第4章 覚醒。

文字数 4,549文字

9 事件


『2011年6月8日午後20時頃、C県M市のK病院跡地で、看護師見習い・林田道江さん(21歳)の遺体が発見された。遺体の首には圧迫痕がつけられており、検死の結果、死因は首を強く絞められたことによる窒息死と判明。M警察署は、ネクタイなどの丈夫な衣類による他殺と断定。調査を進めている』


刑事―風間は新聞を閉じると、その長い足を組み返し、物憂げに眉間に皺を寄せた。
紳士然とした風体に浅黒い肌、すらりとした長身、彫深くそれでいて無駄なくきめ細かく整った顔立ちは、中性的な魅力に満ちた往年の映画スターを彷彿とさせた。おおよそ世間が刑事にいだく泥臭さといった類のイメージは、この男には皆無だった。俗にいう伊達男―もっとも、風間自身にその自覚はなく、正義感の強さ、誠実さを己の信念としていた。

「ところで…」―ぐいとコーヒーを一口煽る。小声でもよく響く低音だった。「ホシの目処はついているのか」
「はい、林田道江と知人の関係にあった男性の行方が事件直後からわからなくなっています」
刑事課の同僚―火野が、手帳を読み上げる。冷静沈着且つ機械のように感情に起伏のない口調―。時折、縁なし眼鏡を人差し指で直す動作をまじえながら、同僚は事件の全容を語りはじめた。
「山科育夫―21歳。ちょうどこの近場にある筆記具工場アルバイトの男です。山科は、被害者の林田道江とは家が近隣ということで面識があり、両者をよく知る人間の証言によると、ここ最近月に1・2回のペースで会っていたということです。両者の関係は、男女の関係ではなく、普通の顔見知り程度の関係であり、金の貸し借りをするような仲ではなかったということです」
「そこまで親しい仲ではなかったようだね。たぶん、最近偶然の再会を果たしたってクチか」
「はい、入念な聞き込みを行いましたが、金銭や痴情のもつれといった線は限りなく薄いと見て、好いでしょう。…林田道江の同僚によると、彼女の働く病院に、山科はたびたび客として来ていたそうです。同僚は、山科の挙動の怪しさから、付き合いを改めるように進言していたとのことです」
「ストーカーのケ(気)があったわけか。ありがちなパターンだな」
「それでも林田道江は、優しさからか月に何度か、山科と行動を共にしていたそうです。共にするといっても仕事帰りの送り迎え程度のものですが、それでも同僚はやめた方がよい―と、彼女を説得したそうです」

なるほどね―と言って、風間はイスから立ち上がった。「その山科某は間違いなくイカモノ(前科者)だね」
「よくお分かりで。4年前に交際関係にあったフラワーショップ店員の女性の頸を絞め、殺人未遂容疑で少年鑑別所に入っていたことがあります。未成年の頃なので正式な前科ではありませんが―」
「その当時の交際相手からは証言は得てきたのか」
「無論―。当時の交際相手―西野多恵子の証言によれば、彼は以前から性交の際に頸を絞める癖があったとのことです。殺人未遂のあった日は、肝試しと称して廃ビルに連れていかれたらしく、それを不服とする彼女との口論の挙句に逆上した山科に頸を絞められ、失神。山科は逃走を図りましたが、目を覚ました彼女がすぐに警察に通報。半日後に隣町にて身柄を確保されました」
「うん。―だとすると、逃走先はその彼女の周辺である可能性が高いな…」
「念の為、鑑別所時代の山科の動向について、当時鑑別所の所長であった呉正三さんに証言を得てきました。ーが、山科の院内での生活態度は至極真面目で模範生として退所をしたと―。その後は家庭裁判の結果、金輪際、西野多恵子の前に姿を見せないことを公約に、山科はこの街に引っ越してきたということです」
「彼の職場での評判はどうなんだ」
「…これも至って良好。彼の勤務する工場の配属先リーダーである東田行雄の証言によりますと、性格は温厚且つ従順、内気で弱々しく、逆上して頸を絞めるような人間ではなかったとのことです。むしろ、意地の悪い同僚からいじめにも近い暴力・冷やかしを受けていたという証言もあります」
「その精神的ストレスの類は、殺人行為に起因してないのかね」
「これも念の為、その同僚である北山トオル・南雲イチロウ両人から証言を得ましたが、あくまで仲間内の悪乗りでふざけ半分にやるような遊びであって、むやみに暴力を奮うようなことは絶対にしていないと―」
「ふうん…」―風間をやおらイスから立ち上がると、ネクタイを直した。
「ただ、その同僚二人から他とは少し違った興味深い証言が得られました。二人とも“アイツなら絶対やると思った”と、周囲とは全く逆の類の証言をしているのです」
「ほう、悪人ならではの危機意識が働いたということだな」
「危機意識と言いますと…」
「一度でも闇に魅入られたことのある人間ってのはその匂いに敏感なものだからな」


