樹奥《きおく》

文字数 10,931文字

 銚子観光の翌日、普通に登校した。いや、だからデートじゃないって。
 いつも通り午前中の授業を適当に聞き流して、待ちに待った昼休みだ。適当にだから。
 「やあ、さっきぶり」
 「ワカシ、イナダ、ワラサ? 」
 「ブリ。…………出世魚か。冬也って意外としょうもないこというよね」
 うん。知ってる。初めて心の中のことに鍵括弧つけてみたよ。そう、僕は案外テキトーなのさ。テキトーね。
 「仕方ないだろ、思いついちゃったんだから」
 「うん、そうだね。ところで、昨日思ったんだけど、夏泥棒って僕たちじゃないのかな」
 今かなり大事なことを喋ろうとしているから、僕の必死の抵抗をテキトーに流したことは水に流そう。
 春也とトイレに行って帰ってくると僕らの席は女子のグループに占領されていた。しかたがないので窓際の空いている二席に陣取り、パンや牛乳を広げた。
休みの人の机だろうか。机の中身は空っぽで、机には『春 秋冬』と落書きが書いてあった。やっぱり夏はない。
 先ほどの話の続きを始める。僕らにとっては作戦会議だ。
 夏泥棒は僕たちというのは随分と切り込んだな。
 「あまり驚いていないようだね。話は分かるだろうけど一応説明するね。夏を盗んだ人はきっと何らかの形で夏を持っている、認識しているはずなんだ。でもネットには痕跡すら残っていなかった。だから夏を認識しているのは僕たちだけってことになる。だから世界から夏を盗んだのは僕らというのは妥当な考えなんだよ」
 「…………」
 うーん、それな。
 しかし全く心当たりがない。お巡りさん、僕やっていません。
 薄々そんな気もしていたが、それ以上になぜそんなことになったのかというほうが気になってくる。
 きっと春也はこの説を信じているのだろう。真剣な顔で僕の返答を待っている。その目元はうっすらとクマが見える。昨夜はずっと考えていたのだろうか。春也は夜更かししてまで熱中するような趣味はないはずだし、勉強も必要最低限しかしない。
 真剣に探るか。

 「きっと合っている……と思う。今は情報が少なすぎるし、一番のヒントは夏を知る僕たちだ。これは間違いない。でも、身に覚えがないじゃないか」
 「…………」
 今度は春也が黙る。自分が盗んだとでも言うつもりか。
 「身に覚えがないと言ったね? 冬也は、去年のことを覚えているかい? 」
 「去年といったら、……夏休み明けにお前が帰宅部になって仲良くなって、ただだらだらと日常が過ぎていっただけだ。体育祭のときにクラスが準優勝して打ち上げに行って、それから………………」
 「もう大丈夫だよ。それは僕も覚えている。楽しかったよね。……じゃあ前期は? 僕と仲良くなる前のこと、夏休み、入学式の時の不安や期待、真新しい校舎を目にした時の感情は。もちろん覚えているだろう」



