し微笑んだ。
「進行してるん」
「難聴?」
「ってゆうか……うん」
「怜ちゃんのウィスパーボイスも、こうして聞こえてるのに?」
 怜ははにかんだ。
「あたしがきっちり歌えてるん知ってるやろ? 大体怜ちゃん、難聴の人間が聞こえへんくらいちっちゃい音でストリートに出るつもり?」
 そう言うと美由希はからからと大声で笑った。


 なけなしの小遣いで買ったギターを己が体の一部にするため、怜は毎日練習した。取りあえずは一曲、何か一曲だけでも完全にコピーしてしまおうと躍起になった。どの曲が比較的簡単でどの曲が難しいかなどは素人である怜に判断が付くはずもないので、それならばまずは当然のように美由希のフェイバリットソングを覚えよう、と思った。
 ということで怜は毎日、サザンオールスターズの〈逢いたくなった時に君はここにいない〉を練習した。
 この曲の中で出てくるギターコードの中で、特にF♯というコードは難しかった。人差し指の腹全部を使ってべったりと六弦全部を押さえなくてはならず、何度チャレンジしても音を殺してしまって六弦全部はきれいに鳴らない。そしてどうやらこのF♯コードの練習は、怜が今まで生きてきた中で使ったことのない筋肉を酷使するものであったらしく、晩飯の時に箸を持つ手がつってご飯がぼろぼろ零れた。
 それでもめげずに毎日練習を続け、ひと月後には何とか〈逢いたくなった時に君はここにいない〉をマスターした。
 放課後の教室、誰もいなくなったのを見計らって、二人はたどたどしくも〈逢いたくなった時に君はここにいない〉を合わせてみた。
「すごいすごーい。ひけるようになったやんか」
 まだ演奏と呼べる代物ではない自分のギターに拍手を送られ、怜は赤面した。
「これは弾けるって言われへんやろ」
「またネガティブ。なんでよー、すごいやんか一ヶ月で」美由希はもう一度拍手した。「ほんますごいと思う」
「ありがとう」
 素直な怜の態度に、美由希はふっと微笑んだ。
 ゆるやかに吹き込んだ風が美由希の髪をさらさらと躍らせた。
 瞬間、微かに香る整髪料の匂いを怜は、美由希に悟られぬようそっと、胸いっぱいに吸い込んだ。
 午後の教室に差し込む光はやわらかく、美由希の黒い髪と瞳を栗色に染め上げた。抜けるような白い肌と相まって、怜の目に美由希はフランス人形のように映った。
 胸が痛くなり、思わず怜は目を逸らした。
 視線の端で怜が捉えた美由希は、前と同じように人差し指でリズムを取り、〈逢いたくなった時に君はここにいない〉のサビ部分を復唱していた。
 こんな瞬間だった。
 怜が、美由希と幼馴染みであることを寂しく思うのは。
 もうその日の怜には、それ以上美由希の顔を見ることはできなくなっていた。
 見てはいけないような気さえしていた。


