第1話 覚醒

文字数 5,821文字

 わたくしの初めて感覚は、寒さとほの暗さ、古い木と線香の香りでした。ささやかな祭壇の上に、わたくしはいました。ろうそくが頼りなく灯っていて、ちらちらと影を揺らめかせています。祭壇の上にいるのは、わたくしだけではありませんでした。薄明かりの中で眼をこらしてみると、若者の姿がぼんやりと見えました。

 若者は身じろぎもせず、佇んでいました。おぼろげな表情はよく判りませんでしたが、わたくしはひとりでないことを心強く思いました。
不意に、周囲が明るくなりました。わたくしたちの前に、孤独の皺を深く刻んだおばあさんが、音もなく座ります。

 地味な色の古い着物を着たおばあさんは、数珠を取り出すと手を合わせました。星霜を重ねた悲しみを顔に湛え、しばらくの間、眼を閉じていました。おばあさんがあまりに寂しそうなので、怖いとは思いませんでした。
明るくなって初めて、若者の顔をはっきり見ることができました。

 やさしげなくりくりした眼。意志の強そうな太い眉。口元には微笑みが浮かんでいて、帝国海軍の白い詰襟を着ていました。思ったよりも素敵な人だったので、ほっとする気持ちと一緒に、少しときめいてしまいました。
おばあさんは長い祈りを終えると、ゆるゆると立ち上がり去って行きました。おばあさんがいなくなると明かりも消え、再び若者の姿はろうそくの火影に隠れてしまいました。

 毎日、おばあさんは祭壇にやってきて、長い間手を合わせます。拝まれるのが気恥ずかしくて、若者にはにかんだ顔を向けました。彼は初めて会ったときとまったく同じ顔で、ただ微笑んでいるだけでした。
 わたくしがわたくしであると知ってから、何十日かが過ぎました。わたくしたちは祭壇から動くこともなく、穏やかな日々を送っていました。薄暗く、線香の匂いが漂っているのは変わりませんが、だんだん暑くなってきたようでした。

 わたくしは無口で優しげな彼と一緒にいることに、安らぎを感じるようになっていました。おしゃべりがあまりうまくないので、そういうひとのほうが気疲れしないのです。
 ある日、おばあさんがいつものように祭壇にやってきました。今日はいつもと違い、スイカやブドウといった果物のほかに、まんじゅうやお酒をわたくしたちの前にきれいに並べました。わたくしがわくわくしていると、おばあさんは、さらに変なものを置いていきました。

 それは、馬に似せて作ってあるようでした。ただ、それはキュウリで作られていました。脚の場所に本の棒を刺して、四足で立たせてあり、胡瓜の反りがちょうど馬の首のようでした。
 まさかわたくしに乗れというわけでもないのでしょう。少し笑いそうになりました。でも、おばあさんのいつも以上に寂しそうな顔を見て、やめました。

 おばあさんは小さなコップにお酒を注ぎ、彼の前に置きました。お酒の甘い匂いが、湿った空気の中に広がります。
 いつものように、おばあさんは祭壇の前に正座をして、手を合わせました。いつもと違っていたのは、初めておばあさんの声を聞いたことでした。

「義弘……」

 名前が、おばあさんの口から零れました。わたくしは義弘という名前ではありませんので、彼の名前だと思いました。
 わたくしたちはあまりに無口だったので、お互いの名前さえ知らなかったのです。
 おばあさんの頬を、涙が伝っていきました。おばあさんがどうして泣いているのか判らず、ただ戸惑っていました。

「おまえが死んでから、もう三十年も経ってしまったねえ……」

 おばあさんがとんでもないことを口にしました。
 驚いたわたくしにはまるで頓着せず、彼はこれまでと同じように、微動だにしていません。
 いったいおばあさんは何を言っているのでしょうか。ずっと彼がそこに居るのを、おばあさんも毎日見ているではありませんか。

 おばあさんは彼が入っている写真立てを手に取ると、膝の上に置き、悲しみに濡れた眼でじっと見つめました。
 彼は写真だったのです。
 道理で動きもしなければ喋りもしないはずでした。けれども、彼への気持ちが変わることはありません。彼が写真だからといって、いままでの暮らしには、何ひとつ変化はないのですから。
 しかし、おばあさんの言葉にわたくしは跳び上りそうになりました。

「あんたの嫁はこの子だもんねえ……」

 おばあさんは憐れみをこめ、ひっそりとわたくしを見つめていました。一瞬、自分のことを言われているとはわかりませんでした。
 なんということでしょう。一言も交わさないうちに、わたくしたちは結婚していたのです。確かにわたくしは彼にささやかな好意を持ってはいましたが、まさか結婚していたとは思いもしませんでした。