風間は、デスクに置かれたコーヒーを一気に飲み干すと、イスにかけたスーツを颯爽と羽織った。
「行くぞ」
「どちらに…」
「山科育夫を捕えに行くんだ。西野多恵子が危ない」
二人の若い刑事は、背中を向けると早足に刑事課を出ていった。


10 実現


ジーーーッという断続的な雑音が続いた。4年前、この部屋に設置した監視カメラの音だ。
モノクロ画面の中にはあの日見たこの一室の光景が一面に広がっている。稀にさざ波のような横線が入ると、耳障りな雑音が、わずかの頭痛とめまいを呼び覚ました。

あの日、僕はこの部屋の隅で、いずれ己に迫りくる魔の手の脅威に打ち震えていた。どうしよう…殺してしまったかもしれない。しかも相手は彼女だ…でも、あれは彼女じゃないのでは…悪霊が彼女に化けた?…もうすぐ警察が僕を捕まえにここにやってくる筈だ。彼女は僕を監獄に閉じ込めようとするだろう。待てよ。もしや、あの女こそが悪霊なのかもしれないぞ…。
そんな迷いと焦燥のない交ぜになった復讐心に身悶えながら、いずれ果たすべき現実を思い描く作業を続けた。

そして今―当時、この場所で何度となく思い描いたその現実が目の前にある。
傷つき眠る、この女―。僕にとっては女神でもあり、悪霊でもある。現実を本当の現実に回帰させる作業のはじまりだ。
カメラの映像は彼女のつま先から上半身に向かって舐めるようにスライドすると―頸の手前でピタリと止まった。

するりと頸にネクタイを巻きつける。その布地の両端をきつく両手に巻き付け握り締めて―外側に向かって絞るように引っ張る。想像通りだ。
ピンクの唇が、何かを言いたげにそれでも言いだせないぐらいの戸惑いをなして、ひくひくと小刻みなふるえと共に開き、きれいに生え揃った白い歯が姿を見せた。
更に力をこめると、眉に、額に、頸に、顔中にありとあらゆる皺がよる。口の端々から唾液がぶくぶくとあぶくを立ててしたたり落ちる。
口での呼吸が困難になり、鼻で息をすると、生温かい風が僕の手元にあたる。この生のあがきを、僕は饗宴と呼ぶことにしている。
しばらくして、真っ赤に充血した眼球が、風船のように膨らみながら並んで競り出てくると、ピンク色の舌が内側にくるまって、めらめらと艶っぽく光ると、顔全体を青筋立った血管が呪文のように浮かび上がり、血のあぶくは深紅に染まる。やがて、全身の血がその頸を中心にいっせいに収斂すると、少女は四肢をピンとあらぬ方向に直立させ、ぶるぶると小刻みな運動をはじめる。
やったぞ、悪霊を倒したのだ。現実になったぞ…