 (確かすぐ近くに文具店があった)
 急にその店の存在を思い出した美由希はサンダルをつっかけて家を飛び出した。そして文具店で希望の商品を手に入れると、意気揚々と店を出て、すぐに怜に電話をかけた。
 思い立ったら即行動に移さなくては我慢ならない美由希の電話がいつも急であることを、怜は子どもの頃からよく知っている。美由希が予定を立てて行動するのが苦手だということも知っている。だからその日の電話の「プレゼントを渡したいからすぐに会ってほしい」という内容にこそ驚いたものの、嫌であるはずもなかった。むしろ日曜に美由希と会う約束ができたこと、そして日曜日に自分のことを考えてくれていたことを怜は嬉しく思った。
「はい、これ」
 二人が待ち合わせによく利用しているいつものファミレスの、いつもの窓際の席に着くと、水が出るより速く美由希は包みを出した。
 B6サイズ大の、手帳ほどのサイズのそれは水色の包装紙でラッピングされており、左端の上部に青いリボンが飾られていた。
「プレゼント」
「えーと……」怜は眉をひそめた。「……何のプレゼント?」
「何のって、」水を持ってきたウェイトレスに、美由希はドリンクバーを二つ注文した。「何のって……別に何もなくてもプレゼントしたいもんがあったから」
 うーん、と美由希は首を傾げ、そのままの姿勢で器用にコップの水を一口飲んだ。
「いや、強いて言えば、祝〈逢いたくなった時に君はここにいない〉弾けた記念」
「はー。なるほど」
「開けてみて」
「ええの?」
 もちろん、というように美由希は頷いた。
 淡々としたやり取りが続いたが、席に着いて美由希が包みを出してから怜の心臓は鳴りっぱなしだった。
 (プレゼント? みいちゃんが俺に、特に何かイベントがあるわけでもないのに、プレゼント?)
 怜は動揺を隠しながら包みを裏向け、水色の包装紙を丁寧に外した。
 現れたのは、やはり黒い手帳様のものだった。
「ノートやで」
「え、これノート?」
「うん」
 それは、怜の頭にあるノートのイメージとは随分差があった。厚みは一センチほどもあるし、ノートというには黒い革のような表紙が立派すぎた。裏表紙にはラバーバンドが据え付けられており、ページがばらりと開いてしまわないよう工夫されていた。
 黒い表紙を横切るように付けられた水色の腰巻には〈MOLESKINE〉と書かれていた。
「モール、スキン」
「正式にはモレスキンって読むらしいよ。お兄さんが言ってた。でも、さすが英語が得意な怜くん」
「お兄さんって?」
「その文具店の店員さんやよ。二十代半ばくらいかな。ちょっとかっこいい人やった」
「男やったんや」
「だから、ちょっとかっこいい人」
「……ふうん」
 細いゴシック体のような変わったフォントで書かれた〈MOLESKINE〉の下にはこのノートを見開いたイラストが描かれており、さらにその下には〈Music Notebook〉と記載がある。
「ミュージック……あ、そういうことか」
「そういうこと」
 モレスキンを開き、怜は納得した。そこには、音符を書くための五線譜が引かれていた。
「もう一つ強いて言えば、目指せ初オリジナルソング祈願の景気づけとして、かな」
「いやいや待って、みいちゃん」
 怜はぱたん、とモレスキンを閉じた。
「何?」
「俺、音符なんか書かれへんよ」
「なんで? 音楽の時間にやったやんか」
「いや無理無理。何のことやらまったく理解せずにちんぷんかんぷんで授業を終えた、って感じやから。長調とか短調とか転調とか、音符とか休符とかトーン記号とか全然わからへんよ」
「それくらいわかったらできるんちゃう?」
「無理無理無理無理」
「えー」美由希が口を尖らせた。「オリジナルソングを作ること自体が無理ってこと?」
「いや、それは……」
 コップの水を飲み干してものどがからからだったので、早くドリンクバーを、と怜は思ったが、一旦は我慢した。
「それは頑張ってみるよ」
「うん。あたしも作るから。オリジナルソングがないフォークデュオなんてあかんでなあ」
 怜は頷き、ノートに目を落とした。
「でも楽譜は……」
「そうか、うーん」
 ウェイトレスが持ってきたドリンクバー用のグラスを二つ持つと、美由希は再び首を傾げたままの姿勢ですくっと立ち上がった。そして何度も左右に首を傾け、ドリンクサーバーに向かって歩いて行った。
 まずかったかな、と怜は思った。
 (でも書かれへんもんは書かれへんしなあ)
 ぼやきながら、怜はもう一度表紙を開いた。
 見返し部分に英文が印刷されてある。
「何て書いてあるかわかる?」
 美由希がグラスを置きながら怜の向かいに座った。グラスは二つとも、当然のようにコーラで満たされていた。ありがとう、と怜は礼を言った。
