祭裏《まつり》

文字数 6,769文字

 夏也とは中学校からの縁だった。
 親友と呼べるほどの仲ではなかったが、お互いの趣味について語らい合うぐらいの距離感。
 高校に入ってからも夏也の素行不良は直らなかった。運動神経抜群、頭も良かった。僕に無いもの、いや僕とは正反対の人格といっても過言ではないだろう。いわゆるガキ大将。
 そんな夏也も恐怖や暴力で自分の世界を創っていたのではない。憎たらしい話だが、彼はとても義理堅い男だった。
 先生と不自由を嫌い、友達と己の信条を守る。簡単に言うとかっこいい奴だった。
 夏也は人としての器が大きかった。それが大きければ大きいほどプレッシャーも守るべきものもたくさんある。僕もその中の一つだったのかもしれない。彼はそれをどんな手段を使ってでも守ろうとした。少し過激なところもあったけれど、中高生でそんな生き方を選択できるだけの技量も度胸もカリスマ性も十全に持ち合わせていた。
 しかし高校ではそのやり方は通用しなかった。
 全てを受け入れ、全てを守り、全てを許す。
 それでは無理だ。無理だった。

 高校一年生のクラスでは僕と夏也、それに春也とも同じクラスになっていた。春也と仲良くなるのは少し後になる。ここまではいい。夏也政権が揺らぐきっかけとなったのは同じクラスにいた男だった。

 秋也(しゅうや)との出会いは特別なものではなかった。
 ただのイケメン。ああ、もうこれだけ。僕の敵だ。顔がなんだというのだ。くそう。
 夏也との確執はその容姿と女子からの人気、たったこれだけだ。それでも色恋沙汰に目が眩んだ高校生たちの注目を自然と集めていた。もちろん頭もいいし、バスケ部では期待のルーキーと謳われていたことも聞いていた。
 学年一の人気者に歯向かう者も口答えする者もいない。自然と人が集まる秋也に敵うわけがない。そんな非効率的で無意味なことをする人間はいない。
 夏也を除いては。
 正しいこととは何かと問われると何とも言えないが、夏也は決して友を独りにはしなかったし、中学校でも関わる者はみんな痛み分けをするべきだという。それが分かち合うことであると彼はそう言っていた。
 弱い者の気持ちも強い者の気持ちも理解できる男だった。
 そんな環境も高校生になると一晩で崩落した。

 それはいじめと呼ぶには余りにも幼稚で、喧嘩や抗争と呼ぶには余りにも陰湿だった。
 秋也の絶対王政は言うなれば奴隷制度で、階級制だった。
 朝の教室はまるで逆三角形で、今にも崩れそうな絶望感。女子のグループらは覇権を争って常に秋也の隣を狙う。秋也を取り巻く男子達は執事みたいで個性を出すことを恐れているように見えた。何も言わない。ただの羊だ。
 肯定と賛辞、王を讃えるのは必然だ。
 否定と陰口、兵はただ目標を向く。

 世界は変わった。
 大人の階段を上り、子供のステージから堕ちる。
 常識という翼を背負い、社会の大空を飛ぶ。
自分の(さいのう)を社交性で研ぎ、磨き、嗤う者。人の上に立つもの。
自分の信念(さいのう)を社会性が塞ぎ、嘆き、それでも友と共に笑える者。人の上に立つべきもの。

 僕の中でのリーダーは夏也だ。


 川が崖を削るようにゆっくりと僕らの在り方は死んでいった。秋也に合わせたほうが楽でいい。
 事が起こったのは文化祭の役割分担だった。
 クラス内での仕事量は明らかに違ったが、秋也はバンドの練習で忙しいという。僕らが代わりにやるべきなのか。そうか。
 「おい、どう考えても不平等だ」
 夏也やめてくれ。
 「みんな部活もある。帰宅部は少し多く仕事をやろうとしている。でもお前はなんだよ。一人だけ楽をしたいだけなんだろう」
 夏也、どうかやめてくれ。君は正しいんだ。間違っちゃいない。でもなぜかその言葉が出ない。このクラスでその行動を望んでいる人間はいなかった。夏也はたった独りの反逆者。
 この瞬間、夏也が最も嫌い、最も恐れ、生み出したくなかったモノに自らが成ってしまった。