 「………………………………覚えてない」
 腰から何かが這い上がるような寒気と怖さを感じる。しかし身震いも許さないほど僕の体は固まってしまっていた。気持ちが悪い。身体的にも精神的にも耐え難いものだった。脳のタンスを下から順に開けていく。ない、記憶にない。過去の一部分が欠落した不安は形容し難い。その時期に自分は何をしてどう生きてきたのか記憶による補完ができない。
 自身の在り方はこれであっているのか。不安でならない。
 僕が俯き、物言えない間も春也は押し黙ったままだ。顔を上げたらきっと悲しい表情が僕を迎えるだろう。春也だって境遇は同じはずだ。
 「春也、お前……昨日のうちにこの結論に達していたのか…………独りで。電話ぐらいしろよ」
 「僕が面白くもない弱音を吐くと思うかい? 」
 「思わない、けど吐いて欲しかったよ」
 「そうだね。悪いと思っているよ。だけど君と仲良くなったのは後期からだ。それは今でも覚えている。だから君と過ごした時間を忘れたわけじゃない」
 「俺たち同士での記憶の補完はできる、か」
 「夏休みの最終日のことは覚えているかい? 」
 「いいや、さっぱり」
 「みーとぅー」
 僕らにしては珍しいマシンガントークだった。お互いの苦しさを知っているだけに、お互いを励まし、おどけして、嫌な空気をかき消した。春也のふざけた返答に二人で吹き出して、昼飯をつつく。そこには何の変哲もない空気が流れた。窓からふわりと風が入り、雲から太陽が顔を出した。それらは教室にいる生徒の髪を揺らして、影をつくって、どこかへ消えた。僕は春也と窓辺をしばらく見つめて、ふと息を吐いた。
 生温い風が廊下に消えて、昼休みの喧騒が戻る間隙を突くようにチャイムがなった。
 「僕らもリロードしとこう」
 「だな」
 少し喋り過ぎたみたいだから、その乾いた喉に牛乳の残りを流し込んだ。ごほっ。
 
 
 
 午後の授業はカフェミュージックみたいだった。美味しいコーヒーもパンケーキもなかったけれど。でもやっぱりプリンがいい……。
 特に話すこともなく駅で春也と別れ、N田線に乗車する。他にも同じ制服が乗っている。ほとんどが見知った顔だ。みな席を等間隔に取り、スマホをいじっている。そして連中の中に僕も溶け込んだ。ただ、彼らと同じようにスマホをいじる気にはならない。
 ぼんやりと吊革や駅のホームを見る。視界に入っているだけだ。視るというほうがが正しいだろうか。 
 本当にただの日常だ。気持ち悪いほどに違和感がない。きっとこの中の異物は僕の心だけだ。世界で二人しか夏を知らない。そこに最初から優越感などない。自分だけ知っている孤独感。それはメトロノームみたいに僕の気持ちを度々撫でる。瞬きのなかにも映らない、でも追い求めてしまう、この世界の違和感に。
 今日の出来事は衝撃的だった。犯人は僕らではないか、面白い叙述トリックだ。それ以上に春也があんなに抱え込むやつだとは知らなかった。まだ隠しごとをしているんじゃないかとは思う。僕が気づいていないことをあいつは知っている。今まではババ抜きの最後の方みたいに二人でカードを合わせながら、どちらかが上がれば、両者勝利のイージーゲームだった。でも今は春也のほうが情報というカードが多い。独りで抱えている。もう僕から引くカードはないからだ。僕がカードを生み出してやらなければならない。イカサマだ。でもどちらも枚数が揃えばポーカーのように手札を公開して「フルハウス」とか言っておけばいい。
結局イージーゲームだ。でも春也はきっとこの状況を楽しんでいるはずだ。でなきゃ僕らの間に意味のない駆け引きは生まれない。
 目的を忘れないからと夏消失事件を夏盗難事件にしたのも単なる遊び心だろう。否、競争をして僕の男心を煽っているのか。馬鹿で単純で曖昧だな、あいつも僕も。
 踏切の音が思考を切った。思い切りだね。
 S本線が銚子駅の二つしかないホームの反対側に停まった。人が流れ出てくる。人数は、今N田線に乗っているのと同等かそれ以下に見える。他校の見慣れない制服、疲れ切ったスーツ、コート、N田線に乗り込む人など様々だった。
 みるみる電車の中は空っぽになってしまった。その中にはN田線には無い中吊り広告があり、気になって目を走らせた。面白そうなものはない。塾の広告やショッピングモール、映画や劇などカラフルに電車を彩っていた。「劇場四季」は面白いと聞いたことがあるが、千葉のほうでしか開かれないからあまり馴染みがない。

