第2章 半睡。

文字数 4,557文字

4 忘却

一日が経った。僕は、某高速道路のサービスエリアの食堂で休憩をとっていた。
昨日から何杯飲んでも喉の渇きをおぼえる。こんなことははじめてだった。長時間の運転のせいか、頸と腰が痺れて感覚がない。心身ともに疲労が蓄積しているようだ。無理もない。どんな因果か、僕は殺人現場に出くわしてしまったことで、少女殺しの凶悪殺人犯という言われなき罪をきせられ、その身を追われる逃亡者となってしまったわけなのだから。
それでもこうしていざ賑やかな人込みにその身を投じてみると、昨夜のあの悪夢がまるで劇画の中のワンシーンであったかのように、そらぞらしく別世界のもののように思えてしまう。僕は急に気抜けして、途端にぬるま湯にひたるような眠気におそわれた。
ひとつ大きなあくびをすると、テーブルに突っ伏し、目を閉じる。食堂の天井に設置された小型テレビから出る音が、とぎれとぎれに耳に飛び込んできた。

『昨…午後18時頃…××県×…×市の廃病…院で、看護×…林×…さんの遺体が発見さ…た…。遺体…の頸部…に…は…などによる圧迫…痕…が…り、検死…の結果…死…は…首を…強く…れたことによる…窒息……署は…てい…

まどろみの中、何もない闇をふわふわと、たゆたっていた視界が、途端にピカッと白い光に包まれる。頭が焼けるようにカーッと熱くなり、うなるような耳鳴りと同時に割れんばかりの頭痛とめまい。意識が遠のき…全身が鉛の塊に抱き竦められたたように重くなり…ぐずぐずと血が煮えくり返り…どろどろと肉が波打ち息づき…

頸が…あの頸が…
透き通るように生白く細い…レースのカーテンのような頸が…。悪霊の邪悪に満ちたその手によって、万力のように締め上げられるビジョンが。じわじわと僕の心の中を浸食する。全身の毛穴がびっしりと逆立ち、背筋が冷たくなる。

苦しさのあまり、目を開けると、向かいに悪霊が座っていた。
「ごきげんよう」―まるでエコーでもかけたように響きのある低い声だった。
僕を…こうして苦しめるのはお前か…。
悪霊は、机上に片肘をつき、不敵な笑みを浮かべていた。まるで貴様のことなど何もかもわかっているぞ、と言いたげな含みをもった目つきをしていた。
「…そう責めるなよ…お前のおかげで俺は自由になれたのだからな…」―悪霊は、耳元まで裂けた口を広げて笑った。「まあ仲良くしようや」
嫌だ…お前は僕にとり憑いて、僕を犯罪者に仕立てようと…
「そうだ。お前は殺していない。殺したのは俺だ」
やっぱりお前か!…お前のせいで僕はこんな逃亡をしなきゃならなくなったんだ!…僕の人生はお前のせいでめちゃくちゃだ!…どうしてくれるんだ!…僕はこのまま…どうしたらいいんだ!
「まあ落ちついて…この写真を見てみろよ…」

汗が一滴、こめかみからつたって、顎のひだに止まると、ぽたりとその写真におちた。
それは一枚のモノクロ写真だった。フレームの中に若い女の姿がある。また、急激な頭痛とめまい。僕は、低いうめき声をあげて、頭を抱える。
この女は…この女は僕が昨日…見た女だ!…「そうだ。お前さんはこの女を知っているはずだ…」
やめてくれ!…たまらず両手で耳を塞いだ。それでも悪霊の低い声は僕の頭を引き裂くように、脳裏を無遠慮に響き渡った。…「でも、お前さんはこの女を愛しているだろ…」
…言われてみれば、僕はこの女を愛していたかもしれない…でも今は…
「細かいことは気にするな…お前さんの中に芽生えた感情が愛ならば、この女を殺したのはお前さんではない…絶対に…絶対にだ…」
…ほ、他に犯人がいるってのかよ!
「そうだ…犯人は他にいる…明日にでも捕まるだろう…それまで一人旅を気楽に続けたらいいさ…」


