第2話 転生

文字数 4,687文字

 いつのまにか、居ました。
 炎の中で意識が途絶えた瞬間、わたくしは何事もなくここに居たのです。
 この場所には、見覚えがありました。
 夫や姑とともに、三人で過ごしたあの薄暗い家でした。しかし雰囲気はずいぶん変わっていて、家全体からくすみが消え、明るさが満ちていました。

 今までよりも、遠くが見えます。たんすの上に置かれているようでした。
 そのとき、畳をきゅうと踏みしめる音がして、眼の前を中年の女性が通っていきました。わたくしは、その地味な着物の女性を知っていました。顔はだいぶ若くなっていましたが、それは姑でした。

 どういうわけか、わたくしは姑が若かったころに居るようでした。
 黒光りする柱に掛けられた、日めくりの暦には昭和十四年六月三日と書いてあります。
 姑は、たんすの上に置いた箱を取ろうとしているようでしたが、背が届かず、苦しそうに手を伸ばしていました。

「義弘、手伝っておくれ」

 もしわたくしに心臓があったのなら、跳ね上がっていたことでしょう。
 そして、しだいに近づいてくる足音に、胸をとどろかせていたことでしょう。

「なんだい、母さん……」

 夫でした。
 白い制服ではなく、ワイシャツに黄土色のズボンという服装でしたが、写真の姿のままの夫が居ました。
 想像していたとおりの、おちついた優しい声でした。

「たんすの上の、お客さん用の皿を取ってくれないかい」

 姑が、困った顔で夫を見ました。

「いいよ、ほら」

 半袖からのぞく、日に焼けた逞しい腕が、わたくしの真横を通り過ぎていきました。
 不意に夫が、わたくしに眼を向けました。写真ではよくわからなかった瞳の輝きが、わたくしを射抜きます。

「いつ買ったんだい、この人形?」
「ええ? 忘れちゃったよ」
「良くできてるね。可愛いよ」

 夫の愛の言葉に、わたくしは卒倒しそうになりました。
 呆然としている間に、夫は姑と一緒に部屋を出ていきました。
 ああ、わたくしに心を賜られた御方は、わたくしの愚かな願いを叶えてくださったのでした。

 けれども、この喜びはつかの間のものであることは判っていました。夫は間もなく戦死して、姑は寂しく生き、ひとりで死ななければならないことをわたくしは知っていました。
 あつかましくも、もうひとつ叶えてほしい願いがありました。
 ささやかでもいい、ひとを幸せにする力が、わたくしに宿りますように。



 その晩、姑は豪華な夕食を用意しました。タイの尾頭付きの塩焼き、マグロの刺身、ウズラのつけ焼き、鯉こくに五目ご飯など……。

「すごいな」

 夫が感嘆の息を洩らしました。

「あんたが大陸から無事に帰ってきたお祝いだよ。それと、昇任したんだろ。大尉になったんだっけねえ」
「そうだよ。だけど、もう飛行機に乗れないのは寂しいな」
「あんな鉄の塊が飛ぶなんて、あたしゃいまだに信じられないねえ。ひとは地に足をつけて暮らすのが一番だよ。あんたは寂しいだろうけどさ、教官は立派な仕事じゃないか」

 姑の言葉に、夫は苦笑しました。

「それに、まさか百里の基地に勤務なんてねえ。家から通っていいんだろ? ありがたいねえ」
「異動は希望してなかったんだけど、まあ命令だからね」

 そう言いながらも、夫はゆったりとした顔をしていました。

「操縦手のときは、自分の尻は自分で拭けばよかったけど、教官はたくさんの学生に対して責任を負わなくちゃいけないからね。大変だよ」
「そうだよ。ひと様の息子を預かるんだからね、生半可な気持ちじゃいけないよ。まああんたは真面目だから心配してないけどね」

 姑は、とっくりを傾けて夫の盃に酒を注ぎました。祭壇にいたころには、見せたことのない満ち足りた笑顔でした。
 もしかしたら、ふたつ目の願いは、叶っているのかもしれませんでした。