 一つの違和感。
 「間もなく、二番線N田線発車致します」
駅員がうるさい。諦めて電車から降りる。空気の漏れる音がしてN田線のドアが閉まり、そのまま僕の背後で風になった。
 時刻を確認する。もうすぐ春也の乗るバスが発車してしまう。
 「くそっ!」
 一つ目の赤ランプで走り出す。
 自分が帰宅部であることをちょっと恨んだ。ごめん、かなりだった。リュックサックが背中で盆踊りする。鼓動はホームの階段でドキドキだ。リュックサックを背負いなおし、右側のポケットから定期券を取り出し、改札にぶつける。ぴっと間抜けな音がするが気にも留めず、スピードも緩めず、コーナーを左に曲がる。バス停までは結構距離がある。発車まであと一分。
 「春也ああああ! 待ってくれ! 」
 バスから電車と同じ空気の抜ける音がして、僕の力もいっきに抜けた。ぜはぜはと両手を膝について息を荒げていた。黒いひげが生えてきそうだ。
 灰色の空気がバスの排気口から出てくる。それを地球温暖化に貢献してもらいたいものだ。
 発つバス、跡を濁さず。なにも残っていない。春也の「は」の字もない。
 感じるものは虚無。周りの目などさして気にしていない。これが無常観か、違うか。
 「春也はここだよ~」
 春也の声が聞こえる。幻聴が聞こえるほど僕の体力は落ちていたのか。
 「僕はここにいると言っているだろう」
 背後には呆れた顔をした春也が立っていた。
 「なんでいるんだ。お前」 
 「いてはいけないのかい……。君の望みは僕に会うことだと思っていたのに」
 「それはお得意の想像か? 」
 「まあ、そうだね……。想像というより賭けだね。僕があんな切り込んだ話をしたら君も黙っちゃいないと思って、あとは…………」
 なんだよ。もったいぶらず言えよ。
 「潮風に当たりたくてね。昨日は疲れたし」
 春也にしては物凄く落ち着いた理由だった。結局は僕に会いたいわけじゃなかったということだ。驚く素振りもないから、分かっていたのかとこっちが驚いた。それでも春也からあんな願望が聞けるとは。秋の潮風に当たりに行くことは僕らの目的とは矛盾している。視点を変えれば、この秋を消そうとしているのだから。
 「それで、冬也。僕に話があるんじゃないのかい? 」
 「あ、そうだった。聞いてくれ」
 「今、聞いてはいるから少し歩こうよ」
 帰宅時で人が増えてくることで僕の羞恥心は爆発してしまい、言葉を噤んで足早にその場を後にした。

 日曜日に来た港付近までとりあえず足を運んだ。今日はよく風が吹く。春也の足取りも軽くいつもよりはしゃいでいた。多分普段との違いはあまりないけれど僕にはわかった。理由は分からない。否、分かってはいるのだろうが、知りたくない。友との友情は言葉にはせず、空になった心のタンスにでも仕舞っておけばいいのだ。奥のほうに。
 利根川は河口付近で、くいっと進路を変えて海へと注ぐ。昔は銚子口と呼ばれていたらしい。由来は『お銚子』という小さな注ぎ口の土瓶のような酒器からきたといわれている。諸説。
 お銚子口から真っ直ぐと海を望める場所まで来た。かなり歩いて来ただろうか。ふくらはぎがとても痛い。明日は筋肉痛だろう。
 船もなく綺麗に川、海、空と観られる場所で小休憩を挟む。
視界の六割を青で満たした。間もなく日の入り、太陽が北東に沈んでほしいと思った。その太陽さんは僕の斜め後ろで、建物の奥へと消えた。
 風が強いこともあって空は雲一つない快晴だった。これぞ「空」だ。
 少し淀んだ川の水も画面の下で揺れている。
 画面の一番上から真ん中にかけて薄くなるグラデーション。そして川を海から下り淀んだ青へと変わっていく。どの色も綺麗だ。僕は人の人生みたいだと感じてしまった。濃い色の人生は慣れと共にぼんやりと薄まっていくのだろう。気づかないうちに。
 いつか一度くらいあの水平線の上みたいに真っ白になってどうにでもなってしまいたい時期がくるのだろうか。
 またあの青い天井みたいにどこまでも濃い人生を歩むのだろうか。
 それとも足を挫いて、淀んだ川の水の中に深く、深く沈んで堕ちていくのだろうか。
 そして今僕は一体何色なのだろうか。
 青か。
 白か。
 灰か。
 天国か、地獄か