そう言い残すと、悪霊はふわりと煙となって中空に消えた。
ふっと視界が晴れ、ざらついた映像が鮮明になるように、頭痛とめまいが止んだ。


5 彷徨


南雲サトルは、廃病院に程近い公園のベンチで昼下がりにもかかわらず、酒を飲んでいた。
目が据わっている。時折、その酔眼を虚空に泳がせては、ぐったりとベンチの手摺にしなだれる。
その姿を見下ろす二人の刑事―「相変わらずだな」と言うと、南雲は老刑事を疎ましげに睨みつけ、すぐにうつむいた。「どうだ最近は」
呉は、牽制のつもりで軽く世間話からはじめた。
「あんたらが俺のとこに来るってこた、ろくな話題じゃないことはわかりますよ」―南雲は、自嘲気味に二人の刑事を仰ぎ見る。「どうせまた事件の話題でしょうに」
ぼさぼさに乱れた頭髪、白のワイシャツは泥や砂で茶色く変色している。黒のスラックスは膝の部分がすり減って穴があいている。そのくせ胸元に垂れ下がった派手なネックレスは、陽の光を反射して下品に輝いている。「酷い有様だな。また喧嘩でもしたのか」―と東田刑事が訊くと「へっ…喧嘩なんてしやしませんよ。俺みたいな下っ端は…」―と言い返す。ねちっこく、卑屈な言い回しをこの男は好んでする。
「訊きたいことがあるんでしょ。さっさと訊きなさいよほら」…警視庁の厄介者―南雲は、刑事との付き合いだけは長い。呉には、ある意味、己の前に刑事が来た時点で、南雲は何もかも全てわかっているかのように見えた。「では遠慮なく訊かせてもらおう」
8日にあの廃病院で…と言いかけると、南雲は遮るように「それだったら俺じゃない」と、ひと際大きな声をあげた。刑事は顔を見合わせた。
「あのほら、あそこの病院で女の子が殺された事件でしょ。俺はあんなことしやせん」
「何もお前がやったとは一言も言っとらんだろ」―呉は露骨に嫌な顔をした。
「確かに俺ぁよくあそこに入り浸ってやすよ。寝床として最適ですからね。でも殺しはしねいっす。金にならんですからね」
「ではこの娘を知ってるか」―東田が胸ポケットから被害者―西野多恵子の写真を取り出した。
「…知らないですねえ」―チラと見て、すぐにうつむいた。「確かにその事件のあったっていう日、俺ぁあそこに行きましたけどねえ。そんな娘ッ子は見なかった」
「では、怪しい男を見なかったか」―今度は呉が問うた。
「ああ…正門前で気弱そうなあんちゃんにぶつかられたなあ。あんまり痛かったもんで怒鳴っちまった」
「ほう…どんな容姿であったか、特徴は覚えてるのか」
「…あああ…」
南雲は、眉をひそめ、口を白痴のように開けっ広げたまま、空を見上げた。思い出すまでにそんなに時間がかかるのかというぐらい、幾度も頭ををひねっては、ぼりぼりとフケだらけの髪の毛を掻き毟り―
「迷彩柄のつなぎを着ていたな」と言った。


刑事は互いに目配せする。やはり、この男は怪しい。ただ、監視カメラの映像に映った容疑者の服装は、白のワイシャツに黒スラックスであり、迷彩柄のつなぎではなかった。―とはいえ、物的な証拠がまだないので、安易に踏み込むにはまだ早い。薬物所持絡みの別件で身柄を確保することも可能だが―南雲程度のチンピラを捕えるのは容易いことだし、時期尚早な感も否めない。ベテラン刑事―呉は「そうか…また何かあったら頼むぞ」とそっけない対応にとどめ、踵を返した。
「もしかしたら…」―呉の背中を追う東田。「全くの無関係かもしれませんね」
「ああ…わけがわからん。奴とは…南雲とは付き合いが長いからな。嘘はついているならすぐにわかる…」
しかし…奴は嘘をついていない。現実問題、南雲は事件当日あの廃病院に出向き、一夜を明かしたのだろう。でも、あの殺人には関与していない。ベテラン刑事の勘に近いものがあった。