 
 あの白い制服を着て、夫は毎日仕事に行っていました。制服というのは不思議なもので、優しげな夫に凛々しさが加わり、わたくしを惑わせました。
 わたくしはいつも、出勤する夫の背中に、行ってらっしゃい、と声をかけていました。夫には聞こえていないのでしょうが。
 季節は移り、ニイニイゼミの声が聞こえ始めてきたころでした。その日は休みで、夫と姑は昼食に冷麦を食べていました。

「義弘、お見合いの話があるんだけど、どうだい?」

 姑の言葉は唐突でした。

「え……いいよ、お見合いなんて」

 夫は少し困った顔をしました。
 当然です。わたくしというものがあるのですから、お見合いなんて許しません。

「なんだい、じゃあ気にかけてる子でもいるのかい」
「そんなひと、いないよ」

 いたら困ってしまいます。夫の性格で浮気はできないと思っているのですが。
 そんなわたくしの気も知らず、姑は夫の顔をまじまじとのぞきこむと、いたずらっぼく笑いました。

「お見合いの相手ってね、美代ちゃんなんだよ」
「えっ……あの泣き虫の?」
「それは小さいときの話だろうよ。この春に女学校を卒業してね、そりゃあきれいになったもんだよ。先方に話を持ってったら、義弘君なら願ってもない、ってね」
「本人がなんて言うか、わからないよ」

 夫は、あわてて冷麦を吸いこみました。

「実はね、もう美代ちゃんからお願いしますって言われてるんだよ」

 冷麦がのどにからまったのか、夫がせきこみました。

「なんだよ、もう外堀が埋まってるじゃないか」
「だからさ、あんたの返事ひとつなんだよ。断りたきゃ断ってくるさ」

 姑は意地悪な顔で夫を見つめました。
 断って下さい。幼なじみが再会して、焼けぼっくいに火がつくなんてありすぎる話です。

「美代ちゃんか……」

 夫は懐かしそうに、微笑みを浮かべていました。
 あの顔は、まずい。

「わかった、受けるよ」

 わたくしはたんすから落ちそうになりました。

「そうかいそうかい、じゃあ午後から早速返事してくるよ」

 姑は本気で喜んでいるようでした。
 一方わたくしは、正妻からお妾(めかけ)さんに転落しそうな危機に、落ちこんでいました。
 しかし考えてみれば、以前の夫は結婚せずに死んでしまったのです。夫の運命は変わりつつあるのではないでしょうか。

 ならばわたくしは嫉み心を抑え、夫の運命が良い方へ向くようにしなければなりません。
自信はありませんが。
 しかしながら、それが妻の、夫を愛する女のつとめです。
 わたくしは、ひとを幸せにする力が自分に宿っていることを、少しだけ信じるようになっていました。



 しばらく経って、お見合いが行われました。わたくしは、机を挟んで夫と姑、美代という娘とその母親が向かい合っているのを見下ろしていました。
 美代は今年女学校を卒業したらしいので十九歳のはずですが、顔はとても幼く、三つ四つは年下に見えました。わたくしほどではありませんが色は白く、潤んだ大きな眼は甘えるのが上手そうでした。
 わたくしはひと目で見抜きました。美代は夫を慕っています。うなじに血が上って、耳まで赤くなっていました。そしてうつむきながら、ちらちらと夫の顔を見ているのです。