 それからは全てが灰色だった。
 文化祭は悪い意味で嵐のようだった。もちろん楽しくはない。思い出には残った。鼻で笑えるくらいの記憶と恥。
 夏也は度々学校を休み、僕とは挨拶も交わさなくなった。
 秋也の暴走は一層強まって、より過激になった。夏也が何をされたかは分からないが特に夏也はあの日以外目立った行動を取っていない。つまり秋也も本能的に同じ素質を持つ夏也を恐れていたのかもしれない。今となっては後の祭りだが。
 そのまま特に何も起きないまま日常は流れ、次の事件は夏祭りで起きた。事件といっても僕はその結末を知らないままだった。
 僕は他クラスの友人に誘われ、祭りで賑わう銚子駅前に繰り出した。そこは浴衣姿で下駄の音を鳴らす女子やカップルなどで埋め尽くされていた。歩道には出店が立ち並び、定番の食べ物やおもちゃを売っていた。ソースの焼ける匂いと喧騒が銚子に覆い被さる。
 これぞ夏。
 僕らがぶらぶらと出店の通りを歩いていると見知った顔が視界に入る。夏也だ。
 父親と一緒に頭にタオルを巻いて汗を垂らしながらイカ焼きを作っていた。
 「こんばんは、ひとつ下さい」
 「はい! 毎度あ……り」
 僕に気づいた夏也はイカと釣銭をゆっくり僕に手渡した。
 「親父、少し出てくる」
 「……遅くなるなよ」
 こうして僕と夏也は祭り会場から外れた路地にあった花壇に腰かけた。
 「…………ここから少し奥にいったところで居酒屋やってるんだ。毎年祭りで店を出してる。食ってみろよ、うまいぞ」
 「うん」
 夜風が当たって食べやすくなったイカはとても美味しかった。味は正直分からない。
 「美味しい」
 「だろ? 」
 褒められて嬉しそうに笑う夏也の顔は過去も何もなかったかのように純粋で無邪気だった。
 小さな街灯とたまに咲く花火だけが照らす暗い路地には咀嚼音と大通りから漏れる祭りの喧騒だけが届いていた。
 僕は何もしていない時間が無くならないようにゆっくりイカを食べた。僕がそのイカを全部飲み込むまで夏也はピクリともしない。
 「冬也、俺は間違っていたかな」
 夏也はどうしようもないくらい弱弱しい声でそう聞いてきた。
 「何を? 」
 意地悪く聞き返す。こんな夏也は間違っている。
 「何って文化祭前だよ。忘れたのか」
 「いいや忘れてない。明日のことのように覚えてる」
 「明日分かんのかよ……で、どう思った? 」
 「…………僕が君に抱いている思いは何一つとして変わっちゃいない。でも君のあの日の判断には納得いかない」
 「つまりどういうことだよ。挑発に乗っちまったのは反省してるよ」
 「例えるのなら、君は秋也と対面してじゃんけんをしようとしているとする。君たちの背中には出そうとしてる手が映し出されてるんだ。で、その背後にはクラスメイトがいて敵の出す手を伝えようとしてたんだ。君の出す手はバレバレだったけど秋也の背後には僕がいて君に伝えればイーブンだった。でもそもそもじゃんけんをしたら僕たちの負けで、僕が君に何かを伝えようとしたら君の背後にいるクラスメイトに銃口を向けられていた。みたいな感じ」
 「よくわかんねえけど、最初はグーって言ったら詰んだと」
 「そう」
 「お前の例え分かりづらい」
 知ってる。僕も言っていてよく分からなくなった。
 「やっぱり僕は仕方がないと思う。よくあそこまで我慢したと思ったし、秋也のやり方と君の在り方は相反するものだ。僕もなんか嫌だった」
 でも夏也が討たれたときから、僕はここはそういう場所なんだと気づいてしまった。民主主義的な空気と外聞、野党である夏也が廃れてしまい政府としての機能が果たされていないし、ロングホームルームでの話し合いにも意味なんてない。
 抗えと言われて抗えるものじゃない。
 否定する想いが頭を埋め尽くした。僕は屈したのにその現実から目を背けている。
 僕も嫌だったなんて言葉をかけたい訳じゃない。僕は夏也を見捨てたんだ。その現実が恐ろしい。秋也に歯向かうことよりもずっと怖い。
 「ごめん」
 「なんで冬也が謝るんだよ」
 喉につかえていたものが取れたような錯覚がある。たった三文字で贖罪なんて甘すぎる。
 それでも許してしまう夏也に僕は甘えてしまう。
 避けていたのは僕のほうなのに。
 「許されるなんて思ってない。でも誓うよ。僕はこれからいつだって君の味方さ」
 「冬也……」
 これから僕は抗うと決めた。夏也がいれば怖いものなんてないから。