「嘘をつくな」―聞き覚えのある声が耳朶にはりついた。その声の主は、鑑別所時代に何度も耳にした呉さんのものだった。呉さん…僕が嘘をついているというのか…またそうやって僕を叱りつける気か…。
「そうだ。お前は嘘をついている」―違う声。リーダー?東田さん。
「このホラ吹き野郎がっ」―不意に声のする方向を見ると、北山と南雲がにやにやと不気味に笑いながら僕を見ていた。やめろっ。お前らに僕の何がわかるというんだ。
お前は逃げてる。やめろ。お前は逃げてる。お前は逃げてる。やめろやめろ。お前は逃げてる。お前は逃げてる。お前は逃げてる。畜生、まただ。頭痛、めまい、吐き気が…力が抜ける。


その時、目の前の悪霊が…パッと目を見開いた。
甘い吐息が、女の悲鳴にかわった。


11 終末


「ここですね」―火野がハンドルをまわしながら、目のまえの廃ビルを指差した。
「間違いなさそうだな」―風間は首を捻って鳴らした。「随分と人気の少ないところだ」

S県S市の外れにある山間の工業地帯に、山並みや雑木林に囲まれた、その廃ビルはあった。
今回の隣県で起った女性看護師絞殺事件の容疑者―山科育夫が確保された場所だった。彼は4年前にもここで同棲相手である西野多恵子の頸を絞め、殺害容疑でその身を囚われる憂き目にあっていた。
風間には、彼が潜伏場所に選ぶのはここしかない―という確信にも近い予感があった。犯罪者というのは誰しも悪夢にも似た葛藤の中を生きている。ましてや、人一倍慈悲深い人間であればあるほど、その葛藤は顕著にあらわれるものだ。

バタン―と黒の乗用車のドアを閉める音が山間の広い空に響いた。
「あ、あれは」―と火野が声を上げた。指差す方向を見ると、廃ビルの4階にあたる部分のある一室だけ不自然に灯りがついていた。
「まずいっ」―風間は走りだした。

その時―空に甲高い女の悲鳴が響いた。
あの部屋からだった。
二人の刑事は走りながら空を見上げた。
その一室―
薄暗い闇の沼から―
こぼれるように―
ひとりの人間が落ちてきた。

その人間はそのままビルの真下のコンクリートに落下した。
ぐちゃり―という肉と骨の砕ける音が響いた。

「これは…」
「間違いない。山科育夫だ」

山科育夫はネクタイを自分の頸に縛りつけて死んでいた。
両手でネクタイの両端を固くきつく握り締めながら―

「あの部屋に西野多恵子がいる筈だ。生存確認を」
「はい」―火野が階段を駆け上がる。時を移さず「彼女は無事です」という声がした。
「救急に連絡を」

風間は、その死体の前で片膝をついた。辺り一面は血の海がひろがり、足はあらぬ方向に折れ曲がり―そして、おかしなことに両手で自らの頸にネクタイを巻きつけていた。
今まで何体にも及ぶ自殺死体は見てきたが、こんなにも狂気に満ちた死体を見たのは初めてだった。
怒りとも、悲しみとも、憎しみとも、哀れみとも、それのどれともとれる―言うなればそれらすべてが醜い邪悪な方向に傾いたかのような―その面相は、まさに悪霊そのものであった。

「応急処置は済ませました。左足に強い衝撃を受けたようで骨折していますが」
火野が、被害者―西野多恵子をおぶったまま、降りてきた。彼女はピクリとも動かない。「さっきの悲鳴の後、気を失ってしまったようです」
「ごくろうだった」
「山科育夫は…」
「ああ、死んでいる」
「落下の衝撃でしょうか」
「いや、絞殺だ」
「まさか…」
「いや、彼女ではないさ。彼女なわけがない。彼は自分で自分の頸を絞めたんだ」
「なぜそんなことを…」
「現実に勝てなかったのだろう。彼の中で現実を超えるものこそが本当の現実であったのだからな」


夕間暮れの下、山間を流れる灰色の靄がその廃ビルの一帯を覆い尽くすと―
やがて、流れていた映像はぷっつりと途絶え、砂嵐はおろか何もかも見えなくなった。


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