第1章 仮睡。

文字数 7,091文字

『2011年6月8日午後20時頃、C県M市のK病院跡地で、看護師見習い・林田道江さん(21歳)の遺体が発見された。遺体の首には圧迫痕がつけられており、検死の結果、死因は首を強く絞められたことによる窒息死と判明。M警察署は、ネクタイなどの丈夫な衣類による他殺と断定。調査を進めている』


1 逃避


再生ボタンを押すと、ほうきで砂利を引っかき回したかのような雑音と砂嵐のあと、徐々にモノクロの映像が浮かびあがった。昨夜、ある殺害事件の発生現場に設置された監視カメラの映像だ。
刑事―呉大介は、缶コーヒーのタブに指を引っかけ開けると、それを口に運びつつ、その身を屈めて画面を凝視した。
―舞台は廃病院、2Fの心療内科の診察室。小さな高窓が四方に開いたその部屋の立てつけの悪い入り戸が、折からの強風でギギギと小気味悪い音でなき、まんじりとした夕闇がさざ波のようにおしよせると―その男はやってきた。背後に被害者の少女を従えている。
「来やがったな」―呉の凋んだ、けれど凄みのある目が光った。被害者の少女がこの映像にうつる少女であることは、死体発見時の服装と合致するのですぐにわかった。

被害者―西野多恵子、18歳、看護師見習い、痩せ型、白シャツに緑色のカーディガン、からし色のパンツ、黒髪ストレート―全てが合致した。西野多恵子は、どこにでもいそうないまどきの若い女性だった。
その日の夕方17時30分前後―務め先の病院での勤務をおえて帰宅時、忽然と彼女の消息は途絶えた。その後、彼女の見るも無残な絞殺死体が発見されたのは4時間後の21時半頃。この間、彼女の身に何があったのか―この映像には克明に記録されている筈だった。
再度、画面の中の男を食い入るように凝視する。男は、まだ若い。白のワイシャツに黒のスラックス。ボサついた頭髪をかき上げて、その診察室の中を俯瞰する。西野多恵子は男の後ろについたまま、どうしたらいいかわからず、困惑している様子だった。そこで映像は破裂音のようなノイズのあと、ざらついた砂嵐が繰り返した。「クソッ、こんなときに…」 呉は歯噛みする。そして、画面の中が砂嵐で一面におおわれて30秒後―その診察室には壁沿いに挟まるように、あお向けに倒れる西野多恵子の絞殺死体だけが映っていた。時間は18時21分、監視カメラの映像は21時半頃にそこを寝床として使っていた浮浪者の男が入って来るまで、一切乱れることはなかった。
「なんてこった…」 呉は眉をひそめる。機器トラブルか、殺害シーンが映像として残っていないのは巡り合わせの悪さとしか言いようがない。でも、西野多恵子を殺したのはどう考えても、あの男以外考えられない。映像の乱れるほんの30秒に人が入れ替わるわけがない。男の顔は、映像が乱雑なだけにまだ正確には確認はできていない。すぐに鑑識課に明確な解析を依頼しなければ―。
呉は、コーヒーを一気に飲み干すと、渋い顔をした。男の素性はまだわからない。西野多恵子とは顔見知りであったのかどうか―これも現在捜査中だ。とにかくあの男は謎が多すぎる。長年、あらゆる難事件を乗り越えてきたベテラン刑事の呉にとって、これだけ明白な証拠が残っていながら、事件が発覚して2日も経過しているのに容疑者であろう男の尻尾すら掴めない、この現況の不甲斐なさに、痛恨の思いを抑えきれずにいた。
不意に取調室のドアが開くと、新米刑事の東田が入ってきた。呉に向かって一礼すると、一枚の用紙を取り出し、「検死解剖の結果が出ました。被害者の絞殺痕は、外的圧迫によるもので、他殺と見て間違いないです」と、読み上げた。
「それはわかってる。今、映像を見たよ」―呉の声は疲れとストレスのせいか、酒焼けでもしたかのように枯れていた。昨日から何を何杯飲んでも喉の渇きをおぼえる。こんなことははじめてだった。
「だいぶんお疲れのようで…」―という東田の気遣いをよそに、喉奥から振り絞るような声で「いいから続けろ」と言った。加害者が、絞殺に用いた凶器は衣類による物、おそらくはネクタイであり…「もういいっ」―暫しの沈黙。
「…どうかされました」―東田は、机に突っ伏す老刑事の背中に、おそるおそる問いかけた。
「東田。お前はこの映像を見たか?」
「...はい、先ほど確認しましたが…」
「…何か気にならんか」
「…な、何かと言いますと…」
「…どうして廃病院に監視カメラが置いてあるんだ…」
さっきとは異なる沈黙が流れる。
「…さあ。わかりません」
「わからないよなあ…」