 春也の目にはこの景色がどう写っているだろう。
 僕とは違って遠くまで見通すあの千里眼はどこまで見えているのだろう。僕の心は穴が開くほど、あの目で見透かされ貫かれてしまった。空っぽだ。
 きっと何も感じないと言うかな。千里眼の真似事だ。
 「春也、お前にはなにが見える」
 「何も見えないし、何も感じないよ。先が長過ぎて、キャパオーバー」
 大当たり。
 「そうか」
 「強いて言うなら美しいね。英作文の問題で、イッツビューティフォーと書くのと同じくらいの軽さだ。どこまでも飛んでいけるようなどこにでもある平々凡々な感想だよ」
 お前の英語力ではまだどこにも飛んでは行けないだろう。ハワイぐらいだ。
 「君は? 」
 「ザッツライトだな」
 「はは、どっちの意味だい」
 「どっちでもいいさ」
 僕らの口からは驚くほど簡単に答えが出た。軽くて明るくて何もない正解だ。
 物事は思っているより単純で曖昧に誤魔化して中学生の英語みたいに簡単なんだ。そこに競争でもあれば男心を煽れる。女心は掴めないが……。
 少なくとも笑える。それだけでいいんだ。
 
 まだ濃い青のままで。

 春也が大きく深呼吸をした。
 「ちょっと条例違反をしようよ」
 「未成年が夜十一時以降に外出をするのか? 」
 「うん、僕らは歩いて話していたら、いつの間にか終電を逃し、バス会社に見放されてしまったんだ。どちらのスマホも充電が切れて、ギガもない。仕方なく夜道を歩いて帰った、という設定でいこう」
 はしゃいでいたのはこれが理由か。
 「終電まで五時間以上あるんですけど……」
 春也に格好つけさせはしない。春也は押し黙って、僕から視線を切り駅とは真反対の方向へ足を向ける。どうやら今日は簡単には帰らないという意思表示のつもりらしい。
 「今日は簡単には帰らないよ」
 つ、ついに僕も読心術を会得してしまったのか……。僕って罪な男。
 振り返ることなく背中でそう言い放った春也はスタスタと僕を置いていってしまう。
 春也の顔は真っ赤なはずだ。うふふふ。

 「で、話とは」
 「おう、すっかり忘れていた」
 二人で黙って歩いていたらすっかり暗くなってしまっていた。数少ない街灯が灯り、銚子の町に夜をもたらした。未だに川沿いを歩いていたため少しずつ肌寒くなってきた。
 春也は腰より高いくらいの堤防の上にひょいとのぼり、川に向かい腰をおろして足をぶらつかせた。僕は堤防に肘をついて反対岸の灯りを見つめる。
 「今日S本線の広告を見たら四季って言葉を見つけたんだ」
 「なるほど、それはいいヒントだ。ネットで調べたのかい? 」
 「ああ、いまさっき、そうしたら季節が四つあることって出てきた」
 「そうきたか……それ以上は書けないだろうからね。きっと四季の存在もフィクションだけで使われているんだろうね」
 やはりそうなのだろうか。四季という言葉は夏が消える条件に当てはまらないなら、夏らしきものを抱合しているものは存在が許されている。言い方を変えると僕らが盗むに値しなかったということだ。
 「やはり僕らの失った記憶が大事なじゃないか? 」
 「それは昨日睡眠時間を削ってまで調べて考えた結論と酷似しているけども」
 「すまん、すまん。だからその中身が重要なんだって」
 春也はまたそっぽを向いてしまった。堤防の上に立ち上がったと思ったら、踵を返してそこから飛び降り、また銚子ぶらり夜の旅に戻ってしまった。
 僕も方向転換して春也に追いつく。
 「だから四季に関係している人に直接話を聞くしかないと思う」
 「具体的には? 」
  春也の質問に無言で応える。
 やはりこうなる。夏を僕らが盗む理由もその手掛かりでさえも暗闇の中だ。今の僕たちは夜の海のようにお先真っ暗だ。
 見渡した夜の海は不気味だった。
 
