第3章 昏睡。

文字数 3,191文字

7 崩壊


M市の廃病院にて発生した女子大生絞殺事件の容疑者―南雲サトルは、警察に身柄を確保されると、あっさりとその犯行を認めた。
南雲はその日、朝から酒を飲み、酷く泥酔していた。以前は、薬物の売人として生計を立てていたが、今は警察のマークがきつく、取引先の組員からも声がかからなくなっていた。そうして、すべてが嫌になり、誰かを殺して刑務所にでも入ってしまおうと自暴自棄になったところで、たまたま病院勤務から帰宅途中の被害者―西野多恵子に出会った。南雲は(自分は持病を患っていて、気分が悪い)と助けを求めるふりをして、心配する彼女をあの廃病院に誘うと、襲いかかり、所持していたネクタイで頸を絞め、殺害した…という供述内容であった。
被害者―西野多恵子は、看護師見習いの立場上、道すがら偶然出くわした病人を見捨てるわけにはいかなかったのだろう。ただ、見てくれにも不審な点の多い加害者―南雲の口車にのせられ、安易について行ってしまったのが彼女の運の尽きだったといえる。
南雲サトル―まさに悪霊のような男だ。

刑事課のベランダに設置された喫煙ゾーンに、この捜査にあたった二人の刑事はいた。
「いやはや、これにて一件落着ですね。おつかれさまでした」―と、東田は、ベテラン刑事をねぎらった。
「うむ…」―呉は、たばこに火をともすと、むずかしい面差しで紫煙をくゆらせた。たばこをはさんだ手の空いた親指の腹でコメカミを二、三度こすると、灰色の空を見上げ、つぶやきをこぼす。「でも何かかおかしいんだよ」
東田は怪訝な顔をした。「な、何がおかしいというんですか。南雲は犯行を認めましたし、物的証拠も取れています。凶器に使用されたネクタイは、南雲の供述通り、駅前コンビニのゴミ箱に捨てられてましたし…コンビニの監視カメラにも南雲が逃走のため、食品を大量に買い込む姿が残っています…」
「その監視カメラが問題なんだよ」―老刑事は、新米刑事に向き直った。東田の顔は更に歪む。「東田。お前は前に見た廃病院の監視カメラの映像を見たか」
「…はい、被害者の頚を絞める南雲の姿がしっかりと映っていましたが…」
「そこではない。監視カメラに表示された日付けを見たか。ようく見てみろ。…あの監視カメラの日付は2007年6月11日…今から4年前の今頃だ。実際は過去の出来事なんだよ」
「…な…何ともそれは…」
「それに…」―老刑事は、たばこを共用灰皿のふちで揉み消すと、ポケットに両手を差しいれ―「本当にカメラに映っていたのは南雲本人なのか。お前はわかっとらん」と言って、新米刑事を睨みつけた。「あれは南雲ではない。全くの別人だっ。俺は最初から気づいていたよ。凶器のネクタイにしてもゴミ箱の中にはありはせん。それに…」
「南雲は迷彩柄のつなぎなど着てはいないっ…ですね」―と東田が付け加える。「…確かに、ところどころ、筋書きに穴が多すぎますが…」―と新米刑事は震えながら言い淀み―「それを言ってしまうと…我々はこのままでは…」
「うむ…もう用済みということだ」と、刑事―呉はひと際大きな声で返した。「これでわかったろう」
「はいっ…」
「廃病院に監視カメラがあった理由が…」



場面は変わる。ベランダに設置された監視カメラの映像に、二人の刑事が映る。
呉刑事は、物憂げな視線を東田刑事に投げかけると、不意に空を見上げた。
画像が著しく乱れる。呉の声「どうやら俺たちは…も…×わり×よ…うだ」東田の声「この×までは…僕も」―音声がノイズによって掻き乱されると、砂嵐が雪崩のように画面を覆い尽くした。
テープの劣化が激しい様子だ…。今回は幾分か時間が長い…。3分弱してようやくそれは収まると、はっきりと東田の声が聞こえる―「なぜならそれは僕らが刑事ではないからです」―途端にぐにゃりと溶けたアイスクリームのように刑事の顔は歪みはじめる。
「その場合、西野多恵子ではなく、林田道江だがな」―という呉の声がした。