2 現実


窒息死した少女の死体が目の前にあったことで、僕はようやく正気を取り戻した。(どうしよう…ぼくはこのままどこかへ逃げてしまっていいのだろうか…)
少しの間、あれこれ悩んだのは、いわれもない罪をきせられるのがイヤだったからだ。でも、逃げることは、こんな残酷な気持ちのまま、この夜を明かすよりはるかにマシに思えた。 (ぼくのからだは二、三年…いや、五年ほど別の人間が棲みついていたのかもしれないぞ…)
霊感体質の人間はなんでももらいやすいという。ぼくは自分がそういう人間だという自覚がある。悪霊は、ここ数年ずっとぼくのからだの中で、ひっそりとその身を縮込ませ、その契機をうかがっていたのだ。なぜならぼくがあの女の子の首を絞める理由は無い。またそんな趣味もないのだから。 (記憶をたどれ…ぼくは昨夜、何をしていたか…)
俺の名前は悪霊。うら若き乙女の死の悲鳴と引き換えにおれは生を得る…。これでようやく狭苦しい檻から出ることができるぞ…。(何て恐ろしいことだ!僕のからだはもう僕のものではなくなってしまったのだ…!)

それはあまりにも突然の出来事だった。
その日、僕は、強烈なめまいと急激な吐き気におそわれ、今にも気を失いつつあった。住処であるアパートまでもう少し―僕は何度かその場に昏倒しそうになりながら、泥酔した酔っ払いのように歩を進めた。
そして、どんな人間にも、瞼を閉じると一瞬の闇がやって来るように、その闇は一瞬にして僕の意識をさらった。そう、それはまるで映像がパッと一瞬にして他の場面に切り替わるような感じだった。ようやくたどりついたアパートの階段で、夕陽の眩しさに瞼をつぶった、その時―
気づけば、僕は街外れにある某廃病院の荒れ果てた診察室で茫然と膝立ちをしていたんだ。
…で、目のまえには見知らぬ女の子の死体があったというわけさ。僕の手にはしっかりと凶器として使用したと思しきネクタイが握られていた。

僕が殺したのだろうか。でも、仮に本当に殺したとしても、それは僕の所業ではないと思う。やっぱり悪霊に違いないのだ。誰もが僕を疑いかかるだろう。でも違うんだ!絶対に違うんだ!彼女を殺したのは僕じゃない!信じてくれ!

ネクタイをポケットにねじ込むと、そのまま廃病院を飛び出した。僕の本能は必然的に逃げることを選んだ。殺したのは僕ではない。とにかく今は逃げるしかないのだ。病院の敷地を全速力で駈け抜ける。気を失っている間、どれくらいの時間が経っていたのか、辺りはすっかり薄暗くなっていた。腕時計をみると、時計の針は18時ちょうどをさしていた。
そのとき、病院の正門で何かにぶつかって、僕はその場に躓いた。「痛えなこの野郎っ」―尻もちをついたままの姿勢で視線をあげると、目のまえに怖いお兄さんがたたずんでいた。肉食獣のように威圧的な見た目だった。白のワイシャツのボタンを胸元まで開けていて、首元には金色のネックレスが光っている。お兄さんは、黒いスラックスの片足を上げると、思い切り僕の肩口を蹴った。革靴の踵の部分がめり込んで激痛がはしる。痛い。僕は即座にすいません、不注意でしたっ…と詫びを入れた。(少しぶつかったぐらいで、何もここまでしなくてもいいじゃないか…!)―そうやって今にも怒鳴ってやりたかったけど、できなかった。
「気をつけやがれボケッ」―そう言い残すと、お兄さんは廃病院の中に入っていった。(やばいっ、あの子の死体が見つかってしまうっ)―淡々とそう感じた。第一発見者があのお兄さんだとしたら、真っ先に疑われるのはこの僕だ。どうしよう…僕はいよいよ追い詰められてしまったようだ。こうなったら本当の犯人が見つかって、容疑が晴れるまで雲隠れするしか選択肢はなさそうだ…。
一目散にアパートに戻ると、取るものもとりあえず、逃亡の準備をはじめた。手早く荷造りを済ませると、自家用車に乗り込んだ。その足で駅前のコンビニに向かい、ATMで貯金を全額おろそうと、ポケットに手を入れると―あのネクタイがあった。一瞬、コンビニの入り口前に置かれたゴミ箱に捨ててしまおうと思ったが、やめることにした。僕の指紋が採取されたら、それこそ言われもない罪をきせられることは確実なのだから―。
全額をおろすと、長旅のための食糧を買いこんだ。カゴいっぱいに食糧をいれてレジに向かうと、アルバイトのお姉さんが目を丸くする。「すごいですね」―ええ、まあ…と僕は言う。かわいい子だな…と思った。青色のエプロンの下に緑色のカーディガン…その下に白のシャツ…きれいな黒髪だな…「ちょっと旅をしようと思ってるんです」―と僕が言うと、彼女は「そうなんですか。じゃあお気をつけて」と言って笑った。さっきまでの寒気がするほど凄惨な現場を目の当たりにした僕にとって、これは神様のくれた束の間の蜜月のようなものだった。 (まるで彼女は天使のようだな)―徐々にからだとこころが癒される感覚。悪霊の束縛から解放されたことも起因したのかな…さっきまであんなにめまいや吐き気に悩まされていたのに…。こうなると、どうやら本当に悪霊が憑いていたのかもしれないな…。でも、悪霊なんて本当にいるのかな。本当にいるとしたら、悪霊はさっきの怖いお兄さんのように悪質で粗暴で始末の悪い奴なんだろうな…。
僕は、彼女に別れを告げると、車に飛び乗り、そのまま西に向かって走り出した。