 
 
 時刻は二十二時過ぎ、終電はもうない。
 僕らの銚子観光夜の部はまだ始まったばかりだ。そしてもう引き返せないところまで来た。
 制服をきちんと着こなした不良二人の運命は一体どうなるのだろうか。なんて考えているうちに街灯のない真っ暗な通りに出てしまった。春也はスマホのライトを点けて足元の先を照らしたので、僕も倣ってスマホを取り出した。通知は全くない。うちの親の放任主義もよくできているな。
 「春也は親から連絡きてないのか? 」
 「ん? ああ、きてないよ。ほら」
 春也はそう言ってスマホを僕に見せてきた。ホーム画面はどこかの景色で、とても綺麗だった。邪魔する通知もなく、今の時刻と機能しているライトのマークだけが映っていた。
 「冬也、ここはどのあたりだか分かる? 」
 「ちょっと待ってろ…………今はポートタワーの少し手前ってところか」
 春也はありがとうと言って、また前を見て進む。なんだか変な感じがする。
 「ちょっと待て。もう一回だけスマホを見せてくれ」
 「……いいよ。ほら」
 「…………お前、通信を切ってるな? これじゃ通知が来ないんじゃなく届かない」
 「ばれたか、九時過ぎあたりからかなり連絡がきていてね。電話がかかってくる前に切ってしまったよ」
 少しの沈黙を冷たい夜風が薙ぐ。
 「春也、そこまでしなくても……」
 「僕はね、もう帰るつもりはないよ。うん、もう帰らない」
 僕は驚かなかった。違和感の正体はこれだ。春也にしてはこれから先のことを話さな過ぎだった。過去より未来を重んじる、そんな生き方が春也にはよく似合うと思う。積み重ねた情報より希望的観測を信じて楽しむ。それが春也という男だ。今の彼の背中からは悔恨のような感情しか感じない。
 「もうすぐ着くはずだよ」
 少し歩くと道が街灯を取り戻した。そして春也はそこから右手側にある暗い路地へと迷わず入っていった。僕も仕方なく付いていく。
 街灯もなく幅の広い階段が数段あるだけで、人の住んでいないような民家の塀や薄汚れた壁などに挟まれている路地裏の定番のようだった。特段怖いわけではないが、夜の気味悪さと点滅する電灯が恐怖心を煽ってくる。類像現象でなんでも人の顔に見えてくる。こわくなんかないんだからね。
 路地裏を上った先でまた通りに出た。周りの通りより一回り短く幅も狭い。まるで別の町にきたかのような不安が僕の足を両手で掴む。進みたくはないが、進まなければ終わらない。何が始まっていたのかさえも不確かだけれど。
 そんな曖昧な今までに終止符を打つ為にも春也の背中を追う。
 「ここだよ」
 春也が止まったのは『四季』という居酒屋の前だった。その店からはかろうじて営業していると分かるぐらいの灯りしか漏れておらず、近くで見るまで看板にも気づかないほどだった。港町ならではの網やウキなどで装飾されていて雰囲気は物凄く良かった。あんな路地から来さえしなければ。
 「ごめんください」
 「…………らっしゃい」
 春也が自然に店に入り、僕も続く。店主は僕らを見て少し嫌な顔をしたが、カウンター席を薦めたので了承は得たということでいいだろう。
 「ガキンチョがこんな夜中に来るところじゃねえぞ」
 びくっと体が固まるのを感じる。
至極当然なことだ。僕らは未成年で本来は許されることではない。しかし春也は僕とは違って堂々している。まるでここに僕らがいるのが当然のように佇んでいる。
「…………で、注文は? 」
 「ふう……。僕はジンジャーエールで。冬也は? 」
 「……オレンジジュースをお願いします」
 店主はうんともすんとも言わずに厨房に向かう。
 少し手狭な店内には僕ら以外の客は見当たらない。貸し切りだ。ちっとも嬉しくない。重苦しい雰囲気が天井に浮かんでいるように感じて猫背になってしまう。胃もキリキリする。
 程なくして二人分のジョッキがカウンターに置かれる。店主は「お待ち」とだけ言って洗い物を片付け始めた。
 「冬也、とりあえず乾杯」
 「おう、乾杯」
 からんと良い音を鳴らしてからオレンジジュースを喉に流し込む。
 ここまで来るのにかなり歩いたものだから喉はカラカラだった。ぐびぐびと喉を鳴らしながらなにかを飲んだのはいつぶりだろうか。昔のようでも最近のようでもあって思い出せない。
 ぷはっと冷たい息を吐く頃にはジョッキの中身は半分まで無くなってしまっていた。氷がジョッキの中で暴れる。
 店にはテレビはなくラジオが小さな音で視聴者からのお手紙を読んでいるだけだった。すこぶる話しづらい環境なのは間違いないが、意を決して春也に質問を投げる。
 「それで何を話すんだ」
 「僕は何も言ってないよ、話をするとは一言も。……けどここに用があるのは確かだ。冬也、スマホのマップで現在位置を調べてみて」
 言われた通りスマホでマップを開くと現在の位置情報がすぐに表示されるはずだ。特に不思議はない。僕らが来た道もそのままマップに記録されている。
 「特に変わりはないが」
 「そのマップにこの居酒屋は映っているかい? 」
 