 不意に、わたくしの胸に、潮のように喜びが満ちてきました。わたくしも女として生を享(う)けた以上、優しくて頼りがいのある殿方の妻となることに憧れていました。もしわたくしの頬に血が通っていたのなら、きっと桃のように染まっていることでしょう。
 とても恥ずかしかったのですが、わたくしは彼を夫と認めました。

 おばあさんは、夫を祭壇の上に置くと、わたくしと向いあわせにしました。夫の優しいまなざしが、まっすぐわたくしに向けられています。わたくしは恥ずかしくて、とても眼を合わせられませんでした。けれども動くことができないので、夫の視線を避けることができません。
 おずおずと夫を見つめかえすと、写真立てのガラスに、白無垢を着た真白な肌の少女が映っていました。それはわたくしでした。
 わたくしは、花嫁人形でした。

「義弘、この子だけで寂しくないかい?」

 おばあさんが、夫に訊ねました。わたくしは息を詰めて、夫の返事を待ちました。もともと息はしていないのですが。
 夫は優しく笑ったまま、何も答えませんでした。
「ちゃんと還ってくるんだよ」
 おばあさんは、わたくしたちを残して部屋を出ていきました。
 ひぐらしの声が、遠くから聞こえていました。



 わたくしたちの結婚生活は、静かなものでした。それはそうでしょう。夫は写真で、わたくしは人形なのですから。夫が夫であると知る前、ずっと隣にいた時間と変わったことは何もありませんでした。
 わたくしは幸せでした。何物にも侵されない安らぎがあったからです。
 空気が涼しくなってきたある日、おばあさんはいつものように夫にご飯とお水を供え、手を合わせていました。

 不意に、かつては夫も、おばあさんのように生きていたことに気がつきました。
 夫は、どんな声で話しかけるのでしょう。
 どんなやわらかさで、ふれてくれるのでしょう。
 夫を見つめても、いつものように笑っているだけでした。夫には完全に満足していましたが、こみあげる切ない気持ちは、どうしようもありませんでした。

 いつしかわたくしは、かなわぬ願いを抱くようになりました。
 生きている夫に、会いたい。
 この愚かな願いが、胸から去ることはありませんでした。
 わたくしの願いは、もうひとつありました。おばあさん、つまり姑のことでした。

 季節は、わたくしが目覚めてからひとめぐりしようとしていましたが、姑以外の人間を見かけたことがありませんでした。
 姑は、孤独でした。
 誰も訪ねてこないし、誰のところへも行きませんでした。
 話し相手は、夫しかいませんでした。

 夫に話しかけるとき、姑の膝にはいつも涙の跡がありました。夫は、三十年前に戦争で亡くなったのでした。
 わたくしは、孤独で哀れな姑を、少しでも慰めたいと思いました。けれども、わたくしには温かい言葉をかけることも、優しく抱きしめることもできないのです。
 自分が人形であることが、もどかしくてなりませんでした。

 わたくしに心を授けてくださった御方は、なぜわたくしを無力な人形のままにしておいたのでしょうか。
 たったひとりを、ほんの少し幸せにする力がほしい。
それがわたくしの、もうひとつの願いでした。

 わたくしにそんな力はひとかけらもないことが判ったのは、ある寒い日の朝のことでした。
 いつものように姑はわたくしたちに手を合わせ、折りを終えた後、立ち上がろうとしました。その途端、まるで時間が止まったかのように、姑は動かなくなりました。
 短い呻きを洩らすと、胸のあたりを両手でつかみ、息を詰めるように目を強くつむりました。見たことのない姑の動きに、わたくしは何か起こっているのかわかりませんでした。

 詰め切った息が止まると、姑は軽い音をたてて倒れました。
 人形のわたくしには、助けを呼ぶことも、介抱することもできませんでした。
 姑はそのまま動きませんでした。
 昼になっても、夜になっても、次の日になってもぴくりとも動きませんでした。
 夫は、いつもと変わらない顔で、乾き始めた姑を見ていました。

 眼の前で母が亡くなるのを見た夫の心を思うと、わたくしは泣けない人形の身であることがこのうえなくみじめでした。
 誰も、やってきませんでした。
 姑は、顔色が少し悪いぐらいで、ただ眠っているように見えました。寒い日が続いていたからでしょう。

 わたくしたちは、姑の亡骸を何日も見続けていたのです。
 わたくしは無力な人形でした。哀れな姑に、何もしてやることができませんでした。亡くなってからでさえ、弔らうこともできません。
 姑が亡くなってから、七日ほどたった日のことです。
 扉を叩く音が聞こえました。

「姉さん、いないのかい?」

 遠くから、くぐもった声がかすかに届きました。がらがらと戸を開ける音がすると、重い足音がこちらに近づいてきました。

「鍵ぐらいかけなきゃ、不用心だよ……姉さん?」

 頭の禿げあがった、でっぷりとした初老の男が現れました。見たことはありませんが、口ぶりからすると姑の弟のようでした。
 倒れている姑を見つけると、恐る恐る近づいてきて、顔をのぞきこみました。みるみるうちに顔が引きつり、大きな悲鳴をあげました。姑からは、水分がなくなっていました。