3 脱線


事件から2日が経っても進展は見えなかった。呉刑事は、眉間に皺を寄せ、苛立たしげに煙草を揉み消した。「他に何かわかったことはないのかっ…」
「…これ以上は…何も」―新米刑事・東田が口をへの字にして視線を落とした。
被害者の身辺は完全に洗ったつもりだ。被害者・西野多恵子は、この近隣の病院に勤める看護師見習いで19歳。性格・品行共に周囲からの評判はよく、勤務態度は真面目一貫、悪い付き合い・うわさなども何ひとつとない、まさに聖人のような女性であった。「なんであの子がこんなことに…」―彼女の知人は口を揃えて、そう言った。そして、以下の言葉を投げかけた。「許せない、犯人を捕まえて、早期の解決を」…わかっている。十分にわかっている。…なのに、手がかりの糸口がどこを探しても見つからない。もちろん、件の監視カメラのテープは鑑識課の映像係にまわして、微細に亘っての画質の鮮明化に努めさせた。…が、しかし、テープの劣化がはげしく、完全修復は不可能に近く、多少鮮明にするだけでも相当な時間を要するとのことだった。被害者の検死解剖にも立ち合い、殺害現場の現場検証・指紋採取もぬかりのないよう綿密に行った。それでも何ひとつ、浮き彫りになるものはなかった。丸二日かけて寝ずに聞き込みにまわった東田の報告も涙が出るほど中身のないものであった。
「クソッ…」―呉は、拳固で刑事課の机を叩いた。「何か一つでも手掛かりがあれば…」
「そういえば、個人的に第一発見者の浮浪者の証言で一点、気になる点がありました」―東田が捜査手帳を広げる。「第一発見者の羽山重雄は被害者の死体を発見した後、すぐに病院の脇にある公衆電話へ通報せんと走りました。電話口の声もまぎれもなく彼である確証も取れてますが…浮浪者がわざわざ電話をするためだけに10円を使いますかね…」
「…まあ、道徳のある浮浪者ならあるいは…」
「そこで羽山重雄の身辺を洗ってみたんですが、やっぱり相当な吝嗇家のようでして、仲間のホームレスの面々にも聞き込みを行ったところ、アイツが警察に10円消費するわけがない―とのことでして…」
まあ、こんなことは些細な問題で、僕の勝手な思いすごしかもしれませんがね―と言って東田は苦笑した。
「仮に、羽山重雄が犯人だとするなら、西野多恵子を廃病院まで連れ込むだけの動機がないからな…。それにあの映像に映った男はもっと若い…。立ち居振る舞いからも多少すれた感のある不良っぽい若者だろう…」
「そうだ。不良っぽいといえば…」―と、東田は殺害現場である廃病院についての情報を話しはじめた。「あの病院は3年前に閉院後は近所の悪ガキ共の心霊スポットとして使われていたようで、彼らに聞き込みをしてみるのも一手かもしれません」
「なるほど…確かに、加害者は己の土地勘がある場所だからこそ、あそこで犯行に及んだ可能性もあるな…。犯行以前に下見をしたこともあるかもしれん。…とりあえず、いつものアイツにきいてみるか」
「行きましょうっ」