 映っていない。
 あるのはただの空白。
 「……………………何も映っていない」
 体中に鳥肌が立つのを感じた。
それ以外は何も感じない。何もないのだ。マップの上の僕が立っているはずの場所のように。
 どうゆうことだが全く理解出来ないが、コンピュータのエラーということもあるのでもう一度読み込み直す。しかし、結果は変わらない。どうゆうことだ。スマホの変え時か?
 僕がスマホを叩いていると横から春也がスマホを奪い取り、画面を親指と人差し指でつまみ始める。
 「やっぱりね」
 「……やっぱりって、何がどうしてこうなってるんだ。寿命か? 」
 「いや君のスマホは正常だよ。いや、スマホだけが正常だとも言える。間違っているのは僕たちのほうかも」
 その言い方では僕らも、僕らがいる居酒屋や飲み物でさえ偽物ということになる。
 この感情と感覚。この不安と違和感。指先を冷やすジョッキと喉に残る清涼感。鼓膜に囁くラジオと間接照明。
 
 目の前の店主も偽物ということになる。

 何も信じられない。お化け屋敷の後に行く夜の廃屋のような感じざるを得ない恐怖みたいだ。
 隣の春也が唾をのんだ。春也のことだから色々と想定してここまで来たはずだ。その春也がこんなにも動揺している。童謡でも歌ってやろうか。
 厨房からは何かを焼く音が聞こえる。注文はしていない。
 「…………らしくもなく怖くなってきたよ」
 春也が俯いて吐露するが、見ればわかる。
 「見ればわかるでしょ? 」
 おい、いつも通りだよ。全然怖そうに見えなくなった。生き生きとしている千里眼が視える。それはどんな状況でも僕の心を読んでくる。もしもし春也聞こえる? 
 春也の問いに僕は沈黙で答える。これが一番早い。
 「よし、核心に迫ろう。マスター、あなたは全部知っているはずだ。夏がない世界において四季という言葉は存在が曖昧だ。そして、マップに表示されないこの『四季』というお店、怪しすぎるんですよ」
 最後に敬語を使って春也は店主に言葉をぶつける。
 何かを焼く音は止まらないが、店主の動きは鈍くなったと肌で感じた。漂う重圧が薄らぐ。
 「まずそのマスターってのをやめてくれ」
 「ではお名前をお聞きしても? 」
 「魚梁木(やなぎ)だ。魚梁木四季」
 「魚梁木さん、漢字は分からないけどこの辺りじゃ聞きませんね」
 「雑談はやめだ。魚を焦がしちまう」
 魚を焼いていたのか。うん、香ばしくて食欲が増してくる。ぐー。あ。
 「坊主、さっきから黙ってると思ったらそういうことか。まあそう焦らすなよ。今出してやる。サービスだ」
 「ありがとうございます」
 もう夕飯も食べずにこんな辺境まで歩いてきたんです。お腹が空いて空いて仕方なくて。
 あープリン食べたい。
 魚梁木さんは無口な人かと思っていたが話しやすい。居酒屋の店主というより強面な漁師の風貌をしていたけれど、中身はカッコよくて渋くて、どこか不器用な感じで溢れている。