 その後は急に騒がしくなりました。サイレンの音が響き渡り、姑は担架で運ばれていきました。弟は、警察にいろいろと話を聞かれていました。
 騒ぎが去ると、家からは一切の気配が消えました。生きているものは、ここにはいませんでした。

 もう手を合わせる姑はいません。この古い家と一緒に朽ち果てていくのがわたくしたちの運命と悟りました。
わたくしは、ゆるやかな消滅の時を、夫とふたりで安らかにすごしていくものと思っていました。
 ところが、あの弟がまたやってきたのです。ひとりではなく、同じ年頃の女を連れていました。女は値踏みするように部屋を見回すと、ため息をつきました。

「ほんとに何もない家だわね。相続人はあんたしかいないから良かったけど、もう少し金目の物はないのかね」
「おまえ、姉さんの家なんだから……」

 ふたりは夫婦のようでした。弟の声は、小さすぎて聞こえていないようでした。

「仏壇の中に、小金とか貯めてないのかねえ。税務署に見つかる前にいただいとかないとね」

 女が無遠慮に近づいてきて、祭壇を膝で引っ掛けました。夫が畳の上に落ち、ぱりんと音をたてました。

「なんだい、痛いねえ……」

 弟が、毒づく女を尻目に夫を拾いました。

「義弘君だ……」
「戦争で死んだっていう甥っ子かい?」

 弟は頷きました。

「……持って帰ろう」

 女は別に興味もなかったらしく、返事をしませんでした。しかし、わたくしにとっては一大事です。夫と離れ離れになるなど考えられませんでした。

 かたり。

 わたくしの執念が通じたのか、体が少し動きました。
 女と弟は、大きく目を見開いて、わたくしをじっと見ていました。

「この人形、こっち向いてたかい?」
「覚えてないな……」
「今の音、なんだい?」

 弟は黙って首を振りました。
 ふたりは、何もしゃべらなくなりました。

「この人形、あたしを見てるよ……気持ち悪い」

 女が、寒気を押さえるように肩を抱きました。

「おまえが、あんまり罰当たりなことをするからだ」
「あたしが悪いってのかい? 冗談じゃないよ。あんた、お祓いに持ってっておくれよ。ここにアパート建てるんだからさ、呪いの人形付きなんて噂になったら誰も入りゃしないよ」

 なんということでしょう。
 このふたりは、わたくしと夫を裂いたあげく、この家を壊すつもりのようでした。しかもわたくしを呪いの人形呼ばわりしたのです。
 決して許すことはできません。

 ですが、わたくしは呪いをかけることもできない無力な人形でした。弟にこわごわと抱きかかえられると、あっさり持ちだされてしまいました。
 その後、日を置かず、わたくしは寺に連れて行かれました。そこは人形供養で有名な寺のようでした。
 わたくしを見た僧侶は顔を青くしました。

「これは……凄まじい情念が宿っておる。身体は人形だが、中にあるのは人の心だ」

 情念が凄まじいかはわかりませんが、心が宿っているというのはそのとおりでした。
 弟は紙のような顔色になり、わたくしを僧侶に投げつけると慌てて逃げていきました。
その夜から、わたくしは轟々と音をたてて燃え上がる護摩壇の前に置かれました。わたくしを受け取った僧侶は、真っ暗な本堂の中で梵語の真言を唱えていました。

 わたくしは炎を背負い、目の前で紡ぎだされる果てしない真言を聞かされていました。背中が熱いばかりで、わたくしには何も起こりませんでした。
 僧侶は眠ることも、水一杯さえも飲みませんでした。次第に目がくぼみ、顎には無精ひげが生えてきました。

 どれほど時間が経ったのでしょうか。わたくしの中に、初めての感覚が生じました。それは、簡単な言葉で言えば「眠い」でした。
 もちろん人形であるわたくしは、眠ったことなどありません。繰り返される真言が、角砂糖を崩すように、わたくしの意識を少しずつ壊していきました。

 意識を失っていくことが、とてつもなく恐ろしく感じられました。
しかし、眠気に耐えられる赤ん坊がいないように、初めて経験する睡魔のささやきは、わたくしを漆黒へと引きずりこんでいきました。

「かあっ!」

 僧侶はわたくしをつかむと、護摩壇の中に投げ入れました。
 不思議なことに、炎は全く熱くありませんでした。閉じそうな意識の向こうで、赤に橙に火がゆらめいていて、水底から太陽を見上げているようでした。
 わたくしの意識は、燃え尽きた灰のように、炎に吹き散らされました。
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