「ええと。もしもこの手帳を拾ったら、下記までお送り下さい。お礼として……ドル差し上げます」
「すごーい。店員さんの言った通り。よくわかるね」
 $マークの後ろが空欄になっている。
「ここに好きな額を書き込めるってことか」
「そう。そのノートの持ち主が、そのノートの価値を決めるんやって」美由希はコップから直接コーラを飲んだ。「怜ちゃんが価値あるノートにしてよ」
「価値あるノートか」
「うん。あたし達が日本を代表するミュージシャンになったら、このノートはすごい価値よ。あのソングライター怜の、記念すべきオリジナルソングの第一号が書かれたノートやもん」
 美由希は記念すべきオリジナルソング、というところを特に噛んで含めるように強く言った。
「怜ちゃん、文章好きで中学の時から作文とかも上手かったやろ? 歌詞とかも書けると思う」
「うーん、じゃあ……やってみるか」
「おおっと」美由希が思わず身を乗り出した。反対に怜は身を少しだけ引いた。「やる気になってくれたか」
「でも音符は無理やで? このノートはせっかくやから使いたいけど。だからこれを、普通に詞を作るノートとして使わせてもらうわ」
「うんうん」
「みいちゃんは楽譜書けるんやろ?」
「うん」
「じゃあこのノートは一緒に使ったらええやん」
 一緒に使う、か。言いながら怜は、交換日記を促すような自分の提案に少しだけ照れた。
「そうやね。そうしよう。わーい」美由希はにこにこしてグラスを持ち上げた。「では、取りあえず色々決まったことに、かんぱーい」
 怜もあわてて自分のグラスを取り、美由希のグラスにかちり、と合わせた。そしてグラスの中身を一気に空けながら、横目でモレスキンの黒い表紙をちらりと見た。
 その黒い皮革様の装丁は、怜にプレッシャーをかけるには十分過ぎる高級感があった。
「みいちゃん、ありがとう」
「ん?」
「ノート。高かったやろ」
「ええ曲書いてくれたらあたしは満足よ」
 (このままでいい。このままがいい)
 まじないのように怜は胸の内で呟いた。


 相談の結果、フォークデュオのグループ名は、〈MR(ミスタ)〉に決定した。単純に二人のイニシャルから頭文字を使って何かいい英単語はないか、と考えたところ、一文字ずつでそのまんま単語となることに怜が気づき、美由希はそれに大賛成した。敢えてミスターと伸ばすのではなくミスタ、と留めるところは、怜には知りえない美由希の中だけにあるこだわりだった。
 怜は家に帰るとすぐ、まずはサザンオールスターズの〈逢いたくなった時に君はここにいない〉を練習して指を慣らす。一日に五回は必ず最後まで通しで演奏し、美由希の愛するこの曲を体に叩き込んだ。
 その後はオリジナルソングの制作だ。
 テーマは決まっている。もちろん美由希だ。怜はその想像力の翼を、思い切りロマンチストな方向に全力で伸ばした。
 もしも。もしも美由希と、二人で一夜を過ごせたなら。もしもそれが、ベッドとテーブルくらいしかないシンプルな部屋で、大きな窓から月光が差し込んでいたのなら。自分がベッドに腰掛けていて、そばに美由希が寝そべっていたら。なぜか美由希が眠れなくて、自分に子守唄をねだって来たのなら。どんな子守唄を歌うんだろう。
 そんなシーンを想像し、怜は歌詞を書いた。高級なノートのページを無駄遣いする気にはなれず、まずは安価なノートに下書きし、その中から気に入ったフレーズのみをモレスキンに書き写した。その状態ではまだ言葉の羅列に過ぎなかったが、とにかく思いつくシーンに最適だと思われるフレーズを羅列することが大事なんだ、と怜は思った。
 何日もかかって怜は下書きノートに大量のフレーズを書き、その中からいいものを厳選し、それらを素直な気持ちで並べ替え、オリジナルソングを整えていった。
 美由希は美由希で、怜がギターを購入した楽器屋で、クラシックな型のマイクを買った。そのマイクは、美由希が尊敬してやまないイギリスの女性シンガーソングライターが愛用しているものの廉価版だった。とはいえ、学生の美由希には手痛い額である。
 (やっぱり立ち上げの時はお金がかかりますなぁ)
 財布から高額紙幣を出しながら美由希は胸の内でそう呟いたものの、憧れのマイクを手に入れたその夜は興奮して眠れなかった。マットシルバーのボディをパジャマの裾で何度も磨いては、そのスタイルの良さに感動して涙を流した。
 その日から美由希はマイクをお守りのようにいつも鞄に入れて持ち歩き、夜はシャウトする時のようにマイクを握りしめて眠った。
 そして河原などで怜と練習をする時は、アンプにもつないでいないそのマイクで歌った。
 怜は美由希の歌に合わせ、懸命にギターをかき鳴らした。