 そんな印象を抱いてからはさっきよりも肩の力が抜けたような気がした。春也もジンジャーエールを飲んではカウンターの調味料をいじったりしている。よだれ垂れてるぞ。
 少ししてから魚を焼く音が消え、大根をおろしたと思ったらあっという間に完成した。
 「アジの塩焼き、お待ち」
 見た目はとてもオーソドックスでシンプルなアジの塩焼きだ。しかし空腹という最高の調味料と鼻孔をくすぐる香りで我慢など不可能。
 「いただきます」
 春也に続いて僕も合掌して魚という存在に感謝しながら自分が産まれたことを称賛した。僕が初めてアジの塩焼きを食べたのは小三でした。どうでもいいか。
 宮本武蔵を待った佐々木小次郎の気分でアジと対面する。そこに怒りはない。よく来てくれた! という感じ。拙者佐々木冬也と申す。心の中で眼をむくが、もちろん返答はない。代わりに強烈な旨みから放たれた香りで答えてくる。なかなかやるな……。
 春也の千里眼に匹敵するであろう僕の心眼でアジの弱点を見極める。調理済み。
 少し焦げて固くなった切り身の表面と僕の箸との鍔迫り合いを制し、アジの体を切り裂き、中から白くて柔らかい身を取り出す。表現がいちいちグロいな。
 一口食べるとアジの旨みと香りが口内で暴れだした。自爆攻撃か! 
 ちょうどいい塩気は後を引き、箸が止まらない。見える! 見えるぞ宮本! 
 冷たくなった胃が活動を再開し、体の芯から身震いすると魚梁木さんがカウンターにほかほかの白米を置いた。魚梁木さんはニヒルと笑い、厨房へと戻っていく。僕はこの攻撃にカウンターを出せず、白米をアジと一緒にかきこむ。勝負あり。
気づいたときには全て平らげてしまった。とてもおいしかったので致し方なし。
 アジの塩焼きに完敗した僕は涙を流しながらアジを食べる春也とおもむろにジョッキを交わした。オレンジジュースを飲み干した時には僕の目からも涙がこぼれた。
 「ごちそうさまでした」
 「……ごちそうさまでした」
 「おう」
 魚梁木さんが空いた皿を片付けていく。僕はアジを少し残した。
 涙が止まらない。なにか暖かいものに包まれているのか、それともじわじわと体内に広がって浸食していくのか。よく分からないものが脳内を支配する。説明する感情がない、いや感情ではないのか。正しいレールの上に乗せられるように、パズルの足りないピースを埋めるように、どこか不気味で、でも不快感はない何かが僕のナカを補完する感覚。それに喜んでいるのか、悲しんでいるのか、涙は溢れて止まらない。
 「それで……きっと全て思い出すはずだ。坊主たちの過去も……」
 魚梁木さんは途中で言葉を止めたが、その真意に気づく余裕も汲み取る余裕もない。

 今、全て思い出した。

 僕たちはもう死んでいたんだ。
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