入社初日

「勤怠についての説明は以上です。今のところ何か質問はありますか？」
「あの」
「何でしょう」
「ずっと気になっていたんですけど、なんか、ちょっと空気が濁っていませんか？特に問題ないならいいんですけど」
「空気ですか？確かに多少濁ってはいますが、毒性はないですよ」
「毒性？ガスか何かですか？」
「ガス、なんですかね。私も詳しくはわからないのですが、毒性はないですよ」
「何でこんなに濁っているんですか？」
「だから、私も詳しくはわからないって言ってるでしょう。毒性はないって言ってるじゃないですか」
「毒性がなければいいってもんじゃないですよ。というか、デスクワークのオフィスの空気に毒性があったらやばいですよ」
「デスクワークじゃなければ毒性があってもいいんですか？肉体労働者は有毒ガスの中で働けと？」
「そんなこと一言も言ってないですよ。何で空気が濁っているのか聞いただけです」
「だからわからないってば。私が入社した時からこんな感じだったんで、そんなもんなんじゃないですか」
「いや、そんなもんって一言で片付けられるレベルではないでしょう。めちゃくちゃ濁ってるじゃないですか。2メートル先も見えないんじゃないですか」
「仕事中は基本パソコンしか見ないので問題ありません。毒性もないし。こんなどうでもいい話で時間を使わないでください」
「いや、全くどうでもよくないですよ。こんな濁った空気の中で働きたくないです」
「あのね、社会に出たらたくさん理不尽なことがあって、みんなその中で一生懸命やってるの。細かいこといちいち気にしてたら身が持たないよ」
「その前にこの空気に身が持ちません」
「だから毒性はないってば」
「毒性は関係ありません！そもそも、社会の理不尽ってこういうことじゃないでしょう」
「社会人経験がないのに、社会の理不尽についてはよくご存知なんですね」
「今まさに社会の理不尽を痛感しています。私はそんなに変なこと言ってますか？ちょっと換気してくれればいいだけなんですよ」
「そんなに換気したければ、自分でしなさい。何でも人がやってくれると思ってると大間違いだよ」
「換気していいならしますよ。窓はどこですか？濁ってて見えないや」
「ちょっと待って。まさか本当に換気するつもり？」
「ええ。何か問題でも？自分で換気しろって言ったのはそっちでしょう」
「これだから最近の若者は」
「何が言いたいんですか？換気してくれって言ったら自分でしろって言われたからその通りにすることの何が問題なんですか？」
「あのね、勝手に仕事休んだり、勝手に早退したらだめでしょ？それと同じで、何をするにも許可がなきゃだめなの。まずは申請書。常識でしょ」
「換気するのに申請書が必要なんですか？」
「そう言ってるでしょ。社会に出たら当たり前だよ」
「たかが換気で申請書なんて、あほらし」
「じゃあたかが欠勤に申請書書くのがあほらしくて、無断欠勤するんだ？良い身分だね」
「休み取る時は事前に伝えますよ。そのぐらいはするに決まってるじゃないですか。欠勤と換気じゃ行動の重みが違うので」
「へえ、『行動の重み』とやらを自分で勝手に判断して、軽いと思ったものは申請書も書かないで勝手にやっていいんだ。そんなこと許したら会社潰れるよ」
「換気するだけでも申請書が必要な会社の方が先に潰れると思います。とにかく私は換気しますからねっ。クビにしたけりゃしてください。窓はどこですか？濁ってて見えません」
「クビ覚悟で勇ましく換気しようとして窓の場所を訊ねるなんて、強盗犯が警察に道訊ねるようなもんだ。あーおかし」
「馬鹿にしてもらって結構っ。何が何でも換気しますっ」
「おう。しろしろ。できればいいけどな」
「どういうことですか」
「くくく。さっき窓がどこか訊いただろ？実は、窓がどこにあるか俺も知らね」
「えっ、どういうことですか」
「その通りの意味だよ。この会社に15年勤めてるけど、窓なんて見たことねえ」
「窓がないなんてありえないでしょう。地下でもあるまいし」
「実はな、俺も入社したてのお前くらいの歳の頃、濁った空気に耐えられなくなって換気しようとした事があるんだよ。でも、いくら歩いても窓がねえ。というか、壁がねえ」
「えっ、壁自体ないんですか」
「そうだ。この会社には床しかねえ」
「そんな訳ない！床しかない会社なんか聞いたこともない！」
「だろ？俺もそう思ったよ。でも実際ねえもんはねえんだ。それが社会ってもんだ」
「理不尽ですね」
「そう。社会っていうのは理不尽なもんなんだよ。ちなみに、俺以外誰もいないだろ？」
「言われてみれば、そうですね。皆さんどちらにいらっしゃるんですか？」
「みんな死んだ」
「えっ、亡くなったんですか」
「そうだ。俺以外全員死んだ。このガスにやられてな」
「毒性あるじゃないですか」