 放課後の音楽室にその日、二人きりのミスタのメンバーを呼び出したのは美由希ではなく、怜だった。
 美由希が「ごめーん遅くなっちゃった」と言いながら駆け込んだ時、すでに怜は広い室内に二つパイプ椅子を出し、その一つに着席して腕組みしていた。椅子の横にはギターケースがある。
 そこに何やらいつもと違う雰囲気を感じた美由希は、挨拶だけ静かに交わすと音もなく向かいに座った。
 美由希は怜の言葉を待った。その気配を察し、怜は学校指定の鞄からモレスキンをひっぱりだした。
「みいちゃん、できたよ」
「歌?」
「そう」
「オリジナルソング?!」
 怜はごく控えめに頷いた。美由希の目が輝いた。
「うそ、見せて見せて」
 半ば怜の手からモレスキンを奪い取り、ページを開いた。
「ああ、違う」
 怜は美由希の手にあるモレスキンのページを何枚かめくり、「ここ。これこれ」と指さした。
 四ページに亘ってびっしりと歌詞が書かれていた。詞の一行上には小さくギターコードが添えられており、一ページ目の一番上の行には〈lullaby〉とタイトルらしきものがあった。
「ララバイ?」
「そう」
「子守唄?」
「そうやね」
「今歌える?」
「うん」答えながら怜はケースからギターを引っ張り出した。「歌ってみせる方が早いね」
 ジャン、とDコードを軽くストロークし、廊下に人の気配がないことを確認した怜は〈lullaby〉を歌いはじめた。
 結論から言えば〈lullaby〉は、美由希にとっては少し残念な完成度だった。
 その歌は、サザンオールスターズの〈逢いたくなった時に君はここにいない〉に似ていたのだ。知っている者が聴けば、十人のうち半数以上は「似ている」と言いそうな曲だったのだ。歌詞はまるで違うが、コード進行のパターンと、Aメロとサビ部分のメロディーが特に似ていた。
 怜は最後のコードをゆっくり、控えめにストロークした。そして体内に残っていた空気を吐き出した。
「……どうかな?」
「うん」美由希はこっくりと頷いた。「あたし、この曲好き」
 怜は、ほーっと息をついた。
「良かった」
「特に、歌詞がすごく良かった」
 誰の気持ちにも当てはまるような普遍的なラブソングではなく、すごく具体的な、誰か一人のことだけを真摯に想って書かれたような歌詞だ、と美由希は素直に思った。
「……もし、これが……」
「え?」
「ううん」美由希は慌ててかぶりを振った。「もしこれが、怜ちゃんが誰かの為に書いた歌詞なんやったら、その人は幸せやね。怜ちゃんみたいな誠実な人に、こんな真剣に想ってもらえるって」
 怜は黙った。口元に少しだけ微笑を浮かべたまま視線を床の木製タイルに落とし、Dコードをつま弾いた。
「……実はね」
「うん」
「ちょっとは、自信あった」
「そうなん」
「うん。一生懸命作ったし」
 怜はギターを軽く弾きながら裏声で小さく、もう一度サビ部分を歌った。
 美由希は、いつかの放課後の教室でのことを思い出した。
 真面目に練習してたんや、と美由希は思った。
 この日、怜が窓を背にして座っていた。ゆえに、ゆるやかに音楽室に舞い込んだ風が先に揺らしたのは、怜の髪だった。
 向かいに座っていた美由希は怜に気取られぬよう、やわらかい風に乗って自分に降り注いだその体臭を吸い込んだ。
 そして、眩しく見えるのは怜が窓を背にしているせいだけではないことに気付いた。


 その後も怜は何曲か書いた。いずれも美由希を想って書かれたラブソングだ。
 その多くは、確かにどこかで聴いたようなフレーズがそこかしこに使われていたが、歌詞は違った。
 少なくとも美由希にとって、それらは今までに聴いたことのないラブソングだった。どれももれなく胸を打ち、美由希が聴きたいこと、知りたいことの中心を捉えているように思えた。
 美由希はすべての曲を録音し、家で繰り返し聴き、歌詞を暗記した。そして河原で、音楽室で、時にはスタジオで二人は音を合わせた。
 怜はしばしば、自分で作ったはずの曲のコードを弾きながら忘れそうになる。決まってそれは、美由希の歌に気持ちを奪われた時だった。
 (きれいな声やなあ。ほんまに、一日中でも聴いていたいような声やなあ)
 怜は胸の内でそう呟き、思わず聞き惚れてしまう。高くて張りがあってよく伸びる、それでいてどこかころころとした鈴のような可愛らしい、声優のような声だ。誰かに聞いてもらうために生まれてきたような、そんな声だ。
 怜はそう思った。そしてつい聞きいってしまい、手元がお留守になってしまうのだ。
「怜ちゃん、また」
「あ」
「またサビの二回目のとこでつまった」
「ごめん」
「もう」美由希はふくれっ面になった。「なんでいっつもそこで止まるん」
「いや、だってさ」
「何?」
「……いや、別に」
 そんなやり取りがままあった。
 日曜日は毎週のように昼前から近所の公園や河原で会い、音を合わせた。
 練習後、二人はいつものファミレスに行き、ランチを兼ねた反省会をした。そして早々に反省会を片付けると、そこからはとりとめのない話がはじまる。
 映画の話。音楽の話。ファッションの話。小説の話。マンガの話。美味しいコーヒーの話。美味しいカレーの話。美味しいインスタントラーメンの作り方。話はどんな方向へも飛躍し続け、二人は時間を忘れて没頭した。
 数時間ののち、店を出て二人はよく映画を見に行った。町の大通りに小さな映画館があった。その映画館はひっそりとしていて、梅田や難波の大きな映画館ではやっていないようなマニアックな映画が上映されていた。そこで二人はスクリーンを見入っては涙し、笑い、時に考えさせられた。
 劇場を出ると、二人は公園のベンチで缶コーヒーを飲みながら今観た映画について持論をぶつけ合った。
 そして話はいつか音楽に移り、ミスタとしてやっていきたい音楽について話し合った。怜も美由希も一貫してポップスが好きだったが、一口にポップスといっても幅が広く、もう少し厳密かつ具体的に音楽性を決めてから曲を作ってゆくべきなのではないか、というのが怜の意見で、いや、フォークギター主体で作曲をしているのなら、まずは曲をたくさん作ってその中からいいものにジャンルという味付けをしてゆくべきだ、というのが美由希の意見だった。
 そして、「ちょっと待って、例えば」と言いながら美由希は、自分の意見を怜に説明するためにハミングで若手フォークデュオの曲を口ずさんだ。そのハミングに、怜はつい心を奪われてしまい、美由希の話を聞きそびれる。
 (きれいな声やなあ。ほんまに、一日中でも聴いていたいような声やなあ)
「どうしたん。怜ちゃん」
「いや。俺、めっちゃみいちゃんのこと好きなんやなあ、と思って」
 一瞬の間ののち、怜が口走った言葉の意味をお互いが順々に理解していった。
 怜は凍りついた。猛烈なスピードで顔に血が集まってゆくのを感じた。
 美由希はぽかんと口を開け、やがてきゅっと結んだ。
「……怜ちゃん」
「いや、」怜は持っていた缶コーヒーをベンチに置いた。「そういう意味やなくて」
「……じゃあどういう意味なん」
 怜は初めて見る美由希の表情に戸惑った。怒っているのか泣きそうなのか、駄々をこねているのか判別がつかない。平静を保とうとしているようにも見える。しかし説明を促されているのは疑いようもなかった。
「いや……」
 怜はうなだれた。
 (なんでゆうてしもたんやろ。口が勝手に動いてしもた)
 二人は沈黙した。わずか数秒が、怜にはとてつもなく長く感ぜられた。
「……そんなんさぁ」
 先に沈黙を破ったのは美由希だった。
「あたしも好きに決まってるやんか」
 怜は顔を上げた。美由希の表情からは複雑さが消え、いつもの見慣れたものに変わっていた。
「ずるいわ怜ちゃん。あたしも好きに決まってるやん。あたしかって前から、怜ちゃんのことめっちゃ好きやよ。そんなんずっと、千パーセント好きやわ」
 まくしたてるように言い放った後、美由希はコップ酒でも煽るように缶コーヒーの残りをぐいっと飲み干した。
「ほんまにもう、ずるいんやから……」
 美由希はぶつぶつと独りごとを言った。
 ベンチの横にある街灯は早や白く灯り、町に夜の訪れを告げていた。
 その白い光は少し強すぎるコントラストで、怜の方を決して向こうとしない美由希の膨れっ面を照らしていた。
「ごめんみいちゃん、遅くなって」
「……え? 遅くって……」
「いや、時間。もう遅いから」
「あ、時間が?」
 美由希は腕時計を見た。帰宅すべき時間はとうに回っていた。
「みいちゃんのおっちゃん、そういうの怒るやろ」
「そうやけどさ。……あのねえ、怜ちゃん」
 美由希はそっとため息をついた。