 「やあ、夏也と冬也じゃないか。奇遇だね」
 秋也だ。祭りには来ていると思ったが、どうも様子がおかしい。
 「…………なんの用だよ」
 いつも秋也を取り巻く女子も男子もそこにはいない。祭りに参加しに来たのではないらしい。暗い路地の奥から突然、姿を現した秋也は並々ならぬ雰囲気を纏っていた。
 「俺は夏也に用があって来たんだ。すまないが、君には席を外してもらいたい」
 秋也は僕を見下しながら言った。失せろと。
 「悪いけどこの花壇は動かせないよ」
 喧嘩を売ってみた。秋也は笑顔のまま腕を組んで息を吐く。失せろと。
 「冬也悪い。先に帰って親父に遅くなると伝えてくれ」
 「でも……」
 「いいんだ。大丈夫、話してくるだけだ」
 僕は言われるままに路地裏を後にした。


 イカ焼きと書いてある店の前まで来て一息つく。会場の熱気で体温が急に上がった気がしてならない。これで胡散臭い光る飲み物を買ってしまうというのか。映えだな。
 「おじさん、夏也ちょっと遅くなるそうです」
 「ちっ、あいつ店番サボりやがって帰ったらただじゃすまさねえ」
 夏也の父は焼いたイカを器用にトレーに投げ入れながら悪態をついている。すると店の裏手から祭りの運営らしき人が顔を出した。
 「ヤナさん。忙しいところ悪いんだけど機材が壊れたらしくて診てくんねえか? 」
 「おう榎木、ちょっと待っててくれ、今行く。坊主ちょっと店番頼んだぞ。それか夏也連れて帰ってこい」
 弱ったな。夏也を連れ出した手前断るわけにもいかなかったので仕方なく店番をすることになった。幸いにもさっきまで焼いてあった分のイカはまだ大量にあるので売るだけだ。
 目の前を横切る雑踏をぼんやり視界に収めるぐらいで他にやることはない。
 大きなスピーカーから流れてくる花火を紹介するアナウンス、客引きや笑い声など嫌でも耳に入ってくる。祭りは嫌いじゃないが、この空間に馴染めていない自分は嫌だ。それでも騒音はやってくる。さらに目の前を騒がしい集団が通り過ぎていく。秋也の取り巻きの男子達だ。その最後尾には春也がいた。あまり親しい間柄ではないが、学校では春夏秋冬ブラザーズなんて呼ばれているくらいだから多少の付き合いはある。……と勝手に思っている。
 店の前から秋也の配下が過ぎ去るギリギリのところで春也と目を交わす。
 「春也! こっち。いいからこっち来いって」
 春也は少し驚いていたが、自分の存在に配下が気づいていないことを確認すると人の背中に隠れて店先に体を潜り込ませた。
 「君は……冬也かい。珍しいね、まあ何をしているのかとは聞かないけど僕に一体何の用だい? ちなみに店番は変わらないよ」
 なぜバレた……。もしやコイツ千里眼持ちか。
 「春也、お前に一生のお願いがある。僕と店番を変わってくれ」
 「冬也、いいのかい? こんなところで使って」
 「明日死ぬかも知れないだろう」
 「じゃあ僕も一生のお願いだ。その頼みを断らせてくれないか」
 めんどうくさい奴だが、思考回路が僕にそっくりだ。こんな時は相手の利益を提示してやればいい。
 「あいつらといるのは疲れるだろう」
 すでにそこにはいないはずの秋也の配下が消えていった方角を指さす。
 「いいや、死ぬほど疲れるね。でもここなら座っているだけだろう? 」
 「ああ、ありがとう! すぐに店主のおっさんが戻ってくるはずだからそれまで頼む。僕のことは夏也を連れて帰りにいったと伝えてくれ。ほい、これ奢りだ」
 僕は財布から千円札を取り出して鉄の缶に放り、イカをパックに入れて春也に差し出す。そして僕はまた暗い路地へと駆け出した。
 「お釣り持っていってないじゃないか…………。それにしても……夏也か」