その後、刑事は二手に別れると、東田は街内の聞き込みにまわった。
何の気なしに駅前のコンビニに入ると、レジにいる女性店員の前に立った。何か手掛かりがあれば…。
東田は手帳を取り出すと、取り急ぎ事件の概要を話し、あの日、あの時間、店に怪しい男の来店はなかったか―訊いてみた。
「怪しい男の人ですか…」―名札に(林田)と印字された女性店員は口に手を当てて、考え込んだ。青色のエプロンの下に緑色のカーディガン…その下に白のシャツ…きれいな黒髪だな…まるで彼女は天使のようだな…と、東田は思った。天使は口を開く「…そういえば、その日の夜、迷彩柄のつなぎを着た男の人がカゴいっぱいに食品を買い込んでいきました」…迷彩柄のつなぎ。南雲の証言と一致した。点と線が繋がる感覚。「その男の人、これから一人旅に出るって…言ってましたね」
新たな糸口が思いもよらぬ方向から出てきた。東田はごくりと唾を飲み込む。
「あと、すごく派手な金色のネックレスをしていました」―まさか…

その時、携帯電話が鳴った。署に戻った呉刑事からだった。電話の向こうの老刑事の声はめずらしく切羽詰まっていた。
「監視カメラの解析の結果が出た。犯人は南雲だ。すぐに奴の身柄を確保しろ」

やられた…!
東田刑事は、南雲のいた公園の方向に踵を返した。



6 回帰


S県S市―僕の故郷だ。四年前だったか、まだ僕が未成年の頃―とある事情により、ここを離れないといけなくなった。正直、今住んでいる場所にいることは本意ではない。事実、僕は向こうで嫌なことがあるたび、ここに戻りたくなった。ここには何もかもが満たされていた時代の思い出があったし、甘やかな生活の記憶もあった。

とにかく今は…約束を果たさなければいけない。
車窓から眺める故郷の変化を随所に楽しみながら、僕は目的の場所へと車を走らせた。

2日が経っても、あの事件の記憶は薄れないまま、知らぬ間に出きていたカサブタのように、じっとりと僕の心の中にその根を生やしていた。でも、あれはあくまで仮初のものであって、あの場所が僕の居場所ではないように、あの記憶もまた、本来の僕がもつべきものではないのだ。あの事件、あの出来事は、甘い夢の続きを欲するがあまりに見てしまった幻視(まやかし)のようなものだ。それが悪霊という体を成して、僕をここまで揺り動かしたのだ。

僕は、駅から離れた場所にある寂しげなフラワーショップの前に車を停めた。
車窓に一厘の光が射す。やわらかく、甘い、霊感のめざめる合図。
人の気配がした。
ふと、傍らを見ると―助手席に女神様が座っていた。

女神様は、その生白く細い頚をゆっくりと、運転席に座る僕にさし向けた。
にわかに昨日見たあの悪霊の姿が脳裏をかすめる。
いいのか、本当に…これで…

ふっ―と、女神様の体が宙を浮いた。僕の中に生じた、影も形もさだかでない、ある迷いがそうさせたのかもしれない。
女神様はそのまま背を向けると、くるりと僕に見返ると、やさしげに微笑んだ。僕は、出しぬけに辱められたような、なんともいえない気もちになった。怒りにも似た屈辱がずしりと胸に去来した。
もしかしたら、本当の悪霊ってのは女神様の顔をしているものなのかもしれない…
だからこそ、悪なんだ…

僕は迫りくる恐怖に打ち震えた。その恐怖には僅かの怒りと喜びが、ガチガチと鋭利な刃物を交わし合うように付随していた。どうやら僕にとり憑いた悪霊は、まだ僕のからだから離れてはいないらしい。―この呪縛を解かねばならない…。そうしないと僕は一生このまま悪霊に操られて生きていかなければならないんだ。

僕は力任せにアクセルを踏むと、「その女」の後姿をめがけ、車を走らせる。
今こそ、あの約束を、果たす時がきたのだ。


第3章に続くー
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