 その後、〈lullaby〉以外にも怜は何曲も書いた。
 いずれも美由希のために作った恋の歌だ。もちろん作曲には、美由希からプレゼントされたモレスキンを使った。
 そのどれもが等しく、美由希には愛しい曲だった。
 しかし部屋で二人っきりで過ごしている時、美由希が歌ってくれと怜にせがむ曲は、決まって〈lullaby〉だった。
 客観的に見てもこの曲は自分の作った数曲の中で完成度は低い方だ、と怜は思っていた。しかし美由希にとっては特別な曲だった。最初にこの曲を聴いた時に感じた『誰か一人のことを想って書かれた曲』という印象は薄れていない。しかもその主人公が自分なのだ、ということを知った上で聴くと感動もひとしおだった。
 一生、死ぬまでこの曲を初めて聴いた時の気持ちを忘れることはないだろう、と美由希は思った。
 一生、死ぬまでこの曲を書いた時の気持ちを忘れることはないだろう、と怜は思った。
 二人の蜜のような時間は続いた。
 高校を卒業し、美由希は怜の子を妊娠した。


 怜は梅田にある、小さな出版社に就職が決まっていた。仕事をしながら美由希と音楽を続けようと怜は思っていた。
 しかしとうの昔に、怜にとって美由希は音楽仲間という言葉では到底収まらない存在になっていた。幼馴染みという絆すら凌駕していた。
 だからこそ、美由希のことを大事にしていた。
 だがその夜に至っては違った。
 その夜の美由希は美しすぎた。これまでに怜が知っている美由希の美しさを遥かに超えていた。それはまさに、怜が初めてのオリジナルソングを作詞した時にイメージした、そんな夜だった。
 美由希はベッドに寝そべっていた。
 ほんの少しだけ口を開けてまどろむ美由希を見ていると、極めて薄い化学物質でできた避妊具に、美由希の体温を少しでも奪われることが怜には許せなくなった。
「みいちゃん」
「……ん。なに?」
 怜は美由希の頬を撫でた。
「なんか、」美由希は全裸のままだった。シーツを胸の上まで引き上げ、両手の人差し指で目をこすった。「変な夢見てた」
「どんな?」
「んー……覚えてない」
「怖い夢?」
「怖くはなかったよ」
「また虫が出てくる系?」
「怖くなかったってば」
 美由希は怜の首筋に軽く口づけし、肩に顔を埋めた。そしてTシャツを着た怜のシャツの上にぴったりと口を付け、はああ、と吐息を吸い込ませて温めた。怜はこれをされるのが苦手だ。
「やめてって」
「いや?」
「うん」
「知ってる」美由希は笑った。「怜ちゃん、五歳の時からあたしのこと好きやったんやろ」
「うん」
「それってほんま?」
「ほんま」
「じゃああたしも、五歳の時から怜ちゃんのこと好きやったことにする」
「何それ。なんかずるい」
 怜は笑った。
 美由希もいたずらっ子のような顔で笑った。
「みいちゃん、」怜は唾を飲んだ。「結婚してほしいねん」
 美由希は黙った。少し緩慢すぎるほどの動きで、ゆっくりと怜の目を見た。
「怜ちゃんと?」
「うん」
「あたしが?」
「うん」
「……本気?」
 怜はこくりと頷いた。
「ちょっと遅れたけど……ほんまは卒業したらすぐプロポーズするつもりやった」
「あたし、」美由希は大きく息を吸い込んだ。「就職まだ決まってないよ」
「俺は決まってるから。手取りもそんなに悪くないし。みいちゃん、働きたいんやったらゆっくり探せばええやん」
「貯金もあんまりないよ」
「猛スピードで貯める。音楽もやりたいけど、」一瞬、怜は美由希の表情を伺った。「でも今はそれよりも働いて、結婚資金を貯めたい」
 怜は美由希の手の甲に、自分の手をそっと重ねた。
「もともと本読むくらいしか趣味なかったから、すぐ貯まるよ」
「無茶するん?」
「多少無茶になっても、それでも早く結婚したいから」怜は重ねた手に少しだけ力を入れた。「無理かな?」
 しばらく怜の目を見ていた美由希は、また顔を怜の肩に置いた。
 (考えてるんやろうな。そりゃそうや。こんなこと急に言われたら)
 怜は窓の外に視線を移すと、月光に照らされる家々の屋根を見るともなく見た。
 凪いだ海面みたいだ、と怜は思った。
 美由希がはなを啜った。一瞬間を置き、また啜った。ゆっくりと吐き出される息が、小刻みに震えていた。
「……答えられへん?」
 怜の問いかけに、美由希はほんのわずかだけ、首を縦に動かした。
「今は、無理ってこと? それとも」
 俺とは結婚できへんってこと? そう言いかけて、怜は言葉を飲み込んだ。
「……ごめん」美由希の声は、判別しづらいほど震えていた。「……ほんま、ごめんね……」
 美由希は、とても大切な話をまだ怜にしていない、と言った。
 母親が美由希を産み、すぐに他界している理由。
 怜には、それが事故死だと嘘をついていたこと。
 母の持っていた心臓の欠陥は遺伝的なものである可能性が高い、ということ。
 それらをぽつり、ぽつりと話した。
「難聴、前より進んでるやん? それも関係あるんやって」
 美由希はまた大きく洟を啜り、ハンカチで目をぎゅっと押さえた。
「ひょっとしたらあたしは大丈夫かも、って思ってたんやけどね。難聴が出るまでは」
「付き合っていかれへんのかな」
「……そんなことは、」美由希は目からハンカチを離した。「ないけど……」
「これ以上好きになったらあかんのかな」
「……あたし、たぶん怜ちゃんのこと幸せにしてあげられへんもん」
「してあげられへんって? 幸せは、二人で一緒になるもんやろ」怜は語気を少しだけ強めた。「俺がみいちゃんのこと幸せにしたるよ」
 突然、赤ん坊のように声を上げて美由希は泣き出した。そして怜の胸を引っ掻くように、指を立てて何度もこすった。
「怜ちゃん」
「うん」
 ぐっ、ぐっ、とこみあげてくるものを押し殺すようにして美由希は言った。
「怜ちゃんが、な」
「うん」
「あたし、怜ちゃんとおる時はな」
「うん」
「怜ちゃんとな、一緒におる時だけはな」
「うん」
「もう永く生きられへんこと忘れられる」
 もう一度、美由希はあーあー、と大声で泣いた。「ほんまはこわいねん。めっちゃ」
 怜は美由希の肩をしっかりと抱きしめた。
 美由希も怜の胸に顔を埋め、背中に腕を回し、掻き毟るように指を立てた。
「……うん」
 ごく小さな声だったが、怜は頷いていることをわからせるように美由希と頭を密着させた。美由希はまた大きく洟を啜った。
「……うんって?」
「わかってる」
「何が?」
「わかってるよ」
「ほんまにわかってるん」
「うん」
「どうせまたわかってへんわ、怜ちゃん。なんやと思ってるん」
 腕を解いて離れようとした美由希を怜はもう一度引き寄せ、しっかりと抱きしめた。
「愛してる」
 怜は耳元で言った。
 美由希にとって初めての、不思議な感覚だった。
 怜の声は、さっきより少し大きな程度の音量だった。
 しかしそれは聴覚ではなく、美由希の体に触覚を通して伝わり、染み入った。わずかな余震を足が感じ取るように。リズムだけでモールス信号の意味を読み取る技師のように。
 初めて怜の書いた歌詞を読んだ時もそうだった。
 怜の言葉のひとつひとつは美由希にとって、ひょっとしたら実際に触れられるのではないかと思えるほどの確かな感触があった。
「苦しい。怜ちゃん」
「……え?」
「苦しいよ。抱っこ強すぎ」
「あ、ごめん」
 怜は腕を緩めた。美由希は怜の胸から顔を上げ、ふーっと息を吐いた。
 怜がふっと笑った。
「何よ」
「顔がすごいことに」
「……普通そんなん言う? プロポーズした後に」
「ごめん」
「もーいーよ」
 美由希はうつむいた。そして再び顔を上げ、怜にそっと口づけした。


 この芯のような気持ちは一体何なのだろう、と怜は想像を巡らせてみた。
 美由希の主治医からも堕胎を勧められ、互いの両親からも周囲の大人からも結婚と出産は反対された。そうなることは美由希も怜もわかっていた。だからこそ二人は何度も話し合った。
 それでも、と怜は思う。
 もう絶対に折れることのない芯のようなものが、二人の気持ち、少なくとも自分の気持ちの中心には通っている。
 この気持ちは一体何なのか。想像を巡らせ、すぐに怜はやめた。そんな初めての気持ちの正体が二十年も生きていない自分ごときにわかるはずもないし、それがわかったところで何も変わらない。
 自分が恋をした女性は後にも先にも美由希しかいないし、生涯を捧げたい女性もきっと美由希しかいないし、この先どんな辛い現実が待ち構えていようと自分で美由希の子を育てたい。その気持ちは嘘じゃない。
 そう怜は信じ、周囲の反対を押し切って美由希と結婚した。