「じゃあ、そろそろ若い人たちだけでね」

 姑は、美代の母と一緒に部屋を出ていきました。
 夫と美代は、お互い言葉が見つからないのか、黙っていました。先に口を開いたのは夫でした。

「どうして、俺とお見合いする気になったんだい?」

 夫がたいそうな朴念仁であることに、わたくしは胸をなで下ろしました。美代はますます赤くなって、返事をすることもできませんでした。

「……美代ちゃん、昔とだいぶ変わったね」

 返事がないことを不安に思ったのか、夫は話題を変えました。

「えっ……そうですか?」
「なんと言うか……きれいになった」

 わたくしは、夫にそんなセリフが言えるとは思ってもみませんでした。なにか熱い粘着質のものが腹の中にこみ上げてきましたが、気のせいでしょう。

「お兄ちゃん……! そんなこと、ないです」

 美代が、子供のような声をあげました。

「その呼ばれ方、懐かしいね」
「あっ……義弘、さん」

 美代は、額まで真っ赤になりました。

「こういうのは慣れてなくてね……思ったことしか言えないもんだね」

 夫は、頬を赤くして頭を掻きました。

「うれしい、です……」

 それからふたりはぽつぽつと、昔の思い出、今の仕事、趣味の話などを和やかに進めていきました。
 お見合いの結果は言うまでもないでしょう。朝夕が涼しくなり始めるころ、夫と美代は結婚しました。

 人形である我があさましい身の上を嘆きつつも、わたくしはただ夫と姑の幸せを願うばかりでした。
 嫉み心がなかったと言えば嘘になりますけれども、夫は写真であるよりも、生きている方がはるかに素晴らしい殿方でした。
 初めての夜、ふたりは布団の上で向かい合っていました。薄闇の中で、大小ふたつの白い寝間着が、ぼんやりと浮かび上がっていました。

「あの……義弘さん」
「なんだい、美代」
「ふたりきりのときは、お兄ちゃんって呼んでもいいですか……?」

 夫の苦笑が、薄闇の中から聞こえました。

「俺たちは夫婦になったんだろ? それに子供ができたらそんな風に呼べなくなるよ。男の子だったらその子がお兄ちゃんだからね」
「こども……!」

 見えなくても、美代の頬が染まったのがわかりました。

「はい、あなた……」

 美代の声は濡れていました。
 まあ、若夫婦の睦言を聞くような野暮はこれくらいにしておきましょう。



 一年たって、女の子が生まれました。夫はその子に恵子と名づけました。人の縁に恵まれるようにと名付けられたそうです。
 姑は、初めての孫をたいへん可愛がりました。
 わたくしの知っている姑は、ずっと一人で生きて、一人で亡くなりました。

 ここまで運命が変わっているのですから、二つ目の願いである、ひとに幸せを与える力はわたくしに宿っているのでしょう。
 美代は子供っぽさがだんだんなくなり、姑の指図を受け、助けを借りながら、家事と育児に忙しい日々を送っていました。夫は百里基地から帰ってくると、まず恵子ちゃんの顔を見に行きました。休みの日には、趣味が恵子ちゃんというぐらい、飽きもせず一日中顔を眺め、おむつを替え、あやしていました。

 幸せという言葉は、この四人家族のためにあると思いました。
 恵子ちゃんは、みるみるうちに育っていきました。三カ月経つと自分で寝返りがうてるようになり、半年で這うようになりました。
 這えば立て、立てば歩めの親心ということわざそのままに、家族は恵子ちゃんを中心に回っていました。

 わたくしは、恵子ちゃんの最初のおもちゃになりました。きっかけは夫のちょっとしたいたずらで、わたくしを恵子ちゃんに添い寝させたのが始まりでした。わたくしは恵子ちゃんに気に入られたらしく、白無垢の袖をしゃぶられたり、角隠しを歯のない口でかじられたりしました。
おすわりができるようになると、わたくしは脚を持って振り回されたり、機嫌の悪い時には投げつけられたりしました。
 
 それでも、恵子ちゃんが寝るときは、いつもわたくしが横に寝て見守っていました。
 やがてつかまり立ちをし、歩けるようになると、恵子ちゃんの胸にはいつもわたくしがいるようになりました。ご飯を食べる時も、お出かけをするときも一緒でした。
 お妾さんのままじりじりとするよりは、恵子ちゃんと遊ぶ方がよほど気が晴れました。

 生まれたての赤ん坊から、子供の顔に変わっていく恵子ちゃんを見て、わたくしは未来を想っていました。
 恵子ちゃんもいずれは、わたくしと同じ白無垢を着ることになるでしょう。そのとき、夫は微笑んでいるのでしょうか。それとも泣いているのでしょうか。
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