その時、いっせいに刑事課のガラスが割れた。「何事だ」と呉が叫んだ。
「南雲の野郎が」―誰かの叫び声が響くと、かわいた銃声が中空に轟き、それはベランダにいた呉の眉間を貫いた。がくりと倒れ込む老刑事。「呉さん」―東田が介抱する。刑事課の入り口に南雲の姿。拳銃を構えて震えている。お、俺はやってない…俺は殺人なんてやらねえって言った筈だ…チンピラのような悪霊は叫んだ。
無駄な抵抗を…東田は壁際に身を隠し、懐から拳銃を取り出した。お前が何をしようが無駄だ。最後には全てが消える運命なのだ。お前も、俺も、そしてこの…「火事だあ」―警察署に火災を報せる警報が鳴り響く。咄嗟にベランダから外を見下ろすと、不良―北山が警察署のまわりに石油をバラまいていた。燃えろ、燃えろ、みんな死んでしまえ。不良グループの頭はジッポライターを石油まみれの壁沿いにほうり投げる。―と同時に銃弾が彼の眉間を貫いた。
業炎に包まれる刑事課の中、南雲は「もはやこれまでだ」とつぶやくと、こめかみに拳銃を押しあてたが、引き金を引くまでもなく、どろどろと溶けだした。「世界の終わりが近づいている」―東田がつぶやく。
もはや、ここまでくると彼のからだはこの世にはない。ただ無秩序な妄想に打ち固められた、からっぽのこころだけがあった。
警察署が燃え尽きてしまうと、画像は乱れに乱れ、ついには砂嵐だけになった。



8 誘惑



薄ぼんやりと赤みがかった夕陽が、その廃ビルの4階に位置する場所の窓のない窓辺にさしかかると、辺りは瞬く間に沈黙という名の闇につつまれる。この周辺には山しかないけど、まるで海の満ち潮と引き潮のようだ。
猥らに欠け落ちたコンクリート、赤錆びたパイプ、剥き出しの鉄骨―。ここではそれら何物のもの一切が、もの言わぬ、ただの物質然としすぎていて、その素気なさがまた心地好かった。
僕は、未だこの廃ビルが取り壊されることなく、4年経過した今でも残っていたことに感謝しなければならない。
ここは以前からずっと決めていた約束の地なのだから―

コンクリートの冷たさを手の平から直に伝わる感触をたのしみながら、闇と緑の混濁した、その景色を俯瞰する。
そういえば、4年前にも同じ場所で同じ景色を眺めた。でも、あの時は、ただ恐怖に身悶えるだけの立場だったけれど、今は逆の立場だ。僕が与える側にシフトしただけの話―。だって、それが約束なのだからね。

思えば、僕のからだは4年前の今頃から悪霊に支配されていた。これまでの道程はその悪霊との抗いの為の4年だった。悪霊は音も立てずに、隙を見て、僕のからだに忍びこむと、僕というカタチそのものを変えてしまった。それはまるで嫌な思い出の残る傷のように、心に訴えかけるものだった。

ついさっき―僕は悪霊を車で轢いた。殺そうとしたわけじゃない。ほんの少しこらしめてやろうと思ったんだ。
悪霊との出会いはいつだったかは覚えていない。ひょっとしたら子供の頃かもしれない。気づけば、僕のそばに立っていて、今まで何度も僕を悪い道へと引きずり込もうとした。もしや、前世の因縁ってやつかもしれない。
僕は何度となく、悪霊との闘いに挑んだ。でも、闘えば闘うほどに傷を負うのは、大事に飼っていた猫であったり、付き合っていた彼女であったりする。これ以上、僕の大切なものを傷付けないでほしい。

女神の顔をした悪霊―実に4年間、僕を忌み苛んできた悪霊の正体。それは意外にも女神様の顔をしていた。
ポケットには以前に使ったネクタイが入っている。

安らぎは圧迫と同時にやってくる。
それは血をよび戻し、肉の痙攣をよび醒ます。
僕は、部屋の隅に転がる「その女」のからだをあお向けにすると、あの日・あの時と同じように、上半身にまたがった。

邪悪な轟音と共に―
頭の中を―
悪霊の声が響く―

扉が開く―
見せてやろう―
現実をはるかに凌駕する超現実をー


第4章に続くー
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