 二人が住む部屋は七階建ての最上階なので、リビングの窓際は夕方になっても日差しがあたたかかった。
 怜の職場からマンションまでは自転車で十五分程度だったので、残業のない時は日のあるうちに自宅のチャイムを押すことができた。
 窓際で椅子に掛け、大きくなったおなかをさすりながら、美由希は暖気にまどろみかけていた。
 と、チャイムが鳴っている気がした。
 耳を澄ませる。やはりチャイムは鳴っているようだ。
 よっこらしょと立ち上がり、ゆっくりと玄関まで歩いてドアスコープを覗いた。怜だ。美由希は鍵を開けた。
「ただいま」
 美由希はにっこり笑い、自分の左腕の手首の辺りを右手の拳でとんとん、と軽く叩いた。
 両手を伸ばし、鞄を持とうとした美由希を、怜は手で制した。美由希に続き、怜はジャケットを脱ぎながらリビングに入った。
「何してた?」
 美由希は目を閉じ、右掌で閉じた瞼を上から下へなぞるような仕草を見せた。
「そっか。寝てたか」
 美由希は首を傾げる。
「いや、別に何もないけどね」
 怜は唇をことさらにはっきり動かして言った。
 チャイムの音は、一度は業者に頼み、通常の設定よりかなり大きく調整してもらっていた。
 美由希はエプロンを着け、髪をくくった。
「いや、今日はええよ」怜はスウェットに着替え、キッチンに入った。「俺が作るわ」
 美由希は目を丸くし、また首を傾げた。
「会社の先輩に教えてもらった。フライパンでできる、めっちゃ簡単な蒸し料理やって。鶏肉あるやんな?」
 美由希はこくり、と頷いた。
「じゃあやるから。休んどって」
 美由希は微笑み、ぺこんと頭を下げると窓際の椅子に戻った。
 怜はそれを目で追うと、くるりと冷蔵庫に向き直って料理を開始した。
 鶏肉を解凍し、玉ねぎを薄くスライスする。フライパンにすのこを敷き、スライスした玉ねぎを並べると、一口大に切った鶏肉をその上にバランスよく並べた。肉に塩コショウを振った時点で「特にここがポイントやで」と教えられたニンニクとショウガの存在を思い出した。
「そうそう。ニンニクやった。ニンニクは……」
 普段からキッチンに入ることが少ないわけではないので、玉ねぎやニンニクがどこに常備されているかは怜も知っている。しかし、あるべきはずのところには見当たらない。無いならせめてチューブニンニクでも、と思ったがそれも見つからない。
 怜は首を捻り、ひょい、とリビングを覗いた。
 美由希は、キッチンに背を向けて椅子に深く腰かけ、ぽん、ぽん、とおなかにリズムを送りながら歌っていた。
 歌っているのは、かつて怜が作った曲だ。
 怜には、その歌がタイトルの示す通り、未だ見ぬ子を寝かしつける子守唄のように聴こえた。
 久しぶりに聴いたな、と怜は思った。
 (でも)
 明らかに調子が外れていた。音程もでたらめだった。
 歌詞だけが正確だった。
「……みいちゃん」
 怜は囁くように言った。今の美由希には、届くはずのない音量で。
 怜はそっと美由希に近づき、震える手で後ろから優しく抱きしめた。
「愛してる」
 蚊の鳴くような声だった。
 美由希は、少しだけ怜の方に顔を向けると、手話をくった。
 “知ってるよ”


 それからわずか三週間後。
 美由は、自らの命と交換するように女の子を産んだ。


 カイナホ印刷の雨村にとっても、顧客とはいえ新人の怜は頭の痛い存在だった。怜の渡す原稿が遅れてしまうと、結局割を食うのは後工程となる製版業者になる。
「だってねえ、」その日も雨村は、薄くなりはじめた頭頂部をばりばり掻きながら渋面を作っていた。「制作部長として、言わなきゃならんこともあるわけですよ」
 怜は出された茶にも手を付けず、ただ応接室のソファに浅く腰かけて俯いていた。
「何度も言わせて頂いてますよねえ」
「……はい」
「製版が一日遅れると印刷がそのまま一日ズレこむ、っちゅう単純なもんじゃないんですよ、ってこと」
「はい。……伺っています」
「担当部署の長である私としても、そらもう苦言を呈するより他ないのも、わかってもらえますよね?」
「はい。何度も、」俯いた姿勢のまま、怜は頭を下げた。「何度も、言って頂いています。申し訳ありません」
 雨村はため息をついた。
「一年以上は経ってますよね、入社して。失礼ですけど」
「……そうですね……」
「ご存じのようにね、」雨村はシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。「おたくの社長さんとうちの代表が懇意で。ずっと一緒にやらせてもらってるわけですよ。そらもう何年もね」
 雨村は深々と煙を吸い込み、一気に吐き出す。
「信頼関係をね、ずっと積み重ねてきたんです、互いに。こと関西でこの業界の仕事するんやったら、そらもう横のつながりっちゅうのはほんま大事なんですよ。これも何回か教えさせてもらってますけどね」
 怜はうなだれるしかなかった。
「まあ、それはそれで置いといて」雨村は煙草を咥えながら話を続けた。「課長さんから聞いてますよ。ご家庭のこと」
 怜はほんの少しだけ顔を上げた。
「大変みたいですねえ」
 雨村は煙草を挟んだ指を膝に置き、心から同情します、と早口で言った。
「……いえ。家庭は本当に、関係ないんです。今回のことは、ただ僕の管理が甘かっただけで」
「いやいやいやいや」雨村は大きく手を振った。「聞いてますよ。奥さん早くに亡くなって、まだちっちゃい赤ちゃんをねえ、お一人で育ててはるとか。いやそらもう、尋常やない苦労やと思いますよ、ほんま」
「……いや」
「だからと言って、」雨村は陶器でできた大ぶりな灰皿に煙草をぐしぐしとこすり付け、すぐにまた新しい一本に火を点けた。「失敗の言い訳にはならない。そうでしょ?」
「はい」
「わかるよね」
「もちろんです」怜は細かくかぶりを振った。「なりません」
「ならへんよねえ」
 怜は顔を上げ、雨村の顔を見た。それは憐憫と困惑が混在したような、複雑な表情だった。