 さっきまで座っていた花壇には人の気配が全くなかった。逸る気持ちと鼓動を落ち着かせながら歩みを遅くする。もう少し先かもしれないんだ慌てずゆっくり行こう。
 少し歩くと路地の入り組んだ場所に出た。祭りの気配は届かない穏やかな場所。打ち上げ花火がよく見える。
 声が聞こえた。辺りには誰もいない路地のどこかで声が響いている。怒鳴っているようにも叫んでいるようにも嘆いているようにも聞こえる痛烈な声。
 声のする方向へ恐る恐る進む。きっと秋也と夏也はそこにいるはずだ。
 二人が視界に収まるところまでやってきた。僕は近くの塀に身を隠す。
 ここからだと全て鮮明にとはいかないが言い争っているのがわかる。
 「お前はなんなんだよ! なぜ思い通りにならない! 」
 秋也が怒鳴り散らす。はっきり言っていつもの秋也らしくない。いつも自分からは手も口もほとんど出さず、どこまでもクールに陰湿だった秋也の面影はそこにはなかった。
 「初めからお前のやり方は好きじゃなかった。それだけだ」
 夏也の方は酷く冷静で氷みたいだった。味方を失ったあの頃とは違い、達観して大人になった少年の姿がそこにはあった。
 秋也が突然、夏也の胸元を強く押した。しかし、夏也は凍ったまま動かない。夏の路地の冷たい空気を全て支配しているみたいだった。
 僕は重苦しい雰囲気の中で、夏也の成長ぶりを素直に喜んでいた。ウキウキしている。
 「もうそんな安い挑発には乗らねえよ。自分からじゃなんにも出来ないもんな。話がそれだけなら行くわ。親父と大切な友達を待たせてるんだ」
 夏也は秋也にそう告げて、踵を返しこちらに向かって歩いてくる。
 僕は彼の言葉が嬉しすぎて心と体が舞い上がってしまった。ふわって。彼らが何を話していたのかは気になるが、そんなものに構うような時じゃない。熱い友情を確認できた。それだけで十分だ。塀から飛び出して夏也を迎える。
 …………はずだった。
 夏也は時が止まったように動きを止めたかと思うと、膝から地面に崩れ落ちた。
 背景には秋也がいて、息を荒げながら眼球が飛び出しそうに目を大きく開いていた。右手は空中にあり、先ほどまで何かを掴んでいたかのようだ。スローモーションみたいに視界が全て緩やかになる。
 確かに倒れた夏也の背中には僅かばかりの街灯の光を反射するナイフが深々と突き刺さっていた。状況は理解できる。さっきの問答の夏也みたいで冷静に、氷みたいな僕の体は固まって動かない。
 夏也が呻き声を上げるのと秋也がナイフを抜くのはほぼ同時だった。ナイフの柄が折れそうなほど握りしめている夏也が鮮血を払う。音はなく暗闇に溶けていった。
 「冬也! ……はああ、っが! 逃げ…………ろ……」
 本当の意味での必死さで放たれた夏也の忠告が僕の体を叩き割った。手と足の先から熱が逆流し体が奮いあがる。
 逃げろ。逃げろよ。…………でも決めたんだろう冬也、抗うと。夏也がいれば怖いものなんてない。ふざけろ。恐いだろう。目の前の鬼よりも逃げることが。
 本能に抗って自分の敵に抗って。それでも得たものは何もない。物質的にも精神的にも。再び減速する思考の中で遺言も悔恨も出てこない。僕の中にあるのは逃げなかった自信と薄れゆく罪悪感だ。でも欲しかったのは冗談でも言えるほどの余裕と心の強さくらいだ。
 逃げちゃいけない。そう、僕は逃げなかった。
 「今なら初号機に乗れるな」
 突然の衝撃と昏倒が僕を襲う。同時にお腹も痛くなってきた。夏也のイカ焼きが半生だったのか。くそう。
 

 氷は青い絵の具と共に溶けた。



 「冬也! 起きてくれ冬也! だめだ、それに夏也まで…………誰がこんなこと」
 「春也。こんなところで何をしてるんだ」
 「秋也大変なん……だ……! そうか…………君か。僕は冬也にお釣りを渡しに来ただけだよ」
 「なるほどね。…………春也、一生のお願いだ。このことを誰にも言わないと誓ってくれないか。友達だろう? 」
 「お断りだ。消えろ外道。それに友達なんかじゃない。配下の間違いだろう? 」
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