廃病院から程近いゲームセンターにその男はいた。
北山竜司―この街をたむろする不良グループ一員の男。刑事課の人間にとっては良くも悪くも腐れ縁の厄介な男だったが、この街界隈の(裏の)情報収集能力に関しては目を離せぬものがあった。アイツなら何らかの情報をもっているかもしれない…。いまいち気乗りがしないことは確かだが、刑事達は一縷の望みに賭けてみることにした。
当の北山は、ゲームセンターの入り口に刑事の姿を見つけると、まるで縄張りを荒らされた獣のように自ずからすすんでいちゃもんをつけてきた。「おう、おっさん、何しにきたんだよ。俺はなんもしてねえぞ」
「ああ、お前ら悪ガキに関わることじゃないから安心しろ」と、呉は不良の肩を軽く叩いた。赤いシャツに黒いラッパズボン。スキンヘッドの頭と銀色のネックレスが、派手な電飾を反射して下品に輝いている。「今日はお前に訊きたいことがあってな…」
「本当に俺らに関わることじゃないんだろうな」―北山はレーシングゲームの座席にもたれながら、威嚇する猿のように悪態をついた。「本当ならなんだってきいてやるよ」
興奮させてはいけない。呉は、子供をさとすようにゆっくりとした口調で「…この近くに廃病院があるだろ。お前ら悪ガキは夜毎あそこで肝試しに」と言うや否や「やっぱり俺らのことじゃねえかっ」と北山はぐんと立ち上がり、呉に顔を近づけ、激昂しはじめた。「まあ、落ちつけ落ちつけ…」
どうも呉の言い方に険があったようだ。このままでは収拾がつかなくなる。「ここは僕に任せて下さい」―東田は、駄々っ子のようにわめき散らす北山の肩を抱くと、小声で「今度、僕ら刑事も肝試しに行こうと思ってさ。いろいろ教えてほしいんだ」と言った。
「マァジで?!お前ら刑事のくせに馬っ鹿じゃねえの」―北山は途端に笑顔になると腹を抱えて笑いだした。「あんなところに好き好んで行く奴の気が知れねえよ」
「どういうことだ」―呉が前に出る。「どういうことかな」―東田が更に前に出る。
「そもそも、あそこは肝試しになんかにゃ使えねえよ。あそこはコレの溜まり場だからよ」―と言って、人差し指で頬をなぞった。「浮浪者じゃねえぞ。明らかにあっちの奴らだ」
「…お前そんなこと」―不良が、不良の垂れこみをする。しかも、それが不良グループの一員である北山のものであることで、刑事達の中に言い知れぬ緊張感がはしった。「そんなこと言っていいのか」
「あっこにいる奴らとは持ち場が違うからな。それに今は撤退しちまってもういねえよ。探しても無駄だよ」―と言って舌を出す。「それにヤーさんはヤーさんでもいるのは下っ端のジャンキーだからな。あいつらは凶暴で何しでかすかわかんねーから、変なことに巻き込まれたくねーから俺らは避けてるってこと」
「…それで…そのジャンキーに関して何か知ってることはあるか」
「ま、俺らは確かにアンタらの言うとおり悪ガキだけど、ヤンチャするのに限度があることぐらい知ってる。でもアイツらは本物のキッチーだから、何つーかその、節度ってもんを知らねえのよ。夜毎クスリでぶっ飛んでは女連れ込んであれやこれや無茶をしてやがるの」
「無茶…?」
「おっと…しゃべりすぎたな。こっから先は俺の口から言えねえわ」
「では…そのジャンキーの中心人物だけでも教えてくれんか」
「…どうかなあ。…ま、お前らが知ったところでどうにでもなるもんじゃないからな。それにそいつはたぶんお前らもよく知ってる有名人だよ」
薬物依存者でヤクザの側近―思い当たるフシがあった。
「南雲か」
「あたりぃ」―北山はまた舌を出して笑った。

南雲サトル…確かに有名人だった。
呉・東田も何度か関わったことがある。筋金入りのジャンキーで逮捕歴4回のすべてはクスリによるものだ。
「奴はまたクスリに手を染めとるのか」―呉は渋い顔で舌打ちをした。
「俺、シラネェ…」―北山はわざとらしく、大きくあくびをした。「とにかく、奴は危険だってことよ。悪趣味な金ピカネックレスしてるからひと目で危ない奴ってわかるけどな。わははははははは」

悪趣味な銀のネックレスをした不良の高笑いを背に、二人の刑事はゲームセンターを後にした。
「それにしても、南雲がまだこの街にいたとは…。これでなんとなく糸口は掴めそうですね」
「まだわからん。まず南雲本人に会ってみないことにはな…。ところで東田よ」
「はい…」
「なんで廃病院に監視カメラが置いてあるんだ…」
「…さあ…」


第2章に続くー
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