 帰宅途中、怜はウイスキーが切れていることを思い出した。
 こんな時間に開いている店はコンビニしかない。そう思い、怜はマンションから徒歩圏内のコンビニにふらりと入った。
「……っしゃいせー」
 レジにいる茶髪の店員は怜を一瞥(いちべつ)したが、壁にもたれながら読んでいるマンガ雑誌は手放さなかった。
 怜は窓際に並べられている雑誌コーナーから目を背けた。そしてまっすぐに酒類が置かれているコーナーに向かった。
「……ウイスキー……は」
 いつも買っている七〇〇ミリリットルのボトルを見つけた。それを二瓶と、鯖の味噌煮カンヅメと、ポテトチップスの袋をカゴに入れた。
 ぎゃはははは、とレジから笑い声が聞こえた。バックヤードからもう一人のスタッフが戻ったようだった。
 怜は、レジにいる店員に徳用サイズのウイスキーは置いていないのか聞きたかった。しかし今しがたの笑い声でその気を失くした。
 レジに向かう途中、ロックアイスもカゴに入れた。レジの男二人が怜には、なぜか好奇の目を自分に向けているように思えた。
「……円になりまーす」
 値段は聞いていなかった。取りあえず、千円札を三枚出した。
「あ、二枚で大丈夫っすよー」
 茶髪の店員が怜の手から二千円を抜き取り、レジを叩いて釣りを出した。もう一人の店員は黒縁の眼鏡をかけていた。腕を組み、左手で口元を隠していた。
「ありあとっしたー」
 茶髪が言った。怜は会釈し、レジ袋を受け取って店を出た。
 自動ドアが閉まる瞬間、「どうもありがとうございましたあーっ」という大声が聞こえた。黒縁眼鏡だった。怜は振り向かず、自転車にまたがった。閉まったガラスドアの向こうからは嘲るような大きな笑い声が聞こえた。怜は無視して自転車を走らせた。
 今日は大残業になることがあらかじめわかっていたので、赤ん坊は実家に預けてあった。怜はほっとし、エレベーターを七階で降りると、部屋の鍵を開けた。そして玄関の灯りを点けたまま廊下を抜けてリビングに入り、蛍光灯のスイッチを引っ張った。
 一体、どこで。
 怜はリビングの椅子に、沈み込むようにかけた。
 一体どこで、誰の、何が、おかしくなったのだろうか。
 それとも。
 怜は、昨夜の飲み残しがわずかに残っているグラスに、買ってきたばかりのウイスキーをどぼどぼ注いだ。
 どこも、誰も、何も、おかしくなってなどいないのだろうか。
 怜は生のままがぶりとウイスキーを煽った。
「そんな下手くそな抱き方やったらあかん。泣き止むわけないやろ」
 怜は母親の言葉を思い出した。
「お風呂も、ご飯のことも。もっとちゃんとしたらんと。あんた、ちゃんとみいちゃんから聞いてるんやろ?」
 そんなことも言っていた。怜はロックアイスも一緒に買っていたことを思い出し、封を開けると、大き目の氷をグラスにころんと一つ転がした。
「でけへんこと無理してやらんでもええんとちゃいます? 私に言わせてもらうとね、そんな半端な育てられ方、子どもにしてもねえ、ちょっと迷惑やと思いますわ。いや、不躾な言い方やとは思うけどね、ほんまに親切心で言うてるんですよ、ほんまに。これは息子を二人、立派に育てあげた私やからこそ言える意見であって、ね」
 今日、正確にいえば昨日、雨村が最後に言った科白だ。濃いアルコールが急に入ったせいか、怜の胃はきりきり痛んだ。怜は、ストレスがダイレクトに胃にやってくる性質だった。
 (痛んだ胃はアルコールで殺菌消毒や。恨みつらみも、ストレスで濁った血も、濃ゆい酒で追っ払うんや)
 怜はふっと微笑み、大きな氷を溶かすように、上からまたウイスキーを注いだ。
 流しには汚れ物が溜まっていた。
 (一体いつからそこにあるんやろ。全然思い出されへん。昔のことやったら、フルカラーでいくらでも思い出せるのに)
 元々アルコールに強い方ではない怜の意識は早や混濁しはじめ、ほんのわずかな表層でしかものを考えられなくなっていた。
 ただ、脳内では反響し続けていた。
 母親の言葉と、今日聞いたばかりの雨村の言葉と、赤ん坊の悲鳴のような泣き声が。
 そしてもう一つ、忘れられない声が。


 その日のカイナホ印刷に対する陳謝は怜自らが直接起こしたものではなく、入社半年足らずの後輩のミスについてだった。とある広告の電話番号が間違っていた。ボールペンで雑に筆記された数字の7を、その男は1と見間違えたのだ。シンプルかつ、重大なミスだった。覚えのある番号ではあったが、ほとんど睡眠を取っていない怜の脳がその間違いに気付くことはなかった。
 誤植のまま広告チラシは何百枚も印刷され、様々な雑誌媒体に掲載された。深夜営業を中心としたその飲食店の代わりに、寝静まった一般家庭の電話が絶え間なく鳴ることとなった。そしてその一般家庭の家主は当然のごとく、店に恫喝まがいのクレームの電話を入れた。
 怜は板挟みになり、雨村からも店からも、上司からも管理責任を問われた。
 ひたすら頭を下げるしかなかった。
 怜はかの飲食店のオーナーの事務所に出向き、応接室で土下座した。


 怜はウイスキー、粉ミルクの残量について頭を巡らせた。
 (今日の分は大丈夫やったはず。多分)
 今にも泣きだしそうな赤ん坊をあわてて抱き上げながら、怜はキッチンに入った。
 粉ミルクは。ある。ウイスキーも大丈夫。怜はほっとした。
「ほおら。ミルクもあったね。だから今夜は泣かんといてなー」
 怜はリビングに引き返し、あやしながらしばらく部屋の中を歩き回った。と、しばらく手足を動かしていた赤ん坊が大人しくなった。
 (今や)
 怜は赤ん坊をそっとベビーベッドに寝かせた。すぐに赤ん坊は寝息を立てはじめた。
 怜は赤ん坊を見つめたままじりじりと後じさり、キッチンまで行くと、ふっと一息ついた。そしてグラスにウイスキーを注ぎ、ストレートで一口飲んだ。
「……いま何時(なんじ)やろ……」
 薄く開いた唇の隙間から漏らすように呟いた。
 今日はもう電話はならないはず。実家からも、会社からも。相変わらず胃は痛んだ。
「だからゆっくり、寝といてくれな」
 怜は囁くと、ジャケットも脱いでいないことを思い出し、リビングの隣室へ入った。
 ジャケットをハンガーに掛けながら、ふと本棚に目をやった。
 フォトスタンドに目が留まった。
 ほんの数年前の写真だ。怜と美由希、二人で写っている。
 美由希は満面の笑みで、両手で大きくピースサインをしている。
 右腕は怜の左腕に回されている。美由希の自信に溢れた表情とポーズと比べ、怜の目には自分の姿が何とも頼りなさげに映った。ピースサインも弱々しく、表情も曖昧だった。
 (これってこんな写真やったっけ)
 完全に美由希に呑まれている写真の自分を見て怜は吹き出しそうになった。
 本棚の横にはギタースタンドがあり、その上でフォークギターは埃を被っていた。
 怜は違和感を覚えた。
 俺のギター。俺が、十七歳の誕生日を迎えた日、こつこつ貯めたアルバイト代で買った、少し分不相応なフォークギター。こんな形だったか。こんな色だったか。
 思い出せない。今夜はまだウイスキーは一口しか飲んでいない。
 怜はその場で胡坐(あぐら)をかくと、ギターを爪弾いた。
 (あの曲を弾こう)
 Dコードを極めて小さな音量で鳴らした。そしてすぐに、F♯コードを押さえることが困難になっていることに気付いて驚いた。
 あんなに練習したのに。あの頃は弾けたのに。
 鳴るには鳴ったが、きれいに六弦全部は振動してくれなかった。握っている手も震える。親指の付け根に痛みを感じた。
 F♯を押さえられなければあの曲は弾けない。
 F♯を押さえられなければもう二度と、あの曲は弾けないのだ。
 怜は、かつてのように自由に動かない手に苛ついた。苛つきから、つい思い切り強くストロークした。
 (しまった)
 時間を考慮すれば非常識と言われてもおかしくないほど大きく、そして美しくF♯は鳴り響いた。部屋中に。
 怜は息を潜め、リビングに意識を傾けた。
 ゆっくりと、静かに、そしてだんだんと泣き声は大きくなった。
「……やってもうた」
 怜はため息をつき、ギターをスタンドに置いて立ち上がった。
 リビングへ入るとすでに赤ん坊は完全に目を覚まし、全身を使って泣いていた。
 怜はそのままキッチンへ行くと、ウイスキーの入ったグラスを持った。そしてリビングのベビーベッドのそばに立つと、泣きじゃくる赤ん坊を無視したままグラスの中身を飲み続けた。
 飲みながら今日、飲食店の一件での土下座のことを考えた。
「土下座なんてみっともないことしたから、おまえにはもうあの曲を弾く資格はない。そういうことやろ? なあ」
 怜は赤ん坊に話しかけた。赤ん坊は返事をする代わりに、大声で泣いた。
 グラスの中身を一気に飲み干すと、怜はリビングとキッチンを隔てるドアを開け、グラスを思い切り流しに叩きつけた。
 大きな破壊音とともにガラスの破片が飛散した。赤ん坊は泣き叫んだ。
「つまり歌うな、と。弾くな、と。そういうことやろ? なあ!」怜は力任せに、柱をがん、と殴った。「なんで? なんであかんの、弾いたら。なんで? なんで泣くの、そんなに。なあ、なんで? なんで?」
 アルコール分を含んだ息を吐きながら、怜は赤ん坊の体を三度、四度と揺すり続けた。ひゅうっ、と大きく息を吸った赤ん坊が、腹に溜めた力を一気に開放するようにぎゃああああ、と声を上げて泣いた。
 その声で怜は我に返った。
 (あかん。泣き止まさんと)
 怜は慌て、赤ん坊の首に手をかけた。
 そのまま両手に体重を乗せようとした刹那。
 荒れて節くれ立った自分の手を見て驚いた。恐らくここ半年ほどは、自分の手などまじまじと見ていない。
 (いつの間にこんな手になったんや)
 すべての指の爪はトタン屋根のように凸凹と波打っていた。
 怜は両手の親指と人差し指で輪を作り、赤ん坊の首に回してみた。
「……ほっそいなあ、おまえ」
 両手で作った輪の直径は、赤ん坊の首周りよりもはるかに大きかった。
 必要ない、と怜は思った。
 両手は必要ない。片手で十分、絞めることができる。
 突如、怜の体の中心辺りから熱いものがせり上がってきた。ウイスキーを戻すのかな、と身構えたが、違った。
 それは胃から上がって来たものではなかった。
 怜は赤ん坊の首からそっと手を放し、赤ん坊の泣き声に合わせるようにしてすすり泣いた。


 気づくと赤ん坊は泣き止んでいた。
 怜はのろのろと立ち上がると、キッチンへ入った。グラスの破片は、思った以上に広範囲に飛び散っていた。
 (明日の朝、会社に行く前に掃除機をかけよう)
 そう決め、怜は目立つガラスだけを集めて、一旦流し台に破片の山を作った。そしてそのままざぶざぶ顔を洗い、乾いた涙の痕を落とした。
 落ち着いた怜は、ミルクの準備をはじめた。ヤカンを火にかけ、粉の量をきっちり守って哺乳瓶に流し入れた。
 ぬるめだからもうそろそろかな、と思った時だった。
 (……聴こえるはずがない)
 しかし、聴こえる。
 確かに聴こえる。
 泣き声ではない。
「……そんなこと、あるはずがない」
 リビングから歌声が聴こえる。
 誰かが、リビングで歌っている。
「ありえない」
 ありえない。
 なぜなら、その歌は。
 その歌は二人しか知らない。この世で怜と美由希しか、その歌の存在を知らないはずだから。
 怜は哺乳瓶を取り落した。
「飲みすぎか」
 ウイスキーのストレートはとりあえずやめるべきだ、と怜は思った。
 まだ聴こえる。
 それは怜が、生まれて初めて書いたオリジナルソングだった。
 その歌はサザンオールスターズの〈逢いたくなった時に君はここにいない〉に似ていた。
 怜はリビングのドアの前に立った。
 (幽霊でもなんでもいい)
 そしてドアに手をかけ、
 (せめてもう一度だけでも)
 ゆっくりと押し開いた。


 歌声はベビーベッドから聴こえた。
 赤ん坊が、美由希の声で静かに歌っていた。
 遥か遠い昔のことのようだった。その声をスタジオで、公園で、河原で聴いたのは。
 高くて張りがあってよく伸びる、それでいてどこかころころとした鈴のような可愛らしい声。誰かに聞いてもらうために、そのために生まれてきたような、そんな声。
 忘れようもない。怜が惚れ込んだ声だった。
 怜にはなぜか、今この場所で美由希の歌声を聴くことがごく自然に感ぜられた。
 恐怖心は微塵にもなかった。驚きもなかった。
 ただ、こう思った。
 (きれいな声やなあ。ほんまに、一日中でも聴いていたいような声やなあ)
 瞬間、怜はその場に突っ伏していた。
 吠えるように泣いた。
 号泣しながら怜は額を床に何度もこすり付け、大声でわめき続けた。
 それが美由希と赤ん坊に対する詫びの言葉であることは、その時の怜にはわからなかった。
 涙は止まらなかった。
 いつまでも流れ続けた。


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